冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
鬱蒼と生い茂る木々の隙間から、淀んだ空気が漂ってくる。
昨夜の雨で湿った土の匂いに混じって、獣の体臭と腐敗臭を煮詰めたような酷い悪臭が吾輩の鼻腔を突いた。
茂みの向こう、開けた獣道のような場所に、三匹の醜悪な小鬼が姿を現した。
ゴブリンたちは、その場で足を止めてたむろし始める。
背丈は人間の子供程度だが、手足は異様に長く、その先端には鋭い爪が生えている。
緑褐色の肌は脂ぎっており、薄汚れたボロ布を腰に巻いただけの姿だ。
手には、赤黒い染みがこびりついた錆びた鉈や、無骨な木の棍棒を握りしめていた。
「グギャギャ」「ギギッ」と耳障りな奇声を発しながら、何かの肉片のようなものを巡って小競り合いをしている。
これが、この世界におけるゴブリン。
前世の知識通りの、典型的な下級魔物の姿だった。
幸い、奴らはまだ、風下に身を潜めている我々の存在に気づいていない。
草むらに身を隠しながら、吾輩は隣で剣の柄に手をかけるジェイクの様子をチラリと窺った。
(まさかこの状況で、大声で叫びながら単独で突っ込んでいくような脳筋プレイをキメたりはしないだろうな……?)
血の気の多いジェイクのことだ。
初陣の興奮で、周りが見えなくなるのではないか。
手柄を焦って「うおおお!」と真正面から突撃するのではないか。
吾輩は気が気ではなかった。
前世のオンラインゲームでもそうだった。
初見の敵に連携もクソもなく突っ込んでいく前衛職は、大抵パーティを全滅の危機に陥れるトラブルメーカーと相場が決まっているのだ。
しかし、吾輩の危惧に反して、ジェイクは静かに息を殺していた。
音を立てぬよう、ゆっくりと大剣を抜き放つ。
そして後ろに控えるセリアたちへ、無言でハンドサインのようなものを送った。
すると、カティアとセリアが音もなく頷き、腰のポーチから何かを取り出した。
二人が構えたのは、スリングショット。いわゆるパチンコである。
Y字型の木の枝に、丈夫そうな動物の革とゴム状の魔物素材を張った武器だ。
(ほう……!)
吾輩は思わず感嘆の声を漏らしそうになった。
森の中ではカティアの火魔法は延焼の危険があるため、完全に封印されてしまう。
だから吾輩は、彼女をただの口の悪い足手まといだと思っていた。
ところが、魔法が使えない場合の遠距離攻撃手段を、しっかりと用意していたのである。
よく見れば、スリングショットにセットされているのは、ただの石ころではない。
表面を滑らかに削った、鉛玉のような弾だ。
あれなら直撃すれば、人間の頭蓋骨でも容易く陥没させられるだろう。
(すまんカティア。お前のこと、ただのポンコツだと思ってた)
吾輩が心の中で密かに土下座をしている間にも、カティアとセリアは手慣れた様子で狙いを定めていた。
ゴムをギリギリと、限界まで引き絞っていく。
標的は、三匹のうち外側にいる二匹のゴブリン。
「……ッ!」
カティアの短い呼気とともに、二つのスリングショットから同時に鉛玉が放たれた。
風を切る鋭い音すら置き去りにするほどの初速。
直後、「ドグッ!」という鈍い音が二つ重なって森に響いた。
「グ、ベ……ッ!?」
「ガ、ァ……」
見事なヘッドショットだった。
二匹のゴブリンは、こめかみと眉間をそれぞれ正確に撃ち抜かれた。
断末魔の悲鳴を上げる暇すらなく、白目を剥いて地面にバタリと倒れ伏す。
即死である。
(……お見事)
吾輩は心の中で、惜しみない拍手を送った。
肉球では音が鳴らないのが残念なくらいの腕前である。
魔法が使えなくとも、この確かな腕前。
さすがは、厳しい適性検査(ただの雑用期間だが)を乗り越えた連中だ。
正式にEランクの認可を受けただけのことはある。
「グギャ!? ギィィッ!?」
突然仲間が二匹同時に吹き飛んだことに驚き、残された一匹のゴブリンがパニックに陥って辺りを見回す。
しかし、その時にはすでに勝敗は決していた。
二人が放った弾丸の着弾と同時――いや、弾が発射された瞬間に、ジェイクは猛然と茂みを飛び出していたのだ。
「遅えよ、クソ小鬼!」
ゴブリンがこちらを振り向くより早く、ジェイクの大剣が閃く。
鋭い一撃が、その醜い首をあっさりと胴体から切り離していた。
ドサリ、と力なく崩れ落ちる三つ目の死体。
鮮やかな奇襲。
一切の無駄がない、完璧な連携による三匹の瞬殺劇であった。
「ふう、やったわね。私の射撃の腕、見たでしょ!」
「うん! カティアもジェイクもばっちりだったよ!」
茂みから立ち上がり、ハイタッチを交わすセリアとカティア。
メアリーも安堵の息をついて微笑んでいる。
これならいける。
この世界のゴブリンがどれほどの脅威か、測りかねていた。
だが、この連携と実力があれば、多少数がいても安定して狩れるはずだ。
吾輩の三食昼寝付きの安泰な生活は守られた。
そう確信し、緊張を解こうとした――まさにその時だった。
ズン……。
ズズン……。
森のさらに奥深くから、重々しい足音と、空気を震わせるような異様なプレッシャーが押し寄せてきた。
楽しげに笑い合っていたセリアたちの表情が、一瞬にして凍りつく。
先ほどの三匹が発していた生臭い匂いなど比較にならない、むせ返るような強烈な血の匂いと獣臭。
(しまった……!)
目の前の三匹の悪臭が強烈すぎて、奥に潜む気配を嗅ぎ分けられなかったのだ。
自慢の鼻が、完全に仇となった。
茂みを掻き分け、太い樹木をへし折りながら、それは姿を現した。
先ほどのゴブリンとは、到底比べ物にならない巨体の魔物だった。
見上げるほどの背丈。
丸太のように太く発達した腕には、人間の頭など軽く粉砕できそうな巨大な鉄棍棒が握られている。
全身には無数の傷跡が刻まれ、その奥から爛々と輝く凶悪な双眸が、値踏みするように我々を見下ろしていた。
「ホ、ホブゴブリン……!」
カティアが引きつった声を漏らす。
ゴブリンの上位個体。
前世の知識にある名前とも、見事に一致する化け物だ。
そして絶望的なことに、その巨体の背後からは、ワラワラと湧き出すように無数のゴブリンたちが姿を現したのだ。
十匹、二十匹……いや、三十匹は下らない。
先ほど瞬殺した三匹は、ただの群れからはぐれた末端に過ぎなかったのだ。
「ウソでしょ……。目撃情報では、数匹の群れだって……!」
カティアが顔面を蒼白にして後ずさる。
ジェイクも大剣を構えたまま、その額から滝のような冷や汗を流していた。
「バカ野郎、こんな数、まともにやり合えるわけねえだろ……! 全員、走れ! 撤退だ!!」
ジェイクの切迫した叫び声とともに、我々は踵を返し、来た道を全力で駆け出した。
この数を相手にするのは絶対に無理だ。
勇み足で突っ込まず、即座に撤退の判断を下したジェイクの危機管理能力は高く評価したい。
彼らは決して己の力を過信していなかった。
だが、事態は最悪の方向へと転がり続ける。
「グギャッ!!」
撤退を開始して数分後。
息を切らして森の中を逃げる我々の前方に、一匹のゴブリンが立ち塞がった。
群れから離れ、周囲の様子を探りに来ていた斥候のゴブリンだ。
鉢合わせになった瞬間、その斥候は腰に下げていた獣の角のような笛を吹き鳴らした。
プァアアアアアアンッ!!
耳をつんざくような不快な高音が、静かな森に響き渡る。
「チィィッ!」と舌打ちをしたジェイクがすれ違いざまにその斥候を斬り伏せたが、時すでに遅し。
背後からは、数十匹の足音が猛烈な勢いで追いかけてくる。
獲物の位置を正確に捕捉し、歓喜の奇声を上げながら。
命懸けの鬼ごっこの始まりである。