冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
「今日は、シロと二人でお出かけの日!」
朝の宿の部屋で、セリアが高らかに宣言した。
依頼のない休息日。
カティアは用事があると言って朝から姿を消し、メアリーは教会の手伝い、ジェイクは装備の修理に出かけていった。
ここ最近は、森の捜索に教会の教室にと、何かと慌ただしかった。
久しぶりに、何の予定もない一日である。
「いつもは誰かと一緒でしょ? たまには、わたしとシロだけで、のんびり街を歩きたいなって思ってたの。ねえ、いいでしょ?」
吾輩は、右の前足を上げた。
前世の休日は、溜まった洗濯物と持ち帰りの仕事で終わっていた。
思えば吾輩は、休日にお出かけというものを、ほとんどしたことがない。
宿の玄関で、女将のマルタが二人を見送った。
「セリアさん、あまり遅くならないように。夕方には戻ってくださいね」
「はーい。子どもじゃないんだから、大丈夫よ」
マルタは心配そうな顔で、しばらくセリアの背中を見つめていた。
*
市場は、休息日の人出でにぎわっていた。
野菜を積んだ荷車。
布を広げた露店。
焼いた肉の匂い。
セリアは、そのすべてに目を輝かせて、あちこちの店をのぞいて回った。
「見て、シロ! 揚げ菓子よ。蜂蜜がかかってるの。これ、一つください!」
セリアは、紙に包まれた揚げ菓子を受け取ると、その場でかぶりついた。
そして、歩きながら、幸せそうに頬張った。
「ニャア(歩き食いとは、行儀が悪いぞ)」
「ふふ。歩きながら食べるのって楽しいよね。前はこんなことしてたら怒られるなって思ってたけど」
(怒られる?)
吾輩は、その言葉を胸の中で繰り返した。
歩きながら物を食べると、怒られる?
それは、そういうことを禁じられて育った人間の言葉だ。
セリアは、川魚を焼いている露店にも寄ってくれた。
塩も香辛料も使わない、素焼きの川魚だ。
「これ、もう少しまけてくれない? この子に食べさせてあげたいの」
「お嬢ちゃん、それじゃうちが赤字だよ」
「そ、そうよね。ごめんなさい。じゃあ、そのお値段で」
「ニャア(引き下がるのが早すぎる)」
値切るつもりが、一言で引き下がった。
どうやら、値切り交渉というものに、まるで慣れていないらしい。
それでも、セリアは嬉しそうに焼き魚の包みを吾輩に見せた。
「はい、シロの分。今日は特別に、二匹ね」
(二匹。休日手当としては、破格だ)
しっぽが、勝手にぴんと立った。
猫の体は、査定結果に正直である。
*
大通りに出たときだった。
石畳の向こうから、蹄の音と車輪の響きが近づいてきた。
四頭立ての、黒塗りの立派な馬車だった。
扉には、銀色の牡鹿の紋章が描かれている。
通りの人々が、慌てて道の両脇に寄った。
その瞬間、セリアの体がびくりと跳ねた。
セリアは、吾輩を抱き上げると、そばの露店の陰に飛び込んだ。
外套のフードを深くかぶり、吾輩を胸の前に抱えて、顔を隠すようにうつむく。
吾輩は、ちょうど盾のような位置にいた。
(……顔を、隠している)
馬車は、こちらに気づくこともなく、大通りを走り去っていった。
蹄の音が遠ざかっても、セリアはしばらく動かなかった。
吾輩を抱く腕が、小さく震えていた。
「……ごめんね、シロ。びっくりさせちゃったね」
ようやく顔を上げたセリアは、笑おうとして、うまく笑えていなかった。
「知らない家の紋章だったの。わたしのことなんて、誰も知らないはずなのに。でも、貴族の馬車を見ると、どうしても体が勝手に動いちゃうのよ。……変よね、こんなの」
吾輩は、セリアの顔を見上げた。
黒い鷹の紋章を見てこわばった日。
お茶の飲み方を「お姫さまみたい」と言われて、わざとむせてみせた日。
それらが、今の震えと一本の線でつながっていく。
*
夕方、セリアは街の外れの、古い城壁の上に吾輩を連れていった。
石段を上った先からは、街の屋根と、遠くの森と、沈みかけた夕日がよく見えた。
「ここ、わたしの秘密の場所なの。この街に来たばかりの頃、つらいことがあると、よくここに来てたのよ」
セリアは城壁のふちに腰を下ろし、吾輩を膝の上にのせた。
しばらく、黙って夕日を見ていた。
「ねえ、シロ」
やがて、ぽつりと言った。
「猫なら、誰にも言わないよね。……あ、でも、シロは文字表があるんだっけ」
セリアは、くすっと笑った。
「でも、シロなら、言わないよね。わたし、知ってるもの。シロは、カティアの秘密だって、ちゃんと守ってるでしょ」
(気づいていたのか)
吾輩は、右の前足を上げた。
「ありがと。……あのね。わたし、家を出てきたの。誰にも言わずに、夜のうちに、こっそり」
「わたしの家はね、ちょっと窮屈な家だったの。歩きながら物を食べちゃいけないとか、大きな声で笑っちゃいけないとか、決まりごとがたくさんあって」
「それでも、家族のことは好きだったのよ。お父様も、お母様も。……でもね、ある日、お父様が、わたしの結婚相手を決めてきたの。会ったこともない、お父様よりも年上の人」
(会ったこともない相手との縁談を親が決めてくる。酷い話だが、貴族の間ではよく聞く話だろう)
夕日に照らされたセリアの横顔は、いつもよりずっと大人びて見えた。
「どうしても嫌だったの。だから逃げてきちゃった。剣を一本と、少しのお金だけ持って」
「それで冒険者になったの。誰かに決められた人生じゃなくて、自分で決めた生き方をしてみたかったから」
吾輩は、黙ってセリアの話を聞いていた。
今は何も言わずに聞くのが正しい気がした。
「実家には妹がいるの。フィーネって名前よ。十歳で、すごく甘えん坊で、わたしの後ばっかりついてくる子だった」
「あの子にだけは、ちゃんとお別れを言いたかったな。何も言わずに出てきちゃったから、きっと泣いてるわ」
セリアの声が、少しだけかすれた。
「だから、さっきみたいに貴族の馬車を見ると怖くなるの。家の誰かが、わたしを捜しに来たんじゃないかって。見つかったら、連れ戻されちゃうかもって」
「みんなと一緒にいられなくなるのは、嫌だな。ジェイクも、カティアも、メアリーも、シロも。わたし、今の毎日が、すごく好きなの」
吾輩は、セリアの手に頭をこすりつけた。
それくらいしか、できることがなかった。
「……ふふ。シロに話したら、ちょっとだけ軽くなったかも」
セリアは、吾輩をそっと抱きしめた。
いつもよりずっと、静かで、やさしい抱き方だった。
「このことは、二人だけの秘密ね。約束よ」
吾輩は、もう一度、右の前足を上げた。
(承知した。いわゆる守秘義務というやつだな)
*
宿に戻ったのは、日が沈みきる少し前だった。
玄関の灯りの下で、マルタが待っていた。
「おかえりなさい、セリアさん。ちゃんと、夕方に戻ってきましたね」
「でしょ? 子どもじゃないって言ったじゃない」
セリアはいつもの調子で笑って、階段を駆け上がっていった。
吾輩は、その後ろ姿を見上げながら考えた。
セリアが話してくれたのは、たぶん、全部ではない。
家がどこにあるのか。
結婚相手が誰なのか。
なぜ、黒い鷹の紋章にあれほどおびえたのか。
それは、まだわからない。
だが、それでいい。
吾輩にも、「いつか話す」と保留にしていることがある。
話せることから、話せるときに。
それが、このパーティのやり方だ。
今日、吾輩は、セリアの秘密の一部を預かった。
誰にも言わないと、約束した。
前世では、機密書類は鍵付きのキャビネットにしまっていた。
猫の吾輩には、キャビネットがない。
どうやら、この胸の中にしまっておくしかないらしい。