冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
「シロ、どうした?」
足を止めた吾輩に、ジェイクがすぐ気づいた。
声を落として、前を向いたまま聞いてくる。
「何かいるのか?」
「ニャッ(はい)」
「魔物か?」
「ニャッ(はい)」
「ゴブリンか?」
「ニャッ、ニャッ(いいえ)」
ジェイクの顔から、笑みが消えた。
はい・いいえだけでは、この匂いのただごとでなさは伝わらない。
吾輩は背中のポーチに鼻先を突っ込み、小さな文字表をくわえ出した。
地面に置いて、前足で表の言葉を押さえる。
『てき』
『あぶない』
それから、東を向いた。
「東……ロルフたちのほうか」
ジェイクがつぶやいた、その瞬間だった。
林の東から、悲鳴が聞こえた。
続いて、地面を揺らすような重い足音と、木の枝がまとめて折れる音。
「行くぞ!」
ジェイクが走り出した。
セリアが吾輩の文字表を拾ってポーチに押し込み、少し後ろではグレタも手帳を閉じて駆け出していた。
*
吾輩は、誰よりも先に林を抜けた。
足の速さだけなら、このパーティで一番なのだ。
開けた草地に出たところで、吾輩は息をのんだ。
猪だった。
ただし、荷馬車ほどの大きさがある。
背中の毛は針のように逆立ち、口の両脇から反り返った牙が突き出ていた。
(でかすぎるだろう。猪の規格を完全に無視している)
「グレートボア……!?」
追いついたグレタの声が、わずかに上ずった。
「この丘陵に出る魔物ではありません。本来は、Dランク以上が相手にするものです」
草地には、ロルフたちのパーティがいた。
大柄な槍使いは、折れた槍を握ったまま倒れている。
ロルフは剣を構えているが、その腕からは血が流れていた。
そして、ニコ。
弓の弦が切れたのか、折れた弓を抱えたまま尻もちをついている。
グレートボアが、前足で地面をかいた。
鼻先は、ニコのほうを向いている。
(まずい、突っ込む気だ)
「ニコ、逃げろ!」
ロルフが叫んだが、ニコは動かない。
足がすくんで、立てないのだ。
吾輩は振り返った。
ジェイクは、まだ林の中だ。
大剣を背負った足では、とても間に合わない。
セリアとカティアがスリングショットを構えたが、間に木が立っていて狙いが通らない。
吾輩とニコの間は、二十歩ほど。
吾輩の足なら届く。
だが、届いたところで、猫一匹に何ができる。
前世の吾輩なら、ここで上の判断を待っていた。
稟議を回し、課長の印をもらい、部長の承認を待つ。
その間に、現場はたいてい手遅れになったものだ。
だが、ここには課長も部長もいない。
(決裁者は、吾輩だ)
腹の奥の温かい塊に、意識を向ける。
風では足りない。
あの巨体を止めるには、もっと強いものがいる。
ずっと怖くて、「保留」のまま触れずにきたもの。
雷だ。
*
吾輩が雷を怖がるのには、理由がある。
前世で、台風の夜に残業から帰る途中のことだ。
駅前の通りで、切れた電線が一本、濡れた地面の近くで揺れていた。
その先から青白い光がバチバチと噴き出して、夜道を昼間のように白く照らしていた。
近づくな、と誰かが叫んでいたが、吾輩は足がすくんでしばらく動けなかった。
アーク放電というやつだ。
あの光と音は、今でもはっきり覚えている。
(怖いほど覚えているなら、そのまま使えばいい)
魔力を集めると、全身の毛がぶわっと逆立った。
ひげの先が、ぱちぱちと鳴っている。
切れた電線。
青白い光。
あの音。
イメージを、グレートボアに向けて送り込む。
グレートボアが、地面を蹴った。
ニコに向かって、一直線に。
(行けっ!)
「ニャアアアッ!」
吾輩の全身から、青白い光がほとばしった。
逆立った毛の一本一本から光が噴き出し、一つに束になって前へ飛び出していく。
光は草を焦がしながら、地面を這うようにグレートボアへ走っていく。
バチバチと耳をつんざく、あの夜と同じ音。
突進してくる巨体の鼻先に、光がまともに食らいついた。
その瞬間、光が暴れだした。
何本もの青白い筋が、蛇のようにのたうちながら、グレートボアの体じゅうを駆けめぐる。
そして、その背中を突き抜けた。
突き抜けた光は、それでも止まらなかった。
鞭のようにしなって周りの草をなぎ払い、奥の木の幹に叩きつけられる。
(ちょ、ちょっと待て。止まれ、止まれ!)
世界が、真っ白になった。
*
最初に戻ってきたのは、耳だった。
キーンという耳鳴りの奥で、何かがぱちぱちと燃える音がする。
目を開けると、吾輩の足元から、まっすぐ黒い焦げ跡が伸びていた。
その先で、グレートボアが横倒しになっている。
全身から煙を上げ、ぴくりとも動かない。
奥の木が一本、幹の途中から裂けて、炭のように黒くなっていた。
ニコは、グレートボアのほんの数歩手前で、尻もちをついたままだった。
目をまんまるにしているが、けがはなさそうだ。
(よし、止まった)
ほっとしたのも、つかの間だった。
焦げ跡のまわりの草に、火がついていた。
「火! 燃えてる、燃えてるわよ!」
カティアが叫んで、外套を脱いだ。
セリアとメアリーも続き、三人でくすぶる草を外套で叩いていく。
林から飛び出してきたジェイクが、その光景を見て足を止めた。
「……なんだ、こりゃ」
(それは、吾輩も聞きたい)
吾輩は、その場に座り込んだ。
足に力が入らない。
腹の奥の魔力は、ほとんど空っぽだった。
*
火が消えたころ、ようやく草地は静かになった。
駆け寄ってきたセリアが、吾輩を抱き上げようとして、その手を一瞬止めた。
吾輩の毛が、まだ逆立っていたからだ。
「シロ、大丈夫? けがはない?」
「ニャッ(はい。毛並み以外は)」
声は、自分でも驚くほどかすれていた。
カティアは、煤だらけの外套を握りしめたまま、こちらを見ていた。
「雷魔法よね、今の。鑑定紙に書いてあった、あんたのもう一つの属性」
「ニャッ(はい)」
「初めて使ったんでしょ。初めてで、あれなの?」
怒っているようにも、震えているようにも聞こえる声だった。
吾輩には、何も言い返せない。
初めてで、あれなのだ。
撃った吾輩自身が、いちばん驚いている。
メアリーが、ロルフの腕と槍使いの手当てを始めた。
槍使いは気を失っていただけで、すぐに目を覚ました。
ロルフは、自分の足元すれすれで途切れた焦げ跡と吾輩を、何度も見比べている。
「今の、その猫がやったのか?」
誰も答えなかった。
答えようがなかったのだ。
(ペット枠がやりました、とは言いにくい)
ニコが、よろよろと立ち上がった。
吾輩の前まで来て、膝をつく。
「ありがとう。……きみが、助けてくれたんだよね」
「ニャッ(はい。礼には及ばない)」
ニコは、泣きそうな顔で笑った。
(毛並みを褒めてくれた恩は、これで返したぞ、少年)
そのとき、吾輩の上に影が落ちた。
グレタだった。
グレタは焦げた草地と裂けた木を見て、それから吾輩を見た。
手帳は、開かなかった。
「試験は、ここで中止します。全員、ギルドへ戻ってください。……その猫も、一緒に」
声は、いつもどおり静かだった。
だが、その目は、もう「評価対象外」の猫を見る目ではなかった。
吾輩は、焦げた地面を見つめた。
ニコは助かった。
それは、間違いなく良かった。
だが、草地には焦げ跡が一本走り、木が一本裂けている。
(これは、ちょっとやりすぎたかもしれない)
現場の判断で動いたあとには、決まって呼び出しがある。
決裁者になるということは、責任者になるということでもあるのだ。
どうやら、この世界の始末書の書式も、調べておいたほうがよさそうである。
※作中の雷魔法は、シロが前世で見たアーク放電の記憶をもとにした「シロのイメージ」です。実際の現象とは動きが違いますが、魔法ということでご容赦ください。