冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
初めて魔法を使ってから、三日が経った。
あれから吾輩は、毎日欠かさず風魔法の練習をしている。
場所はギルド裏の空き地か、宿の裏庭だ。
成果を報告しよう。
吾輩の風は、相変わらず扇風機の「弱」である。
(いや、待ってほしい)
腹の奥の温かい塊を集める。
毛が逆立つ。
前世のワンルームにあった、量販店で一番安い扇風機を思い浮かべる。
そこまでは完璧だ。
問題はその先で、「中」のボタンを押すイメージを送り込んだ瞬間、なぜか集中がぷつりと切れる。
結果、吾輩の前には何事もなかったかのような静けさだけが残る。
「最初はみんなそんなものよ。焦らず毎日続けなさい」
カティアはそう言っていた。
腕を組んで、先輩魔術師らしい落ち着いた口調だった。
ただ、口元がわずかに緩んでいたのを吾輩は見逃していない。
魔力Aの猫に負けたショックから、ようやく立ち直りかけているらしい。
教える側が教わる側の伸び悩みにほっとするのはどうかと思うが、気持ちはわからなくもない。
前世でも、優秀すぎる新人が入ってきたときの先輩社員は、だいたいあんな顔をしていた。
(あの扇風機、「中」と「強」をほとんど使った記憶がないんだよな)
電気代が怖くて、いつも「弱」だった。
首振りボタンも壊れていたから、風は常に一方向。
イメージの元が貧乏性なのだから、出てくる風が貧乏性なのも当然かもしれない。
異世界転生モノの主人公なら、初めての魔法で山の一つも吹き飛ばすものだ。
周りが「なんだ、あの魔力は……!?」とざわめくのがお約束だろう。
吾輩の魔法がざわめかせたものといえば、空き地のタンポポの綿毛くらいである。
(神よ。せめて家電量販店の上位モデルの記憶をくれ)
*
その日は依頼の谷間で、パーティは休みだった。
曇り空の下、宿の裏庭では、セリアがたらいで洗濯をしていた。
女将のマルタさんも、隣で宿のシーツを物干し竿に掛けている。
マルタさんは、汚れていた頃の吾輩の入室を断固として拒否した人物である。
洗われて白くなった今は入れてもらえるが、廊下を歩くたびに視線で毛並みを検品されている気がする。
前世でいえば、品質管理部の部長だ。
「うーん、今日は乾かなそうだなあ」
「この空じゃ、夕方までかかるでしょうね」
二人の会話を聞きながら、吾輩はひらめいた。
干された洗濯物。
湿った空気。
そして吾輩の手元――いや、腹の奥には、扇風機の「弱」がある。
(これだ)
前世の梅雨時、部屋干しの洗濯物に扇風機を当てていた記憶がよみがえる。
あれは乾く。
確実に乾く。
吾輩は物干し竿の前に陣取り、毛を逆立てた。
「ニャア(部屋干しモード、起動)」
そよそよと、風がシャツの裾を揺らす。
弱い。
だが、吾輩の「弱」は、扇風機と違って電気代がかからない。
つまり、つけっぱなしにできる。
「あれ? シロ、それ、もしかして乾かしてくれてるの?」
「ニャア(はい)」
吾輩は右の前足を上げた。
「すごい! シロ、えらい!」
セリアが吾輩を抱き上げて、頬ずりをしてきた。
猫の扱いがダイナミックなのは相変わらずだ。
集中が切れて、風が止まった。
「ニャア(降ろしてくれ。業務が中断している)」
小一時間後、セリアの洗濯物は見事に乾いていた。
マルタさんは、乾いたシャツと吾輩を交互に見て、眉をひそめた。
「……あんた、本当にただの猫なのかい」
(それは吾輩が一番知りたい)
鑑定紙によれば、種族は「ねこ?」である。
疑問形で返されても困る。
*
調子に乗った吾輩は、その後も風魔法の使い道を探した。
濡れた床を乾かす。
かまどの火をおこすのを手伝おうとして、灰を盛大に舞い上げる。
パン生地に風を当てて、マルタさんに無言で裏庭へ放り出される。
(新規事業は失敗から学ぶものだ)
前世の会社でも、新しいプロジェクトの八割は失敗していた。
残りの二割も、だいたい吾輩の残業で帳尻を合わせていた。
結局、一番好評だったのは、セリアの髪を乾かすことだった。
井戸の水で髪を洗ったセリアが、濡れた金髪のまま縁台に座る。
吾輩はその後ろで、毛を逆立てる。
「わあ、あったかくはないけど気持ちいい!」
(ドライヤーではなく扇風機だからな。温風機能は別売りだ)
肩甲骨にかかる長い髪が、そよ風に揺れて少しずつ乾いていく。
セリアは目を細めて、鼻歌まで歌い始めた。
「昔ね、こうやって髪を乾かしてくれる人がいたの。わたし、じっとしてられなくて、いつも怒られてたなあ」
「ニャア(お母さんか?)」
「……あ、ううん。なんでもない」
セリアは小さく首を振って、それきりその話をしなかった。
はい・いいえでしか答えられない吾輩には、続きを尋ねる手段がない。
「シロがいれば、冬でも髪が早く乾くね」
(冬に扇風機を当てたら、風邪をひくと思うぞ)
そう思いながらも、吾輩は風を止めなかった。
社畜時代、誰かに「ありがとう」と言われる仕事は、そう多くなかった。
ほんの少しだけ、悪くない気分だった。
ところで、吾輩にはもう一つ、使える魔法がある。
雷魔法だ。
(……あれは、やめておこう)
雷をイメージしようとすると、どうしても前世の電線が浮かぶ。
「高圧線に近づくな」という看板。電柱の上で火花を散らす変圧器。
あれを腹の奥で増幅して、猫の体から撃ち出すのだ。
想像してほしい。
扇風機の「弱」しか出せない新人に、いきなり変電所の操作を任せるようなものである。
研修もマニュアルもない。
事故が起きたら、始末書では済まない。
(少なくとも、セリアの濡れた髪のそばで試すものではないな)
吾輩は雷魔法のファイルを、頭の中の「保留」フォルダにそっと移した。
*
そのとき、宿の裏口からマルタさんが出てきた。
縁台で髪を乾かしているセリアを見て、目を吊り上げる。
「お嬢様! 濡れた髪のまま外にお出になるなんて、お風邪を――」
そこまで言って、マルタさんの口がぴたりと止まった。
一瞬、裏庭の空気が固まった。
吾輩の風も、つられて止まった。
「……セリアさん。乾いたら、さっさと中に入りなさいな」
マルタさんは一つ咳払いをして、何事もなかったように宿の中へ戻っていった。
「も、もう、マルタさんったら。大げさなんだから」
セリアは笑っていた。
だが、その笑顔は少しだけ似ていた。
取引先の前で、上司の失言をフォローする営業担当の顔に。
(お嬢様、ね)
聞き間違いかもしれない。
女将の口癖かもしれない。
昔、髪を乾かしてくれた人。
お嬢様。
二つの言葉が、吾輩の頭の中の付箋に並んで貼りついた。
とはいえ、前世で何百回と会議に出てきた吾輩の勘が、「ここは議事録に残すな」と告げている。
人には、言いたくないことの一つや二つある。
吾輩はというと、言いたくないことより、言えないことのほうが多い。
前世のことも、漢字で書かれた名前のことも、右と左の前足だけでは説明のしようがないのだ。
「シロ、続きお願い!」
「ニャア(了解した)」
吾輩は再び毛を逆立てて、扇風機の「弱」を思い浮かべた。
首振りボタンの壊れた、一方向にしか吹かない、安物の風。
それでも今は、この風がセリアの髪を揺らしている。
どうやら吾輩の風魔法は、世界を救うより先に、洗濯物と髪を乾かすためにあるらしい。