冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
吾輩は、沢のほうへ顔を向けた。
集めた魔力で、目の前に扇風機を一台思い描く。
羽根は、こちらを向いている。
(「弱」。首振りなし)
ふわりと、顔に風が当たった。
湿った土と、足元の苔の匂い。
それだけだった。
向きを変えても、魔力を込め直しても、結果は同じだった。
扇風機の「弱」は、吾輩のまわりの空気を、くるくるとかき混ぜるだけだ。
沢の向こうの空気までは、とても届かない。
(足りない。この程度の風では、まるで足りない)
「シロ、もしかして匂いを集めようとしてるの?」
カティアの問いに、吾輩は右の前足を上げた。
「……少し、静かにしてやろうぜ。シロが集中できねえ」
ジェイクがそう言うと、四人は口を閉じた。
森の音だけが残る。
吾輩は、目を閉じた。
送り出す風では駄目だ。
必要なのは、遠くの空気を、こちらへ引き込む風だ。
そう考えたとき、ふと、油と湯気の匂いを思い出した。
残業帰りに通っていた、駅前の中華料理屋。
厨房の壁には、業務用の大きな換気扇が、ごうごうと音を立てて回っていた。
店の引き戸を開けると、外の空気が背中から吸い込まれていく。
のれんが、内側へとなびく。
店じゅうの空気が厨房へ流れ込み、換気扇から外へと吐き出されていく。
おかげで、あの店の前を通ると、いつも中華鍋の匂いがした。
腹を空かせた社畜を引き寄せる、悪魔の装置である。
(あれだ)
家庭用の扇風機ではない。
飲食店の、業務用の換気扇。
周りの空気を引き込み、吸い込んだ空気は上空へ逃がす。
逃がした分だけ、また新しい空気が流れ込んでくる。
一度流れができてしまえば、空気は止まらない。
吾輩は、腹の奥の温かい塊に意識を向けた。
扇風機のときは、そこからほんのひとすくいを取り出すだけだった。
今度は、塊ごと持ち上げる。
全身の毛が、根元から逆立った。
(業務用換気扇。運転、開始)
最初は、何も起きなかった。
やがて、吾輩の頭上で、落ち葉が一枚、くるりと舞い上がった。
二枚、三枚。
吸い込んだ空気が空へ抜けていく道筋を、落ち葉がなぞっていく。
足元の草が、吾輩のほうへ傾いた。
少し先の茂みが、同じ向きに揺れた。
さらにその先の木々の枝が、ざわりと鳴った。
引き込む。
空へ逃がす。
また引き込む。
回すほどに、流れは太く、遠くなっていく。
流れが、外へ外へと広がっていく。
森の空気が、ゆっくりと、吾輩という一点に向かって動きはじめていた。
「なに、これ……」
カティアが、呆然とつぶやいた。
赤いローブの裾が、吾輩のほうへ引かれてはためいている。
セリアの金色の髪も、メアリーの編んだ髪も、同じ向きになびいていた。
「森の風が、全部シロに向かってる……」
魔力A。
鑑定紙にそう書かれていた意味を、吾輩はようやく実感していた。
扇風機の「弱」とは、比べものにならない規模だ。
同じ風魔法でも、イメージひとつでここまで変わるらしい。
鼻の奥に、四方から匂いが流れ込んでくる。
腐りかけた倒木。
沢の水。
遠くの獣。
どこかで咲いている花。
流れに乗った匂いは、混ざり合わない。
それぞれが、来た方角を連れてやって来る。
ひげが、空気の向きを教えてくれた。
(東。鹿だ。違う)
(北。花の匂い。違う)
(沢の下流――)
汗と、土と、日なたの匂い。
籠についていたのと同じ匂いが、ひと筋、はっきりと流れてきた。
それと、もう一つ。
鉄のような、かすかな匂い。
(いた。それに、血の匂いだ)
方角は、沢の下流。
距離は、かなりある。
だが、確かに生きている人間の匂いだった。
(どうだ。これが業務用の実力だ)
そこまで確かめたところで、腹の奥の塊が、ふっと空になった。
換気扇が止まる。
舞い上がっていた落ち葉が、ぱらぱらと降ってきた。
吾輩の四本の足から、力が抜けた。
「シロ!」
地面に倒れる前に、セリアの腕が吾輩を受け止めた。
そのまま、胸元に抱き寄せられる。
セリアの心臓の音が、すぐそばで聞こえた。
(まいった。業務用の機械を、家庭のコンセントで回したようなものだ)
ブレーカーごと落ちた。
前世なら、管理会社に叱られるところである。
「大丈夫? ねえ、シロ」
体は動かない。
だが、頭ははっきりしていた。
吾輩は、セリアの腕の中で首を伸ばし、鼻先を沢の下流に向けた。
それから、震える前足で、同じ方角を指した。
「……あっちに、トビーくんがいるのね」
吾輩は、右の前足を上げた。
それだけで、ひと苦労だった。
「行くぞ。セリア、シロを頼む」
ジェイクが大剣を背負い直し、先頭に立った。
*
セリアに抱かれたまま、吾輩は道案内を続けた。
魔法は、もう使えない。
だが、さっき流れ込んできた匂いの方角は、鼻とひげがしっかり覚えていた。
近づくにつれて、魔法を使わなくても、トビーの匂いが少しずつ濃くなっていく。
分かれ道に来るたびに、吾輩は鼻先と前足で方角を示した。
セリアがそれを読み取り、先頭のジェイクに伝える。
「右よ。沢沿いに、まっすぐ」
「わかった」
セリアは足を急がせながら、ときどき吾輩の顔をのぞき込んだ。
「無理しないでね。あとは、方向だけ教えてくれればいいから」
その声は、少しだけ震えていた。
腕の中の吾輩が、いつもよりぐったりして見えたのだろう。
横に並んだカティアが、前を向いたまま言った。
「あんな魔法、見たことないわよ。……あとで、どうやったのか教えなさいよね」
悔しそうな、それでいてどこか嬉しそうな顔だった。
「ニャア(業務用換気扇だ)」
もちろん、伝わらなかった。
(文字表で説明するなら、まず「換気扇」という言葉から説明しなければならない)
先は長そうだ。
木々の間から差し込む光が、橙色に変わりはじめていた。
*
沢は、途中で急に落ち込んでいた。
大人の背丈の三倍ほどの段差を、細い滝が流れ落ちている。
滝つぼの脇の、岩が張り出した窪み。
そこに、小さな影がうずくまっていた。
「トビーくん!」
メアリーの声に、影が顔を上げた。
泥だらけの顔。
右の足首を、両手で押さえている。
「……メアリー、せんせい……?」
かすれた、けれど確かな声だった。
メアリーの肩から、ふっと力が抜けるのがわかった。
吾輩を抱くセリアの腕にも、ぎゅっと力がこもった。
吾輩は、空を見上げた。
西の山の端に、日が、ちょうど触れたところだった。
日が山にかかる前に戻る。
見つからなくても。
ジェイクが自分で決めた、撤退ラインだ。
ジェイクは、崖の下のトビーと、沈みかけた日を、黙って見比べていた。
大剣の柄を握る手が、白くなるほど力んでいた。
(定時ちょうどに、いちばん重い案件が見つかる。前世でも、だいたいそうだった)