時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たすとき、人は束の間、自分勝手になり「自由」になる。
誰にも邪魔されず、気を遣わず物を食べるという孤高の行為。
この行為こそが、現代都市の人々に平等に与えられた最高の『救い』と言えるのだ。
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「……プイ。今日の午前中の仕込みはここまでにしよう。少し早いが、昼休みにしてきていいぞ」
ウンボンのチキン酒場の奥から、社長の太く低い声が響く。
私は手元にあった包丁をきれいに拭き、まな板の上に静かに置いた。
「……わかった、社長。」
エプロンを丁寧に取り外し、壁のフックに掛ける。
やっとこの時間が来た。すべてから解放され、ただ欲望を満たす時間…昼休みだ。
昼の空気を吸いに出る時間が、私の生活における数少ない定常的なルーティンとなっていた。
あてどなく、しかし足の向くままに裏路地を進む。
頭上ではK社の特異点アンプルの広告ビジョンが冷ややかに明滅し、すれ違う人々は相変わらず慌ただしく行き交っている。誰がどこへ向かい、何に追われているのか。私には関係がない。私にあるのは、ただ静かに訪れた空白の時間だけだ。
「……っと」
雑多な十字路を曲がったときだった。
すぐ斜め前を歩いていた背の高い影から、小さな布の塊がぽろりと落ちた。赤いコートの裾を揺らす、見上げるほどに細身の女性だ。彼女はそれに気づく様子もなく、そのまま足早に歩き続けている。
私は足を止め、落ちたものを拾い上げた。手のひらに収まる程度の、古びた小さな巾着袋だった。
「なんだろう?…ロゴみたいなのが書いてある…百貨店で見たものみたい…」
少なくとも百貨店の知識で言えば、貴重品故、返すべきものだろう。
「……あの。落とし物です」
少し声を張ると、女性はぴたりと足を止め、ゆっくりと振り返った。
リウ協会の制服である赤いコートを纏い、引き締まった体躯をしたその人物は、私の顔を見てわずかに目を丸くした。
「……おや。これは、私の巾着袋だね。落としていたかい……気づかなかったよ。ありがとう、プイ君…でいいかな?」
彼女は私の胸元に下げられた名札に目を留め、そういった。
「……私はリウ協会のコートンというんだ。第2課で現場の指揮を担当している。……ちょうど今、簡単な昼食をとろうと準備していたところなんだがね。お礼と言ってはなんだけれど、君も一緒にどうだい? 炒飯くらいなら、すぐに作れるよ」
断る理由も、断るだけの理由を見つける脳の余裕もなかった。
何より、「炒飯」という言葉を聞いた瞬間、私の胃袋の底が微かに、しかし確実に反応した。
「……ありがとう、コートン…」
私はコートンに連れられ、近くにあるリウ協会の小さな詰所の厨房へと足を踏み入れた。
詰所の厨房は、協会の拠点らしく、多くの食材や調味料であふれている。そのうえ、手入れが行き届いていて妙に整然としていた。
コートンは赤いコートを脱ぎ、白シャツの袖を肘までまくり上げる。その引き締まった腕の筋肉には、無数の小さな傷跡が刻まれていた。戦う者の身体だ、と無機質な思考がよぎる。
「……さて、プイくん。少し離れていてね。火の粉が飛ぶかもしれないから」
コートンがコンロの前に立ち、年季の入った鉄製の中華鍋を手に取った。
彼女が息をひとつ吐き出すと、その手のひらから、メラッと鮮やかな赤と橙色の炎が立ち上った。リウ協会のフィクサーが戦闘時に用いる、感情と熱量を力に変える武術の応用だ。
(……すごい。手が、燃えている……)
声には出さず、私はただ静かに見つめた。
コートンは炎を纏ったまま、中華鍋をコンロの強火の上に置いた。カン、カン、とリズミカルで重い金属音が狭い厨房に響く。油が引かれ、一瞬で白い煙が立ち上る。その煙の中へ、溶きほぐされた卵液が流し込まれた。
ジュッ……! という凄まじい音と共に、卵は一瞬で黄金色の泡となって膨らみ、そこへ真っ白な冷やご飯が迷いなく投入される。
コートンは細い腕に力を込め、重い中華鍋を激しく、しかし淀みなく振り始めた。
彼女の拳から放たれる熱量が鍋の底を直接焼き付け、米粒一つひとつに炎のエネルギーを叩き込む。それは料理というよりも、ひとつの鮮やかな戦闘技術のようだった。米が踊り、跳ね、黄金色の油と調味料の香りが一気に鼻腔を殴りつけてくる。
黄金の米たちがが波のように湧いては引き、また溢れていく。その間にある具材たちも流れるように米たちに付いていく。
「……よし、出来上がりだ。リウ協会風の、荒っぽい炒飯だけどね」
コートンは手際よく皿に炒飯を盛り付け、私に差し出した。
湯気と一緒に、強烈な炒め油の香りと、ネギ、そして焦がし醤油の芳醇な匂いが立ち上る。
「……いただきます」
私は添えられたレンゲを手に取り、山盛りの炒飯の端からひと口分をすくい上げた。
湯気をまとった米粒は、一粒一粒が独立して、まるで宝石のように黄金色に輝いている。そのまま、口の中へと運んだ。
ほろっ……パラッ……!!
(……っ……!)
口に入れた瞬間、まず驚かされたのはその食感だった。
そこにあるのは均質な柔らかさではない。外側は強火の炎で香ばしくパリッと焼き上げられ、中はもっちりとしたお米の甘みが残っている。嫌な油っぽさは一切なく、米の一粒一粒が空気を含んでいるかのように、口の中でさらりとほどけていく。
そして、追いかけてくるのはネギのシャキシャキとした食感と、豚肉の旨味が凝縮された脂のコクだ。
特別な高級食材など入っていない。だが、コートンの圧倒的な火力と手際が、素材の持っているポテンシャルを極限まで引き出している。
(……すごい……。お米が、生きているみたいだ……)
無意識のうちに、レンゲを動かす手が早くなっていた。
熱いはずの炒飯が、不思議と喉を心地よく通っていく。炎で炒められたからだろうか、食べた端から体の芯がじわりと温かくなるような感覚があった。
「……口に合ったかい、プイくん?」
コートンは自分の分を小さめの茶碗に取り分け、向かいの席に腰掛けながら、少しだけ柔らかい笑みを浮かべた。
「……うん、とても美味しい。こんなにパラパラで…熱い炒飯は初めて食べた。お米が…鍋の中で踊っているみたい」
私の素直な感想を聞いて、コートンは満足そうにうなずいた。
「そうかい。戦いの技術なんてものはね、突き詰めれば日々の生活と地続きのものさ。熱を込めて敵を殴るのも、熱を込めて鍋を振るうのも、本質的には同じことなのさね」
彼女のその言葉は、どこか哲学的でありながら、妙に地に足がついていた。
(なに…言ってるんだろうこの人…?)
モグモグと咀嚼し、最後の一粒までレンゲで丁寧にすくい取る。
食べ終えた器には、余計な油の残りかすすらない。…完食だった。
「……ごちそうさま、コートン。本当に…美味しかった」
「……ふふ、綺麗に食べてくれて作り甲斐があったよ。またいつでも、この詰所を覗きにおいで。いつでも歓迎するよ」
詰所の扉を開け、外の冷たい空気が肌に触れる。
午後のK社の裏路地は相変わらず喧騒に満ちていたが、やはり、皆食事をとったからかどこか柔らかい空気である。
(さて……お腹も、しっかりと満たされた。社長の待つお店に戻って、午後の仕込みと仕事を続けよう)
後ろの詰所から、コートンの指導の大声と、悲鳴のような協会の人たちの声が聞こえる。
元・神様の、静かで満たされた昼休みは、こうして穏やかに過ぎていくのだった。
(第3話・おわり)
最近、薬剤師会の方々が行っている血管年齢測定と野菜食べてるか測定?みたいなの受けたんですけど、どっちも今日のワーストを更新してしまいました。運動もしているんですが、やはり食事は全ての元ですね。反省!