CODE: CYCLE ―暁美姉妹の超常現象調査ファイル― 作:ヒロセカズヒ
カリフォルニアの海は、思っていたより冷たい色をしていた。
国道一号線を南へ下って三日目。崖の上の道からは、どこまでも青い太平洋が見えた。ピンクのマスタングの窓を開けると、潮の匂いと、乾いた草の匂いが同時に入ってきた。
ラス・ガビオタスは、小さな海辺の町だった。
浜辺に沿って、サーフショップと土産物屋とタコスの屋台が並んでいる。夏の盛りのはずだった。なのに、通りには人影がまばらだった。
浜辺の入口に、黄色い看板が立っていた。
〈遊泳禁止 サメ目撃情報あり〉
その下に、手書きの紙が貼ってあった。〈再開時期未定 ご迷惑をおかけします 観光協会〉
「サメ、ね」と、ほむらが言った。
「三週間で十四件の目撃情報ですって」ワスが、エッグカートンからの資料を読み上げた。「全長は四メートルから、十二メートルまで」
「十二メートル」
「見る方によって、ずいぶん大きさが違いますのね」
後部座席で、キュゥべえが尻尾を揺らした。
「本物のサメなら、君たちの出番じゃないよ」
「分かってる。だから、それを確かめに来た」
観光協会の会長は、六十代の、日に焼けた男だった。
事務所の壁には、三十年前の浜辺の写真が飾ってあった。人でいっぱいの砂浜。色とりどりのパラソル。
「三週間ですよ」会長は、疲れた声で言った。「夏の三週間。この町は、夏で一年分を稼ぐんです。それが、全部」
「目撃情報について、伺ってもよろしいかしら」
ワスが言うと、会長は机の引き出しから紙の束を出した。
「最初は、サーファーの若い子でした。沖で、大きな影を見たって。次の日には、釣り人。その次は、家族連れの子供」
紙をめくる指が、少し震えていた。
「町の誰かが、ネットに書き込んだんです。それから、あっという間でしたよ。予約は全部キャンセル。うちの店も、隣の店も」
「お店を、お持ちですの?」
「祖父の代からのダイナーです」会長は、壁の写真を見た。「今年の夏が駄目なら、たぶん、閉めることになる」
ほむらは、窓の外の海を見ていた。
青くて、穏やかで、何も変わったところはなかった。
浜辺を見下ろす崖の上に、駐車場があった。
ワスは、つばの広い帽子をかぶって、日傘をさしていた。折りたたみの椅子を広げ、紅茶の入った魔法瓶を足元に置く。完全に、日陰で読書をする構えだった。
「姉さん、仕事」
「ええ。ですから、日焼け止めを塗り直しなさいな。三十分前に塗ったきりでしょう」
「今それ?」
「今それですわ」
ほむらは、しぶしぶ日焼け止めを受け取った。
マスタングのトランクには、釣り竿のケースが入っていた。中身は、釣り竿ではなかった。
「それ、持っていく気ですの?」
「サメが出たら困るでしょう」
「本物のサメは撃ってはいけませんわよ。この州では保護されているのですから」
ほむらの手が止まった。
「……そうなの?」
「資料に書いてありましたわ。ホホジロザメは、州の法律で保護対象です」
「じゃあ、魔獣だけ撃つ」
「どうやって見分けますの?」
キュゥべえが、ボンネットの上に跳び乗った。
「魔獣なら、僕には見えるよ」
ほむらとワスが、同時にキュゥべえを見た。
「だったら、最初からそう言いなさい」
「聞かれなかったからね」
ほむらの手が、釣り竿のケースに伸びた。止まった。銃口を向けている時間がもったいない、と判断したらしかった。
最初の一時間は、何も起きなかった。
浜辺には、誰もいなかった。遊泳禁止の看板と、閉まったライフガードの監視塔。波だけが、規則正しく打ち寄せていた。
二時間目に、ワスが本から顔を上げた。
「ほむら」
「何」
「沖のほう。あの、少し色の違う辺り」
ほむらは双眼鏡を構えた。
海の色が、一か所だけ暗かった。雲の影かと思った。空に雲はなかった。
暗い色が、ゆっくりと動いていた。岸と平行に、まるで浜辺の様子をうかがうように。
キュゥべえが、ボンネットの上で身を起こした。
「魔獣だね」
ほむらは、双眼鏡を下ろした。
「……なんで、白昼堂々と、魔獣が海を泳いでるの」
「まあ」ワスは、帽子のつばを少し上げた。「海を満喫していますわね」
「わけがわからないよ」と、キュゥべえが言った。
ほむらは何も言わなかった。
(……同意したくないけど、その通りだわ)
双眼鏡でもう一度見ると、影の形が少しずつ分かってきた。
浜辺の人間が見たら、きっと巨大なサメに見えるだろう。背びれのようなものもある。長い胴体のようなものもある。
けれど、ほむらの目には、別のものが見えていた。
水の中に、人の形をしたものが、横たわるように漂っている。背が高くて、灰色で、顔がない。魔法少女なら誰でも見慣れた、魔獣の姿だった。
「弓でいく」と、ほむらは言った。
「ここから?」
「下に降りたら、誰かに見られる」
ワスは、崖の下の町を見渡した。人通りは少ない。それでも、土産物屋の前には観光客が数人いたし、通りの角には防犯カメラがあった。浜辺の駐車場には、海を撮りに来たらしい若者の車が二台停まっていた。
「不便な世の中ですわね」
「十年前は、もっと楽だった」
「では、狙撃にいたしましょう」
ほむらは、ポケットから電話を取り出した。
『……なんだ』
ダンの声は、寝起きのようだった。シアトルは、まだ朝の八時だった。
「これから魔獣を狙撃するわ。情報操作、よろしく」
電話の向こうで、何かがベッドから落ちる音がした。
『待て。今どこにいる』
「カリフォルニア。ラス・ガビオタスの、浜辺の見える崖の上」
『観光客は』
「少し」
『何が見える予定なんだ』
「紫の光が一本。たぶん」
『たぶん?』
「外したら二本」
長いため息が聞こえた。
『……沿岸警備隊の信号弾の試射だったことにする。三十秒くれ』
「十秒」
『おい』
「ほむら」ワスが、双眼鏡を構えていた。「十時の方向、観光客が三人、こちらにスマートフォンを向けていますわ」
「切るわ」
『おい、待て――』
ほむらは電話を切った。
マスタングの陰で、ほむらは変身した。
光が一瞬だけ体を包んで、消えた。手の中に、細身の弓があった。
なぜ弓なのか、ほむらは知らない。魔法少女になったときから、ずっとそうだった。
弦に指をかけた。
一瞬だけ、誰かの手が、自分の手に重なったような気がした。いつものことだった。気にしないことにしていた。
「姉さん、スポッターお願い」
「無理を言わないで。私、狙撃のことは何も存じませんのよ」
「風と、距離だけでいい」
ワスは双眼鏡を覗いた。
「……十一時の方向、波の間に、何か、ひらひらしたものが」
「それはクラゲ」
「あら」
「僕がやろうか?」キュゥべえが言った。「風速も、距離も、正確に測れるよ」
ほむらは、キュゥべえを見た。それから、ワスを見た。
「……姉さんでいい」
「光栄ですわ」
ワスは、双眼鏡を少しだけずらした。海ではなく、崖の下の町のほうへ。
「では、私は人間を見ておりますわね。……先ほどの三人、今、『なんでこっちを撮ろうとしたんだっけ』というお顔になりましたわ」
「助かる」
キュゥべえが、ボンネットの上で言った。
「魔獣が浮上するよ。三秒後」
「なんで、お前が一番優秀なのよ」
ほむらは弦を引き絞った。撃たれる心配がないと分かっているキュゥべえは、尻尾を一度振っただけだった。
海面が、盛り上がった。
灰色の背中が、水を割って現れた。
弦が鳴った。
紫の光が一本、青い空を横切った。
魔獣の背中に、光が吸い込まれた。一瞬の静寂。それから、灰色の形が、水しぶきもなく、崩れるように海に溶けていった。
暗い色は、もうどこにもなかった。
海は、ただの青い海に戻っていた。
ほむらは弓を下ろした。息を吐いた。
正確には、吐こうとして、自分が息をしていなかったことに気がついた。いつからだったのか、分からなかった。
「一本でしたわね」
「一本よ」
「お見事」
その夜、モーテルの部屋で、ワスはテレビのニュースを見ていた。
地元の局だった。〈昼間の空に謎の光〉という見出しで、観光客が撮った動画が流れていた。手ぶれのひどい、ぼやけた映像だった。青い空を、紫色の線が一本、斜めに横切っていく。
キャスターは、沿岸警備隊が信号弾の試射を行っていた、と伝えていた。事前の告知が不十分だったことについて、謝罪のコメントが出ているという。
ほむらは、ベッドの上でゼリー飲料を飲んでいた。ワスは、それを黙って取り上げた。代わりに、昼間に屋台で買ってきたタコスを渡した。
「……結局、何だったのかしら」と、ほむらが言った。「あの魔獣」
「会長さんのお話を、覚えていまして?」
「三週間で、一年分の稼ぎがなくなる、って」
「最初の目撃は、サーファーの方の見間違いだったのかもしれませんわ。ただの影を、サメだと思った」
ワスは、テレビの音量を下げた。
「それが噂になって、お客さまが来なくなって。町の方々が、何週間も、眠れない夜を過ごして」
「その不安が、魔獣になった」
「海は、もともと人の怖がる場所ですもの。底が見えなくて、何がいるか分からない。そこに、サメの噂が形を与えたのでしょうね」
ほむらは、タコスを一口かじった。
「噂が、本物の怪物を作った」
「ええ」
キュゥべえが、窓際で尻尾を揺らした。
「人間は、自分たちの恐怖を、自分たちで製造しているんだね。とても効率が悪い」
ほむらは、タコスをもう一口かじった。
「……今のは、同意しない」
-----
おまけ:ほむらちゃんの水泳教室
翌朝、浜辺の黄色い看板が外された。
観光協会の会長は、自分の手で看板を抱えて運んでいった。すれ違いざまに、ワスに頭を下げた。何に礼を言われたのか、会長自身にも分かっていないようだった。
昼前には、浜辺に人が戻り始めた。パラソルが一本、二本と開いていく。監視塔に、若いライフガードが登った。
「せっかくですもの」とワスが言った。「少し、泳いでいきませんこと?」
ほむらは、波打ち際から三歩進んだところで、沈んだ。
浮かなかった。手で水をかいても、足で蹴っても、体はまっすぐに沈んでいった。
息は苦しくなかった。魔法少女の体は、呼吸をしなくても動く。
ほむらは、海の底に足をつけた。砂がゆっくりと舞い上がった。光が、頭の上でゆらゆらと揺れていた。
少し考えて、それから、岸に向かって歩き始めた。
波打ち際に、ずぶ濡れのほむらが、海の底から歩いて上がってきた。
「……どうなってるの、この海。全然浮かないじゃない」
ワスは、少し沖で、仰向けに浮かんでいた。
「あらあら。普通の海ですわよ」
キュゥべえが、砂浜のパラソルの陰から言った。
「興味深い現象だね。人間の体は、水よりわずかに重い。肺の中の空気で浮力を得ているんだ。暁美ほむら、君の肺活量はどれくらいかな?」
「黙りなさい」
「これは、マミさんに確認する必要がありますわね」
「やめてよ、姉さん」
ワスは、もう泳いで岸に戻ってきて、携帯電話を手にしていた。
返事は、思ったより早く来た。日本は、夜中の三時のはずだった。
〈先輩、ご存じなかったんですか。
ほむらさん、戦っている間、ほとんど息をしていないんです。魔法少女の体だから平気みたいで、本人は気づいてないと思います。
中学の水泳の授業でも、一度沈んで、そのままプールの底を歩いて戻ってきたことがあって、先生が真っ青になってました。
普段も、呼吸がすごく浅いです。入院していた頃の癖なのかもしれません。
あと、日焼け止めは塗り直させてくださいね〉
ワスは、画面から顔を上げた。
浜辺で、ほむらが濡れた髪を絞っていた。
「ほむら」
「何」
「あなた、本当にちゃんと呼吸していますの?」
「してるわよ」
「では、今、息を吸ってみてくださいな」
ほむらは、少しむっとした顔で、息を吸った。
浅かった。
胸が、ほとんど動かなかった。
ワスは、何も言わなかった。電話をしまって、妹の手を取った。
腰の深さの浅瀬で、ワスはほむらの両手を握っていた。
「力を抜いて。まず、大きく息を吸って」
「……吸ってる」
「もっと。お腹の底まで」
ほむらは、言われたとおりに吸い込んだ。肩が上がった。胸が、思っていたよりずっと大きく膨らんだ。
「止めて。そのまま、後ろに倒れてごらんなさい」
「沈む」
「沈みませんわ。私が手を離しませんから」
「離したら撃つ」
「物騒な妹ですこと」
ほむらは、目をつぶって、後ろに倒れた。
水が、背中を受け止めた。
体が、ふわりと浮いた。
「……浮いた」
「ええ。息をすれば、人は浮くのですわ」
ほむらは、目を開けた。空が、真上にあった。雲が一つ、ゆっくりと流れていた。耳の中で、波の音がくぐもって聞こえた。
息を吐くと、少し沈んだ。吸うと、また浮いた。
こんなことを、ずっと忘れていた気がした。
三時間かかって、ほむらは五メートル泳いだ。
最後の一かきで、浅瀬に手をついたとき、監視塔の上から拍手が聞こえた。若いライフガードが、手を叩いていた。
ほむらは、睨み返そうとした。
でも、口元が、勝手に緩んでいた。
緩んでいることに気がついて、余計に顔が熱くなった。
「……見ないで」
「あら。今の顔、とても良かったですわよ」
「姉さんも見ないで」
ワスは笑って、濡れた妹の頭に、タオルをかぶせた。
タオルの下で、ほむらは、しばらく出てこなかった。
シアトル支局の机の、一番下の引き出しに、切り抜きが一枚増えた。
〈沿岸警備隊、信号弾の試射を実施 事前告知の不備を謝罪〉
一枚目の切り抜きの上に、それは静かに重なった。
「サメ騒ぎが終わった次の日、あの子が、姉さんに手を引かれて泳ぎの練習をしてたんだ。最初は沈んでた。本当に、石みたいにまっすぐ沈んでいって、そのまま海の底を歩いて戻ってきた。俺の目がおかしくなったのかと思ったよ。
それから三時間かかって、やっと五メートル泳いだ。思わず拍手したら、睨まれた。
……と思ったら、笑ってたんだよな。あれは、睨んでるつもりの顔だった」
――ライフガード、十九歳