十一月二日。渋谷事変から二日後。
東京の機能は、いまだ麻痺していた。羂索が放った大量の呪霊によって街は混乱し、呪術師たちは各地で対応に追われている。渋谷で起きた惨劇は、まだ終わっていない。
そんな東京の片隅、人気のない廃ビルの一室。雀ヶ原雀は、簡易ベッドに横たわりながら、スマートフォンの画面を眺めていた。
「……あー、クソ。競馬の出馬表くらいしか見るもんねぇ」
画面に並ぶ馬名を指でなぞる。いつもと変わらない、気の抜けた仕草だった。
「お前、こんな状況でも競馬かよ」
呆れた声とともに、秤金次が部屋へ入ってきた。片手には食料と飲み物の入った袋をぶら下げている。
「こんな状況だからだろ。娯楽がねぇとやってらんねぇよ」
「まずは体を休めろ。食うもんも寝る場所も用意してやってんだ。文句言うんじゃねぇ」
「いやぁ、持つべきものは気前のいいギャンブラーだねぇ。今度、倍にして返すわ」
「その台詞、信用できる要素が一個もねぇんだよ」
秤は袋を床に置き、近くの椅子に腰を下ろした。
渋谷事変のあと、雀を回収してここまで連れてきたのは秤だった。呪術界の上層部も、東京の混乱も、今の雀をすぐに動かせる状況ではない。だからこそ秤は、雀をしばらく自分の管理下に置くことにした。食事と寝床を与え、余計な仕事をさせず、回復を待つ。本人が何かにつけて金の話をするのは、少々面倒だったが。
「……で、渋谷じゃ何があったんだ?」
秤が尋ねた。
雀はスマートフォンから目を離さず、気のない声で答えた。
「最悪の配牌だったよ。呪霊が湧くわ、特級が出るわ、術式は制限されるわ。おまけに自分の呪力を八割も失う羽目になった」
「八割?」
「ツモが悪かったんだよ。そんで、盤面をひっくり返すような連中まで出てきた。まったく、割に合わねぇ」
「よく生きて帰ってきたな」
「勝ち筋があったからな。なきゃ逃げてた」
雀はあっさりと言った。
秤は苦笑した。こいつなら本当に、勝ち目がないと判断した瞬間に逃げ出していたのだろう。ただし、勝ち目があると判断したときには、どれほど危険な賭けでも平然と踏み込む。
それが雀ヶ原雀という男だった。
「それで、これからどうするつもりだ?」
「どうするって?」
「渋谷の件だよ。あの額に縫い目のある野郎は、何を企んでやがる?」
雀の指が止まった。画面の中では、次のレースの出走馬が表示されている。
「……さあな」
少し間を置いて、雀は答えた。
「ただ、あれで終わりってことはねぇだろ」
「根拠は?」
「根拠ってほどのもんじゃねぇよ。あいつの動きも、呪霊をばら撒いたことも、どうにも引っかかる。あれだけ派手に盤面を荒らしておいて、何の続きもありませんでした、なんて話はねぇだろ」
雀はスマートフォンを伏せた。
「何かの前触れなんだろうさ。だが、何が始まるのかまでは分からねぇ。目的も、ルールも、参加する奴らがどうなるのかもな」
「お前にも分からねぇことがあるんだな」
「当たり前だろ。俺は何でも知ってる便利な解説役じゃねぇんだよ」
雀は寝返りを打ち、天井を見上げた。
「ただ……ろくでもないことになる予感はしてる」
秤は黙って雀を見た。いつもの軽口とは違う、ほんのわずかな真剣さが声に混じっていた。
「また面倒なことに巻き込まれそうってわけか」
「そういうこと。しかも、今の俺は呪力も戻りきってねぇ。できることなら、しばらくは寝て食って、競馬の予想でもしてたいね」
「残念だが、そう簡単にはいかねぇだろうな」
「だろうなぁ……。労働の予感しかしねぇ」
雀は深いため息をついた。
「ま、どんな盤面が来ようが、ルールが分かりゃ勝ち筋くらいは探してやるよ。……その前に、働かされないことを祈るばかりだけどな」
「ハッ! お前らしいぜ」
秤は豪快に笑った。雀も薄く笑い返し、再びスマートフォンを手に取った。画面には、次のレースの出走表りその向こうには、まだ見ぬ盤面が広がっている。羂索が何を企み、何を始めようとしているのか。雀には分からない。
ただ一つ確かなのは、これから先も、面倒な賭けが待ち受けているということだった。
「……あー、やっぱこの馬、オッズの割に妙味あるな」
「おい。人の話を聞いてたか?」
「聞いてた聞いてた。で、金ちゃん。軍資金貸してくんね?」
「貸すか!」
廃ビルに、秤の怒声と雀の笑い声が響いた。秋の冷たい風が、割れた窓から吹き込んでくる。
不条理な何かの足音は、まだ遠い。だが、確実に近づいていた。