冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
「シロ、いた! 迎えに来たよ!」
宿の玄関の扉が、ばんと開いた。
戸口に、息を切らしたセリアが立っている。
夕日を背にしているので、金色の髪のふちが燃えるように光っている。
「ギルド証の書き換え、やっと終わったの。見て見て!」
セリアが、首から下げた小さな金属の札を、吾輩の鼻先に突き出した。
札の真ん中には、新しく刻まれた「D」の字。
磨きたての銀色が、夕日を跳ね返してまぶしい。
(なるほど。朝から出かけていたのは、事務手続きか)
帳場をちらりと振り返ると、マルタは何事もなかったように帳簿をつけていた。
前掛けのポケットは、ふくらんだままだ。
「祝勝会、もう始まっちゃう。行こ!」
吾輩が返事をする前に、セリアが吾輩の両脇を抱えて運んでいく。
(その持ち方は、胴が伸びるからやめてほしい)
*
ギルドの酒場では、太い梁から下がった吊り灯りが、壁の古い盾や魔物の角を照らしていた。
奥の丸いテーブルで、ジェイクが手を振っている。
三人の胸にも、同じDランクを証明する銀色の札が光っていた。
「えー、それでは」
全員のジョッキに麦酒が満たされると、ジェイクが立ち上がった。
吾輩の前には、水の入った浅い皿が置かれている。
「本日は、お忙しい中……いや、別に忙しくはねえか。とにかく、俺たちはDランクになった」
ジェイクは、咳ばらいをひとつした。
「思えば、最初のゴブリン討伐のときは……」
(まずいな。この入り方は、まずい)
吾輩の予感は当たった。
ジェイクは、薬草採集から森の捜索まで、これまでの依頼を一つずつ振り返り始めた。
カティアの目が、だんだん据わっていく。
メアリーは、にこにこしたまま、ジョッキの泡が消えていくのを見つめている。
前世の会社の忘年会と、まったく同じ光景である。
乾杯の挨拶を任された部長が、上半期の業績から語り始める。
その間、ビールの泡は確実に死んでいく。
誰も止めない。
止めたら、査定に響くからだ。
「――というわけで、これからも全員で」
「長いのよ! 乾杯!」
カティアが、ジェイクのジョッキに自分のジョッキを叩きつけた。
「おい、まだ締めの言葉が……」
「乾杯!」
セリアとメアリーも、笑いながらジョッキを掲げた。
吾輩も、皿の水に鼻先をつけた。
部長、見ていますか。
異世界では、長い挨拶はちゃんと止めてもらえます。
ジョッキを半分ほど空けたジェイクが、上機嫌で吾輩の鼻先にジョッキを下ろした。
「シロも一口どうだ? うちの功労者だろ」
琥珀色の麦酒の上で、白い泡がしゅわしゅわと鳴っている。
香ばしい麦の匂いが、ひげの先をくすぐる。
(うむ、悪くない匂いだ)
身を乗り出しかけて、吾輩は、ぴたりと止まった。
前世で読んだ、有名な古い小説を思い出したのだ。
人の言葉がわかる、名前のない猫の話である。
あの猫は最後に、客の飲み残したビールをなめて、すっかりいい気分になった。
そして、台所の水甕に落ちた。
しばらくもがいたあと、あきらめて「南無阿弥陀仏」と唱え、静かに沈んでいった。
死んで太平を得る、と言い残して。
好奇心は猫を殺す、という言葉もある。
吾輩はまだ、死んで太平を得るつもりはない。
「ニャッ、ニャッ(いいえ。謹んで辞退する)」
「ジェイク。猫にお酒は、だめよ」
メアリーが、にこにこしたまま、ジョッキをジェイクの前に押し戻した。
声はやさしいのに、逆らえない響きがある。
教会育ちの笑顔は、ときどき部長の決裁より強い。
幸い、この酒場に水甕は見当たらない。
それでも今夜は、酒樽のそばにだけは近づかないことにした。
*
料理を運んできたのは、無愛想な若い店員だった。
吾輩が勝手にトム(仮)と呼んでいる男だ。
トム(仮)は、吾輩の前に小さな木の皿を置いた。
塩も何もつけずに茹でた、鶏のむね肉。
細かく裂いてあり、まだほんのり温かい。
「味、ついてねえからな。猫にはそれでいいって、聞いた」
それだけ言って、トム(仮)は去っていった。
(ああ、そういえば)
どこかで猫に濃い味付けはだめだと聞いた記憶がある。
よく覚えていないが、腎臓を壊すのだったか、あとネギもだめだったような。
吾輩、干し肉など、何も考えずに食べていたのだが。
いつぞや路地裏で、舌打ちしながら残飯を投げてくれた男だ。
あれも案外、猫が食べられるものを選んでいたのかもしれない。
ジェイクも、トム(仮)を見習うべきである。
麦酒を猫に勧めるのは、論外だ。
吾輩以外の猫に干し肉をあげてはいけないと、文字表で言い聞かせておこう。
*
宴もたけなわのころ、エレナがテーブルにやってきた。
「皆さん、改めておめでとうございます。少しだけ、いいですか?」
エレナは椅子に腰を下ろすと、声を落とした。
「ハーゲン商会の倉庫の件、覚えていますか」
ジェイクが、ジョッキを傾けたまま答えた。
「ああ、ネズミの倉庫か。そういや、あれどうなったんだ?」
「報告は、ちゃんと上に出しました。でも、調べる前に、話そのものがなくなってしまって」
「なくなった?」
カティアが眉を寄せる。
「理由は?」
「何度か聞きました。でも、『もう済んだことだ』としか」
エレナは、膝の上で両手を握りしめた。
テーブルの空気が、すっと冷える。
「それから、倉庫番のオットーさん。『帳簿の不始末』で商会を辞めさせられて、街を出ていったそうです」
誰も、何も言わなかった。
吾輩の頭に、帳簿を胸に抱えて離さなかった、あの腰の低い男の顔が浮かんだ。
それから、試験の日に街道で見た、痩せた若い男の顔も。
(後始末は、いちばん下の担当者から。異世界でも、順番は同じらしい)
不祥事が起きると、まず現場の担当者が「一身上の都合」で辞めていく。
上の人間は、翌月も同じ席に、同じ顔をして座っている。
「ごめんなさい。せっかくのお祝いの席で」
エレナは、いつもの営業スマイルを作ろうとした。
だが、口の端が途中で止まっている。
「……エレナさんのせいじゃねえよ。話してくれて、ありがとな」
ジェイクが、ぼそりと言った。
エレナは、今度は営業用ではない顔で笑った。
その間、セリアは一度も口を開かなかった。
テーブルの下で、吾輩の背中をなでる手が、いつもより少しだけ強い。
倉庫で黒い鷹の紋章を見たときと、同じ手だった。
*
宿に戻ったのは、すっかり夜が更けてからだった。
セリアは、部屋に入るなり寝台に倒れ込んだ。
靴も脱がないまま、すぐに寝息が聞こえ始めた。
よほど疲れていたのだろう。
(靴ぐらい脱いでから寝たほうがいいと思うが)
吾輩が眠っているセリアの靴を脱がせようとした、そのときだった。
――コン、コン。
階下で、扉を叩く音がした。
二回きっちりと、礼儀正しいノック。
続いて階下で、かんぬきを外す音がした。
短いやりとりのあと、マルタが階段を上がってくる。
「……セリアさん。起きてください」
いつもより、ずっと低い声だった。
マルタが扉を開けたとたん、廊下から知らない匂いが流れ込んできた。
上等ななめし革と、インク。
それに、長い道のりを来た馬の汗の匂い。
(誰だ?)
宿の泊まり客の匂いなら、だいたい覚えている。
酒場帰りの冒険者でも、行商人でもない。
いい屋敷に仕える人間の匂いだ。
セリアは、しばらく扉のほうを見つめていた。
それから、吾輩の頭をひとなでして、黙って部屋を出ていった。
*
(なにか嫌な予感がする)
立ち聞きはよくないとわかっているが、吾輩は息をひそめて階下へと向かった。
猫の隠密性能は伊達じゃない。
むやみに鳴かなければ気づかれることはないだろう。
帳場の奥の、マルタの部屋の扉が、指一本ぶんだけ開いている。
吾輩は、廊下の暗がりに腹をつけて身を伏せた。
さっきの匂いが、扉の隙間から濃く漂ってくる。
(エレナが言っていた尋ね人。たぶん、こいつだ)
扉の向こうの声は低く、猫の耳でもはっきりとは聞き取れない。
吾輩はなんとか声を聞き取ることはできないかと考えをめぐらせる。
音を拾う、音を集める……。音というのは空気の振動だ。
風魔法で空気を動かせば、遠くの音も聞くことができるかもしれない。
吾輩は魔力を集中させ、お椀型の「パラボラ集音マイク」をイメージする。
耳の前の空気が、すっと扉のほうへ寄っていく。
(よし、拾える)
「――お嬢様」
扉の向こうから、落ち着いた男の声が聞こえてきた。
「旦那様は、もう待てないとおっしゃっています。期日は、すでに決まっております」
返事は、聞こえない。
「それに、フィーネ様が――」
がたん、と椅子が鳴った。
「フィーネが、どうしたの」
吾輩が一度も聞いたことのない、張りつめたセリアの声だった。
「……お嬢様がお戻りにならなければ……」
「お声を落としてください。二階には、お客様が」
マルタの声がさえぎり、三人の声はささやきに変わった。
集めた空気が、ざらざらと鳴るだけになる。
(ささやきまでは無理か。性能の限界だ)
期日。
フィーネ。
お嬢様がお戻りにならなければ。
フィーネは、城壁の上でセリアが話してくれた、十歳の妹の名前だ。
前世で見た刑事ドラマに、こんな場面があった。
黒幕の男が、用件に入る前に、相手の家族の話を始めるのだ。
お嬢さん、来年は受験でしたね、と。
脅しというものは、たいてい丁寧な言葉づかいでやってくるのである。
吾輩は、そっと階段を上った。
寝台に飛び乗って、丸くなって目を閉じる。
寝たふりなら得意だ。
前世で、退屈な会議のたびに鍛えてきた。
だが今夜は、朝までずっと、ふりのままになりそうだ。