生化学とかがつらすぎて泣きヒキガエルになっていましたが、これを書いているうちは楽しくいられました。
時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たすとき、人は束の間、自分勝手になり「自由」になる。
誰にも邪魔されず、気を遣わず物を食べるという孤高の行為。
この行為こそが、現代都市の人々に平等に与えられた最高の『救い』と言えるのだ。
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澄み渡った秋の風が、K社の裏路地を通り抜けていく。
今日は待ちに待った休日だった。普段ならば私服に着替え、あてもなく裏路地を散歩し、見知らぬ路地裏で未知の美味に出会うための旅へ出かけるところだった。
だが、部屋のベッドの上で身体を起こしたとき、私の脳裏にふと、思いがけない疑問が浮かび上がった。
(……私…あのお店で『客』として料理を食べたこと、あったっけ?)
シーシュポス百貨店の崩壊から逃げ延び、命からがらこのK社の裏路地に流れ着いた私を拾ってくれたのは、ウンボンのチキン酒場の社長だった。
以来、私は毎日厨房に立ち、油の匂いに包まれながら揚げ物を仕込み、客へと料理を運び、夜には社長の作った賄いを食べてきた。賄いのチキンはどれも絶品で、私の血肉となり、この痩せこけていた身体を健康なものへと育て上げてくれた。
しかし、私はあのお店のカウンターに客として座り、メニューを開き、代金を払って『ウンボンのチキン』を食べたことが一度もなかったのだ。
(……賄いじゃなくて、一人の客として味わうウンボンのチキン。…どんな味がするのかな)
一度芽生えた強い興味は、もう抑えきれなかった。
私は私服を整えると、二階の自室から階段を下り、一度お店の外へと出た。そして、表の暖簾をくぐり、一人の客としてお店の扉を押し開けたのだった。
カチャン、と澄んだカウベルの音が響く。
厨房の奥で仕込みをしていた社長が、不審そうに顔を上げた。
「ん……? なんだプイ、今日は休みだろ。何か忘れ物でもしたか?」
「……いや、社長。本日は、客として食べに来た…」
私が真顔でそう告げると、社長は一瞬きょとんとして固まり、次の瞬間、お腹を抱えて豪快に大笑いし始めた。
「ガハハハハ! なんだそりゃ! 毎日自分で仕込んで賄いで食ってるだろ!」
「……賄いと、客として食べるのだと、違うかなって。…私はこの店のフライドチキンを、客の立場で味わいたい…」
真面目に応答する私を見て、社長は苦笑しながらも、温かい眼差しでポンとカウンター席の椅子を叩いた。
「へいへい、いらっしゃいませお兄さん。そっちの席へどうぞ。……たく、お前は本当に面白ぇ奴だな」
私はカウンター席に腰掛けた。いつもなら内側から見ている景色が、反対側から見ると妙に新鮮に映る。使い込まれた調味料の瓶、油の香ばしい匂いが染みついた木製の壁。ここが私の帰る場所であり、同時に都市の人々のお腹を満たす戦場でもあった。
「で、ご注文は?」
社長が手帳とペンを手に取り、ニヤニヤしながら尋ねてくる。
「……ウンボンのフライドチキン。それと、冷たい水…」
「あいよ! ウンボンチキン一丁!」
社長は威勢よく応えると、厨房の奥へと向かった。
フライヤーの前に立つ社長の背中は、普段見慣れているはずなのに、客席から見ると実に頼もしく見えた。
下味をつけた鶏肉に丁寧に衣を塗し、熱した油の中へ滑り込ませる。
パチパチパチ……ジュワァァァッ……!!
激しい揚げる音が厨房内に響き渡り、香ばしい油とスパイスの匂いが立ち上る。
いつも自分がやっている工程だ。だが、待つ側となると、この数分間が驚くほど長く、そして愛おしく感じられた。香ばしい匂いが胃袋を心地よく刺激し、唾液が口内に溢れてくる。
「はいよ、お待たせ! ウンボン特製フライドチキンだ!」
大きな白い皿に盛られたフライドチキンが、私の目の前に運ばれてきた。
(……きれい)
きつね色にカラリと揚げられた衣は、光を浴びて繊細に輝いていた。一つひとつが大きく、ボリュームに溢れている。添えられたキャベツの千切りと、特製の甘辛タレ。見慣れたはずの光景が、客席というフィルターを通すことで、輝かしいご馳走へと昇華していた。
「……いただきます」
私は手を合わせ、一番大きなチキンのピースを手に取った。
指先に伝わる、揚げたての強い熱。
口元へ運び、大口を開けてかじりつく。
ザクッ……ジュワッ……!!
(……っ! ………うん……っ!)
圧倒的な肉汁と旨味が、口内全体へと弾け飛んだ。
まず直撃するのは、衣のザクザクとした心地よい歯ごたえだ。独自に配合されたスパイスの風味が鼻を抜け、続いて柔らかくジューシーな鶏肉から、閉じ込められていた熱い肉汁が溢れ出してくる。
(……おいしい。……やっぱり、とびきりおいしい……!)
何度も食べてきた味だ。仕込みの苦労も、隠し味の配合もすべて知っている。
だが、客として、自由な時間に、自分の代金を払って食べるこの一言では言い表せない解放感と幸福感。
単に空腹を満たすためだけの食事ではない。
この店を訪れる労働者たちが、一日の疲労を癒やし、明日への活力を得るために食べる味がそこにあった。
「どうだ、客として食ううちのチキンは?」
厨房の向こうで、社長が腕を組んで尋ねてくる。
「……おいしいよ、社長。賄いも美味しいけど、こうして客として食べると、このチキンがどれほど街の人々を支えているかが良く分かる…。衣のザクザク感と、肉のジューシーさが最高」
「へっ、当たり前だろ。俺が何年このチキン揚げてると思ってんだ」
照れくさそうに笑う社長を横目に、私は夢中でチキンをむさぼった。
付け合わせの甘辛タレに潜らせれば、コクのある甘みと辛味が加わり、また違った美味しさが口内を支配する。冷えた水をゴクゴクと流し込み、熱くなった口内を清涼感で満たす。
ザクッ、ジュワッ、ゴクッ。
手が止まらない。私は無心で、骨の周りの肉まで綺麗にしゃぶり尽くした。
最後の一片を口に収め、指先についた衣の残りを舐める。
お皿の上には、きれいに肉が削ぎ落とされた骨だけが残されていた。
(……ごちそうさま。完璧な、一皿)
胸の奥が、温かい満足感で満たされていく。
私はポケットから財布を取り出し、規定の代金をきっちりとカウンターに置いた。
「……社長。ごちそうさま。…代金」
「おう、毎度あり。……休みなんだ、しっかり散歩でもして来いよ」
「……うん。行ってきます」
店を出ると、秋の心地よい風が私の頬を撫でた。
お腹の中にどっしりと残る、ウンボンのチキンの温もり。
歩みを進めながら、私はこれまでの自分の旅路を振り返っていた。
裏路地の小さな露店で食べた、チープだが究極の引き算で作られたホットドッグ。
リウ協会のコートンが、自らの炎と情熱を込めて炒めてくれた灼熱のパラパラ炒飯。
深夜の静寂の中で、自分の身体を温めるために仕込んだ即席の水餃子スープとうどん。
記念日に自分を労うために食べた、色鮮やかで豪華なサムギョプサルとパッピンス。
マリアッチのリカードたちが、情熱的な音楽と共に振る舞ってくれたチレスエンノガダ。
ユロージヴィのカチューシャの店で味わった、身体の芯から熱を届けてくれた真っ赤なボルシチ。
体重計の数字に戸惑いながらも、自分の健康と成長を噛み締めたホリアティキ。
自分の限界に挑み、胃袋の向こう側を突き抜けた200杯の無限わんこそば。
セブン協会のエミレースと分け合った、香ばしいパニーニと甘い甘味の数々。
そして、ウーフィ協会のアーテンと味わった、下町の優しさが詰まった大盛りのカルボナーラ。
どれもが、私という存在を紡ぎ直し、私を『人間』にしてくれた最高の食卓だった。
(……食事とは、なんと素晴らしい行為なのだろう……)
誰かに与えられた本質に縛られ、無機質な存在として彷徨っていた私が、食事を通じて自分の意思を持ち、他者と関わり、生きる喜びを知った。
食べたものが、私という人間を作っている。
そして、料理を作る者の情熱と温もりが、食べる者を救うのだ。
(……私も。いつか、誰かを満たすものを作りたい……)
ふと、胸の奥から湧き上がる明確な意志があった。
食べるだけの存在から、人を満たす存在へ。社長が私に美味しいチキンを作ってくれたように、私も自分の手で、誰かの心と胃袋を救う料理を作りたい。
(……料理を、学びたい。自分の手で、美味しいものを作り出せるように……)
確かな決意が、私の中に芽生えた瞬間だった。
足を伸ばして大通りへと出ると、懐かしい顔ぶれが次々と目に入った。
「やあ、プイくん! 今日はお休みかい?」
リウ協会の赤いコートを羽織ったコートンが、背の高い身体を揺らしながら手を振ってくれた。
「……こんにちは、そう、お休み」
「そうかい! また詰所に遊びにおいで、いつでも美味しい炒飯を炒めてあげるからね!」
「……うん、楽しみにしてる」
中華なら何でも得意だからね~と言いながら、忙しそうに立ち去って行った。
さらに路地を進むと、大きな新しい看板を嬉しそうに取り付けているユロージヴィのカチューシャの姿があった。
「あ、プイくん! 見てくれよ、アドバイス通り大きな看板を作ったんだ! これで客がたくさん来てくれると嬉しいんだがね!」
「……とてもいいと思う。きっとたくさんの人が来てくれるよ」
「ふふ、ありがとう! また温かいボルシチとお茶を食べに来てね!」
すれ違う人々、声をかけてくれる人々。
かつては無機質な灰色の景色でしかなかった都市が、今ではこんなにも温かい居場所へと変わっていた。
気がつけば、空は茜色に染まり、街灯がぽつりぽつりと灯り始めていた。
いつの間にか、夕時になっていたのだ。
秋の冷たい風が吹き抜ける。しかし、私のお腹と胸の中には、温かい火が灯り続けていた。
今日という一日が終わり、また新しい明日がやってくる。
私は夕空を見上げ、お腹の底に語りかけるように、ぽつりと呟いた。
「……さて。今日は、何を食べようかな」
(『孤独のプイグルメ』・完)
これにてプイの物語は一区切りとさせていただきます。
短い間でしたが、見てくれてありがとうございました。