冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~   作:播磨 由道

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第20話 換気扇の魔法

吾輩は、沢のほうへ顔を向けた。

 

集めた魔力で、目の前に扇風機を一台思い描く。

羽根は、こちらを向いている。

 

(「弱」。首振りなし)

 

ふわりと、顔に風が当たった。

湿った土と、足元の苔の匂い。

それだけだった。

 

向きを変えても、魔力を込め直しても、結果は同じだった。

 

扇風機の「弱」は、吾輩のまわりの空気を、くるくるとかき混ぜるだけだ。

沢の向こうの空気までは、とても届かない。

 

(足りない。この程度の風では、まるで足りない)

 

「シロ、もしかして匂いを集めようとしてるの?」

 

カティアの問いに、吾輩は右の前足を上げた。

 

「……少し、静かにしてやろうぜ。シロが集中できねえ」

 

ジェイクがそう言うと、四人は口を閉じた。

森の音だけが残る。

 

吾輩は、目を閉じた。

 

送り出す風では駄目だ。

必要なのは、遠くの空気を、こちらへ引き込む風だ。

 

そう考えたとき、ふと、油と湯気の匂いを思い出した。

 

残業帰りに通っていた、駅前の中華料理屋。

厨房の壁には、業務用の大きな換気扇が、ごうごうと音を立てて回っていた。

 

店の引き戸を開けると、外の空気が背中から吸い込まれていく。

のれんが、内側へとなびく。

 

店じゅうの空気が厨房へ流れ込み、換気扇から外へと吐き出されていく。

 

おかげで、あの店の前を通ると、いつも中華鍋の匂いがした。

腹を空かせた社畜を引き寄せる、悪魔の装置である。

 

(あれだ)

 

家庭用の扇風機ではない。

飲食店の、業務用の換気扇。

 

周りの空気を引き込み、吸い込んだ空気は上空へ逃がす。

逃がした分だけ、また新しい空気が流れ込んでくる。

 

一度流れができてしまえば、空気は止まらない。

 

吾輩は、腹の奥の温かい塊に意識を向けた。

扇風機のときは、そこからほんのひとすくいを取り出すだけだった。

今度は、塊ごと持ち上げる。

 

全身の毛が、根元から逆立った。

 

(業務用換気扇。運転、開始)

 

最初は、何も起きなかった。

やがて、吾輩の頭上で、落ち葉が一枚、くるりと舞い上がった。

二枚、三枚。

吸い込んだ空気が空へ抜けていく道筋を、落ち葉がなぞっていく。

 

足元の草が、吾輩のほうへ傾いた。

少し先の茂みが、同じ向きに揺れた。

さらにその先の木々の枝が、ざわりと鳴った。

 

引き込む。

空へ逃がす。

また引き込む。

 

回すほどに、流れは太く、遠くなっていく。

 

流れが、外へ外へと広がっていく。

森の空気が、ゆっくりと、吾輩という一点に向かって動きはじめていた。

 

「なに、これ……」

 

カティアが、呆然とつぶやいた。

赤いローブの裾が、吾輩のほうへ引かれてはためいている。

セリアの金色の髪も、メアリーの編んだ髪も、同じ向きになびいていた。

 

「森の風が、全部シロに向かってる……」

 

魔力A。

鑑定紙にそう書かれていた意味を、吾輩はようやく実感していた。

 

扇風機の「弱」とは、比べものにならない規模だ。

同じ風魔法でも、イメージひとつでここまで変わるらしい。

 

鼻の奥に、四方から匂いが流れ込んでくる。

 

腐りかけた倒木。

沢の水。

遠くの獣。

どこかで咲いている花。

 

流れに乗った匂いは、混ざり合わない。

それぞれが、来た方角を連れてやって来る。

 

ひげが、空気の向きを教えてくれた。

 

(東。鹿だ。違う)

(北。花の匂い。違う)

(沢の下流――)

 

汗と、土と、日なたの匂い。

籠についていたのと同じ匂いが、ひと筋、はっきりと流れてきた。

 

それと、もう一つ。

鉄のような、かすかな匂い。

 

(いた。それに、血の匂いだ)

 

方角は、沢の下流。

距離は、かなりある。

 

だが、確かに生きている人間の匂いだった。

 

(どうだ。これが業務用の実力だ)

 

そこまで確かめたところで、腹の奥の塊が、ふっと空になった。

 

換気扇が止まる。

舞い上がっていた落ち葉が、ぱらぱらと降ってきた。

吾輩の四本の足から、力が抜けた。

 

「シロ!」

 

地面に倒れる前に、セリアの腕が吾輩を受け止めた。

そのまま、胸元に抱き寄せられる。

セリアの心臓の音が、すぐそばで聞こえた。

 

(まいった。業務用の機械を、家庭のコンセントで回したようなものだ)

 

ブレーカーごと落ちた。

前世なら、管理会社に叱られるところである。

 

「大丈夫? ねえ、シロ」

 

体は動かない。

だが、頭ははっきりしていた。

 

吾輩は、セリアの腕の中で首を伸ばし、鼻先を沢の下流に向けた。

それから、震える前足で、同じ方角を指した。

 

「……あっちに、トビーくんがいるのね」

 

吾輩は、右の前足を上げた。

それだけで、ひと苦労だった。

 

「行くぞ。セリア、シロを頼む」

 

ジェイクが大剣を背負い直し、先頭に立った。

 

   *

 

セリアに抱かれたまま、吾輩は道案内を続けた。

 

魔法は、もう使えない。

だが、さっき流れ込んできた匂いの方角は、鼻とひげがしっかり覚えていた。

近づくにつれて、魔法を使わなくても、トビーの匂いが少しずつ濃くなっていく。

 

分かれ道に来るたびに、吾輩は鼻先と前足で方角を示した。

セリアがそれを読み取り、先頭のジェイクに伝える。

 

「右よ。沢沿いに、まっすぐ」

「わかった」

 

セリアは足を急がせながら、ときどき吾輩の顔をのぞき込んだ。

 

「無理しないでね。あとは、方向だけ教えてくれればいいから」

 

その声は、少しだけ震えていた。

腕の中の吾輩が、いつもよりぐったりして見えたのだろう。

 

横に並んだカティアが、前を向いたまま言った。

 

「あんな魔法、見たことないわよ。……あとで、どうやったのか教えなさいよね」

 

悔しそうな、それでいてどこか嬉しそうな顔だった。

 

「ニャア(業務用換気扇だ)」

 

もちろん、伝わらなかった。

 

(文字表で説明するなら、まず「換気扇」という言葉から説明しなければならない)

 

先は長そうだ。

 

木々の間から差し込む光が、橙色に変わりはじめていた。

 

   *

 

沢は、途中で急に落ち込んでいた。

大人の背丈の三倍ほどの段差を、細い滝が流れ落ちている。

 

滝つぼの脇の、岩が張り出した窪み。

そこに、小さな影がうずくまっていた。

 

「トビーくん!」

 

メアリーの声に、影が顔を上げた。

 

泥だらけの顔。

右の足首を、両手で押さえている。

 

「……メアリー、せんせい……?」

 

かすれた、けれど確かな声だった。

メアリーの肩から、ふっと力が抜けるのがわかった。

吾輩を抱くセリアの腕にも、ぎゅっと力がこもった。

 

吾輩は、空を見上げた。

西の山の端に、日が、ちょうど触れたところだった。

 

日が山にかかる前に戻る。

見つからなくても。

 

ジェイクが自分で決めた、撤退ラインだ。

 

ジェイクは、崖の下のトビーと、沈みかけた日を、黙って見比べていた。

大剣の柄を握る手が、白くなるほど力んでいた。

 

(定時ちょうどに、いちばん重い案件が見つかる。前世でも、だいたいそうだった)

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