CODE: CYCLE ―暁美姉妹の超常現象調査ファイル―   作:ヒロセカズヒ

7 / 7
CASE 02:遊泳禁止の海+おまけ:ほむらちゃんの水泳教室

カリフォルニアの海は、思っていたより冷たい色をしていた。

国道一号線を南へ下って三日目。崖の上の道からは、どこまでも青い太平洋が見えた。ピンクのマスタングの窓を開けると、潮の匂いと、乾いた草の匂いが同時に入ってきた。

ラス・ガビオタスは、小さな海辺の町だった。

浜辺に沿って、サーフショップと土産物屋とタコスの屋台が並んでいる。夏の盛りのはずだった。なのに、通りには人影がまばらだった。

浜辺の入口に、黄色い看板が立っていた。

〈遊泳禁止 サメ目撃情報あり〉

その下に、手書きの紙が貼ってあった。〈再開時期未定 ご迷惑をおかけします 観光協会〉

「サメ、ね」と、ほむらが言った。

「三週間で十四件の目撃情報ですって」ワスが、エッグカートンからの資料を読み上げた。「全長は四メートルから、十二メートルまで」

「十二メートル」

「見る方によって、ずいぶん大きさが違いますのね」

後部座席で、キュゥべえが尻尾を揺らした。

「本物のサメなら、君たちの出番じゃないよ」

「分かってる。だから、それを確かめに来た」

観光協会の会長は、六十代の、日に焼けた男だった。

事務所の壁には、三十年前の浜辺の写真が飾ってあった。人でいっぱいの砂浜。色とりどりのパラソル。

「三週間ですよ」会長は、疲れた声で言った。「夏の三週間。この町は、夏で一年分を稼ぐんです。それが、全部」

「目撃情報について、伺ってもよろしいかしら」

ワスが言うと、会長は机の引き出しから紙の束を出した。

「最初は、サーファーの若い子でした。沖で、大きな影を見たって。次の日には、釣り人。その次は、家族連れの子供」

紙をめくる指が、少し震えていた。

「町の誰かが、ネットに書き込んだんです。それから、あっという間でしたよ。予約は全部キャンセル。うちの店も、隣の店も」

「お店を、お持ちですの?」

「祖父の代からのダイナーです」会長は、壁の写真を見た。「今年の夏が駄目なら、たぶん、閉めることになる」

ほむらは、窓の外の海を見ていた。

青くて、穏やかで、何も変わったところはなかった。

浜辺を見下ろす崖の上に、駐車場があった。

ワスは、つばの広い帽子をかぶって、日傘をさしていた。折りたたみの椅子を広げ、紅茶の入った魔法瓶を足元に置く。完全に、日陰で読書をする構えだった。

「姉さん、仕事」

「ええ。ですから、日焼け止めを塗り直しなさいな。三十分前に塗ったきりでしょう」

「今それ?」

「今それですわ」

ほむらは、しぶしぶ日焼け止めを受け取った。

マスタングのトランクには、釣り竿のケースが入っていた。中身は、釣り竿ではなかった。

「それ、持っていく気ですの?」

「サメが出たら困るでしょう」

「本物のサメは撃ってはいけませんわよ。この州では保護されているのですから」

ほむらの手が止まった。

「……そうなの?」

「資料に書いてありましたわ。ホホジロザメは、州の法律で保護対象です」

「じゃあ、魔獣だけ撃つ」

「どうやって見分けますの?」

キュゥべえが、ボンネットの上に跳び乗った。

「魔獣なら、僕には見えるよ」

ほむらとワスが、同時にキュゥべえを見た。

「だったら、最初からそう言いなさい」

「聞かれなかったからね」

ほむらの手が、釣り竿のケースに伸びた。止まった。銃口を向けている時間がもったいない、と判断したらしかった。

最初の一時間は、何も起きなかった。

浜辺には、誰もいなかった。遊泳禁止の看板と、閉まったライフガードの監視塔。波だけが、規則正しく打ち寄せていた。

二時間目に、ワスが本から顔を上げた。

「ほむら」

「何」

「沖のほう。あの、少し色の違う辺り」

ほむらは双眼鏡を構えた。

海の色が、一か所だけ暗かった。雲の影かと思った。空に雲はなかった。

暗い色が、ゆっくりと動いていた。岸と平行に、まるで浜辺の様子をうかがうように。

キュゥべえが、ボンネットの上で身を起こした。

「魔獣だね」

ほむらは、双眼鏡を下ろした。

「……なんで、白昼堂々と、魔獣が海を泳いでるの」

「まあ」ワスは、帽子のつばを少し上げた。「海を満喫していますわね」

「わけがわからないよ」と、キュゥべえが言った。

ほむらは何も言わなかった。

(……同意したくないけど、その通りだわ)

双眼鏡でもう一度見ると、影の形が少しずつ分かってきた。

浜辺の人間が見たら、きっと巨大なサメに見えるだろう。背びれのようなものもある。長い胴体のようなものもある。

けれど、ほむらの目には、別のものが見えていた。

水の中に、人の形をしたものが、横たわるように漂っている。背が高くて、灰色で、顔がない。魔法少女なら誰でも見慣れた、魔獣の姿だった。

「弓でいく」と、ほむらは言った。

「ここから?」

「下に降りたら、誰かに見られる」

ワスは、崖の下の町を見渡した。人通りは少ない。それでも、土産物屋の前には観光客が数人いたし、通りの角には防犯カメラがあった。浜辺の駐車場には、海を撮りに来たらしい若者の車が二台停まっていた。

「不便な世の中ですわね」

「十年前は、もっと楽だった」

「では、狙撃にいたしましょう」

ほむらは、ポケットから電話を取り出した。

『……なんだ』

ダンの声は、寝起きのようだった。シアトルは、まだ朝の八時だった。

「これから魔獣を狙撃するわ。情報操作、よろしく」

電話の向こうで、何かがベッドから落ちる音がした。

『待て。今どこにいる』

「カリフォルニア。ラス・ガビオタスの、浜辺の見える崖の上」

『観光客は』

「少し」

『何が見える予定なんだ』

「紫の光が一本。たぶん」

『たぶん?』

「外したら二本」

長いため息が聞こえた。

『……沿岸警備隊の信号弾の試射だったことにする。三十秒くれ』

「十秒」

『おい』

「ほむら」ワスが、双眼鏡を構えていた。「十時の方向、観光客が三人、こちらにスマートフォンを向けていますわ」

「切るわ」

『おい、待て――』

ほむらは電話を切った。

マスタングの陰で、ほむらは変身した。

光が一瞬だけ体を包んで、消えた。手の中に、細身の弓があった。

なぜ弓なのか、ほむらは知らない。魔法少女になったときから、ずっとそうだった。

弦に指をかけた。

一瞬だけ、誰かの手が、自分の手に重なったような気がした。いつものことだった。気にしないことにしていた。

「姉さん、スポッターお願い」

「無理を言わないで。私、狙撃のことは何も存じませんのよ」

「風と、距離だけでいい」

ワスは双眼鏡を覗いた。

「……十一時の方向、波の間に、何か、ひらひらしたものが」

「それはクラゲ」

「あら」

「僕がやろうか?」キュゥべえが言った。「風速も、距離も、正確に測れるよ」

ほむらは、キュゥべえを見た。それから、ワスを見た。

「……姉さんでいい」

「光栄ですわ」

ワスは、双眼鏡を少しだけずらした。海ではなく、崖の下の町のほうへ。

「では、私は人間を見ておりますわね。……先ほどの三人、今、『なんでこっちを撮ろうとしたんだっけ』というお顔になりましたわ」

「助かる」

キュゥべえが、ボンネットの上で言った。

「魔獣が浮上するよ。三秒後」

「なんで、お前が一番優秀なのよ」

ほむらは弦を引き絞った。撃たれる心配がないと分かっているキュゥべえは、尻尾を一度振っただけだった。

海面が、盛り上がった。

灰色の背中が、水を割って現れた。

弦が鳴った。

紫の光が一本、青い空を横切った。

魔獣の背中に、光が吸い込まれた。一瞬の静寂。それから、灰色の形が、水しぶきもなく、崩れるように海に溶けていった。

暗い色は、もうどこにもなかった。

海は、ただの青い海に戻っていた。

ほむらは弓を下ろした。息を吐いた。

正確には、吐こうとして、自分が息をしていなかったことに気がついた。いつからだったのか、分からなかった。

「一本でしたわね」

「一本よ」

「お見事」

その夜、モーテルの部屋で、ワスはテレビのニュースを見ていた。

地元の局だった。〈昼間の空に謎の光〉という見出しで、観光客が撮った動画が流れていた。手ぶれのひどい、ぼやけた映像だった。青い空を、紫色の線が一本、斜めに横切っていく。

キャスターは、沿岸警備隊が信号弾の試射を行っていた、と伝えていた。事前の告知が不十分だったことについて、謝罪のコメントが出ているという。

ほむらは、ベッドの上でゼリー飲料を飲んでいた。ワスは、それを黙って取り上げた。代わりに、昼間に屋台で買ってきたタコスを渡した。

「……結局、何だったのかしら」と、ほむらが言った。「あの魔獣」

「会長さんのお話を、覚えていまして?」

「三週間で、一年分の稼ぎがなくなる、って」

「最初の目撃は、サーファーの方の見間違いだったのかもしれませんわ。ただの影を、サメだと思った」

ワスは、テレビの音量を下げた。

「それが噂になって、お客さまが来なくなって。町の方々が、何週間も、眠れない夜を過ごして」

「その不安が、魔獣になった」

「海は、もともと人の怖がる場所ですもの。底が見えなくて、何がいるか分からない。そこに、サメの噂が形を与えたのでしょうね」

ほむらは、タコスを一口かじった。

「噂が、本物の怪物を作った」

「ええ」

キュゥべえが、窓際で尻尾を揺らした。

「人間は、自分たちの恐怖を、自分たちで製造しているんだね。とても効率が悪い」

ほむらは、タコスをもう一口かじった。

「……今のは、同意しない」

 

-----

おまけ:ほむらちゃんの水泳教室

 

翌朝、浜辺の黄色い看板が外された。

観光協会の会長は、自分の手で看板を抱えて運んでいった。すれ違いざまに、ワスに頭を下げた。何に礼を言われたのか、会長自身にも分かっていないようだった。

昼前には、浜辺に人が戻り始めた。パラソルが一本、二本と開いていく。監視塔に、若いライフガードが登った。

「せっかくですもの」とワスが言った。「少し、泳いでいきませんこと?」

ほむらは、波打ち際から三歩進んだところで、沈んだ。

浮かなかった。手で水をかいても、足で蹴っても、体はまっすぐに沈んでいった。

息は苦しくなかった。魔法少女の体は、呼吸をしなくても動く。

ほむらは、海の底に足をつけた。砂がゆっくりと舞い上がった。光が、頭の上でゆらゆらと揺れていた。

少し考えて、それから、岸に向かって歩き始めた。

波打ち際に、ずぶ濡れのほむらが、海の底から歩いて上がってきた。

「……どうなってるの、この海。全然浮かないじゃない」

ワスは、少し沖で、仰向けに浮かんでいた。

「あらあら。普通の海ですわよ」

キュゥべえが、砂浜のパラソルの陰から言った。

「興味深い現象だね。人間の体は、水よりわずかに重い。肺の中の空気で浮力を得ているんだ。暁美ほむら、君の肺活量はどれくらいかな?」

「黙りなさい」

「これは、マミさんに確認する必要がありますわね」

「やめてよ、姉さん」

ワスは、もう泳いで岸に戻ってきて、携帯電話を手にしていた。

返事は、思ったより早く来た。日本は、夜中の三時のはずだった。

〈先輩、ご存じなかったんですか。

ほむらさん、戦っている間、ほとんど息をしていないんです。魔法少女の体だから平気みたいで、本人は気づいてないと思います。

中学の水泳の授業でも、一度沈んで、そのままプールの底を歩いて戻ってきたことがあって、先生が真っ青になってました。

普段も、呼吸がすごく浅いです。入院していた頃の癖なのかもしれません。

あと、日焼け止めは塗り直させてくださいね〉

ワスは、画面から顔を上げた。

浜辺で、ほむらが濡れた髪を絞っていた。

「ほむら」

「何」

「あなた、本当にちゃんと呼吸していますの?」

「してるわよ」

「では、今、息を吸ってみてくださいな」

ほむらは、少しむっとした顔で、息を吸った。

浅かった。

胸が、ほとんど動かなかった。

ワスは、何も言わなかった。電話をしまって、妹の手を取った。

腰の深さの浅瀬で、ワスはほむらの両手を握っていた。

「力を抜いて。まず、大きく息を吸って」

「……吸ってる」

「もっと。お腹の底まで」

ほむらは、言われたとおりに吸い込んだ。肩が上がった。胸が、思っていたよりずっと大きく膨らんだ。

「止めて。そのまま、後ろに倒れてごらんなさい」

「沈む」

「沈みませんわ。私が手を離しませんから」

「離したら撃つ」

「物騒な妹ですこと」

ほむらは、目をつぶって、後ろに倒れた。

水が、背中を受け止めた。

体が、ふわりと浮いた。

「……浮いた」

「ええ。息をすれば、人は浮くのですわ」

ほむらは、目を開けた。空が、真上にあった。雲が一つ、ゆっくりと流れていた。耳の中で、波の音がくぐもって聞こえた。

息を吐くと、少し沈んだ。吸うと、また浮いた。

こんなことを、ずっと忘れていた気がした。

三時間かかって、ほむらは五メートル泳いだ。

最後の一かきで、浅瀬に手をついたとき、監視塔の上から拍手が聞こえた。若いライフガードが、手を叩いていた。

ほむらは、睨み返そうとした。

でも、口元が、勝手に緩んでいた。

緩んでいることに気がついて、余計に顔が熱くなった。

「……見ないで」

「あら。今の顔、とても良かったですわよ」

「姉さんも見ないで」

ワスは笑って、濡れた妹の頭に、タオルをかぶせた。

タオルの下で、ほむらは、しばらく出てこなかった。

 

シアトル支局の机の、一番下の引き出しに、切り抜きが一枚増えた。

〈沿岸警備隊、信号弾の試射を実施 事前告知の不備を謝罪〉

一枚目の切り抜きの上に、それは静かに重なった。

 

 

「サメ騒ぎが終わった次の日、あの子が、姉さんに手を引かれて泳ぎの練習をしてたんだ。最初は沈んでた。本当に、石みたいにまっすぐ沈んでいって、そのまま海の底を歩いて戻ってきた。俺の目がおかしくなったのかと思ったよ。

それから三時間かかって、やっと五メートル泳いだ。思わず拍手したら、睨まれた。

……と思ったら、笑ってたんだよな。あれは、睨んでるつもりの顔だった」

――ライフガード、十九歳

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。