CODE: CYCLE ―暁美姉妹の超常現象調査ファイル― 作:ヒロセカズヒ
夜の湖は、音を立てなかった。
月は雲の向こうにあった。保養所の割れた窓の奥は、どこまでも暗い。森の中で、ときどき枝の折れる音がした。鹿か、それとも灰色のSUVの男たちか。
ほむらは階段に座ったまま、二時間、ほとんど動かなかった。
ワスは途中で一度、魔法瓶の紅茶を妹に渡した。ほむらは受け取って、一口だけ飲んで、返した。
キュゥべえは、玄関の手すりの上で丸くなっていた。眠っているのかどうかは、誰にも分からなかった。
十一時を過ぎた頃だった。
ほむらが、顔を上げた。
森の道に、誰かが立っていた。
ヘッドライトも、懐中電灯もない。それなのに、その姿だけが、闇の中でぼんやりと見えた。古い型のダッフルコート。毛糸の帽子。色の薄い髪が、帽子の下からこぼれている。
ストリートビューの画像と、同じだった。
少女は、こちらを見ていなかった。保養所の建物を見上げていた。迷子の子供が、見覚えのある家を探すときのような目で。
ほむらは、ゆっくりと立ち上がった。手は、銃に伸ばさなかった。
ワスが、先に階段を降りていった。
近くで見ると、少女の輪郭は、わずかに揺らいでいた。霧の中の灯りのように、縁がにじんでいる。足元の草は、少女の重みで倒れていなかった。
ワスは、三歩ほど手前で立ち止まった。
「こんばんは」
少女が、こちらを向いた。
色の薄い目だった。焦点が、どこにも合っていなかった。
『……ここは、どこ?』
声は、耳ではなく、頭の中に響いた。ロシア語だった。それなのに、意味はまっすぐに伝わってきた。
『わたし、帰らなきゃいけないの。でも、どこに帰ればいいのか、分からない』
少女は、自分の手を見下ろした。手袋をしていない手。指先が、少しだけ透けていた。
『わたしは、だれ?』
ほむらは、背後で息を止めていた。
ワスは、もう一歩だけ近づいた。少女の目線に合わせて、膝を少し折った。
「ナジェージダ」
少女の肩が、わずかに震えた。
「ナジェージダ・ソコロワ。それが、あなたのお名前ですわ」ワスは、ゆっくりと言った。「希望、という意味の、とても良いお名前」
『……ナジェージダ』
少女は、その名前を口の中で転がした。初めて聞く言葉を確かめるように。それから、遠い昔に失くしたものを見つけたように。
『そう。わたし、ナージャって呼ばれてた』
「ええ」
ワスは、静かに続けた。
「あなたは、ずっと昔に、円環の理へ行った魔法少女ですわ」
少女の目に、少しずつ焦点が戻ってきた。
『魔法……』
少女は、保養所を見上げた。割れた窓。落ちた屋根。三十年分の雨と雪。
『そうね。そうだったわ』
声が、少しだけはっきりした。
『わたし、ここにいたの。国を捨てて、逃げてきて。みんな親切だった。でも、誰にも本当のことは言えなかった』
少女は、自分の胸に手を当てた。コートの下、ちょうど心臓のあたりに。
『戦ってたの。ひとりで。この森で。誰にも言えないまま』
『それで、冬になって……ソウルジェムが、どんどん濁っていって。動けなくなって。あの部屋で、ひとりで、ベッドに横になって』
少女は、二階の端の窓を見た。ガラスのない、黒い四角を。
『怖かった。このまま、何か、とても悪いものになってしまうんだと思った』
『そうしたら……』
少女は、言葉を探すように黙った。
『誰かが、来てくれたの』
ほむらの指先が、ぴくりと動いた。
『とても優しい誰か。手を、握ってくれた。もう大丈夫だよって。……ああ、そうだった』
少女の顔に、初めて、表情らしいものが浮かんだ。
『わたし、ちゃんと、迎えに来てもらってたんだ』
最初は、霧の色が変わっただけだった。
湖の上を漂っていた白い霧が、ゆっくりと、ほんのりと色づいていく。夜明けの最初の光のような、淡い桃色に。
光は、どこから来ているのでもなかった。霧そのものが、内側から灯っていた。
キュゥべえが、手すりの上で身を起こした。
桃色の靄が、少女の足元から立ちのぼっていく。ダッフルコートの裾を包み、手袋のない指を包み、毛糸の帽子からこぼれた髪を包んでいく。
少女は、怖がらなかった。
ワスに向かって、小さく頭を下げた。
『名前を、ありがとう』
それから、ほむらのほうを見た。
なぜ自分を見たのか、ほむらには分からなかった。少女は、何かを言いかけた。けれど、言わなかった。ただ、少しだけ不思議そうに、ほむらの顔を見ていた。
まるで、知っている誰かの面影を、そこに見つけたかのように。
靄が、少女の全身を包んだ。
そして、何もなくなった。
湖の上の霧は、もう白に戻っていた。森の道には、誰も立っていなかった。足元の草は、最初から一本も倒れていなかった。
キュゥべえが、手すりの上で、ゆっくりと尻尾を振った。
「これが、円環の理か」
その声には、いつもと同じように、何の感情もなかった。
「興味深い」
森の入口で、灰色のSUVの中の男が、双眼鏡を下ろした。
「今、湖の上が光ったな」
「光った」
「何色だった」
助手席の男は、少し考えた。
「……ピンクだ」
二人は顔を見合わせた。どちらも、それ以上は何も言わなかった。
ほむらは、自分が泣いていることに、しばらく気がつかなかった。
頬が冷たかった。手で触れて、濡れていると分かった。
涙が、止まらなかった。
「ほむら?」
ワスの声が、遠くに聞こえた。
ほむらは、首を振った。何か言おうとした。言葉が出てこなかった。喉の奥で、何かがせき止められていた。
胸の中で、何かが大きく揺れていた。それが何なのか、分からなかった。名前のない何かが、とても近くまで来て、そしてまた遠ざかっていった。それだけが分かった。
「分からない」
声が、ひび割れた。
「でも、すごく寂しくて、愛おしくて……でも、分からない!」
ほむらは、自分の胸を掴んだ。
「どうして分からないの! どうして涙が流れるの! 分からないのに……何も分からないのに! 私は、何を忘れてしまったの!」
ワスは、何も答えなかった。
妹を、抱きしめた。
ほむらの小さな体が、腕の中で震えていた。ワスは、その背中に手を当てた。撫でることも、叩くこともしなかった。ただ、そこに手を置いていた。
「人は、忘れなくてはいけないこともあるのですよ」
ワスは、静かに言った。
「忘れた自分を、責めてはいけません」
「でも……でも……」
ほむらの声は、ワスの肩に吸い込まれて、消えた。
湖は、何も答えなかった。
マスタングの後部座席で、ほむらは眠っていた。
泣き疲れて、子供のように丸くなって。頬に、涙の跡が残っていた。
ワスは運転席には座らず、後部座席の端に腰かけて、妹の頭を膝に乗せていた。黒い髪を、指で梳いていた。
キュゥべえは、助手席のヘッドレストの上にいた。
窓の外は、まだ暗かった。森の入口の灰色のSUVは、いつの間にかいなくなっていた。
ワスは、妹の髪を撫でながら、もう一度だけつぶやいた。
「……忘れた自分を、責めてはいけません」
誰に向けた言葉なのか、ワス自身にも分からなかった。