冒険者になった猫 ~話せないけど、言葉はわかります~ 作:播磨 由道
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
「走って! 止まらないで!」
木々の根を飛び越え、鬱蒼とした茂みを掻き分けながら、必死の逃走劇が続く。
だが、ただでさえ起伏の激しい森の中だ。
体力に乏しい後衛職、特にゆったりとした丈の長い白ローブを着たメアリーの足取りが、目に見えて遅れ始めていた。
「あっ……!」
メアリーの足が、地表に露出していた木の根に深く引っかかった。
バランスを崩した彼女は、短い悲鳴を上げて派手に転倒してしまう。
「メアリー!」
前を走っていたセリアが血相を変えて立ち止まり、慌ててメアリーの元へと駆け寄る。
メアリーを引き起こそうとするセリアだが、足首を捻ったのか、メアリーは顔を歪めて立ち上がることができない。
「ダメ、セリアちゃんは逃げて……!」
「そんなことできるわけないでしょ!」
そうこうしている間に、周囲の茂みが次々と揺れ、耳障りな笑い声が我々を包み込んだ。
先回りしていた数匹のゴブリンたちが、よだれを垂らしながらセリアとメアリーの周囲を完全に包囲したのだ。
さらに、重い足音が響いた。
木々を薙ぎ倒しながら悠然と姿を現したのは、群れのリーダーであるあの巨大なホブゴブリンだ。
その凶悪な顔には、逃げ場を失った獲物をいたぶるような、醜悪で嗜虐的な笑みが浮かんでいた。
絶体絶命。
少し離れた場所で、ジェイクとカティアが叫び声を上げている。
だが彼らもまた別のゴブリンたちに行く手を阻まれ、こちらへ助けに来られない。
ホブゴブリンが巨大な鉄棍棒を軽々と持ち上げ、セリアとメアリーを見下ろした。
あれが振り下ろされれば、二人の華奢な体などひとたまりもなく、ひき肉に変わってしまう。
(クソッ……!)
吾輩の脳裏に、最悪の結末がフラッシュバックする。
逃げるか? 猫のすばしっこさがあれば、吾輩一匹だけならこの包囲網を抜けて生き延びることができるかもしれない。
だが、それではダメなのだ。
こんな薄汚れた野良猫を拾い、綺麗に洗い、毎日ふかふかのベッドで寝かせてくれた少女。
このお人好しでポンコツな少女に、吾輩は間違いなく情が移ってしまっていたのだ。
「ニャアッ!!」
吾輩は毛を逆立て、けたたましい威嚇の声を上げた。
そして弾かれたように、ホブゴブリンとセリアたちの間に飛び出していた。
「シロ!? ダメ、逃げて!!」
セリアの悲痛な叫び声が響く。
ホブゴブリンは、足元に飛び出してきた小さな白い毛玉を見て、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
そして、獲物を守ろうとする健気なペットを虫けらでも潰すかのように、巨大な棍棒を無造作に振り下ろしてきた。
空気を切り裂く轟音。
直撃すれば、吾輩の小さな身体など木っ端微塵に弾け飛ぶだろう。
命の危険を覚悟し、思わず身を竦めた――。
……その瞬間。
吾輩の視界が、信じられないほどスローモーションになった。
(なんだ、これ……?)
迫りくる丸太のような棍棒の軌道が、手に取るようにわかる。
振り下ろされる瞬間の筋肉の収縮。風の動き。
棍棒の表面にこびりついた、錆や血の跡まで。
すべてが恐ろしいほどの解像度で、吾輩の脳内にインプットされていく。
これが、前世の人間だった頃には決して持ち得なかった、猫という生物が持つ『極限の動体視力』と『反射神経』のなせる業なのか。
体が、勝手に動いた。
棍棒が頭に触れるほんの数ミリ手前。
吾輩の四肢の筋肉が、バネのように弾けた。
空中で体を捻り、見えない階段を駆け上がるように、棍棒の軌道からスルリと抜け出したのだ。
「ゴガァッ!?」
ドォン! という轟音とともに棍棒が地面を砕き、土煙が舞い上がる。
ホブゴブリンは、確実に潰したはずの小さな白い毛玉が、自分の腕の上に着地しているのを見て驚愕に目を見開いた。
「ニャーン(当たったら死ぬかもしれないが、当たらなければどうということはないのである)」
吾輩は前世で愛した有名アニメの金言を心の中で呟き、ホブゴブリンの顔面に向かって跳躍した。
その醜い鼻っ柱に、鋭い爪で強烈なひっかき傷をお見舞いしてやる。
「ギャアアアアアアアアッ!?」
予想外の痛撃に、ホブゴブリンが顔を押さえて狂乱する。
周囲を囲んでいたゴブリンたちも、自分たちのボスが小さな猫に翻弄されているのを見て動揺し、動きを止めた。
吾輩が敵のヘイトを一点に集め、完全なる『回避盾』として機能している。
その隙を、このパーティの仲間たちが見逃すはずがなかった。
「今だ! シロが引きつけてる間に叩くぞ!!」
ゴブリンたちの囲みを強引に突破してきたジェイクが、仲間たちに向かって鋭く叫ぶ。
その合図に、セリアとカティアが弾かれたように顔を上げた。
「うおおおおおおおおっ!!」
ジェイクはその勢いのまま、渾身の力を込めた大剣で、ホブゴブリンの太いアキレス腱を背後から深く斬り裂いた。
「グォオオオッ!?」
体勢を崩し、膝をつくホブゴブリン。
そこへ、メアリーを木の陰に座らせたセリアが加わる。
スリングショットで牽制の鉛玉を放ち、周囲のゴブリンを近づけさせない。
「退いてジェイク!!」
そして最後方では、カティアが杖を構えて限界まで魔力を練り上げていた。
周囲の空気が急速に熱を帯び、彼女の杖の先端に、ソフトボール大の超高熱の火球が圧縮されていく。
「森の中で火魔法は禁止だけど……こいつを焼き殺して、周りに燃え移る前に私たちが気合で消せばセーフよね!!」
どんな理屈だ、とツッコミを入れたかったが、状況が状況である。
ギルドの規約よりも命が大事だ。
「消し飛べえええっ!!」
カティアの杖から放たれた灼熱の火球が、身動きの取れないホブゴブリンの顔面にクリーンヒットした。
鼓膜を破るような爆発音と、目も開けていられないほどの閃光。
「ギギャァアアアアアアア……ッ!」
ホブゴブリンは断末魔の叫びを上げながら、全身を炎に包まれて巨大な火柱へと変わった。
幸い、周囲の木々に延焼するような大惨事には至らなかった。
昨夜の雨で、森の木々や下草がたっぷりと湿気を帯びていたおかげだ。
火球の威力が、ホブゴブリンの巨体だけに極限まで集中していたことも大きい。
圧倒的な力を持つリーダーを失い、さらに炎の恐怖を目の当たりにした残りのゴブリンたちは、完全に戦意を喪失した。
パニックを起こして逃げ惑う小鬼たち。
その足元を、吾輩は雷光のごときスピードで駆け抜けた。
足を引っ掻き、目を狙ってかく乱する。
足並みの崩れたゴブリンたちを、仲間たちが次々と各個撃破していく。
ジェイクの大剣。セリアの長剣。カティアの鉛玉。
阿鼻叫喚の掃討戦。
ものの数分後、森の中に立っていたのは、我々のパーティだけになっていた。
無数のゴブリンの死体が転がる中、完全な殲滅に成功したのである。
「はぁっ……! はぁっ……! おわ、終わった……?」
ジェイクが大剣を杖代わりにして地に膝をつき、荒い息を吐き出している。
セリアたち三人娘も、その場にへたり込んで肩で息をしていた。
全員が泥だらけで、ボロボロだった。
しかし、誰一人として致命傷を負うことなく、この絶望的な死地を生き延びたのだ。
「……っ、今のうちに、治しておきますね」
木の陰に座り込んでいたメアリーが、腫れ上がった自分の足首にそっと手をかざし、小さく祈りの言葉を紡いだ。
柔らかな白い光が患部を包み込み、赤黒く変色していた腫れが、みるみるうちに引いていく。
逃げている最中は、詠唱に集中する余裕などなかったのだろう。
なるほど、これがこの世界の回復魔法か。
前世の湿布とは比べ物にならない即効性である。
「ニャア」
吾輩は血のついた前足を、ペロペロと舐めて綺麗にした。
それから何事もなかったかのように、セリアの足元へとトコトコ歩み寄る。
「怪我はないか、ご主人様?」とでも言うように、スリスリと彼女のブーツに頭を擦りつける。
しかし。
セリアは、いつものように「よしよし」と吾輩を撫でようとはしなかった。
「…………」
静まり返った森の中。
セリア、メアリー、カティア、そしてジェイク。
四人は荒い息を整えながら、一斉に吾輩を見つめていた。
まるで信じられないもの――あるいは未知の化け物でも見るかのような目で。
あのホブゴブリンの全力の棍棒を、空中で軌道を読んで躱した身のこなし。
数十匹のゴブリンの中を無傷で駆け抜け、致命的な隙を作り続けた、異常なまでの戦闘能力。
それはいくらなんでも、ただの『少し賢い野良猫』で済まされる範疇を完全に超えていた。
(あ、これ……やりすぎたか?)
吾輩が冷や汗(猫でもかくのだろうか)を流しながら尻尾をピタッと止めたその時。
彼らポンコツパーティの心の中には、ついに一つの拭いきれない疑念が芽生え始めていたのである。