私は目立たず生きたいだけ 日陰者転移者の異世界生活 作:稲荷竜
私自身が、どうしたいのか。
これがわかればきっと、人生がうまくいく。そういう、予感がある。
「ここから先は、Aクラスダンジョンだ。気を抜くなよ」
気を抜くな、と言われて、『いいえ、抜きます』と答えたい。そういうわけでは、ないんです。
けれど私はどうしても、そういうふうに言われると、それはちょっと、難しいんじゃないかなあ、という気持ちがわいてしまうのでした。
別に『今さらAランクごときで……』というような、油断、侮りがあるというわけでは、ないのです。
ただ私は、指示の不明瞭さ、私以外の人が当たり前に把握している前提が把握できていない状態で、ただ『気を抜くな』と言われても、『そもそも、気を抜くとはどういう状況なのか。逆に、気を抜かないとは、どういう状況なのか』とわからなくなり、混乱の果てに、全身に無意味な力がこもり続け、あっという間に疲弊してしまうのです。
気を抜くなという指示が、デメリットを発生させず、メリットを発生させようという意図で放たれていることは、私にもわかります。
しかし、じゃあ、『気を抜かない』ことによる疲弊に見合った成果、全体が享受するメリットが、私が疲弊し、緊張しきり、精一杯、何もかもに気をつければ大きくなるのかと言えば、そんなことも、ないのです。
むしろ、私の挙げられる成果は、『気を抜くな』という指示を守れば守るほど、落ちていくとさえ、言えるでしょう。
無言の前提が、あるからなのでした。
前衛ならまあ、敵を前に意識を逸らすなよ、とか。斥候なら、敵の気配の察知を怠るなよ、とか。そういう意味合いの指示として受け取るべきなのだとは、思います。
しかしここで問題なのが、私の冒険者としての経験なのです。
私はすべて、一人でやってきました。
斥候も、サポートも、回復も、戦いも、すべて、一人でやってきたのです。
ですから、私は今、何について気を抜かねばいいのかに、迷っています。
……ああ、なるほど。
最近はこうやって、頭の中で、ほぼ自動的に現状に対する言い訳、不満、不平、あるいは『理解されない』というやっかみやうっぷんがあふれ出す中で、私は、私自身の『感情』に目を向けるようになりました。
これは、本当に最近始めたことです。
私は、私自身がどうしたいのかを、知りたいと思ったのですから。私が自然に、反射的にやること、考えることの中から、『私自身』を探る、そういうことを、始めてみたのでした。
その試みは、どうにも、早くに身を結んだようです。
私が今、『気を抜くなよ』と言われて、何をしたらいいかわからない、暗闇の中に放り出されて、ただただ全身に力を込めて息を止めているしかないような心情にさらされている理由。
それは、周囲の人を信用していないからなのでした。
別に『背中から蹴りを入れられて強敵の前に放り出され、捨て石にされる』といった心配では、ないのです。むしろ、裏切りを警戒していると判じられたならば、私はこの人たちのもとから逃げ出し、町から逃げ出し、新しい町へ行くことに、踏ん切りがついたことでしょう。
私が信用していないのは、この人たちの実力なのです。
私は、前衛としてこの場にいます。それは、私も、きっと、ゴーリーさんたちも、わかっていることでしょう。
だというのに、『気を抜くな』と言われた時、私は、自分の役割について、迷いました。ただ気を抜くなと言われた場合、それはおそらく前衛として気を抜くなと言われているのだと、予想ぐらい、できているのです。
それでも私が迷っているのは、私自身の能力が、斥候役よりも斥候ができ、遠距離攻撃役よりも遠距離攻撃ができ、前衛よりも前衛ができるからに、他ならないのです。
私は、私の醜い心に、はっきりと気付いてしまったのでした。
私は彼らの実力をまったく認めていないのです。
彼らのことは、私にとっての低難易度クエストに挑む今この時においては、『縛り』──無能な、攻略の邪魔をするNPCだと、その程度にしか、思っていないのでした。
だから、『気を抜くな』と言われても、『だから、どれに注力すればいいのですか』という疑問が発生し、むやみに全身に緊張感をみなぎらせ、疲弊の一本道を歩むしかない……
しかし、私のこの傲慢な考え方に救いがあるとすれば、私が緊張していること、なのでした。
私は彼らを無能なNPCと思っているのです。
けれど、彼らにけがをさせたり、死なせたりする可能性を恐れ、緊張しているのです。
なるほどどうやら、私の疲弊、私の人間関係の悩みは、彼らを生き物と頭で理解し、その命が尊いものであるというのをわかりながらも、どうしても、実力・心情の問題で、彼らを、いわゆる『一人前』として扱えない。その部分にあるのだと、理解できました。
どうしようもねえなこれ。
もうさすがに理解しています。私の実力、ちょっと半端じゃないって。
現在の自己分析の結果を簡単に言ってしまえば、『私に人間扱いされたくば、私ぐらいに強くなれ』という、どこぞの無双系強敵みたいなスタンスなのです。
いや、むしろ、アリか?
いけるか? そのキャラ?
私は私自身がどうしたいかをわかっていません。
孤高と言うには何も高くなく、無双と言うには活躍をしたいわけではなく、目立ちたくないとはいっても積極的に隠密の努力をするモチベーションはないのです。
思い出した。
キャラ付けだ。
中学のころでした。小学校で、『Vを苗字で呼んでしまう』というやらかしをした私は、中学こそ、何か、人とうまく交わるための、何かをこの手に握りこまないと、と考えていたのです。
しかし『変なキャラ付けをするのは痛いな』という程度のリテラシーはありましたから、人付き合いの中で、私自身の特技などを見つけて、それを活かしていこうという、油断しきった考えをしていたのです。
そうして手広くいろいろなことを学びました。
まったくもって、つらい勉強でしかなかったのです。しかし、若き日の私は、母の洗脳めいた『普通信仰』もあり、人の輪に交わらなければ生きる資格がない。この勉強は、生きるためのものであり、しないならば、死ぬまでだとさえ、思っておりました。
だから、異常な熱量で、いろいろなことを、学んだのです。普通のみなさんが、普通に『楽しんでいる』ことを。みなさんに、混じるために。楽しくも、ないのに、学んだのです。
そうして私は、己を完璧に仕上げる中で、己のキャラクターを見失いました。
努力して努力して学んで学んで人に嫌われないように人から嫌悪されないように人にこの内心の人間とは違った形を見抜かれないように、必死に手足を突っ張って、歯を食いしばってお腹に力を入れて生きてみて、私は、私のキャラクターを見失ったのです。
私は、誰なんだろう。
人間社会になじむためのゴテゴテした虚飾の内側には、おどろくほどのがらんどうしかなかったのでした。
私は、私が発見したがっていた『私自身』というものが、いつの間にか勉強によってすり減らされて最後のひとかけらまで消え去っていたことに、気付けなかったのです。
私は、私のキャラが欲しい。
私の管理できる範囲の、キャラが。やっていて苦しくない、向いている、キャラが、欲しい。
『私に人間扱いされたくば、私ぐらいの強さを示せ』というキャラ付けは、なかなかいいような気がします。
現実世界ではこのような生き方はできませんでした。現実の、というかまあ、ここも現実だと、意識しないとうっかり忘れてしまいそうなのですが、日本の、過去に私がいた世界では、私はどこをどうとっても何も見るべきところがない弱者だったのですから。
しかしここでは、幸いにも、私は『暴力』という単純明快な強さを手にしています。
これは、いけるかもしれません。
暴力、いこう。
私は暴力で、人間社会にかかわろうと思います。
「……ジュリさん? どうした、いきなり、前に出て」
「………………私が」
「……?」
「全部、斬る。ついて、くる。OK?」
「え、あ、ああ……ああ? うん、なんだ、やる気になってくれた、ということか?」
あ、これ外したな。
戸惑いって、無数の棘の生えた羽箒で皮膚を撫でられる感じでこっちに伝わってくるんですよね。
むず痛い。
遠征して冒険をした。
私は相変わらず、私自身がどうしたいかわからず、迷走しているみたい。
この件から一つ学べるとすれば、それは……
人と作る時に、無理にキャラ付けをしようとすると、失敗する、ってことかな。