冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
街に戻った頃には、西の空がすっかり茜色に染まっていた。
冒険者ギルドの重い扉の前で、ジェイクがふと足を止め、神妙な顔で振り返る。
「……なあ。ギルドへの報告なんだが、シロのことは黙っておかないか」
「私も、それがいいと思う」
セリアが即座に頷いた。
カティアとメアリーも、顔を見合わせて小さく同意する。
「だって、『うちの猫がホブゴブリンの棍棒を避けて、顔を引っ掻いて、群れを翻弄しました』なんて言ったら……」
「頭を打ったと思われて、治療院に連れて行かれるのがオチね」
カティアの的確すぎる予想に、全員が乾いた笑いを漏らした。
うむ、賢明な判断である。
吾輩としても、珍獣として見世物小屋に売り飛ばされるのは御免だ。
「――ホブゴブリン、ですか?」
カウンターの向こうで、顔なじみの受付嬢が、にこやかな笑顔のまま首を傾げた。
冒険者たちからは、エレナさんと呼ばれている女性だ。
その目は明らかに「またまた、ご冗談を」と言っている。
「Eランクに上がったばかりの皆さんが、ホブゴブリン率いる三十匹以上の群れを殲滅した、と」
「本当なんだって! ほら、これが証拠だ!」
ジェイクが、パンパンに膨らんだ麻袋をカウンターの上に逆さまにぶちまけた。
ドサドサと音を立てて転がり出たのは、切り取られた大量のゴブリンの右耳。
そして、その中にひとつだけ、明らかに大きさの違う耳が混じっていた。
エレナの笑顔が、ぴしりと固まる。
彼女は無言で手袋をはめると、大きな耳をつまみ上げ、鑑定用の拡大鏡で念入りに検分し始めた。
「……間違いありません。ホブゴブリンの耳です。ゴブリンの耳も、三十二……いえ、三十四」
ざわり、とギルド内の空気が揺れた。
酒場で呑んでいた冒険者たちが、ジョッキを持ったままこちらを振り返る。
「ホブゴブリンは、本来Dランク以上のパーティが相手にする魔物です。目撃情報が誤っていたことについては、ギルドの落ち度ですね。報酬は正式に見直させていただきます。皆さん、本当によく無事で――」
そこまで言って、エレナの言葉が途切れた。
彼女の視線は、指先につまんだホブゴブリンの耳に釘付けになっている。
その耳は、縁がチリチリと縮れ、表面が真っ黒に焼け焦げていた。
「……ところで。この焦げ跡は、何でしょうか」
笑顔である。
完璧な、それはもう完璧な営業スマイルである。
しかし、その背後から立ち上る静かな怒気に、パーティ全員の背筋が凍りついた。
前世で、始末書の提出を求めてくる上司がちょうどこんな顔をしていたものだ。
「森の中での火魔法の使用は、ギルドの規約で厳しく制限されているはずですが?」
「そ、それは、その……!」
カティアが青ざめた顔で、しどろもどろに弁解を始めた。
「メアリーが足を怪我して、完全に囲まれてて……! あのまま放っておいたら、全員死んでたの! 緊急措置で、火魔法を使うしかなかったのよ!」
「本当です、エレナさん。私のせいで、逃げ遅れてしまって……」
メアリーも頭を下げ、セリアとジェイクもそれに続く。
エレナはしばらく黙って四人を見つめていたが、やがて深々とため息をついた。
「……規約には、命の危険がある場合の例外規定があります。延焼もなかったようですし、今回は不問とします」
「ほ、本当!?」
「ただし! そもそもホブゴブリンを見た時点で、全力で逃げてギルドに報告するのが正解です。命あっての冒険者なんですからね。……次に無茶をしたら、本気で怒りますよ?」
今のは本気ではなかったのか。
四人は、揃って直角に頭を下げた。
その夜。
ギルドに併設された酒場の一角で、我々はささやかな祝勝会を開いていた。
「依頼達成と、全員の生還に――乾杯!」
四つの木製ジョッキがぶつかり合い、景気のいい音を立てる。
テーブルの上には、見直された報酬で奮発した料理がずらりと並んでいた。
そして、吾輩の目の前には。
こんがりと焼き目のついた丸ごと一尾の川魚。
分厚いローストボアの切り身。
さらには、白い湯気を立てる温かいミルクまで。
それらが専用の皿に、山盛りで用意されていたのである。
「シロは今日の一番の功労者だからね。遠慮しないで、いっぱい食べて!」
セリアがとろけるような笑顔で吾輩の頭を撫でる。
皿を運んできたのは、あの無愛想な若い店員――トム(仮)であった。
彼は吾輩の顔をじっと見つめると、「……出世したな、お前」と小さく呟き、舌打ちもせずに去っていった。
路地裏で残飯を恵んでもらっていた日々を思えば、まさに天と地の差である。
吾輩は感慨に浸りながら、脂の乗った魚の身にかぶりついた。
美味い。
あの日、セリアにもらった硬い干し肉と同じくらい、美味い。
吾輩が夢中で皿を空にしていると、ふいに、テーブルの向こうからジョッキを置く音がした。
顔を上げると、ジェイクが真剣な表情でこちらを見据えている。
「なあ、シロ」
その声色に、女性陣のおしゃべりがぴたりと止んだ。
「お前……俺たちの言葉、わかってるんだろ?」
酒場の喧騒が、どこか遠くに聞こえた。
誰も笑わない。
誰も「猫相手に何言ってんのよ」と茶化さない。
セリアも、カティアも、メアリーも――全員が、同じ問いを胸に抱えていたのだ。
「わかるなら……右の前足を上げてみろ」
さて、どうしたものか。
すっとぼけるのは簡単だ。
首を傾げて「ニャア?」と鳴き、毛づくろいでも始めれば、彼らは「やっぱり気のせいか」と笑って終わるだろう。
正体を明かすのは、あまりにも早計かもしれない。
気味悪がられる可能性だってある。
だが。
今日、ジェイクは吾輩の名を呼び、「シロが引きつけてる間に叩くぞ」と叫んだ。
あの瞬間、吾輩は確かに、このパーティの一員として戦っていたのだ。
飼われているだけのペットではなく、背中を預け合う仲間として、彼らの隣に立ちたい。
前世でも、ただの『便利な歯車』として扱われる虚しさは、嫌というほど味わってきたのだから。
吾輩はゆっくりと立ち上がり、四人の顔を一人ずつ見回した。
そして、ジェイクの目を真っ直ぐに見返しながら、右の前足を高々と上げ――こくり、と深く頷いてみせた。
ガシャン、とセリアの手からジョッキが滑り落ちた。
ただ撫でられ、餌をもらうだけの日々は、今日でおしまいだ。
これからの吾輩は、このポンコツパーティの、五人目の仲間なのである。
……いや、撫でてもらうのは、別に今後も続けてもらって構わないのだが。