冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
薄暗い路地裏。
石畳の隙間には得体の知れない苔が生え、鼻をつくような酸っぱい腐臭が漂っている。
そんな吹き溜まりのような場所で、埃を被って薄汚れた猫が小さく鳴き声を上げた。
空腹と寒さに耐えかねたような声だった。
「ニャー」
……違う。
断じて違う。
吾輩は猫ではない。
名前は城之内 士郎(じょうのうち しろう)。
どこにでもいるごく普通の、少しばかり残業が多めの日本のサラリーマンだった男だ。
それが、何がどう間違ったのか。
気がつけば、中世ヨーロッパ風の街並みが広がる異世界に、ただの『猫』として転生してしまっていた。
前世の記憶がよみがえったのは、つい最近のことである。
路地裏で残飯を漁ろうとしてひっくり返り、頭を強く壁にぶつけた。
その瞬間、人間として生きた三十数年間の記憶が、走馬灯のように駆け巡ったのだ。
直後、雨上がりの水溜まりに映る、泥だらけでひげの曲がった自分の姿を見た時の絶望感といったらなかった。
ところで、さっきから一人称が『吾輩』になっていることについて、何か特別な理由や高尚な思想があるわけではない。
前世で読んだ有名な小説の真似をして、なんとなく心の中で呟いていたら、妙に癖になって定着してしまっただけである。
本当にただのマイブームなので、特に意味はない。
それにしてもだ。
異世界転生と言えば、普通はもっとこう……あるだろう!
神様的な存在から手厚い謝罪とともに規格外のチート能力を貰い!
エルフや獣人などの美少女たちに囲まれてウハウハなハーレムを満喫し!
無自覚に強大な魔法を放っては「あれ、俺何かやっちゃいました?」と周囲をドン引きさせつつも称賛を浴びる!
それが、我々現代日本人が思い描く異世界転生の輝かしいセオリーというものではないのか。
なのに、現状の吾輩はどうだ。
チート能力どころか、人間の言葉すら喋れない。
美少女に囲まれるどころか、路地裏のドブネズミと縄張りを争う毎日。
魔法の才能なんてあるはずもなく、出せるのはせいぜい威嚇の「シャアッ!」という鳴き声くらいである。
猫の身で一体何をどうしろと言うのだ。
魔王の玉座で爪とぎでもしろと?
吾輩は冷たい石畳の上で丸まりながら、どんよりとした異世界の空を見上げた。
もしも吾輩を転生させた神とやらが存在するのなら、これはいったいどういう了見なのか。
どうしてよりにもよって、『薄汚れた野良猫』などというハードモードすぎる初期設定にしたのか。
雲の上まで乗り込んで正座させ、小一時間ほどネチネチと問い詰めてやりたいものである。
「キュルルル……」
思考を遮るように、毛皮に覆われた小さなお腹が情けない音を立てた。
文句を言っている場合ではない。
まずは今日の晩御飯を探さねば、神を問い詰める前に餓死してしまう。
吾輩の異世界サバイバルライフは、かくして理不尽とともに幕を開けたのだった。