「 」お前は黙れ。
時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たすとき、人は束の間、自分勝手になり「自由」になる。
誰にも邪魔されず、気を遣わず物を食べるという孤高の行為。
この行為こそが、現代都市の人々に平等に与えられた最高の『救い』と言えるのだ。
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K社の裏路地に位置する、セブン協会の支部にある小さなオフィス。
薄暗い室内のデスクに山積みにされた資料の山を前に、一人の女性フィクサーが頭を抱えていた。
エミレース。セブン協会に所属する6級フィクサーであり、主に情報収集や危険人物の事前調査を専門としている彼女は、今、人生最大の絶望感を味わっていた。
「……なんで私が、こんなやつの調査なんて引き受けちゃったわけ……」
デスクの上に広げられた写真と調書。そこに写っているのは、無表情で淡々と裏路地を歩く一人の青年――プイだった。
最初は、裏路地に流れてきた素性の知れないアルバイトの身辺調査という、ごくありふれた軽微な依頼のつもりだった。しかし、調べれば調べるほど、エミレースの背筋は凍りついていった。
――シーシュポス百貨店の崩壊に関与。
――裏路地で様々な人たちと出会っても、何食わぬ顔で生き延びている怪物。
「聞いてないよ! 表向きはウンボンのチキン酒場で働くただのバイト青年に見えて、中身は都市をひっくり返しかけたヤバいやつじゃない! そんなの、6級フィクサーの手に負える相手じゃないでしょ……!」
エミレースは頭をガシガシとかきむしった。
依頼は受けてしまった以上、途中で投げ出すことはセブン協会の誇りが許さない。上司に話すのも最近昇格したばっかのプライドが許さない。
…しかし、まともに正面から戦えば一瞬で消し炭にされるのは明白だった。
「……こうなったら、戦闘を避けて、偶然を装って近づいて、特徴や動向をそれとなく聞き出すしかないか……。ああ、神様、どうか私を生きてオフィスに戻してください……」
半泣きになりながら、エミレースは重い腰を上げ、調査対象のいる現場へと向かったのだった。
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一方その頃、私は社長から頼まれた買い出しのついでに、中央広場付近を歩いていた。
冷たい風が少し強くなってきたが、心身ともに充実した日々を送る今の私にとって、それは心地よい刺激でしかなかった。
ふと、前方から青いセブン協会の制服を身にまとった、いかにも神経質そうな女性がこちらへ歩いてくるのが見えた。
彼女は私と目が合った瞬間、わずかに肩をびくりと跳ねさせ、それから慌てて作り笑いを浮かべた。
「あ、あれ? もしかして、プイくんじゃないか! こんなところで会うなんて、すごい偶然だね!」
不自然すぎる笑顔と、わざとらしい声のトーン。
私は足を止め、じっとその女性を見つめた。
(怪しい…。どう見ても、偶然を装ってる…。でも、殺気や敵意のようなものは全くない……)
「……あなたは、だれ…?」
「あ、私はエミレース! セブン協会の6級フィクサーだよ! いやぁ、本当に偶然だね、うん。そうだ、せっかくこうして会えたんだし、仕事の息抜きに何か一緒に食べないかい? ちょうどそこにあたたかそうな屋台があるんだ!」
エミレースと名乗った女性は、私の腕を軽く掴むと、近くにあった小さな屋台へと半ば強引に誘導した。
屋台の看板には『焼き立て パニーニ専門店』と書かれており、香ばしいパンの焼ける匂いが漂っている。
エミレースは慌てた様子で店員に声をかけ、熱々のパニーニを二つ購入した。
そして、近くにあった木製のベンチに私を座らせ、そのうちの一つを押し付けるように手渡してきた。
「ほら、食べて食べて! 私の奢りだから遠慮しないで!」
「……はあ。ありがとう」
私は警戒を解かないまま、手渡された包み紙をめくった。
中から現れたのは、専用のプレス機でしっかりと挟み込まれ、斜めの焼き目が美しくついた黄金色のパニーニだった。
包み紙の上からでも伝わってくる温かさに、冷えていた手がじんわりと癒やされていく。
(敵意は無い…。それに、この香ばしい匂いは……美味しそう)
私は意を決し、大きく口を開けてパニーニにかぶりついた。
サクッ……パリッ……!!
…………っ。
(……美味しい)
まず、外側のパンの食感に驚かされた。
厚みのあるパンは表面がカリッと香ばしく、中はモチモチとした弾力を保っている。プレスされて熱が入ったことで、小麦の甘みが最大限に引き出されていた。
そして、一口噛みしめた瞬間に、中からトロリと溶け出したチーズと、ジューシーな生ハムの塩気が一気に溢れ出してきた。
さらに、バジルソースの爽やかな香りとトマトの酸味が、濃厚なチーズの味わいを絶妙なバランスで引き締めている。
複雑すぎず、しかし妥協のない、洗練されたジャンクフードの極み。心なしか自分がオシャレに感じてきた。
モグモグと夢中で咀嚼しながら、私は隣に座るエミレースに目を向けた。
エミレースは自分のパニーニを食べることも忘れ、じっと私の食べ方を見つめていた。その瞳が、なぜか潤んだようにトロンと緩んでいる。
(……?)
違和感を感じて目線を向ける。
「……う、ううん、なんでもないよ……!」
エミレースは慌てて視線を逸らし、自分のパニーニにかぶりついた。
しかし、彼女の心の中では、先ほどまでの恐怖や緊張が別の感情に完全に塗り替えられていた。
(なにこれ……なにこの子……。調査では都市を揺るがす危険人物って聞いてたのに、目の前でパニーニを美味しそうにモグモグ食べてる姿、めちゃくちゃ可愛いんだけど……! 子犬? いや小動物? え、待って、こんなの調査どころじゃないでしょ……!)
冷徹な情報を集めるはずのセブン協会調査員は、目の前の青年の無心で綺麗な食べっぷりにすっかり心を奪われてしまっていた。職務のことは、脳内から綺麗さっぱり消え去っている。
「ねえ、プイくん! パニーニだけじゃ物足りないよね? ほら、あそこにチュロスを売ってる屋台があるよ! あと、あっちには焼きたてのみたらし団子も……!」
「……え? でも、私まだ食べて……」
「いいからいいから! 私が全部奢るからさ、遠慮しないでどんどん食べて!」
エミレースはすっかり保護者のような、あるいは気に入ったペットに餌をやるようなテンションになっていた。
彼女は私の返事も待たずに立ち上がり、次々と周辺の屋台から美味しそうな軽食を買い集めてきた。
甘い砂糖がまぶされた揚げたてのチュロス。
香ばしい醤油の焦げる匂いを漂わせるみたらし団子。
カップに盛られた、冷たくて甘いカットフルーツの盛り合わせ。
「ほら、これも食べてみて! 美味しいから!」
「……うん。いただきます」
私は困惑しつつも、目の前に次々と並べられる食べ物に向き合った。
職務を忘れたエミレースに見守られながら、私はチュロスをかじり、みたらし団子を頬張り、フルーツで口の中をリフレッシュした。どれも一級品の美味さだった。
どれほどの時間が経っただろうか。いろいろなことを質問されては答えるのを繰り返した。
テーブルの上に山となった空き容器を見て、エミレースは満足そうにふうっと大きく息をついた。
「ふぅ……食べた、食べたね! いやぁ、満足した!」
「……あの…結局何しに話しかけてきたの?」
私が静かに尋ねると、エミレースはハッと我に返り、気まずそうに目を泳がせた。
「い、いや、その、調査は……うん、大体終わった! うん、危険な人物じゃないことはよく分かったから、これ以上追う必要なし! それじゃあ、私、報告書書かなきゃいけないからこれで!」
彼女は慌てて立ち上がり、バタバタと落ち着かない様子でその場から走り去っていった。
あっという間に人混みに消えていく後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
(結局、あの人は何だったの…?)
謎の調査員に振り回された奇妙な時間ではあったが、お腹はこれ以上ないほど満たされている。
手渡されたパニーニの香ばしさと、次々に振る舞われた軽食の余韻を噛み締めながら、私は再び歩き始めた。
(……まあ。お腹もいっぱいになったし、そろそろお店へ帰ろう)
夕暮れ時の裏路地に自分の足音を響かせながら、私は家路へと向かうのだった。
(第10話・おわり)
エミレースはプイに飯を食わせたい人間たちの無意識的集合体です。