CODE: CYCLE ―暁美姉妹の超常現象調査ファイル― 作:ヒロセカズヒ
ダンの車が見えなくなってから、十分ほど経った頃だった。
ワスが、バックミラーに目をやった。
三台後ろに、灰色のSUVがいた。ワシントン州のナンバー。レンタカー会社のステッカー。二人乗っている。ガソリンスタンドを出てから、ずっと同じ距離を保っていた。
「ほむら」
「分かってるわよ。……撒いてもいいけど」
「撒いてはいけませんわ」
「分かってる。見せておかないと」
ほむらはアクセルを緩めた。灰色のSUVとの距離が、少しずつ縮まっていく。
「日本のエージェントが、なぜか勝手に出張ってきた。アメリカは何も知らない」
「ええ。そういうお話ですもの」
ワスは、窓の外の針葉樹を眺めた。
「この車の色も、こういう時には役に立ちますわね」
「最初からそのつもりだった」
「嘘ばっかり」
次の交差点の赤信号で、灰色のSUVが真後ろに止まった。
ワスは助手席の窓を下ろし、日傘を少し傾けて振り返った。運転席の男と、目が合った。
ワスは、にっこりと微笑んで、小さく手を振った。
信号が青に変わった。
「なんか、スパイ映画みたいになってる」と、ほむらが言った。
「ワクワクしませんこと?」
「……姉さん?」
「冗談ですわよ」
「まったく」
ほむらはハンドルを握り直した。自分たちの仕事は魔獣を狩ることだ。誰かに姿を見せるためにわざと速度を落とすことでも、知らない男に手を振ることでもない。
後部座席で、キュゥべえが尻尾を揺らした。
「でも君たち、けっこう向いてると思うよ」
「黙って」
ナジェージダが写っていた道は、町から北へ二十キロほど入った森の中にあった。
二車線の舗装路。両側に、空を隠すほどの針葉樹。路肩の土は湿っていて、苔の匂いがした。ストリートビューの画像と、角度まで同じ場所を見つけるのに、三十分かかった。
何もなかった。
路肩には、少女が立っていた痕跡も、誰かが通った跡もない。霧が、木々の間をゆっくりと流れていくだけだった。
ほむらは、画像の中の少女が立っていた場所に、自分で立ってみた。
少女が見ていた方向を、見た。
道の先。カーブの向こう。木々の切れ間から、湖の水面がわずかに光っている。
「何かあるのかしら」
ワスが隣に来て、同じ方向を見た。
「行ってみる」
「その前に」ワスは、ほむらの手からガンベルトの留め具を外させた。「町で、少しお話を聞いてまいりましょう。地元の方のほうが、地図より詳しいものですわ」
町は小さかった。
ガソリンスタンドが一軒。雑貨屋が一軒。ダイナーが一軒。教会が一つ。製材所は十年前に閉まって、看板だけが残っていた。
聞き込みは、ワスの仕事だった。
雑貨屋の老人は、最初の五分は天気の話をした。次の五分は、亡くなった奥さんの話をした。ワスは、そのどちらも同じように熱心に聞いた。十五分目に、老人は自分から言った。
「去年の秋だったかな。森の道で、変な格好の女の子を見たって話があったよ」
「変な格好、と申しますと?」
「古臭いコートだよ。俺が若い頃に流行ったようなやつだ。郵便配達のジムが見たって言ってた。車を停めて声をかけようとしたら、もういなかったってさ」
「その方は、どちらに?」
「ジムかい? 今年の春に、娘のいるアリゾナに越していったよ」
ガソリンスタンドの若い店員も、同じ噂を知っていた。知っているだけで、自分では見ていなかった。保安官助手は、そもそも通報は一件もなかったと言った。
誰も、深くは覚えていなかった。
まるで、思い出そうとすると、記憶のほうが霧の中に後ずさりしていくようだった。
ほむらは、ダイナーの窓際でコーヒーを飲みながら、外を見ていた。
道の向かいに、灰色のSUVが停まっていた。エンジンはかけたままだった。
「湖のほとりに、古い建物があるでしょう」
最後に話を聞いた教会の牧師が、そう教えてくれた。
「昔は、湖畔の保養所でした。私が子供の頃に閉鎖されたんです。その後は、政府の何かに使われていた、という噂もありましたが」
「政府の、何か」
「誰も、本当のことは知りません」牧師は穏やかに笑った。「小さな町は、知らないことにしておくのが上手なんですよ」
ワスは、礼を言って教会を出た。
マスタングに戻ると、ほむらが運転席で地図を広げていた。湖のほとりに、小さな四角が一つ記されている。名前はない。
「三十年前の、保護施設」
「ええ。ナジェージダさんが、亡くなったことになっている場所ですわね」
ほむらは地図を畳んだ。
「あの子は、道に立って、そっちを見てた」
保養所は、湖の東岸に建っていた。
二階建ての木造。屋根の一部が落ちている。窓ガラスはほとんど割れていて、玄関の扉には、色あせた立入禁止の札が下がっていた。フェンスは錆びて、ところどころ倒れていた。
日が傾き始めていた。
湖の向こうの山の稜線に、薄い夕焼けがにじんでいる。森の中は、もう夜の色になりかけていた。
ほむらは、玄関の前に立って、建物を見上げた。
何もいない。何の気配もない。
なのに、首の後ろが冷たかった。
キュゥべえが、玄関の階段の上に跳び乗った。
「魔獣の気配はないね」
「見れば分かる」
「つまり、君たちの専門外だよ。撃っても、どうにもならない」
ほむらは答えなかった。ガンベルトの拳銃に、無意識に手が伸びていた。それに気づいて、手を下ろした。
ワスは、建物ではなく、湖のほうを見ていた。
「ほむら」
「何?」
「ここ、どこかに似ていませんこと?」
「どこに?」
ワスは少し黙った。
「……分かりません。言ってみただけですわ」
風が湖を渡ってきて、割れた窓の間を抜けていった。古い建物が、どこかでかすかに軋んだ。
ほむらは、来た道を振り返った。
森の入口の、木々の陰に、灰色のSUVが停まっていた。ヘッドライトは消えていた。
「待つの?」と、ほむらは聞いた。
「待ちましょう」ワスは、日傘を畳んだ。「迷子は、日が暮れてから帰ってくるものですわ」
ほむらは、玄関の階段に腰を下ろした。入口ではなく、森の道が見える位置に。
ワスは、その隣に座った。
湖の上で、最後の光が消えた。