冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
「トビーが、帰ってこないんです」
ギルドの受付の前で、痩せた女性がエプロンの裾を握りしめていた。
文字表ができてから、五日後の朝のことである。
エレナの説明によると、女性の名はアンナ。
街の外れで、薬草を売って暮らしている。
十一歳になる息子のトビーが、昨日の昼に森へ薬草を採りに行ったきり、一晩たっても戻らないのだという。
「捜索の依頼として受理しました。すでに二つのパーティが、森の東側に入っています」
「皆さんには、北側をお願いできますか。報酬は……銀貨三枚です」
エレナの営業スマイルは、今日は少しだけ硬かった。
相場よりずっと安い。
アンナがかき集められたのが、それだけだったのだろう。
ジェイクは何も言わずに、依頼書を受け取った。
「トビーくん……教会の読み書きの教室に来ている子だわ」
メアリーが、口元に手を当てた。
いつものおっとりした笑みが、消えていた。
「受ける。いいな」
ジェイクの短い問いに、全員がうなずいた。
吾輩も、右の前足を上げた。
(割に合わない案件だ。前世なら、上司に止められている。だが、断る理由はひとつもない)
*
森の入口で、エレナから借りた地図を広げた。
「北側の、このあたりね。二股の大木から先が担当よ」
カティアが、地図の一点を指でなぞる。
アンナの話では、トビーはいつも、北の沢の近くにある薬草の群生地へ行っていたらしい。
「よし、行くぞ」
ジェイクが、カティアの手から地図をひったくった。
「ちょっと! なんであんたが持つのよ」
「お前に先頭を任せたら、森を抜けて隣の国に着く」
「あんたに任せたら、森から一生出られないわよ!」
(どちらも正しい。そして、どちらも致命的だ)
カティアは、地図が読めるのに道に迷う。
ジェイクは、そもそも地図が読めない。
前世の会社にもいた。
マニュアルを読んでも間違える新人と、マニュアルを読まずに間違える先輩。
二人が組んだ仕事は、だいたい吾輩の残業になった。
結局、メアリーの「まあまあ」で、地図はジェイクが持つことになった。
声の大きいほうに決まる。
これも、どこの組織でも同じである。
*
一時間後。
「……おい。この木、さっきも見なかったか」
ジェイクが、目の前の大木を見上げた。
根元から二股に分かれた、特徴的な木。
地図に描かれた、担当区域の目印である。
「見たわよ。これで三回目」
「おかしいな。ちゃんと地図のとおりに進んでるはずだぞ」
吾輩には、原因がわかっていた。
ジェイクは、分かれ道に来るたびに、地図をくるくると回すのだ。
進む方向に地図を合わせる派の人間は、前世にもいた。
だが、回したあとで、どちらが北だったかを忘れる人間は初めて見た。
おかげで吾輩たちは、この大木を中心に、きれいな円を描いて歩き続けている。
(迷いの森か、ここは)
正しい順番で進まないと、入口に戻される森。
前世のゲームでは定番の仕掛けだ。
だが、この森にそんな仕掛けはない。
迷っているのは森ではなく、ジェイクだ。
(言いたい。地図を回すなと、一言だけ言いたい)
だが、文字表はセリアの部屋だ。
あの板は、両腕で抱えるほどの大きさがある。
森の捜索に持ってくるには、重すぎた。
五日前にようやく発言権をもらった会議室に、吾輩は置いてきぼりにされてしまったのだ。
「シロ。この地図の読み方、合ってるか?」
ジェイクが、地図をこちらに向けた。
吾輩は、左の前足を上げた。
「ニャア(まず、地図を回すのをやめろ)」
伝わるはずもなかった。
「合ってない? どこがだ」
(それを、はい・いいえでどう伝えろと)
前足を上げたまま、吾輩は考えた。
そして、ふと気づいた。
文字表は、文字を指すための板だ。
地図は、場所を指すための紙だ。
指せるものが書いてあるなら、どちらも同じではないか。
吾輩は、地面に広げられた地図の上に乗った。
前足で、二股の大木の印を押さえる。
それから、北の沢の印まで、肉球をすっとすべらせた。
地図から降りて、沢のある方角へ数歩進み、振り返る。
「……ついて来いって言ってるのよ、たぶん」
セリアが言った。
「猫に道案内されるのかよ」
「されなさいよ。あんたよりは確実よ」
「お前が言うな」
ジェイクは舌打ちをしたが、地図をたたんで、吾輩のあとに続いた。
こういうとき、意地を張らないのがこの男のいいところだ。
地図は、一度見れば頭に入る。
太陽の位置と、苔の生え方と、沢の水音。
それだけあれば、方角を見失うことはない。
カティアを配達先まで道案内した頃から、吾輩の役職は、このパーティのナビゲーターなのだ。
*
沢の近くの群生地に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
小さな籠が、斜面の途中に転がっていた。
中には、摘んだばかりらしい薬草が、半分ほど入っている。
「トビーくんの籠だわ」
メアリーが、持ち手に縫いつけられた布切れを見て言った。
教室で、子どもたちの持ち物に名前を縫いつけてあげたのだという。
斜面の土が、大きく削れていた。
足を滑らせた跡だろうか。
その先は、沢へ下る深い茂みの中に消えている。
「トビー! 聞こえたら返事して!」
セリアの声が、木々の間に吸い込まれていく。
返事はない。
鳥が一羽、羽音を立てて飛び立っただけだった。
吾輩は、籠に鼻を近づけた。
汗と、土と、日なたのような子どもの匂い。
これが、トビーの匂いだ。
(探知)
意識を、森の奥へと広げていく。
薬草を探したときと同じ要領だ。
だが、森は匂いが多すぎた。
湿った落ち葉、獣の糞、花、苔、沢の水。
無数の匂いが混ざり合い、子ども一人分の匂いは、すぐにその中へ溶けてしまう。
前世でいえば、朝の満員電車で、たった一人の香水だけを嗅ぎ分けろと言われているようなものだ。
(駄目だ。届く範囲が、狭すぎる)
ジェイクが、空を見上げた。
木々の隙間から見える日は、もう傾きはじめている。
「日が山にかかる前に、ここへ戻る。見つからなくても、だ」
「でも、トビーくんは……」
「わかってる」
セリアの言葉を、ジェイクは静かにさえぎった。
「夜の森で俺たちまで迷ったら、終わりだ。助けに来た奴が、助けを待つ側になる」
いつもの口の悪さが、なかった。
その声は、吾輩たちにというより、誰か別の人間に言い聞かせているように聞こえた。
吾輩は、もう一度、籠の匂いを嗅いだ。
そのとき、ふっと、首筋の毛を風が撫でていった。
沢のほうから吹き上げてくる、湿った風。
その中に、ほんのかすかに、さっき嗅いだのと同じ匂いが混じっていた。
吾輩の耳が、ぴんと立った。
(今のは――)
風が止む。
匂いも、消えた。
(風が、匂いを運んできた)
それなら、話は早い。
吾輩には、風を起こす力がある。
扇風機の「弱」しか出せない、頼りない風だが。
(運ばれてくるのを待つのではない。こちらから、集めにいけばいい)
吾輩は、腹の奥の温かい塊に意識を向けた。
背中の毛が、ふわりと逆立った。
(送る風ではなく、集める風。そんな扇風機、前世の家電売り場にあっただろうか)