CODE: CYCLE ―暁美姉妹の超常現象調査ファイル― 作:ヒロセカズヒ
ルイジアナの北部は、空が低かった。
湿った空気が、肌にまとわりついてくる。十月だというのに、車の窓を開けると、熱を含んだ風が入ってきた。道の両側には、刈り取りの終わった綿畑と、灰色の苔を垂らした樫の木。ときどき、茶色く濁った水をたたえた沼地が、木々の向こうに見えた。
「暑い」と、ほむらが言った。
「十月ですのにね」
「十月なのに」
モンローの町に入ったのは、日曜の昼過ぎだった。
次の案件の連絡は、まだ来ていなかった。テキサスへ向かう途中の、ただの通り道の町だった。
ワスが、窓の外を見ていた。
「ほむら。あそこで停めてくださいな」
指さした先に、教会があった。
古い煉瓦造りの、小さな教会だった。尖塔の先に、十字架が立っている。通りを二本挟んだ向こうには、もっと大きくて新しい、白い壁の教会がいくつも並んでいた。駐車場は、どこも車でいっぱいだった。
煉瓦の教会の駐車場には、古いピックアップトラックが一台、停まっているだけだった。
「この町は、ほとんどがバプテストの方々なのですって」ワスは、日傘を手に取った。「カトリックの教会は、ここだけ」
「日曜だものね」
「ええ。日曜ですもの」
旅のあいだ、ワスは日曜日に必ず、その町のカトリックの教会を探した。ミサに間に合わなくても、扉が開いていれば、少しだけ中で祈っていく。ほむらは、一度も一緒に入ったことがなかった。
「待ってる」
「すぐに戻りますわ」
ワスが教会の扉の向こうに消えていくのを、ほむらは運転席から見送った。
エンジンは切らなかった。冷房の風が、汗ばんだ首筋を冷やしていた。
トマス・ヘネシーは、毎週日曜の午後、教会の掃除をしていた。
誰かに頼まれたわけではなかった。昼のミサが終わって、司祭が隣町の教会へ移動したあと、がらんとした聖堂の床を掃き、長椅子の埃を払い、祭壇の燭台を磨く。十五年間、一度も休んだことがなかった。
その日も、トマスは聖堂の奥で、真鍮の燭台を布で拭いていた。
扉が開く音がした。
振り返ると、少女が一人、入ってくるところだった。
アジア系の少女だった。十四、五歳に見えた。白い日傘を、入口で丁寧に畳んでいた。黒っぽいワンピース。肩までの黒髪。
トマスは、声をかけようとして、やめた。
少女は、トマスに気づかなかった。まっすぐに中央の通路を進み、祭壇の前で、静かに膝をついた。
両手を、胸の前で組んだ。
トマスは、柱の陰に立ったまま、動けなくなった。
少女の祈りには、言葉がなかった。
唇も動いていなかった。ただ、手を組んで、目を閉じている。それだけだった。
それなのに、聖堂の空気が、変わった気がした。
ステンドグラスから差し込む午後の光が、少女の肩に落ちていた。埃が、光の中でゆっくりと舞っていた。外の通りの車の音も、遠くのバプテスト教会から聞こえる讃美歌も、どこか遠くへ退いていった。
トマスは、葬儀社で三十年、数えきれない祈りを聞いてきた。泣きながらの祈り。形だけの祈り。怒りに満ちた祈り。すがりつくような祈り。
こんな祈りは、聞いたことがなかった。
何かを求めている祈りではなかった。何かを、差し出している祈りだった。
少女の組んだ両手の中に、何かがあった。
指の隙間から、光がこぼれていた。
ステンドグラスの光ではなかった。もっと淡い、内側から灯るような光だった。少女が、わずかに手の角度を変えた。指の隙間から、それが見えた。
卵の形をした、宝石だった。
トマスの手から、布が落ちた。
十五年前の、秋の夜だった。
トマスは、仕事から遅く帰ってきた。家の中は暗かった。妻はもう眠っていた。二階の廊下に、娘の部屋のドアから、細く光が漏れていた。
ドアは、少しだけ開いていた。
隙間から、娘が見えた。
クレアは、ベッドの上に座っていた。両手を胸の前で組んでいた。祈っているのだと思った。娘が一人で祈っている姿を見るのは、初めてだった。
組んだ両手の中に、何かがあった。
指の隙間から、光がこぼれていた。
卵の形の、見たこともない宝石だった。
声をかけようとした。何を祈っているのか、聞きたかった。その宝石はどこで手に入れたのか、聞きたかった。
でも、疲れていた。明日でいい、と思った。
ドアを閉めずに、そのまま自分の寝室に入った。
翌週、クレアはいなくなった。
鞄も、靴も、財布も、部屋に残っていた。机の上に、小さなロザリオが置いてあった。
宝石だけが、どこにもなかった。
祭壇の前で、少女がゆっくりと目を開けた。
手の中の宝石を、大事そうに見つめた。それから、指輪の形に変えて、左手の指にはめた。
トマスは、それを見ていた。
宝石が、指輪に変わった。
互助会の集まりで、エディスから聞いた話が、頭の中で鳴り響いていた。
魔法少女--
魂を宝石に変えられた少女たち。最期の時が来ると、遺体も残さずに消えてしまう少女たち。
クレアも、そうだったのだと、エディスは言った。だから見つからなかったのだ、と。
だとしたら。
あの少女も、いつか。
少女が、立ち上がった。祭壇に向かって小さく頭を下げ、通路を戻っていく。日傘を手に取る。扉を開ける。
一度だけ、振り返った。
トマスは、柱の陰で息を止めた。
少女は、トマスに気づかなかった。聖堂の中を、名残惜しそうに一度だけ見渡して、それから、午後の光の中へ出ていった。
扉が閉まった。
トマスは、床に落ちた布を、長いあいだ拾えなかった。
ワスが助手席に乗り込んできたとき、ほむらは教会の扉を見ていた。
「お待たせしましたわ」
「姉さん」
「何かしら」
「中に、誰かいた?」
ワスは、少し考えた。
「いいえ。私一人でしたわ」
ほむらは、答えなかった。
教会の扉が、もう一度開いた。年配の男が一人、出てきた。
背の高い、痩せた男だった。白髪まじりの髪。くたびれた灰色のシャツ。男は、マスタングにはまったく目を向けなかった。駐車場の端に停めた古いピックアップトラックへ、まっすぐに歩いていった。
運転席に座った。
エンジンをかけなかった。
ハンドルに、額をつけていた。
ほむらは、その姿から目を離さなかった。
肩が、小さく震えているように見えた。泣いているのかもしれなかった。祈っているのかもしれなかった。
なぜか、首の後ろが冷たかった。
「ほむら? 行きませんの?」
「……行く」
ほむらはギアを入れた。マスタングが駐車場を出ていく。
バックミラーの中で、トラックの男は、まだ動かなかった。
ほむらは、そのナンバーを覚えた。
その夜、トマスは、娘の部屋の机に座っていた。
部屋は、十五年前のままだった。壁のポスター。本棚の教科書。ベッドの上のぬいぐるみ。机の上の、小さなロザリオ。
トマスは、古いノートパソコンを開いた。
互助会の連絡用の掲示板に、ログインした。会員は二十人ほど。大半は、トマスと同じように、娘や妹や孫を、遺体のないまま失った人々だった。
新しい書き込みの画面を開いた。
指が、キーボードの上で止まった。
画面の隅に、昼間、教会の柱の陰から携帯電話で撮った写真があった。祭壇の前で跪く少女の、小さな後ろ姿。組んだ両手から、淡い光がこぼれている。
トマスは、その写真を、長いあいだ見ていた。
それから、ロザリオに目をやった。
あの夜、声をかけていれば。
トマスは、ゆっくりと、文字を打ち始めた。
〈新たに、送り届けるべき魂が見つかりました〉
窓の外で、沼地の蛙が鳴いていた。