CODE: CYCLE ―暁美姉妹の超常現象調査ファイル― 作:ヒロセカズヒ
テキサスに入ると、空がさらに広くなった。
刈り取りの終わった綿畑が、牧草地に変わり、牧草地が、どこまでも続く平原に変わった。ピンクのマスタングの冷房は、修理されたばかりで、よく効いていた。
モンローを出て二日目の朝、ほむらの電話が鳴った。
『おはよう』ダンの声は、いつもより少しだけ機嫌が良かった。『体の具合はどうだ』
「普通」
『そうか』
ダンは、それ以上は聞かなかった。
『一つ、頼みがある。今回は、撃ち合いなしだ』
「珍しいわね」
『ヒューストンに、自警団がいる』
ほむらは、少し黙った。
「自警団?」
『コスチュームを着て、夜の街をパトロールしてる連中だ。ホームレスに毛布を配ったり、喧嘩の仲裁をしたりな。シアトルにも似たような奴らがいて、俺は毎年頭を痛めてる』
「それで?」
『その中に、本物がいる』
ワスが、助手席で地図から顔を上げた。
『魔法少女が、少なくとも二人。それぞれ別の自警団に所属していて、隣り合った二つの地区を受け持ってる。昔から、あまり仲のいい地区じゃない。それでも、ここ数年は落ち着いてた。お互いに、本物がいると知ってるからな』
「抑止力」と、ほむらが言った。
『そういうことだ』ダンは言った。『そのうちの一人が、三日前に倒れた。キューブが足りなかったらしい』
ほむらの手が、ハンドルの上で少し強張った。
『均衡が崩れれば、地区同士の揉め事が始まる。それは困る。かといって、FBIが自警団にキューブを差し入れるわけにはいかない』
「だから、日本のエージェントが、善意で分けてあげたことにする」
『察しがいいな』
「またですの?」ワスが、横から電話に向かって言った。
『またです』ダンは、真面目な声で答えた。『キューブは、そっちの役所の在庫から、ラングレー経由で回ってきた。今日の午後、州間高速の途中のガソリンスタンドで受け取ってくれ』
州間高速十号線沿いのガソリンスタンドで、背広の男が、クーラーボックスを一つ、マスタングのトランクに入れた。
男は、何も言わなかった。サインも求めなかった。黒いセダンに乗り込んで、来た道を戻っていった。
ほむらは、クーラーボックスの蓋を開けた。
保冷剤のあいだに、黒い立方体が十個、きれいに並んでいた。
グリーフキューブ。魔獣を倒した時に残る、穢れを吸い取る結晶だった。
「宅配業者のようなものですわね」
「受け取りのサインも、もらってない」
「保冷剤は、要りましたの?」
「要らない」
後部座席から、キュゥべえが言った。
「使い終わったキューブは、僕が回収するからね」
「分かってる」
ヒューストンは、広かった。
高速道路が、何層にも重なって、空中で絡み合っていた。どこまで走っても、街が終わらなかった。ガラス張りの高層ビルの群れが、熱気の向こうで揺らいでいた。
暑かった。
モンローよりも、さらに。
「ヒューストンって」と、ほむらが言った。「宇宙センターしかないんじゃないの」
「ほむら。失礼ですわよ」
「でも、それしか知らない」
「私も、それしか存じませんけれど」
ワスは、窓の外を見た。
信号待ちの交差点で、隣の車線のバイクのドライバーが、腰に拳銃を下げていた。
誰も気にしていなかった。
「この州なら、ガンベルトも問題ありませんわね」
「やっと、普通に歩ける」
「その感想は、普通ではありませんわよ」
マーカス・ジョンソンのジムは、イーストエンド地区の、古い倉庫を改装した建物にあった。
入口の上に、手書きの看板が掛かっていた。〈ハリケーン・ジム 誰でも歓迎〉
中に入ると、汗と鉄の匂いがした。
ダンベルが並んだ棚。古いベンチプレス。壁に貼られた、子供たちの描いた絵。そして、奥の壁一面に、色あせたアニメのポスター。
ポスターの中で、ピンクのフリルの衣装を着た少女が、星の形のステッキを掲げて笑っていた。
〈魔法少女スターライト・ハート〉
「来てくれたか」
奥の扉が開いて、男が出てきた。
身長、百九十センチ。肩幅は、ほむらの三人分はあった。腕は、ほむらの胴回りより太かった。
ピンクのフリルの衣装を着ていた。
ポスターの少女と、まったく同じ衣装だった。スカートの裾の星の刺繍まで、寸分違わなかった。手には、星の形のステッキを握っていた。
ほむらは、男を見上げたまま、動かなかった。
男は、二人の前で足を止めた。それから、深々と頭を下げた。
「マーカス・ジョンソンだ。この辺りじゃ、ピンク・ハリケーンで通ってる」
ワスが、日傘を畳んで、丁寧にお辞儀を返した。
「暁美ワスと申します。こちらは妹のほむら」
ワスは、マーカスの衣装を、上から下までゆっくりと見た。
「とても素敵なお衣装ですわね」
マーカスの顔が、ぱっと明るくなった。
「分かるか? 手縫いなんだ。三年かかった。スカートの星は、全部で百二十個ある。原作の第四話で、ハートが初めて変身した時の衣装を、一コマずつ止めて確かめた」
「まあ。百二十個も」
「本物は百二十一個なんだが、どうしても一個、背中側のが確認できなくてな」
「それは、残念ですわね」
「いつか、設定資料集を手に入れて確かめるつもりだ」
ワスとマーカスが、真剣な顔で頷き合っていた。
ほむらの足元で、キュゥべえが、尻尾をゆっくりと揺らした。
「……わけがわからないよ」
ほむらは、撃たなかった。
(……今回ばかりは、同意しかない)
「あの子は、奥にいる」
マーカスの声から、明るさが消えていた。
ジムの奥の、小さな事務室だった。古いソファの上に、簡易のベッドが作ってあった。窓のブラインドが下ろされて、部屋の中は薄暗かった。
少女が一人、横になっていた。
十六歳くらい。浅黒い肌に、長い黒髪。額に、汗で髪が張りついていた。唇の色が、ひどく悪かった。
枕元の小さなテーブルの上に、ソウルジェムが置かれていた。
ほとんど黒に近い色に、濁っていた。
ほむらの喉が、小さく鳴った。
「ルシアだ」マーカスが、低い声で言った。「ルシア・モラレス。二年前から、この地区を守ってくれてる」
少女が、うっすらと目を開けた。
「……誰?」
「日本から来た人たちだ。キューブを、持ってきてくれた」
ルシアの目が、わずかに動いた。ほむらとワスを見た。それから、ほむらの手の中の、クーラーボックスを見た。
ほむらは、ベッドの横に膝をついた。
クーラーボックスから、キューブを一つ取り出した。黒く濁ったジェムに、そっと押し当てた。
ジェムの中の濁りが、ゆっくりと、キューブのほうへ吸い込まれていった。泥水が、少しずつ澄んでいくように。
一つ目のキューブが、真っ黒になった。
ほむらは、二つ目を当てた。
三つ目で、ジェムは、もとの色を取り戻した。深い、温かい、琥珀のような色だった。
ルシアの頬に、少しずつ血の気が戻ってきた。
「……ありがとう」
ルシアは、肘をついて、体を起こそうとした。
「待て、まだ――」
マーカスが止めようとしたが、ルシアは首を振った。
「今夜のパトロール、行かなきゃ」
「ルシア」
「三日も休んだの。ウェストサイドの連中が、もう境界線を越えてきてるかもしれない。魔獣だって、三日分、溜まってる」
ルシアは、ベッドから足を下ろした。立ち上がろうとして、ふらついた。マーカスの太い腕が、その肩を支えた。
「離して、マーカス。私が行かなきゃ、誰がこの街を守るの」
ほむらは、ルシアの顔を見ていた。
青白い頬。乾いた唇。焦点の定まらない目。それでも、まっすぐに前を見ようとしている目。
どこかで、見たことのある顔だと思った。
鏡の中で、毎朝、見ている顔だった。