冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~   作:播磨 由道

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第21話 父の言葉

「ジェイク、どうするの」

 

カティアが、押し殺した声で聞いた。

 

崖の下には、トビーがいる。

西の空では、日が山の端に沈みかけている。

 

「下りられる場所を探すわ。トビーくん、一晩ひとりきりだったのよ。これ以上、待たせられない」

 

セリアが、吾輩を抱いたまま崖のふちへ踏み出しかけた。

 

「待て、セリア。……一度、状況を整理させてくれ」

 

ジェイクの声に、セリアの足が止まった。

ジェイクは、崖の下と西の空を交互に見ながら、ひとつずつ言葉を並べていった。

 

「下りる道は、まだ見つかってねえ。道を探して、下りて、トビーの手当てをしてたら、確実に日が暮れる」

「そうなったら、足をけがした子どもを連れて、真っ暗な森を歩いて帰ることになる。足元は見えねえし、獣も出る。この森には、ゴブリンの群れがいたこともある」

「助けに来た俺たちまで動けなくなったら、トビーも含めて全員が危ねえ。万全を期すなら、ここで一度引き返して、明日の朝、人数を集めて出直すほうがいい」

 

ひと息に言い切ったその声は、昼間と同じ響きをしていた。

吾輩たちにというより、誰か別の人間に言い聞かせているような声。

 

「そんな……」

 

セリアが、唇をかんだ。

カティアも、メアリーも、何も言わなかった。

ジェイクの言っていることは、どれも正しかったからだ。

 

前世の会議なら、ここで誰かが「いったん持ち帰って検討します」と言い、それで終わる場面だった。

正しくて、安全で、誰も責任を負わずに済む結論。

だが、崖の下からは、トビーの小さな咳が聞こえていた。

 

ジェイクは、そこで言葉を切った。

大剣の柄から手を離し、目を閉じる。

深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。

 

「……いったん、全部忘れる」

 

誰に向けた言葉でもなかった。

滝の音だけが、しばらく続いた。

 

やがて、ジェイクは目を開けた。

そして、両手で自分の頬をばしんと叩いた。

 

「よし。助けるぞ」

 

さっきまでの重い声とは、まるで違っていた。

 

「ニャア(それでこそだ、リーダー)」

 

「……いいの?」

「いいも悪いもねえよ。ここで引き返したら、俺は一生、今日のことを思い出して眠れなくなる。それに、あいつをもう一晩ひとりにさせる気か?」

「させない! させるわけないじゃない!」

 

セリアが、泣きそうな顔で笑った。

 

「まったく。最初からそう言いなさいよね、心配させて」

「あらあら。それなら、急ぎましょうか」

 

カティアがふんと鼻を鳴らし、メアリーが胸の前で錫杖を握りしめた。

 

「ただし、夜の森は歩かない。そこだけは譲れねえ」

 

ジェイクは、もういつものリーダーの顔に戻っていた。

 

「下に下りたら、朝まで滝つぼの脇の岩場で夜を明かす。岩場なら見通しがきくし、獣が近づいてもすぐにわかる。水もある」

「でも、トビーくんのお母さんは、きっと一晩中待ってるわ」

「わかってる。一晩、余計に心配させることになる。だが、暗い森で誰かがけがをするより、朝に全員そろって帰るほうがいい」

 

撤退ラインを越えると決めた途端に、ジェイクは次の線を引き直していた。

危険を冒すと決めたうえで、冒す危険はできるだけ小さくする。

この男の慎重さは、臆病とは違うものらしい。

 

「問題は、どこから下りるかだ。ロープはあるが、この暗さで崖をそのまま下りるのは危ねえ」

 

(道なら、あるかもしれない)

 

さっき換気扇で集めた匂いの中に、鹿の匂いがあった。

 

鹿は、水を飲みに沢へ下りてくる。

崖を避けて、もっと楽な道を通って。

 

魔力は空っぽでも、鼻は使える。

吾輩は、セリアの腕の中で鼻をひくつかせた。

滝の右手の茂みの奥から、獣が何度も通った匂いがした。

吾輩は、前足でそちらを指した。

 

「シロ? あっちに、何かあるの?」

「待ってろ、俺が見てくる」

 

ジェイクが茂みをかき分けると、斜面を斜めに下っていく細い踏み跡が現れた。

蹄の跡が、点々と続いている。

 

「獣道だ。鹿が水を飲みに下りてくる道だな。これなら、崖を下りるよりずっと安全だ。助かったぜ、シロ」

 

(鹿の通勤経路である。毎日通う道は、いちばん歩きやすくできている)

 

ジェイクは、獣道のいちばん急なところにロープを張り、手すり代わりにした。

そして、一人ずつ、慎重すぎるほど慎重に下ろしていった。

 

   *

 

滝つぼの脇に下りたときには、空は藍色に変わっていた。

 

メアリーが、トビーの足首に両手をかざした。

白い光が、ぼんやりと灯る。

 

「骨は折れていないわ。ひねったところを、岩で少し切っただけ。痛かったでしょう。ひとりで、よく我慢したわね」

 

トビーは、メアリーにしがみついて泣き出した。

一晩、ひとりでこらえていた分の涙だった。

 

メアリーが拾っておいた籠を渡すと、トビーはそれを抱きしめて、また泣いた。

 

岩場の真ん中で、小さな焚き火を起こした。

干し肉を分けてもらったトビーは、泣きはらした目のまま、夢中でかじりついた。

吾輩には、ジェイクが滝つぼで手づかみにした小魚を、セリアが何も付けずに焼いてくれた。

魔力を使い果たした体に、焼きたての魚の温かさが染みた。

残業明けの牛丼と、同じ染み方だった。

 

「その猫、メアリーせんせいの猫?」

 

トビーが、焚き火の明かりの中で吾輩を見つめた。

 

「ううん。わたしたちの仲間よ。シロっていうの」

「シロがね、トビーくんの匂いを見つけてくれたのよ。ここまで道案内してくれたのも、シロなんだから」

「猫が? ほんとに?」

「ほんとよ。すごいでしょ」

 

セリアが、自分のことのように胸を張った。

飼い猫ではなく、仲間。

悪くない響きだ。

焼き魚の次くらいには。

 

   *

 

トビーは、やがてメアリーの膝で眠ってしまった。

焚き火を囲んで、四人と一匹が残った。

少し眠ったおかげで、吾輩もようやく足が言うことを聞くようになっていた。

 

「ねえ、ジェイク」

 

セリアが、薪をくべながら口を開いた。

 

「崖の上で、『全部忘れる』って言ってたでしょ。あれ、何を忘れたの?」

 

ジェイクは、しばらく焚き火を見つめていた。

それから、観念したように息を吐いた。

 

「……親父の言葉だ。親父は、元Cランクの冒険者でな」

「あんたのお父さんも、冒険者だったの?」

「ああ。腕はよかったらしい。だが、ある依頼で撤退の判断を誤った。まだ行けると思ったんだとよ。パーティは魔物に囲まれて、仲間が一人死んだ。親父も足をやられて、それっきり引退だ」

 

焚き火が、ぱちりとはぜた。

カティアが、言葉を飲み込むのがわかった。

 

「今は杖をついて歩いてる。口のうるささだけは、現役のままだけどな」

 

(口の悪さは、どうやら遺伝らしい)

 

「だから、子どもの頃から耳にたこができるほど聞かされた。冒険者が長生きする秘訣は、撤退の判断を誤らないことだ、ってな」

「昼間、日が山にかかる前に戻るって決めたのも、そのためだ」

 

それで、あの声だったのか。

ジェイクは、ずっと父親の言葉を自分に言い聞かせていたのだ。

 

「でもな。親父が言ってたのは、それだけじゃねえんだ」

 

ジェイクは、指を一本ずつ折っていった。

 

「悩んでどうしたらいいかわからねえときは、いったん全部忘れろ。そんで、自分の胸にどうしたいか聞け。そしたら、答えはそこにあるはずだ」

「冒険者ってのは、危険を冒す者だから冒険者っていうんだ」

「判断が遅いのは致命的だ。だが、判断を間違ったらそこで終わりだ。慎重さを忘れるな」

 

三本目の指を折ったところで、ジェイクは苦笑した。

 

「なんか言ってることめちゃくちゃだろう? よく考えろと言いながら考えるな、感じろ! みたいなこと言うんだぜ?」

「崖の上で、撤退しなきゃいけない理由を全部並べてみた。そしたら、何も決められなくなった。だから、一回全部忘れて、自分の胸に聞いたんだ。……答えは、最初から決まってた」

 

(矛盾した言動なら、吾輩にも覚えがある)

 

新人の頃の上司だ。

わからないことがあったらなんでも聞けと言いつつ、聞きに行ったらこれくらい自分で何とかしろと言う。

当時はその理不尽さに腹が立ったものだ。

今思えば、あの人もたぶん深く考えてはいなかった。言った本人は、翌日には忘れていたと思う。

それでも吾輩は、そこで覚えた。聞くべきことと、自分で片づけることの見分け方は、場面ごとに違う。

 

ジェイクの親父さんも、きっと自分の経験と冒険者の意地を語っていただけだ。

その矛盾だらけの言葉から、ジェイクは今の自分に要るものだけを選び取っている。

 

親父さんが渡したのは、経験談だ。

ジェイクが受け取ったのは、臨機応変である。

 

「お父様の言葉を、ちゃんと自分の言葉にしているのね」

 

メアリーが、トビーの髪を撫でながら微笑んだ。

 

「よせよ。使えそうなとこを拾ってるだけだ」

 

ジェイクは照れくさそうに頭をかいて、それから、眠っているトビーのほうを見た。

 

「正直に言うとな。今日の判断が正しかったのかは、まだわからねえ。撤退ラインを決めたのは俺だ。それを、俺が破った」

 

吾輩は、少しだけ考えてから、右の前足を上げた。

 

「……正しかったって言いたいのか」

 

もう一度、右の前足を上げる。

 

「ほら。シロもそう言ってるじゃない」

「わたしも、そう思うわ。トビーくんがここで眠っているのが、何よりの答えではないかしら」

 

ジェイクは、しばらく黙って吾輩を見ていた。

それから、ふっと鼻で笑った。

 

「猫にまで励まされてりゃ、世話ねえな」

「猫じゃなくて、仲間でしょ」

「……そうだったな」

 

(よく言った、セリア。ついでに、吾輩は猫ではない、とも付け加えてほしい)

 

大きな手が、吾輩の頭をわしわしと撫でた。

不器用で、少し痛くて、それでも温かい手だった。

 

滝の音が、夜の森に響いている。

撤退ラインの向こう側で迎えた夜は、思っていたよりもずっと静かだった。

滝の音がうるさいことを除けば、だが。

 

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