CODE: CYCLE ―暁美姉妹の超常現象調査ファイル― 作:ヒロセカズヒ
朝の霧は、前の日と同じように、森から出ていこうとしなかった。
町のダイナーは、六時に開いた。ほむらは、一番奥の、入口の見える席に座った。
目は少し腫れていたが、本人は何も言わなかった。昨夜のことを、何もなかったかのように扱っていた。席に着くなり、鞄からゼリー飲料のパックを取り出した。
ワスは、それを黙って取り上げた。
代わりに、店員にスープを頼んだ。ジャガイモとリーキの、温かいスープだった。
ほむらは文句を言わなかった。スプーンを取って、黙って飲み始めた。
窓の外を、伐採した丸太を積んだトラックが通っていった。灰色のSUVは、どこにもいなかった。
ヘッドレストの上から、キュゥべえが言った。
「ところで、ワス」
「何かしら」
「昨夜、どうして君は、あの子が円環の理へ行った魔法少女だと知っていたんだい?」
ワスは、コーヒーのカップを口元で止めた。
「僕はあの時、何の情報も持っていなかった。ストリートビューの画像と、三十年前の記録だけだ。消えた遺体が円環の理によるものだと推定することはできても、断定はできない。でも君は、迷わなかった」
ワスは、カップを置いた。
「……さあ」
少しだけ、間があった。
「なんとなく、ですわ」
キュゥべえは、それ以上聞かなかった。ただ、赤い目で、しばらくワスの横顔を見ていた。
ほむらは、スープから顔を上げなかった。けれど、スプーンを持つ手が、一瞬だけ止まった。
報告書は、ほむらが書いた。
ダイナーのテーブルの上で、薄いノートパソコンを開いて、決まった書式を埋めていく。案件番号。日時。場所。対象。経過。
結論の欄で、指が止まった。
ワスが向かいから覗き込んだ。何も言わなかった。
ほむらは、短く打ち込んだ。
〈対象地点にて、何らかの魔法の余波により、過去の映像が一時的に再生されたものと推定される。対象人物の生存を示す物証はなし。現地にて現象の消失を確認。継続的な脅威は認められない〉
嘘ではなかった。
三十年前の少女の姿が、三十年前のまま現れて、そして消えた。生きている証拠は、何もない。誰にも証明できないことは、書かなかった。それだけだった。
読む人間が、一番納得しやすい形に整えた。それも、仕事のうちだった。
ほむらは、送信する前に、もう一行だけ書き足そうとした。
――対象は、迷子だった。
カーソルが、点滅していた。
ほむらは、その一行を消した。送信ボタンを押した。
ワスは、何も言わずに、妹のカップにミルクを足した。
昼前に、電話が鳴った。
『報告書、読んだよ』ダンの声だった。『過去の映像の再生、か』
「何か問題が?」
『いや。上は満足してる』電話の向こうで、紙をめくる音がした。『ラングレーも、国務省も、君たちの国の役所もだ。何も起きなかった、ってことでな』
ほむらは、窓の外を見た。霧はようやく晴れかけていて、森の向こうに、湖の水面がわずかに光っていた。
「そう」
『……一つだけ聞いていいか』
「何?」
『昨夜、湖の上が光ったって、地元から一件だけ通報があった。ピンク色だったそうだ』
ほむらは答えなかった。
『報告書には、書いてなかったな』
「書くほどのことじゃなかったから」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
『そうか』
ダンは、それ以上は聞かなかった。
『ロシアの連中も、今朝早くに州を出たよ。向こうも、何も見つけられなかったらしい』
「あちらも、官僚が納得しやすい報告書をお書きになるのでしょうね」ワスが、横から電話に向かって言った。
ダンが、小さく笑った。初めて聞く笑い声だった。
「それと」ワスは続けた。「レイエスさんにも、よろしくお伝えくださいな。給水塔の上は、寒かったでしょうから」
電話の向こうが、静かになった。
『……あいつの名前、誰から聞いた』
「あなたが、給水塔の上でお呼びになっていましたわ」
『八百メートル離れてたんだぞ』
「ええ。存じております」
ダンは、もう一度だけ短く笑った。それから、電話を切った。
シアトル支局の自分の机で、ダン・ウィテカーは、地方紙の小さな記事を切り抜いた。
〈湖畔で謎の発光 気象当局「霧と月光による光学現象か」〉
三行ほどの記事だった。写真もない。誰も読まないような、紙面の隅の記事だった。
ダンは、机の一番下の引き出しを開けた。
中は、空だった。
切り抜きを、そこに入れた。
少しの間、それを見ていた。それから、引き出しを閉めた。
机の上には、まだ片付けていないタブレットがあった。画面を点けると、最後に開いていた画像がそのまま残っていた。
森の道の路肩に、少女が一人、立っている。古い型のダッフルコート。道の先の、どこか遠くを見ている。
十四、五歳。
ダンは、画面を消した。
ピンクのマスタングは、国道を南へ向かっていた。
助手席で、ワスが紙の地図を畳んだ。次の案件の連絡は、まだ来ていなかった。
ほむらは、黙って運転していた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「姉さん」
「何かしら」
「あの子、最後に私を見てた」
「ええ」
「なんでだと思う?」
ワスは、窓の外の針葉樹を眺めた。
「さあ。……あなたが、迎えに来た方に、どこか似ていたのかもしれませんわね」
ほむらは、答えなかった。
ハンドルを握る手に、少しだけ力が入った。
後部座席で、キュゥべえが尻尾を一度だけ揺らした。
しばらく、誰も何も言わなかった。
針葉樹の森が途切れて、道の両側に牧草地が広がり始めた。霧が晴れて、フロントガラスの向こうに、青い空が見えていた。
「ねえ」と、ほむらが言った。
「何かしら」
「この辺で、エルビスサンドを食べられる店はないかしら」
ワスは、ゆっくりと妹のほうを向いた。
「……また、この妹は。あんな冒涜的な食べ物を」
「おいしいじゃない」
「倍の野菜を食べるのでしたら、許可いたしますわ」
「そんなに入らないわ」
「では、ハーフサイズになさいな」
「えー」
ワスは地図を広げ直して、指で道をたどり始めた。
南へ四十キロほど行った町に、ダイナーの印があった。指先で、その印を軽く叩いた。
それから、携帯電話を取り出して、短い文面を打った。
〈ほむら、持ち直しました。自分から食べたいものを言うくらいには〉
送信先は、日本のマミだった。向こうは真夜中のはずだった。返事は、すぐには来なかった。
ワスは電話をしまって、窓の外の牧草地に目をやった。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けていた。
ほむらは、前を向いたまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
ピンクのマスタングは、南へ走っていった。
「あの晩は夜勤でね。十一時過ぎだったかな。湖のほうの空が、一瞬だけピンク色になったんだ。オーロラかと思ったよ。この辺じゃ、まず見られないけどさ。
次の朝、例の二人組がコーヒーを買いに来た。妹のほうの目が、真っ赤に腫れてた。
あの子、なんで泣いてたんだろうな。本人も、分かってないみたいな顔してたよ」
――ガソリンスタンド店員、二十二歳
CASE 01:ストリートビューの亡命者 了
次回は「幕間:マミの記録」です。