灰色の科学者と、半世紀前のパトロン
それから数ヶ月の月日が流れた。
戸籍も身元も存在しないはずのヤン・ウェンリーだったが、阿笠博士の発明品の特許管理や書類整理の名目で、博士の邸宅にすっかり居候として定着していた。昼間はリビングのソファで居眠りをするか、図書館から借りてきた近現代史の書物を読み漁っているだけの「ダメな居候のおじさん」に見えたが、コナンだけは知っていた。この男が、新聞の経済面と訃報欄、そして警察発表のわずかな行間から、日本中の裏社会の金の流れを完璧にマッピングしていることを。
そして、運命の雨の日が訪れる。
組織を裏切り、自らAPTX4869を飲んで幼児化した元組織の科学者・宮野志保――灰原哀が、阿笠邸に保護された夜のことだった。
「……無駄よ、工藤君。あなたがどれだけ優秀な探偵でも、あの組織には勝てないわ」
ベッドの上でシーツを握りしめ、冷たい雨の音に怯えるように肩を震わせる灰原哀。その碧眼には、組織の暗部を内側から見てきた者特有の、深く暗い絶望が宿っていた。
「あの組織の目的は、単なる金儲けや暴力じゃない……。半世紀前から進められていた、国家を揺るがすような極秘プロジェクトなのよ。私たちは神の手を借りて、時の流れに逆らおうとしていた……。そんな途方もない闇を前に、あなたたちに何ができるっていうの?」
コナンが悔しげに奥歯を噛みしめる。二人の間に重苦しい沈黙が落ちた時、部屋の隅のソファから、スプーンがカップの縁に当たる微かな金属音が響いた。
「半世紀、ね」
ヤン・ウェンリーは、阿笠博士が淹れてくれた紅茶にスキットルからブランデーを垂らし、立ち上る湯気を眺めながら静かに口を開いた。
「宮野志保君、だったね。少し事実関係を整理させてくれないかい。君の話や、博士から聞いた新聞記事の記録を照らし合わせると、君のご両親――宮野厚司氏とエレーナ夫人が個人医院を畳み、その謎のパトロンの研究所に入ったのは、今からおよそ二十年前。君が生まれる直前のことだね?」
灰原がピクリと反応し、警戒を強めながらヤンを睨み据えた。
「……ええ、そうよ。父は学会からマッドサイエンティストと追放されていたけれど、その巨大グループから莫大な研究資金の提示を受けて、母と一緒にラボへ移ったわ。そして私が生まれてすぐ、二人は研究所の不可解な火災事故で亡くなった……。組織は両親の残した資料を私に継がせ、同じ薬の開発を続けさせたのよ」
「なるほど。研究そのものは半世紀前から存在し、二十年前に君の両親が招聘され、そして今、娘である君がその研究を引き継いでいた、というわけだ」
ヤンはカップをソーサーに置き、指を組んで膝の上に乗せた。その表情には、恐怖も気負いもなく、まるで過去の遠い戦史の記録を淡々と検証するような静けさがあった。
「歴史上、科学研究というものはね、パトロン――つまり出資者の意向に百パーセント左右されるものなんだ。政権が変わったり、財閥のトップが代替わりすれば、真っ先に切られるのは成果の出ない研究開発費だよ。ましてや『死者を蘇らせる』だの『時の流れを巻き戻す』だのといった、一見して荒唐無稽なオカルト同然のプロジェクトなら尚更だ」
ヤンはテーブルの上に、図書館で借りてきた近現代経済史の本を開いた。
「にもかかわらず、半世紀もの間、莫大な予算と資材が一度も途切れることなく注ぎ込まれ、二十年前には学会の異端児を雇い、十数年後にはその遺児にまで同じ研究を続けさせている。……この異常な兵站(ロジスティクス)の継続性が意味する結論は、一つしかない」
「……一つ、ですって?」
「ああ。プロジェクトを立ち上げた最初のパトロンが、半世紀の間、一度も交代していないということだ」
灰原の息が、喉の奥で詰まった。
「もし二代目や三代目が組織を継いでいるなら、とっくに方針転換して目先の利権や政治工作にリソースを振り分けているはずさ。先代の奇妙な執念を半世紀もそのまま引き継ぎ、何千億という裏金を同じ研究だけに注ぎ込ませるなど、独裁組織の論理としてあり得ない。つまり君たちのボスの正体は、代替わりを繰り返す謎のマフィアなんかじゃない。『半世紀前から組織の頂点に居座り続け、死と老いを極端に恐れている、ただ一人の老人』だよ」
「……っ!」
「そして、その老人の実像も見えてくる」
ヤンは淡々と、しかし容赦のない精度で外堀を埋めていく。
「二十年前、君の両親を招聘できるほどの資金力を持ち、かつ半世紀前の敗戦直後の日本で、巨大な秘密組織をゼロから構築できるだけの権力基盤を持っていた人物。そんな大物は、歴史を紐解けば片手の指で足りる。しかも彼は現在、表舞台には姿を見せず、現場の実行犯であるジンたちにすら顔を合わせられない状態にある」
コナンが身を乗り出し、息を呑んでヤンを見つめる。
「顔を合わせられない……? なんでだ、ヤンさん!」
「簡単なことだよ、工藤君。もしボスが健康な肉体でピンピンしているなら、自分の目で組織の進捗を確認し、恐怖で直接部下を支配する方がはるかに手っ取り早い。それをしないのは、『姿を見せられないほど肉体が衰え、生命維持装置に繋がれている』か、あるいは『世間的にはとっくの昔に死亡したことになっている』からだ」
ヤンの言葉に、灰原の体が目に見えて震え始めた。組織の中で「あの方」として神聖視され、誰もその正体を知らなかった不可触の怪物の輪郭が、老獪な歴史家の手によって、一枚ずつ皮を剥がされるように暴かれていく。
「半世紀前から政財界のフィクサーとして君臨し、数十年前に『謎の死』を遂げたとされながら、莫大な遺産や系列企業が不自然な形で地下に潜っている大富豪……。たとえば四十年前、九十九歳で死亡したと発表された烏丸蓮耶のような人物が、もし近代医学の延命装置と君たちの薬の初期型で生き永らえているとしたら、すべての辻褄が合ってしまうね」
「か、烏丸……蓮耶……!?」
コナンがその名前に戦慄し、灰原は蒼白になって両手で口元を覆った。
「ば、馬鹿なこと言わないで……! 烏丸蓮耶が生きていたら、今いくつだと思っているのよ!? 百四十歳を超えるのよ!?」
「だからこそ、君の両親や君が作った薬が必要だったんじゃないのかい?」
ヤンは穏やかな、しかしどこか憐憫を含んだ瞳で灰原を見つめた。
「怖がることはないよ、宮野君。君を苦しめてきた悪夢の正体は、世界を裏から操る悪魔でもなければ、死を司る神でもない。ただの『死ぬのが怖くてたまらない百四十歳の老害と、その老人のために作られた巨大な介護システム』だ。正体がただの人間である以上、恐れる必要はどこにもないのさ」