冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~   作:播磨 由道

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第31話 はいといいえの間

白状しよう。

夜明け前に、少しだけ寝た。

 

会議で鍛えた寝たふりが、ゆうべに限って本物になってしまったのである。

夢うつつに、優しく頭をなでる手があった気がする。

目を開けると部屋はもう明るくなっており、寝台の上にセリアの姿はなかった。

 

(早いな。顔でも洗いに行ったか)

 

吾輩はのんびりと伸びをして、その途中で止まった。

壁に立てかけてあった長剣がない。床に転がっていた荷袋もない。

 

吾輩は部屋の隅から隅まで見て回った。

寝台の下にも、扉の陰にも、セリアの姿はない。

敷布に鼻を寄せると、セリアの匂いはもう冷えていた。

 

机の上には、折りたたんだ紙が一枚。

 

『パーティを抜けます。探さないで。 セリア』

 

急いで書いたのか、最後の字が少しかすれている。

どうやら、本当に出ていってしまったらしい。

 

理由は、はっきりしない。

だが、心当たりはある。

ゆうべ宿に来た客は、セリアを「お嬢様」と呼び、「期日は、すでに決まっております」と言っていた。

妹のフィーネの名前も出ていた。

 

(あの客の話を聞いて、実家へ帰ったんだな)

 

城壁の上でセリアは、父親が勝手に決めた結婚相手から逃げてきたと話していた。

その家に、自分から戻ったのだ。

結婚を受け入れるつもりなのか、それとも別の事情があるのか。

フィーネに何があったのかも、吾輩にはわからない。

わかっているのは、吾輩が寝ているあいだに、セリアがひとりで決めてしまったということだけだ。

 

前世の職場にも、ある日、机に退職届だけを残して二度と来なかった同期がいた。

引き継ぎ資料は一枚もなく、そいつの仕事の後始末は、まるごと吾輩に回ってきたのである。

思い出したくもない。

 

「ニャア(セリア。ひと言の相談もなしでは、受理できないぞ)」

 

返事は、もちろんない。

ぐずぐずしてはいられない。とにかく、ジェイクたちに知らせなければ。

 

吾輩は机の書き置きをくわえて、扉へ向かいかけた。

そのとき、窓辺の文字表が目に入った。

板の横に、小さな紙がもう一枚置いてある。

 

『シロ、ありがとう』

 

吾輩が最初にこの板で伝えた言葉は、『ひろってくれて ありがとう』だった。

その返事が、差出人がいなくなってから届いたのである。

 

(宛名が吾輩だけ、か。……ジェイクたちが拗ねるぞ)

 

軽口の一つも叩かないと、前足が動きそうになかった。

『ありがとう』の紙は吾輩宛ての私信だから、ここに置いていく。

 

   *

 

廊下に出ると、匂いは二つあった。

セリアのものと、上等ななめし革とインクの混じった、ゆうべの客のものだ。

二つは並んで階段を下り、玄関へ続いている。

 

帳場には、マルタがゆうべと同じ服のまま座っている。

目が赤い。

あれから、一睡もしていないのだろう。

 

「……シロ」

 

マルタは何か言いかけて口を閉じ、赤い目を伏せた。

 

「ごめんなさいね。わたしじゃ、あの子を引き止められなかった」

 

(引き止められなかった、か。セリアは、マルタにだけは話していったんだな)

 

玄関の外の土には、轍が二本と、蹄の跡が残っている。

セリアの匂いは、その轍の脇でぷつりと途切れている。

 

(歩いたのではない。ここで、馬車に乗ったのだ)

 

轍に鼻を近づけてみても、馬の匂いはもう薄かった。

出たのはだいぶ前で、猫の足で追いつける距離ではない。

 

紙をくわえたまま、朝の大通りを駆け抜ける。

荷車をよけ、水たまりを飛び越えた。

 

「おい、見ろよ。猫が手紙くわえて走ってるぞ」

 

「ニャア(配達中だ。道を空けてくれ)」

 

   *

 

朝のギルドの酒場は、まだ客がまばらだ。

 

いつものテーブルに、三人がいた。

ジェイクは二日酔いらしく、こめかみを押さえてスープを前にうめいている。

 

「あら、シロちゃん。おはよう。セリアは?」

 

メアリーが首をかしげる。

吾輩はテーブルに飛び乗り、くわえてきた紙をスープの皿の横に落とした。

 

カティアが、紙を拾って広げる。

 

「『パーティを抜けます。探さないで』?」

 

誰も、何も言わなかった。

ジェイクの手から匙が落ちて、皿の縁でかちゃんと鳴った。

 

「何よ、これ。どういうこと?」

 

カティアが紙を裏返したが、裏は白紙。

 

「ねえシロ、セリアはどこ? 部屋にいないの?」

 

「ニャア(いたら、吾輩が手紙を運んでくるものか)」

 

ジェイクが紙を受け取り無言で見つめている。

二日酔いの顔が、少しずつ冒険者の顔に戻っていく。

 

「本人が決めたことだ。俺たちが口を出す筋合いは――」

 

そこで言葉を切ったまま、ジェイクは紙を持つ手に力をこめる。

 

「シロ。いくつか聞く」

 

ジェイクは吾輩の正面に椅子を引き、低いが落ち着いた声で言った。

質問を組み立てるときのジェイクは、頼りになるのだ。

 

「セリアは、ひとりで出ていったのか?」

「ニャッ、ニャッ(いいえ)」

 

カティアが、息をのんだ。

 

「誰かと一緒か」

「ニャッ(はい)」

「知っている奴か」

「ニャッ、ニャッ(いいえ)」

「歩きか」

「ニャッ、ニャッ(いいえ)」

「……馬車か」

「ニャッ(はい)」

 

(宿の前の轍まで、ちゃんと確かめてある)

 

ジェイクは天井をにらんで、長く息を吐いた。

 

「なら、今から門まで走っても無駄だな。馬車の足には追いつけねえ。闇雲に飛び出すのは、なしだ」

 

「でも――!」

 

立ち上がりかけたカティアの袖を、メアリーがそっと引いた。

カティアは唇をかんで、椅子に座り直す。

 

(悔しいが、ジェイクの判断は正しい)

 

メアリーが、いつもの微笑みを消して、吾輩の前にかがみ込んだ。

 

「シロちゃん。ほかにも、何か知っているの?」

 

吾輩は、固まった。

 

知っている。

セリアがどこへ帰ったのか、おおよその見当はついている。

家を出てきた事情も、ゆうべの客のことも。

 

だが、二人だけの秘密だと、城壁の上で約束したのだ。

 

「はい」と鳴けば、約束を破る入り口になる。

「いいえ」と鳴けば、仲間に嘘をつくことになる。

 

吾輩は、鳴けなかった。

ひげだけが、勝手に震えている。

 

メアリーはしばらく吾輩の目を見てから、静かに体を起こした。

 

「……そう」

 

それだけ言って、メアリーはそれ以上何も聞かなかった。

まるで、答えの半分をもう知っている人の顔だった。

 

「今は、いい」

 

ジェイクがぼそりと言って、書き置きを丁寧にたたみ、胸の内ポケットにしまう。

 

「シロ。言えるようになったら、言え。待つのは慣れてる」

 

前世の名前を聞かれて『いつか はなす』と答えた夜と、同じ言い方だった。

 

(ジェイクに待ってもらうのは、これで二度目だ。借りが、たまる一方だ)

 

吾輩たちの鳴き声の取り決めには、「はい」と「いいえ」しかない。

二択で足りると、ずっと思っていた。

前世のアンケートでも、「どちらとも言えない」に丸をつけたことは一度もない。

 

どうやら吾輩は、はいといいえの間に、答えを持ってしまったらしい。

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