CODE: CYCLE ―暁美姉妹の超常現象調査ファイル― 作:ヒロセカズヒ
ルシアは、マーカスの腕を振りほどこうとしていた。
「離して。私が行かなきゃ」
「ルシア」
「この街を守るのは、私の仕事なの」
ほむらは、膝をついたまま、ルシアを見上げていた。
自分の口が、勝手に動いた。
「今日、倒せなくてもいい」
ルシアが、ほむらを見た。
「明日、倒せばいい。明日までに何かあったら、近くの誰かが対応する」
「そんな、都合のいい――」
「あなた一人で、この街を守ってるわけじゃない」
ほむらは、言葉を探した。
それから、ゆっくりと言った。
「一人で、背負わなくていいの」
部屋の中が、静かになった。
ブラインドの隙間から差し込む光の中で、埃がゆっくりと舞っていた。
ルシアは、何も言わなかった。マーカスの腕の中で、肩の力が少しずつ抜けていくのが分かった。
ワスが、入口のところで、少しだけ目を丸くしていた。
「……姉さんの、受け売りだけど」
ほむらは、目を逸らした。
ルシアが、小さく笑った。笑って、それから、ベッドに倒れ込むように横になった。
「受け売りでも、効くね」
「効くのよ。腹が立つくらい」
夕方、ジムの入口に、見慣れない一団が現れた。
先頭にいたのは、青いフリルの衣装を着た、大柄な男だった。マーカスと同じくらいの背丈。短い顎ひげ。手には、青い星のステッキ。
壁のポスターの、ピンクの少女の隣に描かれた、青い衣装の少女と、まったく同じ姿だった。
その後ろに、少女が一人、立っていた。十七歳くらい。短く切った黒髪。腕を組んで、そっぽを向いていた。
両手に、大きな鍋を提げていた。
マーカスが、ジムの奥から出てきて、足を止めた。
「……ブルー・タイフーン。何の用だ」
「ルシアが倒れたって聞いた」青い衣装の男は、ステッキを肩に担いだ。「様子を見に来た」
「ウェストサイドの人間が、境界を越えて来ていい理由にはならん」
「分かってる。だから、喧嘩をしに来たわけじゃない」
少女が、鍋をジムの床にどんと置いた。
「ハナ・キム」と、少女は言った。ほむらとワスを、ちらりと見た。「あんたたちが、日本から来たっていう人?」
「ええ」とワスが答えた。
「ふーん」ハナは、鍋の蓋を開けた。湯気と一緒に、唐辛子と、肉と、何かの発酵した匂いが立ちのぼった。「ルシアの好物。うちのおばあちゃんのキムチチゲ」
マーカスが、眉をひそめた。
「お前たちが、どうして」
「あいつがいないと、張り合いがないの」
ハナは、またそっぽを向いた。
「それと、今夜は、うちでイーストエンドも見回る。境界線のこっち側も。ルシアが起きられるようになるまで」
マーカスは、しばらく黙っていた。
ブルー・タイフーンの男が、マーカスの前まで歩いてきた。二人の大男が、ピンクと青のフリルを揺らしながら、向かい合った。
「十年前、この境界線で、俺たちは本気で殴り合ったな」
「ああ」
「今は、お互いの娘みたいな子が、同じ魔獣と戦ってる」
マーカスは、長いため息をついた。
それから、大きな手を差し出した。
ブルー・タイフーンが、その手を握った。
ほむらの足元で、キュゥべえが言った。
「人間の均衡というのは、敵意で保たれているわけじゃないんだね。興味深い」
ほむらは、答えなかった。
事務室の扉の隙間から、ルシアが、こっそりこちらを覗いていた。ハナと目が合って、二人とも、同時にそっぽを向いた。
その夜、ほむらとワスは、マーカスに連れられて、町はずれのバーベキューの店にいた。
木のテーブル。鉄の椅子。天井で回る大きな扇風機。店の奥から、薪の煙の匂いが漂ってきた。
ほむらは、いつものように、一番奥の、入口の見える席に座った。
マーカスは、店の主人に何かを注文してから、ほむらの向かいに腰を下ろした。フリルの衣装は脱いで、普通のTシャツ姿になっていた。それでも、肩幅は変わらなかった。
「ねえ」と、ほむらが言った。
「何だ」
「どうして、魔法少女の格好をしてるの?」
ワスが、少しだけ眉を上げた。ほむらが、誰かに自分から質問をするのは、珍しいことだった。
マーカスは、少し照れたように頭をかいた。
「子供の頃、好きだったアニメがあってな。スターライト・ハートだ。主人公の女の子が、怖くても、泣いても、誰かのために立ち上がるんだ」
マーカスは、テーブルの上の自分の手を見た。大きな、傷だらけの手だった。
「親父は家にいなかった。お袋は、夜中まで働いてた。俺は、あの子が画面の中で立ち上がるのを見て、それで、なんとか毎日を過ごしてた」
「ええ」とワスが言った。
「海兵隊に入って、いろんな場所へ行った。いろんなものを見た」マーカスは、少し黙った。「帰ってきて、この街で、何をすればいいのか分からなかった。その時、押し入れの奥から、あの頃のビデオが出てきたんだ」
マーカスは、顔を上げた。
「だから、この格好をしてる。この街の誰かが、怖くて泣いてる時に、俺たちが来たら、少しは安心してもらえるようにな」
ほむらは、何も言えなかった。
胸の奥が、痛んだ。
怖くても、泣いても、誰かのために立ち上がる女の子。
その姿を、どこかで知っている気がした。
知っているのに、顔が思い出せなかった。
マーカスは、ほむらの顔をじっと見ていた。何かを言いかけて、やめた。元兵士の目で、少しだけ長く、ほむらを見ていた。
ワスが、テーブルの下で、ほむらの手にそっと触れた。
料理が運ばれてきた。
皿ではなかった。茶色い包み紙が、テーブルの上にどさりと広げられた。その上に、黒く焼けた肉の塊。厚く切り分けられた断面が、薄い桃色に光っていた。白い食パン。玉ねぎの輪切り。ピクルス。
ワスが、包み紙を見つめた。
「……お皿は?」
「それが皿だ」
「フォークとナイフは?」
「手だ」
ワスは、シカゴのイタリアンビーフの夜と、まったく同じ顔をした。
ほむらは、もう黙って食べ始めていた。
ブリスケットを、指でつまんで、口に入れた。煙の香り。脂の甘さ。噛むと、肉がほろほろとほどけた。
二切れ目に、手が伸びた。
「肉は、たんぱく質の効率がいい」
「それは、たくさん召し上がりたい言い訳ですわね」
「言い訳じゃない。合理的判断よ」
キュゥべえが、テーブルの端で言った。
「確かに、エネルギー効率の面では理にかなっているね」
「ほら」
「キュゥべえを味方につけるのは、おやめなさいな」
ワスは、ため息をついた。それから、コールスローの小皿を、黙って妹のほうへ押し出した。
マーカスが、店の主人に手を挙げた。
「コールスロー、もう一皿」
「二皿ですわ」とワスが言った。
マーカスは、豪快に笑った。
食事の終わりに、マーカスが、店の冷蔵庫から何かを持ってきた。
特大のプラスチックのカップだった。中に、白くて濃い液体が、なみなみと入っていた。
「お嬢ちゃん。顔色が悪いな。ちゃんと食ってるか?」
「……食べてる。今」
「肉だけだろ。ほら、これも飲め。うちのジムの特製だ」
ほむらは、カップを受け取った。重かった。
「何これ」
「プロテインシェイクだ。バニラ味」
ほむらは、ワスを見た。
「姉さん、助けて」
「まあ、ご親切に」ワスは、にっこりと微笑んだ。「全部お飲みなさいな」
ほむらは、カップを両手で抱えて、ストローに口をつけた。
半分ほど飲んだところで、手を止めた。
「……ひどい拷問だわ」
「バニラ味だぞ?」
「味の問題じゃない。量の問題よ」
マーカスは豪快に笑って、大きな手で、ほむらの頭をぽんと叩いた。
「それだけ文句が言えりゃ、大丈夫だ」
ほむらは、むっとした顔のまま、残りを全部飲み干した。
翌朝、ルシアは、自分の足でジムの事務室から出てきた。
顔色は、まだ少し悪かった。それでも、目には、もう焦点が戻っていた。
ほむらは、クーラーボックスの中に残ったキューブを数えた。
七つ。
ほむらは、そのうちの四つを、ルシアの手に乗せた。
それから、残りの三つを、ジムの入口の外に立っていたハナのほうへ差し出した。
ハナが、目を丸くした。
「……あたしにも?」
「均衡は、大事」
ほむらは言った。
「片方だけ強くなったら、また揉める」
ハナは、少しのあいだ、ほむらの顔を見ていた。それから、黙ってキューブを受け取った。
ワスが、小さく笑った。
「公平ですわね」
「効率がいいだけよ」
「そういうことにしておきますわ」
キュゥべえが、足元で尻尾を揺らした。
「使い終わったキューブ、三つ。回収させてもらうよ」
マスタングが、ジムの前から走り出した。
バックミラーの中で、マーカスとブルー・タイフーンが、ピンクと青のフリルを揺らしながら、並んで手を振っていた。その足元で、ルシアとハナが、互いにそっぽを向きながら、小さく手を挙げていた。
ほむらは、窓を少しだけ下ろした。
それから、振り返って、小さく頭を下げた。
ワスは、それを見ていた。何も言わなかった。
携帯電話を取り出して、短い文面を打った。
〈今回は、本当に持ち直したと思います。プロテインを、全部飲みましたわ〉
日本は、真夜中のはずだった。
返事は、すぐに来た。
〈プロテイン? 何があったんですか先輩〉
ワスは、少しだけ笑って、電話をしまった。
シアトル支局の机の、一番下の引き出しに、切り抜きが一枚増えた。
〈イーストエンドとウェストサイドの自警団、境界線で合同清掃 「街は一つ」〉
写真が付いていた。ピンクと青のフリルの衣装を着た大男が二人、ゴミ袋を手に、肩を組んで笑っていた。
ダンは、その切り抜きを、しばらく眺めていた。
それから、初めて、少しだけ笑った。
引き出しの中の、他の切り抜きの上に、そっと重ねた。
「あのね、黒い髪のお姉ちゃんが、うちのお姉ちゃんに『休め』って言ってくれたんだって。
お姉ちゃんはね、ずっと休まないの。ぼくが病気だった時も、治った後も、ずっと。夜になると、どこかへ行っちゃう。
でも、あの日から、ちゃんと夜に寝るようになったよ。ハナお姉ちゃんが、ときどき代わりに見回ってくれるんだって。
黒い髪のお姉ちゃん、マーカスおじさんのプロテイン、全部飲んだんだって。すごいよね。ぼく、半分も飲めないもん」
――ディエゴ・モラレス、九歳