韓国料理だとサムゲタンが好きです。
時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たすとき、人は束の間、自分勝手になり「自由」になる。
誰にも邪魔されず、気を遣わず物を食べるという孤高の行為。
この行為こそが、現代都市の人々に平等に与えられた最高の『救い』と言えるのだ。
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「……プイ。今日でうちに来てちょうど一か月だな」
営業終了後の静かな厨房で、社長がポケットから茶封筒を取り出し、調理台の上に置いた。
「この一か月、プイのおかげで助かったよ。これは今月の給料とは別の特別ボーナスだ。それと明日は特別休暇にしてやる。たまには街に出て、贅沢でもしてこい」
突然のことに、私は差し出された封筒をじっと見つめた。
「……社長。これ、受け取っていいの?」
「当たり前だ。記念日ってのはな、自分の頑張りを労って、贅沢なものを食べるためにあるんだよ。好きに使ってこい」
記念日は、贅沢をする日。
都市で生きていくための新しい概念が、私の頭の中に刻まれた。
翌日、私は久しぶりに私服に身を包み、K社の裏路地へと出かけた。
懐にある茶封筒の程よい重みが、今日という日が特別なものであることを教えてくれる。
「これだけあれば…なんでも食べれる!」
「~♪」
町の中を小躍りで、しかも鼻歌を歌いながら歩いている姿は、誰だろうと一目見れば明らかに機嫌がいいのが伝わってくる。
(……記念日。贅沢な食事……♪)
何を食べようかと宛てもなく歩いていると、少しひらけた大通りの一角で、ひとつの看板が目に飛び込んできた。
『焼肉 プヨ』
重厚な木製の看板に、力強い文字でそう刻まれている。
(……プヨ。私の名前に、響きが似ている…)
見知らぬ街で奇妙な親近感を覚えた私は、吸い寄せられるように重い扉を押して店内へと入った。
店内は香ばしい肉の脂と煙の香りに満ちており、中央の鉄板付きテーブルへと案内される。メニューを開くと、一番上に大きく写真が載せられている料理があった。
『究極のサムギョプサルセット!』
【S社の最高級豚肉!YBD豚のみ使用!すべてのサムギョプサル好きは食べるべきな一品!】
とか
【これを食べないなんて人生損!9万眼に見合う美味しさ!】
だの、様々なポップがこれ見よがしに私の網膜に入っていく。
(……厚切りの豚肉を鉄板で焼き、野菜で包んで食べる料理。…いい響き)
私は迷うことなく、サムギョプサルセットを注文した。
しばらくすると、運ばれてきたトレーの豪勢さに息をのんだ。
メインである分厚い生の豚肉に加え、新鮮なサンチュやエゴマの葉、キムチ、ニンニク、ネギ和え、サムジャン(味付け味噌)、パムチム(ネギの和え物)といった小皿がテーブル狭しと並べられている。
次々と、満漢全席のように机いっぱいに皿が置かれていく。
(……壮観。だけど自分で焼き上げるスタイル…腕がためされてる)
傾斜のついた特製の鉄板が加熱され、熱を帯びたのを確認してから、トングで大ぶりの肉を乗せる。
ジュワァァァッ……!!
激しい音が厨房の外まで響くかのように立ち上り、白い煙と共に肉の香ばしい脂の匂いが立ち上った。
鉄板の傾斜に従って、肉から溢れ出た余分な脂が下へと流れていく。その落ちていく脂の先にキムチとニンニクを配置し、旨味を吸わせながら同時に焼き上げる。
「豚肉は…なるべくひっくり返さない。…待つのは得意だよ…豚さん」
表面にきれいな狐色の焼き色がつき、カリッとした質感に変わったところで、ハサミを使って一口大に切り分けていく。
ザクッ、パリっと心地よい手応えが手に伝わる。
いよいよ、食べる瞬間だ。
左手に手のひらサイズのサンチュを広げ、その上に爽やかな香りを放つエゴマの葉を重ねる。
中央にカリッと焼き上がったサムギョプサルを乗せ、特製のサムジャンを少しつけ、鉄板で脂を吸ってしんなりとした焼きキムチと焼きニンニクを添える。
最後に、手のひらの中で全体を包み込むようにギュッと丸め、一口で口の中へ放り込んだ。
ザクッ……ジュワッ……!!
(……っ! ………ふぁ……っ!)
衝撃が、口内全体を突き抜けた。
サンチュのシャキシャキとした瑞々しい食感の直後、歯が豚肉の香ばしい皮目と柔らかい身を捉える。
噛み締めた瞬間に溢れ出す豚肉の濃密な脂の旨味。しかし、エゴマの葉の清涼感ある香りと、サムジャンの深いコク、そしてキムチの酸味と辛味が脂の重さを完璧に相殺している。
(……おいしい…すごく…)
素材が単体で主張するのではなく、包むことでひとつの完成された料理へと昇華している。
一包みを飲み干すと、すぐさま次の肉へと手が伸びる。
今度は味変を試してみよう。
サンチュの上に肉を乗せ、今度はパムチム(ごま油と唐辛子で和えたネギ)をたっぷりと添え、ごま油と塩のシンプルなタレに潜らせてから包み…
口へ運ぶ。
(……なるほど。ネギがあると触感が違う…辛いのもアリかも……)
キムチの酸味で食べる先ほどの一包みとは異なり、こちらは力強い塩気と風味が際立つ、非常にパンチの効いた味わいだ。
続いて、焼いたニンニクとサムジャンだけをシンプルに肉に乗せ、サンチュだけで巻いて食べる。
(……ダイレクト。肉の味と、香ばしいニンニクの風味が味覚をを刺激してくる……)
包み方、添える具材の組み合わせによって、一口ごとに全く異なる表情を見せる。
味変の選択肢が無限に存在し、食べる者を飽きさせない。
夢中で肉を焼き、包み、口へ運ぶ作業を繰り返した。
カリカリに焼けた肉の香ばしさと、新鮮な野菜の瑞々しさが、交互に口の中を駆け抜けていく。
(……食べた。お腹いっぱいになるまで堪能した……)
鉄板の上の肉と野菜をすべて平らげた頃には、お腹の底から確かな満足感が湧き上がっていた。
だが、これで終わりではない。記念日の贅沢には、締めが必要だ。
私はデザートのメニューから希望のものを探し始めた。
『パッピンス』
「なんだろう?知らない料理…」
メニュー表には山盛りになった氷の山に、様々な果物が盛り付けられてる。
「きれい…それに、おいしそう」
そう決まったのなら注文をしない理由など何一つない。すぐに店員さんを呼んで注文した。
暫くすると、想像以上のものが届いた。
運ばれてきたのは、深めの器に山盛りにされた細かな氷の上に、甘く煮られた小豆、色鮮やかなフルーツ、小さな餅、そして頂点に大きなアイスクリームが鎮座した、まさに豪華絢爛なかき氷だった。
スプーンで氷と小豆、アイスクリームをすくい、口に運ぶ。
シャリッ……ツルッ……。
(……っ! 冷たい……。そして、おいしい甘さ……)
焼肉の熱気と脂で満たされていた口内が、一瞬でひんやりとした清涼感に包まれる。
ミルク風味の滑らかな削り氷が口の中でスッと溶け、小豆の優しい甘さとフルーツの甘酸っぱさが爽やかに広がっていく。
温から冷へ、脂から甘味へ。
完璧な締めくくりだった。
パッピンスを最後の一すくいまで綺麗に平らげ、満足のいく吐息をつく。
伝票を持ち、レジで会計を済ませた。
茶封筒からお金を取り出し、支払いを終えて店を出る。
かなり軽くなってしまったが、それに見合う料理だったことには間違いない。
外の空気はすっかり涼しくなり、街灯が裏路地を柔らかく照らしていた。
お腹を満たした私は、食後の腹ごなしも兼ねて、夜の街をゆっくりと散歩しながら帰路についた。
静かな夜道を歩きながら、今日食べたものの余韻と、自分の手で選んで楽しんだ贅沢の感覚を噛み締める。
しばらく歩き、見慣れたウンボンのチキン酒場の前に辿り着いた。
鍵を開けて店の中に入ると、厨房の奥の居住スペースの明かりがついていた。
「……かえったよ、社長」
私が声をかけると、奥から社長が顔を出した。
テーブルの上を見ると、小さな箱が開けられ、可愛らしいホールケーキがひとつ置かれていた。
「おう、戻ったか。どうだ、贅沢はできたか?」
「……うん、社長。『プヨ』っていう店で、サムギョプサルとパッピンスを食べてきた。とても美味しかったよ」
私が答えると、社長は満足そうに口元を緩めた。
「そうか、そりゃよかった。だがな、プイ。記念日の締めってのは、家で甘いもん食って終わるのが一番なんだよ。ほら、座れ。ケーキ切ってやるから」
社長はそう言って、ナイフを手にした。
テーブルの前に腰掛け、切り分けられたケーキを見つめる。
外で食べた豪華なサムギョプサルも美味しかったが、こうして自分の帰りを待っていてくれた人が用意してくれたケーキの甘さは、また格別だった。
フォークでケーキをひとくち食べると、甘い生クリームの味が口いっぱいに広がった。
「……美味しい…いちばんおいしいよ、しゃちょう」
胸の中がいっぱいになって、いろいろな気持ちがあふれだしそうになる。一人ぼっちで不安しかなかった私の…安心できる家。
「当たり前だ、高いやつ買ったんだからな。…はぁ、だからそんな泣いてる顔で食べるのはもったいないだろ?」
社長が照れくさそうに笑う。
ほのぼのとした温かい空気が、夜の部屋を満たしていく。
与えられた本質に縛られていた昔の私には知る由もなかった、自分で選ぶ自由と、誰かと分け合う温もり。
元・神様の記念日は、穏やかな微笑ましさの中で、静かに更けていくのだった。
(第5話・おわり)
豪華なかき氷ってシンガポールで食べたんですけど、なんか普通に美味しかったです。甘くて冷たければ人類美味しいって感じるのかもしれません。