CODE: CYCLE ―暁美姉妹の超常現象調査ファイル―   作:ヒロセカズヒ

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CASE 04:ヒューストン、問題が発生した 後編

ルシアは、マーカスの腕を振りほどこうとしていた。

「離して。私が行かなきゃ」

「ルシア」

「この街を守るのは、私の仕事なの」

ほむらは、膝をついたまま、ルシアを見上げていた。

自分の口が、勝手に動いた。

「今日、倒せなくてもいい」

ルシアが、ほむらを見た。

「明日、倒せばいい。明日までに何かあったら、近くの誰かが対応する」

「そんな、都合のいい――」

「あなた一人で、この街を守ってるわけじゃない」

ほむらは、言葉を探した。

それから、ゆっくりと言った。

「一人で、背負わなくていいの」

部屋の中が、静かになった。

ブラインドの隙間から差し込む光の中で、埃がゆっくりと舞っていた。

ルシアは、何も言わなかった。マーカスの腕の中で、肩の力が少しずつ抜けていくのが分かった。

ワスが、入口のところで、少しだけ目を丸くしていた。

「……姉さんの、受け売りだけど」

ほむらは、目を逸らした。

ルシアが、小さく笑った。笑って、それから、ベッドに倒れ込むように横になった。

「受け売りでも、効くね」

「効くのよ。腹が立つくらい」

 

夕方、ジムの入口に、見慣れない一団が現れた。

先頭にいたのは、青いフリルの衣装を着た、大柄な男だった。マーカスと同じくらいの背丈。短い顎ひげ。手には、青い星のステッキ。

壁のポスターの、ピンクの少女の隣に描かれた、青い衣装の少女と、まったく同じ姿だった。

その後ろに、少女が一人、立っていた。十七歳くらい。短く切った黒髪。腕を組んで、そっぽを向いていた。

両手に、大きな鍋を提げていた。

マーカスが、ジムの奥から出てきて、足を止めた。

「……ブルー・タイフーン。何の用だ」

「ルシアが倒れたって聞いた」青い衣装の男は、ステッキを肩に担いだ。「様子を見に来た」

「ウェストサイドの人間が、境界を越えて来ていい理由にはならん」

「分かってる。だから、喧嘩をしに来たわけじゃない」

少女が、鍋をジムの床にどんと置いた。

「ハナ・キム」と、少女は言った。ほむらとワスを、ちらりと見た。「あんたたちが、日本から来たっていう人?」

「ええ」とワスが答えた。

「ふーん」ハナは、鍋の蓋を開けた。湯気と一緒に、唐辛子と、肉と、何かの発酵した匂いが立ちのぼった。「ルシアの好物。うちのおばあちゃんのキムチチゲ」

マーカスが、眉をひそめた。

「お前たちが、どうして」

「あいつがいないと、張り合いがないの」

ハナは、またそっぽを向いた。

「それと、今夜は、うちでイーストエンドも見回る。境界線のこっち側も。ルシアが起きられるようになるまで」

マーカスは、しばらく黙っていた。

ブルー・タイフーンの男が、マーカスの前まで歩いてきた。二人の大男が、ピンクと青のフリルを揺らしながら、向かい合った。

「十年前、この境界線で、俺たちは本気で殴り合ったな」

「ああ」

「今は、お互いの娘みたいな子が、同じ魔獣と戦ってる」

マーカスは、長いため息をついた。

それから、大きな手を差し出した。

ブルー・タイフーンが、その手を握った。

ほむらの足元で、キュゥべえが言った。

「人間の均衡というのは、敵意で保たれているわけじゃないんだね。興味深い」

ほむらは、答えなかった。

 

事務室の扉の隙間から、ルシアが、こっそりこちらを覗いていた。ハナと目が合って、二人とも、同時にそっぽを向いた。

 

その夜、ほむらとワスは、マーカスに連れられて、町はずれのバーベキューの店にいた。

木のテーブル。鉄の椅子。天井で回る大きな扇風機。店の奥から、薪の煙の匂いが漂ってきた。

ほむらは、いつものように、一番奥の、入口の見える席に座った。

マーカスは、店の主人に何かを注文してから、ほむらの向かいに腰を下ろした。フリルの衣装は脱いで、普通のTシャツ姿になっていた。それでも、肩幅は変わらなかった。

「ねえ」と、ほむらが言った。

「何だ」

「どうして、魔法少女の格好をしてるの?」

ワスが、少しだけ眉を上げた。ほむらが、誰かに自分から質問をするのは、珍しいことだった。

マーカスは、少し照れたように頭をかいた。

「子供の頃、好きだったアニメがあってな。スターライト・ハートだ。主人公の女の子が、怖くても、泣いても、誰かのために立ち上がるんだ」

マーカスは、テーブルの上の自分の手を見た。大きな、傷だらけの手だった。

「親父は家にいなかった。お袋は、夜中まで働いてた。俺は、あの子が画面の中で立ち上がるのを見て、それで、なんとか毎日を過ごしてた」

「ええ」とワスが言った。

「海兵隊に入って、いろんな場所へ行った。いろんなものを見た」マーカスは、少し黙った。「帰ってきて、この街で、何をすればいいのか分からなかった。その時、押し入れの奥から、あの頃のビデオが出てきたんだ」

マーカスは、顔を上げた。

「だから、この格好をしてる。この街の誰かが、怖くて泣いてる時に、俺たちが来たら、少しは安心してもらえるようにな」

ほむらは、何も言えなかった。

胸の奥が、痛んだ。

怖くても、泣いても、誰かのために立ち上がる女の子。

その姿を、どこかで知っている気がした。

知っているのに、顔が思い出せなかった。

マーカスは、ほむらの顔をじっと見ていた。何かを言いかけて、やめた。元兵士の目で、少しだけ長く、ほむらを見ていた。

ワスが、テーブルの下で、ほむらの手にそっと触れた。

料理が運ばれてきた。

皿ではなかった。茶色い包み紙が、テーブルの上にどさりと広げられた。その上に、黒く焼けた肉の塊。厚く切り分けられた断面が、薄い桃色に光っていた。白い食パン。玉ねぎの輪切り。ピクルス。

ワスが、包み紙を見つめた。

「……お皿は?」

「それが皿だ」

「フォークとナイフは?」

「手だ」

ワスは、シカゴのイタリアンビーフの夜と、まったく同じ顔をした。

ほむらは、もう黙って食べ始めていた。

ブリスケットを、指でつまんで、口に入れた。煙の香り。脂の甘さ。噛むと、肉がほろほろとほどけた。

二切れ目に、手が伸びた。

「肉は、たんぱく質の効率がいい」

「それは、たくさん召し上がりたい言い訳ですわね」

「言い訳じゃない。合理的判断よ」

キュゥべえが、テーブルの端で言った。

「確かに、エネルギー効率の面では理にかなっているね」

「ほら」

「キュゥべえを味方につけるのは、おやめなさいな」

ワスは、ため息をついた。それから、コールスローの小皿を、黙って妹のほうへ押し出した。

マーカスが、店の主人に手を挙げた。

「コールスロー、もう一皿」

「二皿ですわ」とワスが言った。

マーカスは、豪快に笑った。

食事の終わりに、マーカスが、店の冷蔵庫から何かを持ってきた。

特大のプラスチックのカップだった。中に、白くて濃い液体が、なみなみと入っていた。

「お嬢ちゃん。顔色が悪いな。ちゃんと食ってるか?」

「……食べてる。今」

「肉だけだろ。ほら、これも飲め。うちのジムの特製だ」

ほむらは、カップを受け取った。重かった。

「何これ」

「プロテインシェイクだ。バニラ味」

ほむらは、ワスを見た。

「姉さん、助けて」

「まあ、ご親切に」ワスは、にっこりと微笑んだ。「全部お飲みなさいな」

ほむらは、カップを両手で抱えて、ストローに口をつけた。

半分ほど飲んだところで、手を止めた。

「……ひどい拷問だわ」

「バニラ味だぞ?」

「味の問題じゃない。量の問題よ」

マーカスは豪快に笑って、大きな手で、ほむらの頭をぽんと叩いた。

「それだけ文句が言えりゃ、大丈夫だ」

ほむらは、むっとした顔のまま、残りを全部飲み干した。

翌朝、ルシアは、自分の足でジムの事務室から出てきた。

顔色は、まだ少し悪かった。それでも、目には、もう焦点が戻っていた。

ほむらは、クーラーボックスの中に残ったキューブを数えた。

七つ。

ほむらは、そのうちの四つを、ルシアの手に乗せた。

それから、残りの三つを、ジムの入口の外に立っていたハナのほうへ差し出した。

ハナが、目を丸くした。

「……あたしにも?」

「均衡は、大事」

ほむらは言った。

「片方だけ強くなったら、また揉める」

ハナは、少しのあいだ、ほむらの顔を見ていた。それから、黙ってキューブを受け取った。

ワスが、小さく笑った。

「公平ですわね」

「効率がいいだけよ」

「そういうことにしておきますわ」

キュゥべえが、足元で尻尾を揺らした。

「使い終わったキューブ、三つ。回収させてもらうよ」

マスタングが、ジムの前から走り出した。

バックミラーの中で、マーカスとブルー・タイフーンが、ピンクと青のフリルを揺らしながら、並んで手を振っていた。その足元で、ルシアとハナが、互いにそっぽを向きながら、小さく手を挙げていた。

ほむらは、窓を少しだけ下ろした。

それから、振り返って、小さく頭を下げた。

ワスは、それを見ていた。何も言わなかった。

携帯電話を取り出して、短い文面を打った。

〈今回は、本当に持ち直したと思います。プロテインを、全部飲みましたわ〉

日本は、真夜中のはずだった。

返事は、すぐに来た。

〈プロテイン? 何があったんですか先輩〉

ワスは、少しだけ笑って、電話をしまった。

 

シアトル支局の机の、一番下の引き出しに、切り抜きが一枚増えた。

〈イーストエンドとウェストサイドの自警団、境界線で合同清掃 「街は一つ」〉

写真が付いていた。ピンクと青のフリルの衣装を着た大男が二人、ゴミ袋を手に、肩を組んで笑っていた。

ダンは、その切り抜きを、しばらく眺めていた。

それから、初めて、少しだけ笑った。

引き出しの中の、他の切り抜きの上に、そっと重ねた。

 

 

「あのね、黒い髪のお姉ちゃんが、うちのお姉ちゃんに『休め』って言ってくれたんだって。

お姉ちゃんはね、ずっと休まないの。ぼくが病気だった時も、治った後も、ずっと。夜になると、どこかへ行っちゃう。

でも、あの日から、ちゃんと夜に寝るようになったよ。ハナお姉ちゃんが、ときどき代わりに見回ってくれるんだって。

黒い髪のお姉ちゃん、マーカスおじさんのプロテイン、全部飲んだんだって。すごいよね。ぼく、半分も飲めないもん」

――ディエゴ・モラレス、九歳

 

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