時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たすとき、人は束の間、自分勝手になり「自由」になる。
誰にも邪魔されず、気を遣わず物を食べるという孤高の行為。
この行為こそが、現代都市の人々に平等に与えられた最高の『救い』と言えるのだ。
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【ウンボンのチキン酒場にて】
「プイ。今日の昼の仕込みはここまででいいぞ。少し早いけど、裏路地でも歩いて気晴らししてきな」
社長からそう声をかけられ、私は手にしていた包丁をまな板の上に置いた。
「……わかった、社長」
エプロンを外し、パイプ椅子から立ち上がる。
この仕事は、きついことも多いがその分、未知なことや楽しいことも多い。
こうして昼休みにあてもなく街を歩く時間が、私の密かな楽しみになっていた。
居場所や周囲の景色など、どうでもいい。錆びた配管と灰色の壁があれば、そこは都市のどこにでもある裏路地だ。誰がどこで何をしていようと、私の知ったことではない。
ただ……。
(……お腹が…空いた)
チキンの油の匂いをずっと嗅ぎ続けていたせいだろうか。胃袋が何か別のジャンルの食べ物を強く求めている。
足を前に進める。
雑多な路地をあてもなく歩いていると、曲がり角の陰に小さな露店が出ているのが目に入った。
リヤカーを改造しただけの、本当に小さな店だ。看板すらない。古びた布切れに、手書きでただこう書かれているだけだった。
『ホットドッグ』
(……ホットドッグ。いいじゃないか……。こういうので、いいんだ)
見栄えのいい看板も、目をに引く群衆もいない。ただ、鉄板の上で細長いウインナーがジリジリと脂を弾かせる音と、焦げた香ばしい匂いだけが漂っている。
「いらっしゃい、お兄さん。うちのは安くて早いよ」
店主の親父さんがボソリと呟く。見ればわかる。鉄板の上の光景は驚くほどシンプルだ。
「……店長。その、ホットドッグを……ひとつ」
「あいよ」
店長さんは手慣れた手つきで少し乾いたコッペパンを手に取り、その間に焼き立てのウインナーを挟んだ。そして、黄色いマスタードをサーッと一筋絞りかけた。
それだけだ。
レタスもない。ピクルスもない。チーズも、凝ったソースも何もかかっていない。
(……チープだ。あまりにも、チープ……。だが……それが、いい)
「はい、お待たせ。マスタード、よく効くからね」
「お代は…はい、丁度」
紙ナプキンに包まれたそれを受け取る。手のひらに伝わる温もり。ずっしりとした重さではなく、どこか軽くて素朴な感触だ。
近くの丸太の椅子に腰を下ろし、包み紙を静かにめくる。立ち上るのは、小麦の焼けた香りと素朴な肉の脂の匂い。
大口を開けて、一気にかじりつく。
サクッ……パリッ!!
(……っ! ………っ!!)
衝撃が走った。
まず、パンだ。ふわふわとしたパンではない。少しパサついていて、けれど噛むほどに小麦の素朴な甘みが広がる下町のコッペパン。それが鉄板の熱で外側だけサクッと香ばしく焼かれている。
そして、ウインナーだ。
変なスパイスも、合成肉の雑味もない。歯を立てた瞬間にパツンと皮が弾け、中から純粋な肉の脂が溢れ出してくる。
さらに、追いかけてくる黄色いマスタードの強烈な酸味。そして、ツンと鼻に抜ける辛味。
それだけの味だ。複雑な味付けなどどこにもない。パンと、肉と、マスタード。
(……引き算だ。究極の……引き算の美学が、ここにはある……)
「こういうので、いいんだ……。こういうので……いいんだよ……」
思わず言葉が漏れていた。
ただ、腹が減ったこの口の中に、この素朴でチープな塩気がダイレクトに染み渡っていく。
モグモグと夢中で咀嚼する。噛めば噛むほど、旨味が口の中で混ざり合っていく。
(……少し、マスタードが強いな。舌が……ツンと、痛む。だが……それが、いい。この……刺激が、いまの私には……心地よい)
「いい食べっぷりだね、気に入ったよ。これサービスね」
そういうと店長さんは、瓶の中に入った茶色で泡が湧いてくる飲み物を置いてきた。
「なに…これ?」
「ん?知らないのか。これはペプチド・コーラっていう飲み物だよ、飲んでみ」
少し疑いながらもその瓶に口を付ける。
「!?」
口の中に泡の刺激と甘みが広がる。その刺激とほのかな柑橘の香りで油のくどさが一気に無くなっていく。
すかさずホットドッグを口に入れる。
甘くなった口は、この肉の塩っ気と旨味を何倍にも引き立たせる、そしてまたコーラを飲む!
「なるほど…おいしい、合わせるともっとおいしい…」
熱い肉汁、香ばしいパン、ツンとするマスタード。それに合わせるコーラ。それだけでいい。いまの私の全存在は、この一口のためにある。
夢中で食べ進める。
あっという間に最後のひと口だ。名名残惜しいが、口の中に放り込む。パツンとウインナーが弾け、マスタードの酸味が広がり、胃へと収まっていく。
紙ナプキンで口元を丁寧に拭う。
(……食べた。食べ終わった……。胸の……奥が。胃袋の……底が。静かに……カチリと……満たされていく)
椅子から立ち上がり、店主に向き直る。
「……店長さん。ごちそうさま……美味しかったよ」
「おっ。綺麗に食べてくれたね。またおいで」
店長さんの低い声を背中に受けながら、私は来た道を振り返ることなく引き返した。
頭の上では相変わらず冷たい飛行船が飛んでいるかもしれない。都市の不条理が渦巻いているかもしれない。
けれど、いまの私の足取りは、さっきよりもずっと軽かった。
(……さて。腹も……満たされたことだし……。そろそろ……お店に戻るとしよう。午後の……仕込みが、待っている)
元・神様の昼休みは、これで終わりだ。
(第2話・おわり)
口調がいつまでも安定しない。助けてボンちゃん!