CODE: CYCLE ―暁美姉妹の超常現象調査ファイル―   作:ヒロセカズヒ

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CASE 01:ストリートビューの亡命者4

夜の湖は、音を立てなかった。

月は雲の向こうにあった。保養所の割れた窓の奥は、どこまでも暗い。森の中で、ときどき枝の折れる音がした。鹿か、それとも灰色のSUVの男たちか。

ほむらは階段に座ったまま、二時間、ほとんど動かなかった。

ワスは途中で一度、魔法瓶の紅茶を妹に渡した。ほむらは受け取って、一口だけ飲んで、返した。

キュゥべえは、玄関の手すりの上で丸くなっていた。眠っているのかどうかは、誰にも分からなかった。

十一時を過ぎた頃だった。

ほむらが、顔を上げた。

森の道に、誰かが立っていた。

ヘッドライトも、懐中電灯もない。それなのに、その姿だけが、闇の中でぼんやりと見えた。古い型のダッフルコート。毛糸の帽子。色の薄い髪が、帽子の下からこぼれている。

ストリートビューの画像と、同じだった。

少女は、こちらを見ていなかった。保養所の建物を見上げていた。迷子の子供が、見覚えのある家を探すときのような目で。

ほむらは、ゆっくりと立ち上がった。手は、銃に伸ばさなかった。

ワスが、先に階段を降りていった。

近くで見ると、少女の輪郭は、わずかに揺らいでいた。霧の中の灯りのように、縁がにじんでいる。足元の草は、少女の重みで倒れていなかった。

ワスは、三歩ほど手前で立ち止まった。

「こんばんは」

少女が、こちらを向いた。

色の薄い目だった。焦点が、どこにも合っていなかった。

『……ここは、どこ?』

声は、耳ではなく、頭の中に響いた。ロシア語だった。それなのに、意味はまっすぐに伝わってきた。

『わたし、帰らなきゃいけないの。でも、どこに帰ればいいのか、分からない』

少女は、自分の手を見下ろした。手袋をしていない手。指先が、少しだけ透けていた。

『わたしは、だれ?』

ほむらは、背後で息を止めていた。

ワスは、もう一歩だけ近づいた。少女の目線に合わせて、膝を少し折った。

「ナジェージダ」

少女の肩が、わずかに震えた。

「ナジェージダ・ソコロワ。それが、あなたのお名前ですわ」ワスは、ゆっくりと言った。「希望、という意味の、とても良いお名前」

『……ナジェージダ』

少女は、その名前を口の中で転がした。初めて聞く言葉を確かめるように。それから、遠い昔に失くしたものを見つけたように。

『そう。わたし、ナージャって呼ばれてた』

「ええ」

ワスは、静かに続けた。

「あなたは、ずっと昔に、円環の理へ行った魔法少女ですわ」

少女の目に、少しずつ焦点が戻ってきた。

『魔法……』

少女は、保養所を見上げた。割れた窓。落ちた屋根。三十年分の雨と雪。

『そうね。そうだったわ』

声が、少しだけはっきりした。

『わたし、ここにいたの。国を捨てて、逃げてきて。みんな親切だった。でも、誰にも本当のことは言えなかった』

少女は、自分の胸に手を当てた。コートの下、ちょうど心臓のあたりに。

『戦ってたの。ひとりで。この森で。誰にも言えないまま』

『それで、冬になって……ソウルジェムが、どんどん濁っていって。動けなくなって。あの部屋で、ひとりで、ベッドに横になって』

少女は、二階の端の窓を見た。ガラスのない、黒い四角を。

『怖かった。このまま、何か、とても悪いものになってしまうんだと思った』

『そうしたら……』

少女は、言葉を探すように黙った。

『誰かが、来てくれたの』

ほむらの指先が、ぴくりと動いた。

『とても優しい誰か。手を、握ってくれた。もう大丈夫だよって。……ああ、そうだった』

少女の顔に、初めて、表情らしいものが浮かんだ。

『わたし、ちゃんと、迎えに来てもらってたんだ』

最初は、霧の色が変わっただけだった。

湖の上を漂っていた白い霧が、ゆっくりと、ほんのりと色づいていく。夜明けの最初の光のような、淡い桃色に。

光は、どこから来ているのでもなかった。霧そのものが、内側から灯っていた。

キュゥべえが、手すりの上で身を起こした。

桃色の靄が、少女の足元から立ちのぼっていく。ダッフルコートの裾を包み、手袋のない指を包み、毛糸の帽子からこぼれた髪を包んでいく。

少女は、怖がらなかった。

ワスに向かって、小さく頭を下げた。

『名前を、ありがとう』

それから、ほむらのほうを見た。

なぜ自分を見たのか、ほむらには分からなかった。少女は、何かを言いかけた。けれど、言わなかった。ただ、少しだけ不思議そうに、ほむらの顔を見ていた。

まるで、知っている誰かの面影を、そこに見つけたかのように。

靄が、少女の全身を包んだ。

そして、何もなくなった。

湖の上の霧は、もう白に戻っていた。森の道には、誰も立っていなかった。足元の草は、最初から一本も倒れていなかった。

キュゥべえが、手すりの上で、ゆっくりと尻尾を振った。

「これが、円環の理か」

その声には、いつもと同じように、何の感情もなかった。

「興味深い」

森の入口で、灰色のSUVの中の男が、双眼鏡を下ろした。

「今、湖の上が光ったな」

「光った」

「何色だった」

助手席の男は、少し考えた。

「……ピンクだ」

二人は顔を見合わせた。どちらも、それ以上は何も言わなかった。

ほむらは、自分が泣いていることに、しばらく気がつかなかった。

頬が冷たかった。手で触れて、濡れていると分かった。

涙が、止まらなかった。

「ほむら?」

ワスの声が、遠くに聞こえた。

ほむらは、首を振った。何か言おうとした。言葉が出てこなかった。喉の奥で、何かがせき止められていた。

胸の中で、何かが大きく揺れていた。それが何なのか、分からなかった。名前のない何かが、とても近くまで来て、そしてまた遠ざかっていった。それだけが分かった。

「分からない」

声が、ひび割れた。

「でも、すごく寂しくて、愛おしくて……でも、分からない!」

ほむらは、自分の胸を掴んだ。

「どうして分からないの! どうして涙が流れるの! 分からないのに……何も分からないのに! 私は、何を忘れてしまったの!」

ワスは、何も答えなかった。

妹を、抱きしめた。

ほむらの小さな体が、腕の中で震えていた。ワスは、その背中に手を当てた。撫でることも、叩くこともしなかった。ただ、そこに手を置いていた。

「人は、忘れなくてはいけないこともあるのですよ」

ワスは、静かに言った。

「忘れた自分を、責めてはいけません」

「でも……でも……」

ほむらの声は、ワスの肩に吸い込まれて、消えた。

湖は、何も答えなかった。

マスタングの後部座席で、ほむらは眠っていた。

泣き疲れて、子供のように丸くなって。頬に、涙の跡が残っていた。

ワスは運転席には座らず、後部座席の端に腰かけて、妹の頭を膝に乗せていた。黒い髪を、指で梳いていた。

キュゥべえは、助手席のヘッドレストの上にいた。

窓の外は、まだ暗かった。森の入口の灰色のSUVは、いつの間にかいなくなっていた。

ワスは、妹の髪を撫でながら、もう一度だけつぶやいた。

「……忘れた自分を、責めてはいけません」

誰に向けた言葉なのか、ワス自身にも分からなかった。

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