冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
トビーの救出から、五日がたった。
「シロちゃん。今度の休息日、教会に一緒に来てくれないかしら」
メアリーがそう言ったのは、ギルドの酒場で遅い朝食をとっていたときだった。
「トビーくんが、シロちゃんにどうしてもお礼を言いたいんですって。足もすっかりよくなって、また読み書きの教室に通いはじめたのよ。ほかの子たちも、『森で迷子を見つけた白い猫』に会いたいって、大騒ぎなの」
吾輩は、右の前足を上げた。
子どもの集団に囲まれるのは少し怖いが、断る理由はない。
「わたしも行く! シロが子どもたちに引っ張り回されないように、ちゃんと見張ってないと」
「……いちばん引っ張り回してるのは、あんたでしょ」
カティアが、呆れたように言った。
*
教会は、街の西側にある、古い石造りの小さな建物だった。
礼拝堂の裏手に、子どもたちが読み書きを習う部屋がある。
長い机がふたつと、壁際に古い本棚。
机の上には、子どもたちの石板と石筆が並んでいた。
吾輩が部屋に入った途端、十人ほどの子どもたちが、わっと押し寄せてきた。
「白い猫だ!」
「この子が、トビーを見つけた猫?」
「ふわふわしてる! さわっていい?」
「はいはい、みんな落ち着いて。順番に、やさしくね。シロちゃんがびっくりしちゃうわ」
メアリーの穏やかな声で、子どもたちはぴたりと静かになった。
大声を出したわけでもないのに、不思議な人だ。
(前世でいえば、新製品発表会の囲み取材である。質問は全部「さわっていい?」だったが)
そのあと、順番に撫でられた。
抗議するつもりだったが、喉が勝手に鳴った。
子どもたちの輪をかき分けて、トビーが前に出てきた。
もう、足を引きずってはいない。
「シロ。森で、見つけてくれてありがとう」
トビーは、両手で抱えていた石板を、吾輩の前に差し出した。
少し震えた、けれど一画ずつ丁寧に書かれた文字が並んでいた。
『シロ ありがとう』
「メアリーせんせいに教えてもらって、ぼくが書いたんだ。お母さんに手紙を書けるように、いっぱい練習してるんだよ」
吾輩は、石板の文字をじっと見つめた。
(お礼状だ)
文字表ができた日、吾輩は一文字ずつ指して、セリアにお礼を伝えた。
今度は、吾輩がお礼状を受け取る番らしい。
前世で受け取ったお礼状は、どれも印刷された定型文だった。
手書きのお礼状は、悪くない。
額に入れて飾りたいくらいには。
吾輩は、右の前足を上げた。
それから、トビーの手に、そっと頭をこすりつけた。
「ニャア(読める。ついでに言うと、二つ目の字が少し傾いている)」
「シロ、字が読めるの?」
「ふふ、どうかしら。シロちゃんは、とっても賢い猫だから」
メアリーは、いたずらっぽく笑って、それ以上は何も言わなかった。
*
授業が始まると、メアリーは「先生」の顔になった。
「間違えても大丈夫よ。間違えたところが、次に覚えるところなの。一回で書けたら、それはもう知っていた字。間違えた字こそ、今日あなたが新しく覚えた字なのよ」
石板に書いた字を間違えて泣きそうになる小さな子に、メアリーは何度でも同じことを言った。
決して叱らない。
急かしもしない。
一人ひとりの手元をのぞき込み、できたところを必ず褒めてから、直すところを一つだけ教える。
(前世の会社で、新人を怒鳴りつけていた先輩たちに見せてやりたい)
新人教育とは、本来こうあるべきなのだ。
吾輩は机の端に座って、すっかり感心していた。
セリアは、子どもたちに混じって石板をのぞき込み、一緒になって悩んだり笑ったりしていた。
こちらは先生というより、少し年上のお姉さんである。
授業のあと、年老いた神父が、手伝いの二人にお茶と焼き菓子を出してくれた。
「いつも、メアリーさんには助けられています。今日は、お友だちまで来てくださって」
「とんでもないです。わたしこそ、楽しかったです」
セリアは、そう言ってカップを手に取った。
その仕草を見て、吾輩は、おや、と思った。
背筋がすっと伸びている。
受け皿を左手で胸の高さに持ち、右手の指先だけで取っ手をつまむ。
カップを口に運ぶときも、置くときも、音ひとつ立てない。
いつもギルドの酒場で、スープを豪快にすすっている彼女とは、まるで別人だった。
それに気づいたのは、吾輩だけではなかった。
「セリアおねえちゃん、お姫さまみたい!」
「ほんとだ! お茶の飲み方、きれい!」
子どもたちの声に、セリアの肩がびくりと跳ねた。
「えっ? そ、そんなことないわよ。ほら、普段はこうやって、がぶっと飲んじゃうんだから」
セリアは、わざとカップを傾けて、お茶を一気にあおった。
そして、思いきりむせた。
「げほっ、熱っ……!」
(ごまかし方としては、いちばん下手なやつだ)
子どもたちが、どっと笑った。
セリアも、涙目で一緒になって笑っていた。
その輪の外で、メアリーだけが静かな目でセリアを見つめていた。
ほんの一瞬のことだった。
そして、すぐにいつものおっとりした笑みに戻った。
*
夕方。
セリアが子どもたちを家まで送りに行っているあいだ、吾輩はメアリーと二人きりで、礼拝堂の長椅子に座っていた。
「ねえ、シロちゃん。わたしが、どうして子どもたちに字を教えているか、話したことはあったかしら」
メアリーは、祭壇のほうを見つめながら言った。
「わたしが生まれた村にはね、字の読める人がほとんどいなかったの。それで、ある年、町から来た商人が、村の人たちにたくさんお金を貸したのよ。証文に名前を書かせてね」
「でも、誰も、その証文に何が書いてあるのか読めなかった。気がついたときには、利息がとんでもない額にふくらんでいて……わたしの家も、それで畑を手放したの」
「わたしはそのあと、この教会に預けられて、ここで字を覚えたのよ」
吾輩は、メアリーの横顔を見上げた。
いつもと同じ、穏やかな顔だった。
「字が読めれば、少なくとも、何が書いてあるかわからないまま名前を書かされることはなくなるでしょう? だから、わたしは字を教えているの。あの子たちが、大人になって騙されないように」
(前世でも、契約書を読まずに判を押して、あとで泣く人間は大勢いた)
字が読めることは、それだけで身を守る盾になる。
この世界では、なおさらなのだろう。
「それからね、シロちゃん。セリアちゃんの、お茶の飲み方。見たでしょう?」
吾輩の耳が、ぴくりと動いた。
「この教会には、ときどき貴族の奥方様が寄付にいらっしゃるの。お茶をお出しするのは、昔からわたしの役目だったのよ」
「セリアちゃんの所作はね、あの方たちとそっくりなの。あれは、真似をして身につくものではないわ。きっと、小さい頃からきちんと教わったのね」
吾輩は、宿の女将がいつか言いかけた言葉を思い出していた。
それから、黒い鷹の紋章を見て、セリアの体がこわばった日のことも。
「でも、これは内緒よ」
メアリーは、人差し指を唇に当てた。
「セリアちゃんには、きっと事情があるのね。だから、本人が自分から話したくなるまで、知らないふりをしてあげましょう」
「シロちゃんの『いつか はなす』を、みんなで待っているのと同じ。待つのは、得意なのよ」
吾輩は、少しだけ考えてから、右の前足を上げた。
「ふふ。シロちゃんとわたしの、秘密ね」
(秘密保持契約、締結である。契約書はないが)
おっとりした笑顔の奥で、この人は、誰よりもよく人を見ている。
そして、見たものを、むやみに口に出したりしない。
「ただいまー! メアリー、シロ、お待たせ!」
礼拝堂の扉が開いて、セリアが駆け込んできた。
「何の話してたの?」
「シロちゃんに、教室の先生になってもらおうかしら、って話していたのよ」
「ニャア(その人事は聞いていない)」
「えー、シロが先生? ずるい、わたしも生徒になりたい!」
屈託なく笑うセリアを見上げながら、吾輩は思った。
この笑顔の裏に何があるのかは、まだわからない。
だが、いつか彼女が自分から話したくなる日まで、吾輩は知らないふりをする猫でいよう。
幸い、知らないふりは猫の得意分野である。
呼ばれても振り向かないのは、猫の仕事のうちなのだ。