冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
マルタの部屋は、帳場の奥の小さな部屋だ。
ゆうべ、吾輩が扉の隙間から中をうかがった部屋である。
小さな卓と椅子が二脚に、古い衣装箪笥が一つ。
部屋の中は、きちんと片づいている。帳面は角までそろえて重ねられ、寝台の毛布にはしわ一つない。
マルタらしい、几帳面な部屋だ。
椅子の足りない分は、ジェイクが帳場から丸椅子を運んできた。
吾輩は、窓辺の棚の上に陣取る。
全員の顔が見える、議事録係の席だ。
マルタは椅子に浅く腰かけると、膝の上で両手を重ねた。
前掛けは外して、卓の端にたたんで置いてある。
「まず、お詫びをさせてください。上のお部屋でのお話、扉の外で聞こえてしまいました」
カティアが、気まずそうに目をそらした。
吾輩は、耳の先だけ動かす。
(立ち聞きなら、吾輩もゆうべやった。お互い様だ)
「わたしは、この宿の女将になる前、あるお屋敷で侍女をしておりました」
やはり、そうだったか。
裏庭で髪を乾かしていたセリアに、マルタが「お嬢様!」と言いかけた日があった。
休日の朝、「夕方には戻ってくださいね」と送り出したときの顔も、女将の顔というより、娘を見送る母親の顔だった。
ただの宿の主人と泊まり客ではないと、吾輩は薄々感じていたのだ。
マルタの声は、いつもの「〜ですよ」とはまるで違う。
一語一語が、折り目正しく並んでいる。
(なるほど。角までそろった帳面も、しわ一つない毛布も、お屋敷仕込みか)
「リーヴェルト家というお屋敷です。わたしがお仕えしていたのは、そこの上のお嬢様。アルセリア・フォン・リーヴェルト様。……皆さんが、セリアと呼んでいる方です」
部屋の中が、しんと静まった。
「アルセリア……」
メアリーが、小さく繰り返した。
驚いた顔ではなかった。答え合わせをする人の顔だ。
「やっぱり、そうだったのね。お茶の手つきだけは、どうしても隠せていなかったもの」
「リーヴェルト家って……あの、領民思いで知られてる、古いお家の?」
カティアが、目を丸くした。
「ニャア(さすがだ。カティアの頭の中の貴族名鑑は、なかなか分厚い)」
「お嬢様は、小さいころからじっとしていられない方でした。濡れた髪のまま庭に飛び出しては、わたしに叱られて。髪を乾かすのは、ずっとわたしの役目でございました」
吾輩の耳が、ぴくりと立った。
――昔ね、こうやって髪を乾かしてくれる人がいたの。
宿の裏庭で、吾輩の風に髪を揺らしながら、セリアがそう言っていた。
てっきり母親の話だと思っていたが、マルタのことだったらしい。
(なるほど。吾輩の髪乾かし係は、二代目だったわけか)
「わたしは何年か前にお暇をいただいて、この街で宿を始めました。お嬢様がお一人でここへいらしたのは、雨の夜でした。剣を一本と、わずかなお金だけ持って」
マルタは、そこで少し言葉を詰まらせた。
膝の上で重ねた手に、ぎゅっと力がこもる。
「お嬢様に頼まれて、お屋敷にはお知らせしませんでした。いえ、頼まれたからだけではございません。お父上よりお年を召した方に嫁がされるなんて、わたしは、どうしても得心がいかなかったのです」
(侍女の口の堅さだけではない。育てた子をかばう人の言葉だ)
「皆さんにも言わないと、お約束しておりました。お仲間を巻き込みたくないから、宿も別にしたいとおっしゃって……。ですが、もう黙っていられません」
拾われて間もないころ、同じパーティなのになぜ宿が別なのか、吾輩は首をかしげたことがある。
あのときは、懐事情か年頃のプライバシーだろうと、勝手に片づけてしまった。
*
「ゆうべの男は、何者なんだ」
ジェイクが、低い声で聞いた。
「リーヴェルト家の家令、ハインツと申します。旦那様の、いちばん古い家来です」
「ギルドで、金髪の女剣士を尋ねて回っていたってのは」
「ハインツでしょう。わたしがこの街で宿をしていることは、お屋敷の者なら知っております。ですが、わたしに尋ねれば、お嬢様を隠すと思ったのでしょう。まずはギルドで、お嬢様がこの街にいるかどうかを確かめようとしたようです」
ギルドは、何も教えなかった。
それで、ハインツは昔の同僚に手紙を書いたのだ。
マルタは卓の上から、白くて厚い封筒を取り上げた。
宿に戻った日に、吾輩の目の前で隠した封筒だ。
裏には、割れた封蝋が残っている。
「ハインツからの手紙です。この街に来ている、近いうちにお嬢様に会いに伺う、と。リーヴェルト家の封蝋が押してあります。あの日は、とっさに隠してしまいました。お嬢様がいつお戻りになるかわからないのに、帳場で広げていたものですから……。この紋章をひと目見れば、お嬢様には、家に居場所を知られたとわかってしまいます」
(吾輩から隠したのではない。吾輩のあとから帰ってくるかもしれない、セリアから隠したのだ)
そのとき、吾輩の鼻がひくりと動いた。
封筒の紙と、インクの匂い。
それに混じって、蝋の匂いがする。
封筒の割れた蝋ではない。これは、まだ一度も割られていない蝋の匂いだった。
匂いのもとは、卓の端にたたんで置かれた前掛けだ。
ポケットの口から、小さな紙片の角がのぞいている。
吾輩は棚から卓へ飛び移り、前足で紙片の角を引っかけた。
「おい、シロ。勝手にいじるな」
「ニャア(いじってない。証拠物件の確認だ)」
引き出したのは、小さく折りたたまれた厚手の書状だった。
封をしているのは、黒い蝋。
その上に押された紋章を見て、吾輩のひげがぴんと張った。
翼を広げた、黒い鷹。
「それ……」
カティアの声が、かすれた。
「これ、ドルナー子爵家の紋章よ。倉庫の荷車の木札と、同じ……」
マルタは、吾輩をじっと見た。
それから、静かに目を伏せた。
「……はい。ドルナー子爵家の封蝋でございます。お嬢様の、縁談のお相手のお家です」
マルタは、書状から目を離さずに続けた。
「ゆうべ、ハインツが置いていったものです。ドルナー子爵様から、お嬢様に宛てた書状だそうで……。見つけしだいお渡しするよう、お屋敷を出るときに預かってきたと申しておりました」
マルタの指が、黒い蝋の縁をなぞる。
「お嬢様は、『読まなくても、書いてあることはわかるわ』とおっしゃって、手に取ろうともなさいませんでした。主人宛ての封を、侍女が切るわけにはまいりません。それで、わたしがお預かりしたまま……。正直に申しますと、あとでお渡しする気にも、なれませんでした」
(渡せないまま、前掛けのポケットにしまい込んでいた手紙か)
誰も、口をきかなかった。
倉庫の荷車で黒い鷹の木札を見た日、吾輩の隣で、セリアの体がこわばった。
腰の長剣の柄を、強く握りしめていた。
あの紋章がどこの家のものか、セリアはたぶん知らなかった。
家の名前は覚えていても、紋章までは覚えていない。セリアなら、ありそうな話だ。
そこへカティアの口から、逃げてきた縁談の相手の家の名前を、思いがけず聞いてしまったのだ。
昇格試験の日に、街道の荷車の木札を黙って見つめていたのも。
祝勝会でオットーの話を聞きながら、吾輩の背中を強くなでていたのも。
理由は、同じだった。
前世で一度、似たような寒気を味わったことがある。
ただの下請けだと思っていた取引先の封筒に、ある日、競合の親会社のロゴが刷ってあったのだ。
それまでの商談が、全部、別の意味に見えた。
「……わたし、あのとき、セリアの隣で言っちゃったのよね。『あれ、ドルナー子爵家の紋章よ』って」
カティアが、膝の上で拳を握ったままつぶやいた。
「あれから、セリアが時々ぼんやりしてたのは……そういうことか」
ジェイクが、絞り出すように言った。
メアリーは何も言わず、胸の前で手を組んでいる。
あの家は、倉庫の小麦を横流しして、オットー一人に罪をかぶせた家でもある。
だが今、そのことを口にする者はいない。
誰の頭にも浮かんでいるのは、あの日のセリアの顔だけだ。
マルタは、黒い封蝋の書状を両手で包むように持ち上げた。
「お嬢様との約束を、わたしは今、破っております。それでも、皆さんにお願いしなければなりません」
マルタは椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
「どうか、皆さんの手で、お嬢様を助けてさしあげてください。わたし一人では、もう、どうにもならないのです」
侍女の仕事は、お嬢様の秘密を守ること。
宿の女将の仕事は、泊まり客を守ること。
今朝のマルタは、後のほうを選んだのだ。
本日、約束を破った者は、これで二人目である。
「頭を上げてくれ。頼まれなくても、そのつもりだ」
ジェイクの言葉に、カティアが大きくうなずく。メアリーも、静かにほほえんだ。
「ただ、助けるにしても、相手のことを何も知らねえんじゃ話にならねえ」
ジェイクの目が、マルタの手の中の書状に向いた。
吾輩は卓の上で、書状の端にそっと前足を乗せる。
「ニャア(まずは、先方の書類を読むところからだ)」
マルタは書状を見つめたまま、しばらく黙っていた。
それから、意を決したように、黒い蝋に指をかけた。
ぱきり、と乾いた音が、静かな部屋に響いた。