十月三十一日、二十一時十四分。
帳の下りた東京・渋谷は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。五条悟の封印。七海建人の死。釘崎野薔薇の逃れ得ぬ敗北。
重なる絶望の果てに、虎杖悠仁の魂は完全に、砕けていた。
「もう……戦えねぇよ、ナナミン。釘崎……俺、お前らの分まで、人を殺した。俺は、ただの、人殺しだ……」
膝を突き、コンクリートの床に血と涙を滴らせる虎杖。
その脳天に向けて、特級呪霊・真人の異形化した拳が振り下ろされる。真人の顔には、勝利を確信したおぞましい愉悦が張り付いていた。
「終わりだよ、虎杖悠仁!! 魂のイロハも知らない君の、惨めな敗北だ!!」
風を切る絶望の音が、虎杖の耳を打つ。
誰もが、その破滅を予感した。ーーだが。
パシィィィィン!!!!
鼓膜を揺るがしたのは、肉体が損壊する音ではなく、プラスチックの塊が強固に噛み合うような、あまりにも場違いで乾いた高音だった。
「あー……ストップ。ロン。メンホン・一気通貫・ドラ3。……あ、裏乗ってねぇわ。ダル」
間の抜けた声。
真人の拳は、虎杖の頭上の空間で、忽然と現れた巨大な『
「誰だ……貴様ァッ!!」
真人が忌々しそうに飛び退き、眼前の男を睨みつける。
そこに立っていたのは、渋谷の凄惨な戦場にはおよそ不釣り合いな、ヨレヨレの緑のジャージを羽織った男だった。
「先輩……? 雀ヶ原、先輩……?」
虎杖が、涙に濡れた目を血走らせて見上げる。
高専の自販機裏で、虎杖から千円をカツアゲした、あの謹慎明けのクソニート先輩がそこにいた。
「よぉ、ツラがいい1年生。ずいぶんとボコられてんじゃん」
雀ヶ原は大きなあくびをしながら、ジャージのポケットから手を抜いた。その指先には、小さな呪力の牌がチカチカと明滅している。
「上層部のハゲどもにさぁ、『五条が消えたからお前も働け。じゃないと高専除籍な』って言われてさ。マジ終わってね? 労働とか義務教育だけで十分だろ。謹慎明けでなんもやる気起きないのにさ?」
「高専の術師か……! 邪魔をするな、僕は今、こいつと最高の押し引きをーー」
真人が身体の体積を膨らませ、無数の棘と化した腕を雀ヶ原へ向けて一斉に射出する。音速を超える肉の嵐。しかし、雀ヶ原は構えすら取らず、その場にどっかりと
「あー、話長いわ。一回仕切り直しな」
胸の前で両手を重ね、指を絡める。
「ーー領域展開『
ズガガガガガガ!!!!
渋谷の地下空間が、瞬く間に漆黒の結界へと飲み込まれていく。
引きずり込まれた真人の脳内に、必中効果として『近代麻雀の基本ルールと役の相関図』が、濁流のように強制インストールされた。
「……何だ、この鬱陶しい知識は……! 精神攻撃の類か!?」
真人が頭を抱えて唸る。結界内の床は、巨大な緑色の雀卓の布地に変化しており、お互いの立ち位置には東・南・西・北の文字が不気味に浮かび上がっていた。
「そういうルールだから。お前の攻撃も移動も、全部この領域じゃ『ツモ』か『打牌』に変えられる。……で、俺の最初の
雀ヶ原は自身の前に並ぶ、呪力でできた十三枚の牌を気怠そうに眺め、深くため息をついた。
「
雀ヶ原はスマホを取り出すポーズのまま、真人を冷たい目で見据えた。
「悪いけど、この
ーー『配牌降り』
それは、勝利というプライドをドブに捨てた、強者に対する最大級の侮辱。
術式『
「ふざけるなァッ!!」
真人が激昂し、遍殺即霊体の圧倒的なパワーを込めた拳を雀ヶ原の顔面へ叩き込む。空気が爆ぜ、空間が歪むほどの一撃。
しかし、雀ヶ原の周囲を回る『東』『西』『発』の牌が、その拳の軌道をミリ単位で完全に予測し、チェスの駒を払うように弾き飛ばした。
「当たらねぇよ。お前がどれだけの攻撃、姿形を変えようが、この領域はお前自身の呪力を参照して盾を作ってる。お前が俺を殺す確率は、今ゼロだ」
「なら、結界ごとブチ破るまでだ!!」
真人の猛攻が始まる。だが、そのすべてが、カツン、パリン、と軽い音を立てて牌の障壁に阻まれていく。
チッ、チッ、と領域内の四隅にある時計が非情に刻まれていく。
お互いの攻防が十八回行き交えば、この領域は『
「先輩、ダメだ……! 俺に関わっちゃダメだ……! 俺は、もう……」
後ろで震える虎杖に、雀ヶ原は背中を向けたまま、ぽつりと言った。
「うるせぇよ、パチンコ大王。お前、高専の自販機裏で俺に千円貸したの忘れたわけ?」
「え……?」
「俺はギャンブラーだからさぁ、受けた
その時、真人の動きがピタリと止まった。
真人は天才だ。数秒の交戦で、この領域の欠陥を、因果の穴を見抜いていた。
「……なるほど。君は『安全牌』で無敵だ。でも、虎杖悠仁は、この領域のルール上、君の『同卓者』扱いなんだろ!」
真人の視線が、雀ヶ原の後ろで動けない虎杖へと向けられる。
「しまっーー」
「あはは! 君は守れても、そっちは守れない!!」
真人の肉体が弾け、無数の刃と化した触手が、背後の虎杖悠仁へと殺到する。
その瞬間、座り込んでいた雀ヶ原が、ニタァとゲスく笑って一歩横に立ち上がった。自分が持つ無敵の
「おい特級。そこ、俺の『山』だぜ」
「何ーー」
真人の放った強烈な質量攻撃が、雀ヶ原の背後に浮かんでいた、まだ誰も引いていない
『ブゥーーー!!』
【警告--他家による『
【結界管理権の連帯責任に基づき、術者・雀ヶ原雀に
【総呪力量から8割を没収、次局終了時に他家に付与します】
「がはっ……!?」
不快な警告音と共に、雀ヶ原の身体から八割の呪力が強制没収される。
だが、ルールの強制書き換えによるシステムエラーによって、真人の触手は虎杖の皮膚を掠める寸前で完全に硬直した。
「な、に……!? 僕は君の山を壊しただけだぞ!? なぜお前の呪力が消える!?」
驚愕する真人を、雀ヶ原は血を吐きながら睨みつける。
「言ったろ、ここは
ジャージを脱ぎ捨て、呪力二割の狂気の笑みを浮かべる。
「一旦は
呪力量、総量の二割。
呪術師としては、かすり傷一つが致命傷になり得る、瀕死と変わらない最低のデバフ。
だが、世界を騙し、因果をバグらせた代償として、領域は『流局』からの次局やり直し、無理やり次の局へと引き継がれる。
「あはははは! 痺れるねぇ……! 脳汁ドバドバだわ……!」
ジャージの下に着た黒い高専の制服。構えを取った彼の顔は、先ほどまでのニートのような気怠さが嘘のように、ギャンブルの鉄火場に身を投じる、狂気の博徒そのものだった。
「おい特級呪霊。呪力二割。こっから『配牌降り』は縛りとして禁止だ。つまり、掠ったら俺は即死する」
雀ヶ原は、口元からタラリと血を流しながら、ゲゲゲ、と真人を指差して笑った。
「十八ターンだ。このクソ身体で、お前の攻撃を全弾躱し続けてやる。……もし俺が生きてたらさぁ」
その目が、冷徹な勝負師のそれに変わる。
「次は、俺の和了になるぜ?その前に、全ツッパだがなぁ?!」
能力を描きたいだけ