冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
白状しよう。
夜明け前に、少しだけ寝た。
会議で鍛えた寝たふりが、ゆうべに限って本物になってしまったのである。
夢うつつに、優しく頭をなでる手があった気がする。
目を開けると部屋はもう明るくなっており、寝台の上にセリアの姿はなかった。
(早いな。顔でも洗いに行ったか)
吾輩はのんびりと伸びをして、その途中で止まった。
壁に立てかけてあった長剣がない。床に転がっていた荷袋もない。
吾輩は部屋の隅から隅まで見て回った。
寝台の下にも、扉の陰にも、セリアの姿はない。
敷布に鼻を寄せると、セリアの匂いはもう冷えていた。
机の上には、折りたたんだ紙が一枚。
『パーティを抜けます。探さないで。 セリア』
急いで書いたのか、最後の字が少しかすれている。
どうやら、本当に出ていってしまったらしい。
理由は、はっきりしない。
だが、心当たりはある。
ゆうべ宿に来た客は、セリアを「お嬢様」と呼び、「期日は、すでに決まっております」と言っていた。
妹のフィーネの名前も出ていた。
(あの客の話を聞いて、実家へ帰ったんだな)
城壁の上でセリアは、父親が勝手に決めた結婚相手から逃げてきたと話していた。
その家に、自分から戻ったのだ。
結婚を受け入れるつもりなのか、それとも別の事情があるのか。
フィーネに何があったのかも、吾輩にはわからない。
わかっているのは、吾輩が寝ているあいだに、セリアがひとりで決めてしまったということだけだ。
前世の職場にも、ある日、机に退職届だけを残して二度と来なかった同期がいた。
引き継ぎ資料は一枚もなく、そいつの仕事の後始末は、まるごと吾輩に回ってきたのである。
思い出したくもない。
「ニャア(セリア。ひと言の相談もなしでは、受理できないぞ)」
返事は、もちろんない。
ぐずぐずしてはいられない。とにかく、ジェイクたちに知らせなければ。
吾輩は机の書き置きをくわえて、扉へ向かいかけた。
そのとき、窓辺の文字表が目に入った。
板の横に、小さな紙がもう一枚置いてある。
『シロ、ありがとう』
吾輩が最初にこの板で伝えた言葉は、『ひろってくれて ありがとう』だった。
その返事が、差出人がいなくなってから届いたのである。
(宛名が吾輩だけ、か。……ジェイクたちが拗ねるぞ)
軽口の一つも叩かないと、前足が動きそうになかった。
『ありがとう』の紙は吾輩宛ての私信だから、ここに置いていく。
*
廊下に出ると、匂いは二つあった。
セリアのものと、上等ななめし革とインクの混じった、ゆうべの客のものだ。
二つは並んで階段を下り、玄関へ続いている。
帳場には、マルタがゆうべと同じ服のまま座っている。
目が赤い。
あれから、一睡もしていないのだろう。
「……シロ」
マルタは何か言いかけて口を閉じ、赤い目を伏せた。
「ごめんなさいね。わたしじゃ、あの子を引き止められなかった」
(引き止められなかった、か。セリアは、マルタにだけは話していったんだな)
玄関の外の土には、轍が二本と、蹄の跡が残っている。
セリアの匂いは、その轍の脇でぷつりと途切れている。
(歩いたのではない。ここで、馬車に乗ったのだ)
轍に鼻を近づけてみても、馬の匂いはもう薄かった。
出たのはだいぶ前で、猫の足で追いつける距離ではない。
紙をくわえたまま、朝の大通りを駆け抜ける。
荷車をよけ、水たまりを飛び越えた。
「おい、見ろよ。猫が手紙くわえて走ってるぞ」
「ニャア(配達中だ。道を空けてくれ)」
*
朝のギルドの酒場は、まだ客がまばらだ。
いつものテーブルに、三人がいた。
ジェイクは二日酔いらしく、こめかみを押さえてスープを前にうめいている。
「あら、シロちゃん。おはよう。セリアは?」
メアリーが首をかしげる。
吾輩はテーブルに飛び乗り、くわえてきた紙をスープの皿の横に落とした。
カティアが、紙を拾って広げる。
「『パーティを抜けます。探さないで』?」
誰も、何も言わなかった。
ジェイクの手から匙が落ちて、皿の縁でかちゃんと鳴った。
「何よ、これ。どういうこと?」
カティアが紙を裏返したが、裏は白紙。
「ねえシロ、セリアはどこ? 部屋にいないの?」
「ニャア(いたら、吾輩が手紙を運んでくるものか)」
ジェイクが紙を受け取り無言で見つめている。
二日酔いの顔が、少しずつ冒険者の顔に戻っていく。
「本人が決めたことだ。俺たちが口を出す筋合いは――」
そこで言葉を切ったまま、ジェイクは紙を持つ手に力をこめる。
「シロ。いくつか聞く」
ジェイクは吾輩の正面に椅子を引き、低いが落ち着いた声で言った。
質問を組み立てるときのジェイクは、頼りになるのだ。
「セリアは、ひとりで出ていったのか?」
「ニャッ、ニャッ(いいえ)」
カティアが、息をのんだ。
「誰かと一緒か」
「ニャッ(はい)」
「知っている奴か」
「ニャッ、ニャッ(いいえ)」
「歩きか」
「ニャッ、ニャッ(いいえ)」
「……馬車か」
「ニャッ(はい)」
(宿の前の轍まで、ちゃんと確かめてある)
ジェイクは天井をにらんで、長く息を吐いた。
「なら、今から門まで走っても無駄だな。馬車の足には追いつけねえ。闇雲に飛び出すのは、なしだ」
「でも――!」
立ち上がりかけたカティアの袖を、メアリーがそっと引いた。
カティアは唇をかんで、椅子に座り直す。
(悔しいが、ジェイクの判断は正しい)
メアリーが、いつもの微笑みを消して、吾輩の前にかがみ込んだ。
「シロちゃん。ほかにも、何か知っているの?」
吾輩は、固まった。
知っている。
セリアがどこへ帰ったのか、おおよその見当はついている。
家を出てきた事情も、ゆうべの客のことも。
だが、二人だけの秘密だと、城壁の上で約束したのだ。
「はい」と鳴けば、約束を破る入り口になる。
「いいえ」と鳴けば、仲間に嘘をつくことになる。
吾輩は、鳴けなかった。
ひげだけが、勝手に震えている。
メアリーはしばらく吾輩の目を見てから、静かに体を起こした。
「……そう」
それだけ言って、メアリーはそれ以上何も聞かなかった。
まるで、答えの半分をもう知っている人の顔だった。
「今は、いい」
ジェイクがぼそりと言って、書き置きを丁寧にたたみ、胸の内ポケットにしまう。
「シロ。言えるようになったら、言え。待つのは慣れてる」
前世の名前を聞かれて『いつか はなす』と答えた夜と、同じ言い方だった。
(ジェイクに待ってもらうのは、これで二度目だ。借りが、たまる一方だ)
吾輩たちの鳴き声の取り決めには、「はい」と「いいえ」しかない。
二択で足りると、ずっと思っていた。
前世のアンケートでも、「どちらとも言えない」に丸をつけたことは一度もない。
どうやら吾輩は、はいといいえの間に、答えを持ってしまったらしい。