CODE: CYCLE ―暁美姉妹の超常現象調査ファイル― 作:ヒロセカズヒ
西テキサスの砂漠は、夜になると急に冷えた。
国道沿いのモーテルの部屋で、ほむらは窓辺に座って、外を見ていた。駐車場の向こうに、何もない平原が広がっていた。月の光の中で、低い灌木の影が、黒い点のように散らばっていた。
ワスは、ベッドの上で、明日の地図を広げていた。
部屋の隅のテーブルの上に、特大のプロテインの容器が置かれていた。
蓋は、まだ開けられていなかった。
電話が鳴った。
ほむらが出る、ダンだった。
『夜分にすまない』
ほむらには、ダンの声は、いつもより低く聞こえた。
「何?」
『うちの保管庫から、証拠品が一つ消えた』
ほむらは、窓から目を離した。
「FBIの保管庫から?」
『シアトル支局の、証拠品保管室だ。昨夜の午前三時過ぎ。扉の鍵は壊されていない。警報も鳴っていない。保管室の棚から、一つだけ、きれいになくなってた』
「何が」
ダンは、少し黙った。
『宝石だ。卵の形の』
ワスが、地図から顔を上げた。
『六年前、タコマで住宅火災があった』
ダンは、記憶を確かめるように、ゆっくりと話した。
『家は全焼した。父親の遺体は見つかった。娘は見つからなかった。十三歳だった。エミリー・カーター』
「どうだったの?」とほむらが言った。
『焼け跡の、娘の部屋だったあたりから、宝石が一つ見つかった。家ごと焼けたのに、傷一つなかった。煤もついてなかった。内側から、ぼんやり光ってた』
「ソウルジェム」
『そうだ。当時の俺は、それが何なのか知らなかった。ただ、気味の悪い石だと思った。身元の手がかりになるかもしれないと思って、証拠品として保管した』
ダンの声が、少しだけかすれた。
『それから六年。誰も引き取りに来なかった。俺は、年に一度、保管室の棚卸しの時に、その石を見てた。ずっと、同じ色で光ってた』
「濁っていなかったの?」と、ほむらが問う。
『濁る? いや。いつ見ても、澄んでた。最初に見つけた時と、まったく同じ色だった』
ほむらとワスは、顔を見合わせた。
窓際で、キュゥべえが、ゆっくりと尻尾を揺らした。
『問題は、防犯カメラの映像だ』
ダンが言った。
『保管室の前の廊下のカメラに、一瞬だけ、人が映ってた。〇・三秒くらいだ。次のフレームには、もういない。今、そっちに画像を送る』
ほむらの電話が、短く震えた。
画像を開いた。
粗い、白黒の映像だった。蛍光灯に照らされた、FBIの廊下。その真ん中に、少女が一人、立っていた。
短い髪。白いマントのようなものを羽織っている。腰に、剣のようなものを下げていた。
カメラのほうを、ちらりと見上げていた。
顔は、はっきりとは映っていなかった。それでも、ほむらには分かった。
『容姿は、日本人に見える』とダンが言った。『年齢は、キミたちと同じくらいだ。心当たりはないか?』
ほむらは、画像を見つめたまま呟いた。
「……さやか?」
ワスが、ほむらの肩越しに画像を覗き込んだ。
『知り合いか?』
「昔、一緒に戦ってた」
ほむらの声は、静かだった。
「でも、彼女は、円環に還ったはずよ」
『円環?』
「……十年前に、いなくなったの。遺体も残さずに」
電話の向こうで、長い沈黙があった。
『ナジェージダ・ソコロワと、同じか』
「ええ」
『また、それか』
ダンは、深いため息をついた。
『分かった。こっちでも、映像の解析を続ける。何か分かったら連絡してくれ。それと――』
ダンは、少しだけ言葉を探した。
『あの石は、六年間、誰にも引き取られなかった。俺の棚の上で、ずっと一人だった。どこへ行ったにしても、ちゃんとした場所へ行ってくれてるといいんだがな』
電話が切れた。
ほむらは、画像をもう一度見た。
白黒の、粗い映像。カメラを見上げる、短い髪の少女。
美樹さやか。
見滝原で、一緒に戦った。マミと、杏子と、ほむらと、さやか。四人で魔獣を狩っていた。さやかは、いつも真っ先に飛び出していって、いつも誰かを守ろうとしていた。
そして、ある夜、いなくなった。
導かれたのだと、マミは言った。円環の理に。
ほむらは、その夜のことを、よく覚えていない。覚えているのは、そのあと、自分が毎晩、誰かを探すように街を歩いていたことだけだった。
誰を探していたのか、分からなかった。さやかではなかった気がする。
「ほむら」
ワスが、隣に座った。
「大丈夫ですの?」
「……大丈夫」
ほむらは、電話を置いた。
「さやかが、どうしてFBIの保管庫に」
キュゥべえが、窓辺から言った。
「濁らないソウルジェムは、円環の理の対象外のはずだ。円環の理は、ソウルジェムが濁りきる直前の魔法少女を迎えに来る。濁らないなら、迎えは来ない」
「じゃあ、どうして」
「誰かが、その子のことを気にかけていたのかもしれないね。円環の理の側に」
ほむらは、キュゥべえを見た。
「そんなこと、あるの?」
「僕には分からないよ」キュゥべえは、首をかしげた。「円環の理は、僕らには観測できない。あの湖の夜までは、そもそも存在するかどうかも確かめられなかったんだから」
ワスは、黙って、窓の外の暗い平原を見ていた。
午前二時を過ぎた頃だった。
ほむらは、眠っていなかった。ベッドに横になって、天井を見ていた。隣のベッドで、ワスの静かな寝息が聞こえていた。
窓の外で、何かが光った。
青い光だった。ほんの一瞬。
ほむらは、ベッドから起き上がった。枕元の拳銃に手を伸ばして、止めた。
なぜか、銃は要らない気がした。
カーテンの隙間から、外を見た。
モーテルの駐車場の、ピンクのマスタングのボンネットの上に、誰かが座っていた。
短い髪。白いマント。腰に下げた剣。
膝の上で、両手で、何かを包んでいた。指の隙間から、淡い光がこぼれていた。
少女が、顔を上げた。
窓越しに、ほむらと目が合った。
少女は、困ったように笑った。それから、小さく片手を挙げた。
「よっ」
声は、窓ガラスを通して、頭の中に直接響いた。
「久しぶりだね、転校生」
ほむらは、拳銃を枕元に置いたまま、部屋を出て駐車場のアスファルトを歩いた。
昼間の熱は、もうすっかり抜け、夜の砂漠の空気が、薄いシャツを通して肌を冷やした。
さやかは、マスタングのボンネットの上に座って、足をぶらぶらさせていた。
白いマント。腰の剣。短い青い髪。十年前と、何も変わっていなかった。
「……久しぶり」とほむらが言った。
「よっ」さやかは、片手を挙げた。「元気そうじゃん。ちょっと背、伸びた?」
「伸びてない」
「だよね」
さやかは、くすりと笑った。
「十年ぶりよ」
「あたしにとっては、昨日みたいなもんなんだけどね。向こうは、時間の流れ方がちょっと違うからさ」
ほむらは、マスタングの横に立った。ボンネットに手をつこうとして、やめた。
「なぜ、あなたは、こっちに来たの」
「これが、今の役目だからね」
「役目?」
「迎えに行くのが、あたしの仕事。普通のやり方じゃ迎えに行けない子のところへ」
ほむらは、さやかの顔を見た。
「雇い主は?」
さやかは、少しだけ目を丸くした。それから、肩をすくめた。
「それは、守秘義務があって言えない」
「……雇い主が、いるのね」
「おっと」さやかは、人差し指を立てた。「それ以上は、ダメだからな」
風が、平原を渡っていった。
遠くの国道を、トラックが一台、ヘッドライトを光らせて通り過ぎていった。
さやかは、しばらく黙って、ほむらの顔を見ていた。
じっと。何かを探すように。
ほむらは、その視線が落ち着かなかった。
「何?」
「……あんたは」
さやかの声が、少しだけ低くなった。
「何?」
ほむらは問い返したが、さやかは無言だった。
一瞬だけ、ひどく寂しそうな顔をした。
それから、すぐにいつもの顔に戻った。
「なんでもない」
さやかは、膝の上で包んでいた両手を、ゆっくりと開いた。
手のひらの上に、卵の形の宝石が乗っていた。
淡い、澄んだ色だった。濁りは、ひとかけらもなかった。月の光を受けて、ガラスのように透き通っていた。
「エミリー」とさやかが言った。「エミリー・カーター。六年間、FBIの棚の上にいた子」
ほむらは、宝石を見つめた。
頭の中に、声が響いた。
『……だれ?』
平坦な声だった。抑揚が、まったくなかった。怖がっているのでも、喜んでいるのでもなかった。
「ほむら。暁美ほむら」
『そう』
声は、それきり何も言わなかった。
「この子ね」さやかが言った。「契約の時に、願ったんだって。痛いのを、感じたくないって」
ほむらは、何も言わなかった。
「家で、いろいろあったみたい。詳しくは、聞いてない。聞かなくても、分かったから」
さやかは、宝石を見下ろした。
「願いは、ちゃんと叶った。この子は、何も感じなくなった。痛いのも、怖いのも、悲しいのも」
「……だから、濁らない」
「そう。絶望しないから、濁らない。濁らないから、あたしたちは迎えに行けない」
さやかは、宝石を、そっと包み直した。
「火事で、体はなくなった。宝石だけが残った。FBIの人が拾って、箱にしまって、棚に置いた。それから六年。この子は、真っ暗な箱の中で、ずっと一人だった」
『暗くは、なかった』
エミリーの声が言った。
『何も、感じなかったから』
さやかの手が、少しだけ強く、宝石を握った。
「ずっと、気になってたんだ」とさやかは言った。「向こうからは、この子が見えてた。ずっと、一人で光ってるのが」
「迎えに行けないのに?」
「迎えに行けないのに」
さやかは、夜空を見上げた。
「だから、昨夜、無理やり箱から出してきた。少なくとも、あんな暗い棚の上よりはましだと思って」
「それから?」
「それから、どうしたらいいか、分かんなくてさ」
さやかは、困ったように笑った。
「あたしの役目は、迎えに行くこと。でも、迎えに行けない子もいる。連れて帰れない。かといって、また棚に戻すのも嫌だった」
さやかは、ほむらを見た。
「なんでか分かんないけど、ここに来たら、何とかなる気がしたんだよね」
ほむらは、エミリーの宝石を見ていた。
痛みを感じたくないと願って、本当に何も感じなくなった少女。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
なぜ痛むのか、分からなかった。
モーテルの部屋のドアが、開いた。
ワスが、出てきた。
肩に、モーテルの毛布を羽織っていた。両手に、魔法瓶と、紙コップを三つ持っていた。
「夜の砂漠は冷えますわ」
ワスは、ボンネットの横まで歩いてきた。紙コップを並べて、紅茶を注いだ。湯気が、冷たい夜気の中に白く立ちのぼった。
「お二人とも、どうぞ」
ほむらが、姉を見た。
「……いつから起きてたの」
「さあ。なんとなく、ですわ」
紙コップは、三つあった。
ワスは、一つをほむらに渡した。それから、もう一つを、さやかに差し出した。
さやかは、ワスの顔を見た。
ほむらと、同じ顔を。
ほんの一瞬、何かを言いかけたように見えた。目が、わずかに見開かれていた。
それから、さやかは、何も言わずに紙コップを受け取った。
一口、すすった。
「……うま。あんた、紅茶淹れるの上手いね」
「ありがとうございます。暁美ワスと申します。ほむらの姉ですわ」
「姉、ね」さやかは、紙コップの縁を指でなぞった。「……そっか。美樹さやか。こいつの、昔の仲間」
「存じておりますわ。マミさんから、よく伺っております」
「マミさん、元気?」
「ええ。お元気ですわ。深夜でも、電話に出てくださいます」
さやかは、少しだけ笑った。
「相変わらずだなあ、あの人」
ワスは、さやかの手の中の宝石を見た。
「その方が、エミリーさん?」
「うん」
「少し、お話をしてもよろしいかしら」
さやかは、少しためらってから、宝石をワスの手のひらに乗せた。
ワスは、宝石を両手で包み込んだ。
自分の体温を、分けるように。
「はじめまして、エミリーさん。ワスと申します」
『……はじめまして』
平坦な声だった。
「寒くは、ありませんか?」
『分からない』
長い間があった。
『あなたの手、温かいんでしょう?』
「ええ。たぶん」
『分からないの。痛くないけど、何も分からない』
ワスは、手を離さなかった。
「温かさを、感じたいと、思いますか」
長い、長い沈黙があった。
風が、平原を渡っていった。
『……それって』
エミリーの声が、ほんの少しだけ、揺れたように聞こえた。
『痛いのも、戻ってくるってこと?』
「ええ。たぶん」
エミリーは、答えなかった。
ワスは、宝石を包んだまま、静かに言った。
「お返事は、急がなくて結構ですわ」
それから、さやかのほうを向いた。
「この方は、私がお預かりいたします」
さやかは、ワスを見た。
「いつまで?」
「この方が、もう一度、何かを感じられるようになるまで」
さやかは、少しのあいだ黙っていた。
それから、頭をかいた。
「……あんたが言うと、本当にそうなりそうな気がするね」
「そうなりますわ。時間は、かかるかもしれませんけれど」
さやかは、ボンネットから飛び降りた。マントが、夜風に揺れた。
「ごめんね、エミリー」さやかは、ワスの手の中の宝石に向かって言った。「あたしじゃ、連れて行けなかった。でも、いつか、ちゃんと迎えに来るから。その時は、手、握ってよね」
『……うん』
さやかは、ほむらの前に立った。
「じゃ、あたしは帰るわ」
「……もう?」
「長居すると、上に怒られるんだよね」
さやかは、人差し指を立てて、ほむらの額を軽く突いた。
「さっきの雇い主の話。本当に頭のいい奴は、聞かなかったことにするもんだよ」
ほむらは、額を押さえた。
「……さやか」
「何?」
ほむらは、何かを言おうとした。言葉が出てこなかった。
さやかは、少しだけ笑った。それから、ワスのほうを向いた。
ワスが、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「……何のこと?」
「さあ。なんとなく、ですわ」
さやかは肩をすくめて、もう一度だけ、少し笑った。
「あんたも、苦労してるね」
青い光が、一瞬だけ、駐車場を照らした。
ほむらが瞬きをした時には、ボンネットの上には、誰もいなかった。
紙コップが一つ、ボンネットの上に置かれていた。紅茶は、きれいに飲み干されていた。
朝になると、砂漠の空は、どこまでも青かった。
ワスは、モーテルの向かいの小さな雑貨屋で、細い銀の鎖を一本買った。インディアンの手工芸品を並べた、古い店だった。店主の老婆は、ワスが鎖を選ぶのを、黙って見ていた。
モーテルの部屋に戻ると、ワスは、エミリーの宝石を小さな銀の留め具で鎖に通した。
それから、自分の首にかけた。
宝石は、ワスの胸元の、ちょうど心臓の上あたりに下がった。古いロザリオの隣に。
「ここなら、いつも温かいでしょう」
『……分からない』
「ええ。それで、よろしいのですわ」
ほむらは、ベッドの端に座って、それを見ていた。
姉の胸元で、澄んだ宝石が、朝の光を受けて小さく光っていた。
ほむらは、目を逸らした。
キュゥべえが、テーブルの上に跳び乗った。
赤い目が、ワスの胸元の宝石を、じっと見ていた。
「濁らないソウルジェムは、前例がない」
キュゥべえは言った。
「契約の願いが、絶望そのものを遮断している。感情エネルギーの回収という観点から見れば、完全な欠陥品だ。でも、観測対象としては、これ以上ないほど興味深い」
ワスは、宝石に手を当てた。
「それで?」
「僕に、預けてくれないかな」
部屋の中が、静かになった。
ほむらの右手が、枕元の拳銃に伸びていた。
「冗談だよ」とキュゥべえは言った。
それから、少しだけ首をかしげた。
「半分はね」
銃声が、モーテルの部屋に響いた。
「ほむら。朝から、お部屋の中ですわよ」
「隣は空室だった」
「そういう問題ではございません」
テーブルの上に、もうキュゥべえはいなかった。窓際に、新しい個体が、いつものように座っていた。
ワスは、ダンに電話をかけた。
『ああ。何か分かったか』
「ええ。あの宝石は、今、私の手元にございますわ」
電話の向こうが、静かになった。
『……どこで』
「昨夜、昔の仲間の方が、届けてくださいましたの。ほむらの、十年前のお友達ですわ」
『防犯カメラの子か』
「ええ」
ダンは、長いあいだ黙っていた。
『それは、返却されるべき証拠品だ』
「存じております」
『FBIの保管庫から持ち出されたものを、外国のエージェントが私的に所持することは――』
ダンの声が、途中で止まった。
それから、深いため息が聞こえた。
『あの石は、まだ光ってるか』
「ええ。とても、きれいに」
『そうか』
また、沈黙があった。
『……君たちが持ってるほうが、まだましだろう』
ワスは、何も言わなかった。
『紛失届を出しておく。保管室の管理不備ということにする。俺の始末書が一枚増えるだけだ』
「ご迷惑を、おかけします」
『いいんだ』
ダンは、少しだけ言葉を探した。
『あの子に、伝えてくれるか。……聞こえるのか、あの子に』
「ええ。私たちの言葉なら」
『六年も、棚に置いたままにして、すまなかった、と』
ワスは、胸元の宝石に手を当てた。
「エミリーさん。あなたを保管庫で預かっていらした、ウィテカーさんという方からですわ。六年間、棚に置いたままにして、すまなかった、と」
長い沈黙があった。
『……暗くは、なかった』
エミリーの声は、相変わらず平坦だった。
『何も、感じなかったから』
それから、少しだけ間があった。
『でも、年に一回、箱が開いた』
ワスの手が、止まった。
『光が、入ってきた。誰かが、のぞいてた。それだけ、覚えてる』
ワスは、目を閉じた。
それから、電話に向かって、ゆっくりと言った。
「エミリーさんが、おっしゃっています。年に一度、箱が開いて、光が入ってきた、と。誰かが、のぞいていた。それだけは、覚えている、と」
電話の向こうから、何の音も聞こえなかった。
長い、長い沈黙だった。
『……そうか』
ダンの声は、かすれていた。
『そうか』
それきり、ダンは何も言わずに、電話を切った。
「エッグカートンには、ご報告しないでおきましょう」
マスタングの助手席で、ワスが言った。
「当然」と、ほむらは答えた。
「濁らないジェムのことが知れたら、研究の対象として回収されてしまいますわ」
「キュゥべえみたいなのが、お役所にもいる」
「ええ」
ワスは、胸元の宝石に、指で触れた。
「それに、闇の市場の方々にも、知られるわけにはまいりませんわね」
「一個で、家が三軒」
「この子なら、三軒では済みませんでしょうね」
ほむらは、前を見たまま、ハンドルを握り直した。
国道は、まっすぐに西へ伸びていた。両側に、赤茶けた岩山と、乾いた灌木の平原が広がっていた。
ワスは、走る車の中で、エミリーに話しかけ続けた。
「左手に、大きな岩山が見えますわ。赤くて、上が平らで、テーブルのような形をしております」
『ふうん』
「空が、とても青いのですよ。日本の空より、ずっと高く見えますわ」
『そう』
「先ほど、鷹が一羽、飛んでいきましたわ」
『見えた』
ワスが、少しだけ目を見開いた。
「見えましたの?」
『見えるよ。感じないだけ』
「では、どう見えましたの?」
長い間があった。
『……分からない。見えたけど、何も思わなかった』
「ええ。それで、よろしいのですわ」
ほむらは、黙って運転していた。
ワスは、エミリーに話しかけ続けた。岩山のこと。雲のこと。道端の、錆びた古い看板のこと。
ほむらは、一度も口を挟まなかった。
昼過ぎに入った国道沿いのダイナーで、ほむらは、いつものように一番奥の、入口の見える席に座った。
ワスが、その隣に座った。
いつもなら、二人のあいだには、拳一つ分くらいの隙間があった。
その日、ほむらは、肩が触れるほど近くに座っていた。
ワスは、何も言わなかった。
料理が来るまでのあいだ、ワスはまた、胸元の宝石に話しかけていた。
「この店のパイは、とても有名なのですって。チェリーではなくて、ピーカンだそうですわ」
ほむらが、ワスの袖を、小さく引いた。
「何かしら」
「……別に」
ワスは、少しだけ首をかしげた。それから、また宝石のほうへ目を落とした。
ほむらは、自分のフライドポテトを三本、黙って姉の皿に移した。
頼まれてもいないのに。
キュゥべえが、テーブルの端で言った。
「ほむら。昨夜から、ワスとの身体的接触が、明らかに増えているね。あのジェムを預かってからだ」
「黙って」
「人間の言葉で言えば、嫉妬に近い状態かな」
ほむらの右手が、ガンベルトに伸びた。
「ほむら。お店の中ですわよ」
「分かってる」ほむらは、手を下ろした。「外に出てから撃つ」
ワスの胸元で、宝石が、小さく光った。
『ねえ』
エミリーの声だった。
『その子、さっきから、ずっとこっち見てる』
ワスは、隣の妹を見た。
ほむらは、確かに、姉の胸元の宝石を見ていた。じっと。何かを睨むように。
『怒ってるの?』
ほむらの頭の中にも、その声は聞こえた。
ほむらは、少しだけ顔をしかめた。
「……怒ってない」
『そう』
少しの間があった。
『変なの』
ワスは、口元を手で押さえた。
肩が、小さく震えていた。
「姉さん、笑わないで」
「笑っておりませんわ」
「笑ってる」
ワスは、もう我慢できずに、小さく声を立てて笑った。
ほむらは、むっとした顔のまま、ピーカンパイを一口食べた。
その夜、マスタングの助手席で、ほむらは眠っていた。
気がつくと、ほむらの頭は、運転席の姉の肩に預けられていた。
ワスは、片手でハンドルを握ったまま、もう片方の手で、胸元の宝石を包んでいた。
国道の先に、町の灯りが見えてきた。
ワスは、宝石を包んでいた手を離して、そっと妹の髪を撫でた。
痛みを感じない少女と、痛みを感じ始めた妹。
両方を抱えて、ワスは、少しだけ微笑んだ。
シアトル支局の机の、一番下の引き出しに、紙が一枚増えた。
新聞の切り抜きではなかった。
〈証拠品紛失届(控)〉
品名欄には、こう書かれていた。〈宝石(卵形)一点。タコマ住宅火災(六年前)現場より押収〉
紛失理由の欄は、空白のままだった。
ダンは、その紙を、切り抜きの束の一番上に置いた。
それから、引き出しを閉めずに、しばらく見ていた。
年に一回、箱が開いた。
光が、入ってきた。
ダンは、目を閉じた。
それから、ゆっくりと引き出しを閉めた。
----
「証拠品保管室で、もう十二年働いてます。
年に一度の棚卸しの日には、捜査官が自分の担当の証拠品を確認しに来るんです。たいていは、書類と照らし合わせて、五分で終わります。
ウィテカー捜査官だけは、毎年、一つの箱の前で、長いこと立ってました。タコマの火事の、あの宝石の箱です。
箱を開けて、中をのぞいて。何も言わずに、しばらく見てて。それから、蓋を閉めて、帰っていく。
一度だけ、何を見てるんですかって聞いたことがあります。
『さあな』って言われました。『誰かが見てやらないと、寂しいだろう』って。
石が寂しがるわけないのに、って、その時は思いました。
あの宝石がなくなったって聞いた時、なぜか、ちょっとほっとしたんです。変ですよね」
――FBIシアトル支局 証拠品保管室 職員、四十四歳
この作品お読みいただき、ありがとうございます。
二人と一匹(+1)の旅が、幸多からんことを祈って、この話は終わりといたします。