冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
割れた黒い蝋のかけらが、卓の上に散らばった。
マルタが震える指で書状を開き、卓の真ん中に広げる。
ジェイクとカティアとメアリーが、いっせいに身を乗り出した。
吾輩も卓の端に前足をかけて、三人の頭のすき間からのぞき込む。
『アルセリア嬢へ
婚礼は二度目の満月の日、リーヴェルト家の屋敷にて執り行う。
貴家の借財の証文は、婚礼の席にて、余みずから破り捨ててやろう。
ただし、貴嬢がこのまま身を隠し続けるならば、
代わりに妹のフィーネ嬢を、当家にもらい受ける。
妹君にも、よろしく。
ゲルハルト・フォン・ドルナー』
「……もらい受けるって、何よそれ。フィーネちゃんって、セリアの妹でしょ。まだ十歳の子なのよ?」
カティアの声は、怒りで震えている。吾輩も、まったく同じ気持ちだ。
それに、最後の一行も気に入らない。
脅しを並べたあとに「よろしく」とは、いったいどういう神経をしているのか。
「同じことを、お嬢様はゆうべ、ハインツの口から聞いておられました」
マルタが、書状から目を離さずに言った。
「お嬢様が戻らなければ、フィーネ様が代わりに連れていかれる、と」
部屋の中が、しんと静まった。
「お嬢様は、長いあいだ黙っておられました。それから、こうおっしゃったのです。『わたしが行けば、フィーネはまだ子どもでいられる』と。……わたしには、お止めすることができませんでした」
マルタの声は、最後のほうでかすれていた。
自分を差し出してでも守りたいほど、セリアにとってフィーネは大事な妹なのだ。
ドルナーは、そのいちばん弱いところを、正確に突いてきたのである。
*
「この『借財の証文』ってのは、何なんだ」
ジェイクが、書状の一行を指でなぞった。
「三年前、リーヴェルト領はひどい不作でした。旦那様は領民を飢えさせまいと、麦を買い入れるお金を借りられたのです。貸してくれたのは、ドルナー様のお口添えで紹介された商人でした」
マルタは、膝の上で両手を握りしめた。
「ところが、証文の利息が、知らないうちにどんどん膨らんでいったのです。気づいたときには、領地を売っても返せない額になっておりました。そこへドルナー様が、お嬢様を嫁にくれるなら、借金をすべて帳消しにしてやろう、と」
「領民のために借りた金のかたに、娘をよこせってのか」
ジェイクの声が、低く荒れた。
マルタは、黙ってうなずいた。
(話ができすぎている。最初から、それが狙いだったんじゃないのか?)
「それだけではございません」
マルタは、少しためらってから続けた。
「ドルナー様は、齢五十を過ぎた方です。そして昔から、よくない噂のある方でございます。お屋敷に奉公に上がった若い娘が、一年ともたずに暇を取ってしまう。それも、一人や二人ではないそうです。理由は、誰も口にいたしません」
マルタはそれ以上言わなかったが、何があったのかは部屋の全員に伝わった。
そんな男が、十歳の子を「もらい受ける」と書いてよこしたのだ。
「最低ね……! そんなやつ、わたしが燃やしてやるわよ」
カティアの指先で、ちりっと火の粉が散る。
「ニャア(気持ちはわかる。だが、ここはマルタの部屋だぞ?)」
メアリーが黙ってカティアの手を包み、火の粉を消した。
いつもなら「あらあら」と笑うメアリーも、今日は少しも笑っていなかった。
*
「二度目の満月ってのは、いつだ」
「ハインツの話では、今日から数えて二十日ほどだそうです」
「リーヴェルト領までは」
「このヴァルデンからですと、馬車で四、五日ほどでございます」
ジェイクは指を折って数え、短く息を吐いた。
吾輩は、もう一度書状を読み直していた。
婚礼の席で破り捨てる、ということは、証文の本物は婚礼の日までドルナーが持っている。
(というか、婚礼が済んだら、本当に破るのか?)
証文を持っているかぎり、リーヴェルト家はずっとドルナーの言いなりだ。
それに、セリアが嫁げばフィーネに手を出さない、とは一言も書いていない。
(これは、皆に伝えておかないと)
吾輩は卓から飛び下りて、廊下へ駆け出した。
「おい、シロ!」
階段を駆け上がり、セリアの部屋に飛び込む。
寝台の脇に掛けてあった携帯文字表のポーチを、ひもごとくわえて引きずり出し、そのまま階段を駆け下りた。
マルタの部屋に戻ると、カティアがポーチから文字表を出してくれた。
吾輩は、裏の小さな文字を、爪の先で一つずつ指していく。
『どるなー たぶん やくそく まもらない』
マルタが、目を丸くした。
「……シロ?」
(しまった。マルタがいるのを、すっかり忘れていた)
マルタは、まじまじと吾輩を見つめている。
「お嬢様の言うことをよく聞く、ずいぶん利口な猫だとは思っておりましたが……まさか、文字がわかるのですか?」
ジェイクが頭をかいて、マルタに向き直った。
「こいつは、うちの斥候なんだ。言葉もわかるし、字も読める。知ってるのは、ギルドでもほんの何人かだけだ。黙っててもらえると助かる」
マルタは、背筋をすっと伸ばした。
「承知いたしました。決して、他言はいたしません」
ジェイクが、文字表の上の言葉を読み上げた。
「ドルナーは、たぶん約束を守らない、か。セリアが嫁いでも証文は破らねえし、フィーネのことも諦めねえ、ってことか?」
「ニャッ(はい)」
カティアが、息をのんだ。
(こういう連中は、どこまでも身勝手で、恥というものを知らない。約束など、守らないと思っておいたほうがいい)
「じゃあ、セリアは何のために戻ったのよ……」
カティアが、拳を握りしめた。
「だったら、迎えに行くしかないわよ。リーヴェルト家まで行って、セリアを連れて帰るの。四、五日で着くんでしょ?」
ジェイクは腕を組み、天井をにらんで、ひとつずつ言葉を並べていく。
「行って、どうする。リーヴェルト家は、セリアの実家だ。親父さんだって、借金でドルナーに首根っこを押さえられてる。よその冒険者が娘を返せと押しかけたって、門の中にも入れてもらえねえよ」
「セリアを力ずくで連れ出したら、俺たちはただの人さらいだ。捕まったら、言い訳は通らねえ」
「仮にうまく逃げられても、今度はフィーネが連れていかれる」
カティアが、唇をかむ。
ジェイクの言っていることは、どれも正しかった。
「セリアちゃんを説得しても、同じことね」
メアリーが、静かに言った。
「セリアちゃんが戻らなくても、戻っても、ドルナー様が証文を握っている限り、何も終わらないわ」
誰も、何も言えなくなった。
平民が三人と、猫が一匹。
貴族を相手に、できることなど何もない。
それでも、ドルナーそのものをどうにかしなければ、セリアは救えないのだ。
(では、どうする)
吾輩はふと、前世でよく見ていた時代劇を思い出した。
ご老公とお供たちが、世直しの旅をする話だ。
最後は決まって、悪代官の屋敷でひと暴れしたあと、お供が印籠を突きつける。
「この紋所が目に入らぬか!」
その一言で、悪代官も手下も、そろって地面にひれ伏す。
今にして思えば、ずいぶん身も蓋もない話だった。
権力を笠に着て好き放題している悪党を、もっと大きな権力で叩き潰す。
要するに、そういう話だ。
だが、今の吾輩たちに必要なのは、まさにそれだ。
悲しいかな、世の中、最後にものを言うのは権力なのである。