CODE: CYCLE ―暁美姉妹の超常現象調査ファイル― 作:ヒロセカズヒ
日が傾く頃には、礼拝堂の周りは、パトカーと救急車の赤い光でいっぱいになっていた。
保安官事務所の助手たちが、手首に包帯を巻かれた男と、もう一人の男を、パトカーの後部座席に押し込んでいった。FBIのモンロー駐在所から来た捜査官が二人、礼拝堂の中を写真に撮っていた。
ほむらとワスは、墓地の柵の外の、古いベンチに座っていた。
ほむらの電話が鳴った。
『無事か』
ダンだった。
「姉さんは、無事」
『キミは』
ほむらは、少し黙った。
「……無事」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
『ディーン・コールマンの車は、州境の手前で見失った。手配はかけてある。明日の朝一番の便で、そっちへ行く』
「来なくていい」
『行く』
ダンは、それだけ言って電話を切った。
救急車が、トマスを乗せて走り去っていったあとだった。
一台の古いセダンが、砂利道をゆっくりと上がってきた。
運転していたのは、中年の女性だった。助手席から、杖をついた老女が降りてきた。
小柄な老女だった。背中が丸く、白い髪を後ろで小さくまとめていた。黒いカーディガンの胸元に、古い木のロザリオが下がっていた。
老女は、保安官助手と短く言葉を交わした。助手が、墓地のほうを指さした。
老女は、杖をつきながら、ゆっくりとベンチのほうへ歩いてきた。
「あなたが、ワスさんね」
ワスは、立ち上がった。
「ええ」
「エディス・ラファージュです。トマスの、身元引受人」
エディスは、ワスの顔を見た。それから、隣に座ったままのほむらを見た。
「座っても、いいかしら」
ワスが、ベンチの端を空けた。
エディスは、杖をベンチに立てかけて、ゆっくりと腰を下ろした。墓地のほうを見ていた。名前のない、白い墓石の列を。
「……私が始めたことなの」
エディスは、言った。
「六十年前よ。私が、十六の時」
夕日が、墓石を赤く染めていた。
「親友がいたの。ローズ。同じ教区の、同じ学校。小さい頃から、ずっと一緒だった」
エディスは、胸元のロザリオに手を当てた。
「ある日、ローズが、変わった宝石を見せてくれた。卵の形の、内側から光る石。きれいでしょう、って笑っていた。夜になると、どこかへ出かけていくようになった。何をしているのか、聞いても教えてくれなかった」
「ええ」と、ワスが言った。
「一年くらい経った頃。ローズが、真夜中に、私の家の窓を叩いた」
エディスの声は、静かだった。
「ひどい顔をしていたわ。あの宝石が、黒く濁っていた。私には分からなかった。でも、ローズには分かっていた。自分が、もうすぐ、何か別のものになってしまうって」
ほむらの指が、膝の上で、かすかに動いた。
「ローズは、私に全部話してくれた。魂のこと。宝石のこと。最期の時が来たら、自分は消えてしまうかもしれない、ということ。遺体も残さずに。誰にも見つけてもらえずに」
エディスは、ロザリオを握りしめた。
「そして、私に頼んだの」
夕日が、沈みかけていた。
「『私は、神の御許で眠りたい。だから、お願い』と」
ほむらの体が小さくはねた。
瞬きをしなかった。
目は開いていた。けれど、その焦点は、どこにも合っていない。
両手が、ゆっくりと持ち上がった。何も握っていない手だった。それなのに、右手の人差し指が、トリガーを引く形で、見えない引き金にかかっていた。左手が、見えない銃身を支えていた。
ほむらは、ベンチから立ち上がっていた。
銃口が、わずかに下を向いて止まった。
ほとんど水平。ほんの少しだけ、下。
地面から一メートルほどの高さにある何かに見えない銃口がむけられる。
ちょうど、地面に横たわって、震える手を上に伸ばし、その掌に乗っている、小さな何かを狙うように。
「ほむら?」
指が、引き金を引こうとしている。
でも、引けなかった。
指が震えていた。引こうとして、止まり、また引こうとして、止まる。
ほむらの喉から、音が漏れた。
呻きだったのか、悲鳴だったのか、分からなかった。声というより、どこか深いところから、無理に押し出された何かだった。
「ほむら!」
ワスが、妹の前に立った。
見えない銃口は、ちょうど、ワスの腰のあたりを向いていた。
ワスは、それに気づいた。気づいたうえで、退かなかった。両手で、ほむらの肩を掴んだ。
ほむらは、ワスを見ていなかった。
照準は、姉の体をすり抜けて、その向こうの、何もない一点に向いたままだった。そこに差し出されている、誰にも見えないものに。
「ほむら。私を見なさい」
見なかった。
ワスは、妹の顔を覗き込んだ。焦点の合わない目に、自分の姿は映っていなかった。
「あなたは……」
声が、かすれた。
「誰を、見ているのです?」
答えはなかった。
指は、引き金の上で固まったまま、震え続けていた。
エディスが、杖に手をかけて、ゆっくりと立ち上がった。
ほむらの手の形を見ていた。その指の、見えない引き金にかかった角度を。
六十年前、自分も、同じだった。
あの夜、ローズの家の裏庭で。父親の猟銃を持ち出して。月の光の中で、地面に横たわったローズが、震える手で差し出した、黒く濁った宝石に向けて。
「……あなたも」
エディスの声が、震えた。
「そうなの?」
整備工場の主人が、ほむらとワスを、町のダイナーまで送ってくれた。
何も聞かなかった。店の前でトラックを停めると、ワスに一言だけ言った。
「何か食わせてやりな」
ほむらは、一番奥の席に座った。
入口の見える席だった。けれど、入口を見てはいなかった。
テーブルの上に、右手が置かれていた。
人差し指が、曲がったままだった。
ワスは、向かいに座った。
いつもなら、妹の指を一本ずつほどいていく。今夜は、手を伸ばさなかった。
ほどいてはいけない気がした。その指が、何を引こうとして、何を引けなかったのか。分からないまま、ほどいてしまってはいけない気がした。
ワスは、店員にコーヒーを二つ頼んで、席を立った。
「少し、電話をしてまいりますわ」
ほむらは、答えなかった。
ああ、何も分からない。
何が起こっているのか、分からない。
胸の奥から、何かがあふれてくる。止められない。名前のない感情が、次から次へと流れ出していく。
そのすべてに、大切な意味があるはずなのに。
一滴も、すくい取ることができない。
指の先に、何かの重みがある。冷たくて、硬い。引かなければならない。引いてはいけない。どちらなのか、分からない。
私は、今、生きているの?
もう、死んでしまったの?
何も感じない。
何も、思い出せない。
「おまえさん、大丈夫か?」
声が、遠くから聞こえた。
「わたしは……まだ、生きているの?」
自分の声だった。かすれていた。
「ひどいな」
誰かが、そう言った。
音楽が聞こえた。
古いカントリーの曲。
ジュークボックスの、少し割れた音。
コーヒーの匂いがした。焦げたトーストと、ベーコンの脂の匂い。
手の下に合板の少しべたつく感触。
テーブルだった。
ほむらは、ゆっくりと瞬きをした。
何度目かの瞬きで、視界の焦点が合った。
ダイナーだった。
隣の席に、帽子を目深にかぶった老人が座っていた。
こちらを見ていた。
「……誰?」
「なんて顔をしてるんだ」
老人は、帽子のつばの下から、ほむらの右手を見た。固まった人差し指を。
「どこからの帰りだ?」
「私は……日本から来たの」
言葉が、うまく出てこなかった。
「旅行で……」
老人は、少しのあいだ黙った。
「日本? 嘘だろう」
「嘘じゃない」
「そうかい」老人はコーヒーをすすった。
「じゃあ、日本ってのは、ずいぶん物騒な国なんだな」
ダイナーの駐車場の端で、ワスは携帯電話を耳に当てていた。
日本は、朝の九時のはずだった。
呼び出し音が、二回鳴った。
『先輩?』
マミの声だった。
「……ほむらが、ひどい状態なの」
いつもの言葉遣いが、どこかへ行ってしまっていた。
電話の向こうで、マミが息を呑む音がした。
『先輩、この前は、持ち直しましたって、メールくれましたよね』
「ええ」
『……日本を離れても、駄目なのね』
「何も覚えていないのよ。覚えていないのに、手が、震えて。引き金を引く形のまま、固まって」
『先輩』
「誰を見ていたのか、分からないの。私の目の前に立っても、あの子は、私を見ていなかった」
『先輩、落ち着いて』
「ごめんなさい。こんな時間に」
『いいんです』マミの声が、少しだけ柔らかくなった。『先輩も、ひどい声してますよ』
ワスは、ダイナーの窓の向こうに見える妹の背中を見た。
小さな背中だった。
年相応に見えた。
『治そうとしなくていいと思います』マミが言った。『無理に思い出させるのも、だめ。ただ、そばにいてあげてください』
「それだけで、いいのかしら」
『それしか、できないんです。私たちには』
少し間があった。
『先輩も、ちゃんと眠ってくださいね。支える側が倒れたら、元も子もないですから』
「……後輩に心配されるようでは、私もまだまだですわね」
『先輩は、いつも一人で抱え込みすぎなんです』
ワスは、少しだけ笑った。
いつもの言葉遣いが、戻ってきていた。
ワスが店に戻ると、ほむらの隣の席の老人が、帽子に手をやって、小さく会釈した。
「あんたが、あの子の姉さんか」
「ええ」
老人は、奥の席のほむらを顎で示した。
「昔、海の向こうで、ああいう目をした子供を何人も見た」
老人は、コーヒーのカップをテーブルに置いた。
「まるで、村を焼かれた少年兵だよ」
ワスは、何も言わなかった。
「何があったか、俺は聞かない。あんたも言わなくていい」老人は勘定をテーブルに置いて、立ち上がった。「ただ、一人にしないでやってくれ」
「……ええ。決して」
ドアのベルが鳴って、老人は、夜の中へ出ていった。
ワスは、しばらく入口のほうを見ていた。
村を焼かれた子供。
その言葉に、なぜか覚えがあった。煤けた顔。藁の寝床。震える小さな肩。どこで見たのかは分からない。
ただ、どうすればいいのかだけは、知っていた。
ワスは奥の席へ歩いていって、妹の隣に腰を下ろした。
何も言わずに、テーブルの上で固まっているほむらの右手を取った。
曲がったままの人差し指を、両手で包んだ。
一本ずつ、ほどいていった。
人差し指。中指。薬指。
ほむらは、入口を見つめたまま、何も言わなかった。
けれど、ほどかれた指は、もう一度握りしめられることはなかった。
ワスは、妹の手を、両手で包んだまま、離さなかった。
テーブルの上で、二つのコーヒーが、ゆっくりと冷めていった。