CODE: CYCLE ―暁美姉妹の超常現象調査ファイル― 作:ヒロセカズヒ
月曜の朝、マスタングの冷房が壊れた。
町はずれの整備工場の主人は、ボンネットの中を覗き込んで、首を振った。
「コンプレッサーだな。部品を取り寄せるのに、三日はかかる」
「三日」と、ほむらが言った。
「この暑さで、冷房なしで走るつもりかい? お嬢ちゃん」
ほむらは、答えなかった。ワスが、主人に丁寧に礼を言った。
二人は、国道沿いのモーテルに部屋を取った。窓の外を、ときどき大型トラックが通り過ぎていった。
「三日間、何をしますの?」
「銃の手入れ」
「三日間?」
「三日間」
ワスは、ため息をついた。
「では、私は教会に通いますわ。平日にも、朝のミサがあるそうですから」
互助会の掲示板には、日曜の夜のうちに、いくつかの返信がついていた。
〈神のお導きに感謝を〉
〈美しい祈りの姿です。この子をお救いしなければ〉
〈トマス、あなたが見つけてくれて良かった〉
月曜の昼過ぎに、一つだけ、違う調子の返信がついた。
〈トマス。待ちなさい。この子は、まだ何も頼んでいないでしょう。エディス〉
トマスは、その返信を何度も読んだ。
エディスは、互助会を始めた人だった。もう八十を過ぎていて、最近は集まりにもほとんど顔を出さない。それでも、エディスの言葉は、会員にとって特別な重みを持っていた。
トマスは、返信を書こうとして、やめた。
その夜、もう一通、個別のメッセージが届いた。
〈俺が手伝う。一人じゃ危ない。段取りは任せてくれ。ディーン〉
ディーンは、二年ほど前に互助会に入ってきた男だった。姪を亡くした、と言っていた。集まりにはあまり来ないが、会の資金集めには熱心だった。
トマスは、返事を書いた。
〈ありがとう〉
ディーン・コールマンは、自宅のガレージで、携帯電話の画面を拡大していた。
トマスが掲示板に上げた写真。祭壇の前で跪く少女の後ろ姿。
ディーンは、少女を見ていなかった。少女の組んだ手の、指の隙間からこぼれる光を見ていた。
指で、画面をさらに広げた。
画質は粗かった。それでも、分かった。卵の形。内側から光っている。
ディーンは、電話をかけた。
「俺だ。一つ、見つかった。……ああ。上物だ。前のより、ずっと光が強い」
電話の向こうで、誰かが何かを言った。
「二人か三人、集めてくれ。相手は子供だ。たいした手間じゃない」
ディーンは電話を切って、画面の中の光を、もう一度だけ眺めた。
シアトル支局の、ダン・ウィテカーの机の端末に、通知が届いたのは、火曜の朝だった。
ダンは、二年前から、ある掲示板を監視していた。
三つの州で見つかった、外傷のない少女たちの遺体。どの遺体も、身元が判明する前に、同じ団体によって丁寧に埋葬されていた。聖ラザロ埋葬互助会。表向きは、身寄りのない死者を弔う、善意の集まりだった。
掲示板の新しい書き込みに添付された写真が、顔認識の照合にかかっていた。
照合先は、国務省経由で登録された、外国政府の協力者の名簿だった。
〈該当:暁美ワス。日本国。特定少女保護支援室〉
ダンは、画面を見つめた。
それから、書き込みの続きを読んだ。会員だけが見られる予定表のページへのリンクがあった。
ダンは、リンクを開いた。
日付。場所。棺の寸法。墓地の区画番号。
ダンは、椅子の背もたれから体を起こした。
火曜の朝、ワスは教会にいた。
朝のミサは、すでに終わっていた。参列者は、老人が三人と、ワスだけだった。司祭が隣町へ移動したあと、聖堂には誰もいなくなった。
ワスは、もう少しだけ祈っていくことにした。
祭壇の前で膝をつき、両手を組んだ。手の中で、指輪をジェムの形に戻した。淡い光が、指の隙間からこぼれた。
足音がした。
ワスは、目を開けた。
通路の途中に、年配の男が立っていた。背の高い、痩せた男。白髪まじりの髪。灰色のシャツ。
日曜日に、駐車場のトラックの中で、ハンドルに額をつけていた男だった。
男は、右手を体の横に垂らしていた。その手に、小さな拳銃が握られていた。古い型の、短い銃身のリボルバー。
銃口は、床を向いていた。
手が、震えていた。
ワスは、ゆっくりと立ち上がった。手の中のジェムを、指輪の形に戻した。
「こんにちは」
男は、何も言わなかった。
「日曜日に、ここで燭台を磨いていらした方ですわね」
男の目が、わずかに見開かれた。
「……気づいていたのか」
「いいえ。今、思い出しましたの。真鍮の、とても良い匂いがしていましたから」
男は、少しのあいだ黙っていた。
「トマス・ヘネシーだ」
「暁美ワスと申します」
「ワス」トマスは、その名前を口の中で繰り返した。「変わった名前だな」
「よく言われますわ」
トマスの手の拳銃が、少しだけ持ち上がった。それでも、ワスのほうを向くことはなかった。
「私には、娘がいた」
トマスは、言った。
「十五年前、いなくなった。君と同じくらいの歳だった。同じように祈っていた。同じ、宝石を持っていた」
ワスは、何も言わなかった。
「遺体も残らなかった。墓も作ってやれなかった。名前を刻む場所も、花を置く場所もない」
トマスの声が、かすれた。
「私は、君についてきてほしい」
ワスは、トマスの手の中の銃を見た。それから、トマスの顔を見た。
震えていた。銃を握る手も、唇も、肩も。
「君を、救いたいんだ」
聖堂の中が、静かになった。
ステンドグラスの光が、二人のあいだの床に落ちていた。
ワスは、長椅子に立てかけておいた日傘を見た。それから、もう一度、トマスを見た。
この人を、一人にしてはいけない。
それだけを、思った。
「……ええ」
ワスは、日傘を長椅子に置いたまま、通路を歩き出した。
「参りましょう」
モーテルの部屋で、ほむらは拳銃を分解していた。
テーブルの上に、部品が並んでいた。スライド。バレル。リコイルスプリング。フレーム。布と、オイルの小瓶。窓の外は、昼の光で白く霞んでいた。冷房のない部屋は、ひどく蒸し暑かった。
電話が鳴った。
ダンだった。
『キミの姉さんは、無事か?』
ほむらの手が、止まった。
「……何を言ってるの? 何か、事件が」
『いや、まだ何も起きていない。起きていないんだが』
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
『ある埋葬ボランティアに嫌疑がかかっているだが、その連中が使ってる掲示板に、新しい書き込みがあった。キミの姉さんの写真付きでな』
「写真?」
『教会で撮られたものだ。それと、予定表』
「予定表?」
ダンは、少し黙った。
『葬儀の予定表だよ。日付と、場所と、棺の寸法まで。そこに、キミの姉さんが載ってる』
「冗談じゃないわ!」
ほむらは、もう立ち上がっていた。テーブルの上の部品を、掴んでいた。
『落ち着け。今どこに――』
「姉さんは、今、教会にいる」
『どこの教会だ…まさか』
ほむらは答えなかった。電話を肩と耳のあいだに挟んだまま、拳銃を組み立て始めた。
バレルをスライドに。スプリングを。スライドをフレームに。手が、自分のものではないような速さで動いた。
『おい、ほむら。一人で行くな。応援を――』
「十分で着く」
『三十分くれ』
「十分!」
ほむらは電話を切った。弾倉を差し込み、スライドを引いた。
ドアを開けると、白い熱気が顔を打った。
後ろから、キュゥべえの声がした。
「教会までは、四キロあるよ。車は修理中だろう?」
「知ってる」
ほむらは、走り出していた。
教会の扉は、開いていた。
ほむらは、拳銃を抜いたまま、聖堂に飛び込んだ。
誰もいなかった。
ステンドグラスの光が、中央の通路に落ちていた。埃が、光の中でゆっくりと舞っていた。祭壇の燭台が、磨かれて鈍く光っていた。
最前列の長椅子に、白い日傘が一本、立てかけてあった。
ほむらは、それを見つめた。
姉が、日傘を忘れていくはずがなかった。
ポケットの中で、電話が震えた。
画面に、姉からの短いメッセージが表示されていた。
〈少しお出かけしてまいります。ご心配なく。お昼はちゃんと食べること〉
ほむらは、電話を握りしめた。
指の関節が、白くなった。
「……ばか」
誰もいない聖堂に、その声だけが響いた。