時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たすとき、人は束の間、自分勝手になり「自由」になる。
誰にも邪魔されず、気を遣わず物を食べるという孤高の行為。
この行為こそが、現代都市の人々に平等に与えられた最高の『救い』と言えるのだ。
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ウンボンのチキン酒場の昼時は、相変わらず忙しい時間が続いていた。
私はエプロンを締め、熱の籠もった厨房と客席を行き来しながら、手際よく料理を運び、空いた皿を下げていた。シーシュポス百貨店を離れて以来、この店で汗を流して働く時間は、私の生活の確固たる基盤となっていた。
カウンターの端の席に、一人の女性客が静かに腰掛けていた。
品のある落ち着いた紫色のスーツを纏い、背筋をまっすぐに伸ばした立ち振る舞い。ウーフィ協会の4級フィクサー、アーテン。彼女はこの店の常連であり、忙しい昼時にいつも静かにチキンを味わっていく人物だ。
私が注文のチキンと冷えたお茶を運ぶと、彼女は丁寧にあいさつをしてきた。
「いつも素晴らしい手際ですね、プイさん。あなたの働くお姿には、いつも感服させられます」
「……ありがとう、アーテン」
アーテンは口元に柔らかい笑みを浮かべ、お茶を一口含んだ後に言葉を続けた。
「実は私、街歩きをしながら美味しいお店を巡るのが趣味でしてね。一生懸命に働くあなたの姿を見ていると、ぜひ一度、美味しいお食事をご馳走したくなるのです。今日の昼休み、もしよろしければご一緒していただけませんか?」
思いがけないお誘いだった。私と同じように、街を歩き美味いものを探す趣味を持つアーテンの提案に、拒む理由はどこにもなかった。
「……誘ってくれてありがとう、アーテン。……できたら、気取ったお店じゃなくて…庶民的なお店が良い…」
私の要望を聞いたアーテンは、嬉しそうに目を細めて頷いた。
「ええ、勿論ですとも。私も気取った料理より、街の息吹を感じられるような素朴なお料理が好きなのです。良いお店を知っておりますので、ご案内いたしますね」
仕事の合間の昼休み、私はアーテンの案内に従い、大通りから数本入った静かな路地へと足を踏み入れた。
たどり着いたのは、古びた木製のドアと、使い込まれた食品サンプルが並ぶ小さな食堂だった。看板にはシンプルに『下町食堂』とだけ書かれている。
店内に入ると、油とニンニクの香ばしい匂いが漂い、使い込まれたパイプ椅子とテーブルが整然と並んでいた。
「こちらのお店は、この地区の人々に長年愛されている食堂なのです。気取らない味が実に素晴らしいのですよ」
アーテンと向かい合わせに席につき、メニューを開く。彼女はお目当ての料理が決まっているようで、店員へ静かに声をかけていた。
「すみません、こちらの特製カルボナーラを、大盛りで二人前お願いできますでしょうか」
「はいよ! カルボナーラ大盛り二つね!」
威勢の良い返事が厨房から返ってきた。
しばらくして運ばれてきたお皿を見て、私はその圧倒的なボリュームに一瞬、息を呑んだ。
深めの大皿に、溢れんばかりに盛り付けられた黄色いパスタ。上からはたっぷりの粉チーズと、粗挽きの黒胡椒が豪快に散らされている。巣の高級イタリアンで見られるような繊細な盛り付けではなく、胃袋を力強く満たすために作られた、まさに大盛りの一皿だった。
「さあ、冷めないうちに召し上がってくださいな、プイさん」
「……ありがとう、アーテン。いただきます」
フォークを取り、山盛りのパスタをしっかりと巻き取る。
太めの麺には、濃厚な黄色のソースがどろりと重たく絡みついていた。
口の中へ運ぶ。
ガブッ……モグ……!!
(……っ! ……うん……っ!)
強烈な旨味が、口いっぱいに広がった。
高級店のような上品で滑らかな生クリームの風味ではない。卵と生クリーム、そしてたっぷりのチーズを惜しみなく使い、力強い塩気とニンニクの風味がガツンと効いた、実に「大味」な仕上がりだった。
しかし、その大味さこそが、この料理の最大の魅力。
中にゴロゴロと入っている分厚く切られたベーコンを噛み締めると、燻製の香ばしい脂がジュワリと溢れ出し、濃厚なソースと絶妙に混ざり合う。黒胡椒のピリッとした辛みが、重厚なソースのコクを心地よく引き締めていた。
(……美味しい。これが…町で長年愛されてきた、偽りのない庶民の味……)
アルデンテとは違う、少し柔らかめでモチモチとした太麺が、どっしりとしたソースをしっかりと受け止めている。お洒落な気取りは一切ない、空腹の胃袋にダイレクトに訴えかけてくる力強さがあった。
黙々とフォークを動かし、パスタを巻き取っては口へ運ぶ作業を繰り返す。
隣でアーテンも、実に綺麗で丁寧な所作でありながら、かなりのスピードで大盛りパスタを美味そうに食べ進めていた。
「お気に召していただけましたでしょうか、プイさん?」
「……うん。すごく美味しい。大雑把だけど…素材が力強い。…お腹の底から元気が湧いてくる」
私の言葉に、アーテンは満足そうに微笑んだ。
「ふふ、そう言っていただけて良かったです。格調高いお料理も良いものですが、日々汗を流して働く者にとっては、こうした力強いお料理こそが一番の薬になりますからね」
ウーフィ協会のフィクサーとして規律正しく生きる彼女もまた、この下町の素朴な味に救われている一人なのだと感じられた。
皿に盛られた膨大な量のパスタは、夢中で食べ進めるうちに少しずつ減っていき、最後の一筋の麺とベーコンの欠片を口に収めた。
器に残った濃厚なソースも、添えられていたバゲットですくい取り、綺麗に平らげた。
(……ごちそうさま。…満たされた……)
お冷を飲み干し、息を吐く。
アーテンもお皿を綺麗に空にし、上品に口元を布巾で拭っていた。
「素晴らしい食べっぷりでしたね、プイさん。ご馳走した甲斐がありました」
「……アーテン、ごちそうさま。とても美味しかった」
会計をスマートに済ませてくれたアーテンと共に店を出ると、午後の裏路地の風が肌を撫でた。
彼女は深く頭を下げ、静かな口調で言いました。
「それでは、私は仕事に戻りますね。また、お店でお会いしましょう、プイさん」
「……うん、待ってるよ、アーテン」
丁寧に去っていくウーフィ協会のフィクサーの後ろ姿を見送り、私は歩き始めた。
お腹の中に残る、濃厚なカルボナーラとニンニクの温かい余韻。
町の人々に愛され続ける大衆の味は、また一つ、私の日常を豊かに彩ってくれたのだった。
(……さて。お腹も満たされた。お店へ戻って、午後の仕事をしっかりとこなさないと)
元気を取り戻した脚で、私は見慣れた裏路地の店へと足早に帰っていった。
(第11話・おわり)
今日は時間がなかったので短めでした。
現場からは以上です。