時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たすとき、人は束の間、自分勝手になり「自由」になる。
誰にも邪魔されず、気を遣わず物を食べるという孤高の行為。
この行為こそが、現代都市の人々に平等に与えられた最高の『救い』と言えるのだ。
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季節の移り変わりというものは、思いのほか速いものだ。
K社裏路地を吹き抜ける風も、すっかり冷たくなってきた。建物の隙間を抜ける風が、肌を刺すような寒さを運んでくる。
私は薄手の羽織ものを一枚羽織り、いつものようにあてもなく裏路地を歩いていた。
社長のもとで働き、自分の足で歩き、自分の口で食べる。最近の趣味になっている散歩も続けているともはや習慣になってしまった。
しかし、肌寒い季節になると、人間の体というものは実に素直な反応を示す。
体の奧から、温かい汁物を求める強い欲求が自然と湧き上がってくるのだ。
(……温かいものが、食べたい……)
あたたかいスープ、あるいは熱々の鍋もの。
そんなことを考えながら、雑多な裏路地の奥深くへと足を進めた。
ふと、古い煉瓦造りの建物の隙間に、小さく控えめな木製の扉があるのが目に入った。
目立たない路地の、さらにくぼんだ場所にひっそりと佇むその扉の脇には、真鍮製の小さなプレートが掲げられており、そこに文字が刻まれていた。
『サモワール』
(……サモワール。聞いたことのない言葉……)
気になった私は、その小さな扉のノブに手をかけ、ゆっくりと押した。
カウベルの、コロコロとした澄んだ金属音が小さな室内へと響き渡る。
店内に一歩足を踏み入れると、そこは外の殺伐とした裏路地とは完全に切り離された別世界だった。
飴色に磨かれたクラシックな木製のテーブルと椅子、壁に掛けられた古風なランプ、そしてどこか懐かしい薪ストーブのような温もりが部屋全体を包み込んでおり、温かみがあり、非常に居心地のよい空間だった。
カウンターの奥から、エプロンをつけた一人の女性が顔を出してきた。
「おや、いらっしゃい。珍しいね、今日初めてのお客さんだよ」
「……こんにちは。外が少し寒かったから…温かいものを食べたくて…」
私が静かに答えると、彼女は気さくな笑みを浮かべた。
「そうかい、それはいいタイミングだ。私はこの店の店主の、カチューシャというんだ。……実はね、見ての通り客がさっぱり来なくて退屈していたところなのさ。もしよければ、私と一緒に昼食をとらないかい?」
カチューシャの提案に、私は少し考えた後、頷いた。
「……わかった、カチューシャ」
一人で食べるのも食の真髄だが、誰かが心を込めて作った温かい料理を、その作った本人と共に味わうのも、また悪くない選択だ。
指定されたテーブル席につくと、カチューシャは奥の厨房へと向かい、しばらくすると湯気を盛大に立ち上らせた大きな深皿を運んできた。
「今日の昼食はこれだよ。ボルシチさ」
目の前に置かれたお皿を見つめ、私は小さな感嘆の息を漏らしました。
「なにこれ…血?」
「そう見えちゃう?これはビーツっていう赤い大根の色だよ、独特の香りが特徴なんだ」
「……美しい赤。いただきます」
赤…ルージュ。私を象徴している色…
「召し上がれ。熱いから気をつけてね」
私は木製のスプーンを手にとり、まずは赤く澄んだスープを静かにひとくちすくい、口へと運びました。
ずず……っ。
(……っ……あたたかい……)
口いっぱいに広がったのは、ビート特有の柔らかく深みのある甘みと、じっくりと時間をかけて煮込まれた牛肉の濃厚な旨味、ブイヨンのコクと野菜の滋味が、冷え切っていた私の喉を通り、胃袋へと染み渡っていく。
続いて、中央に添えられた真っ白なサワークリームに手を伸ばしていく。
スプーンの先で少しずつ崩し、赤いスープへと溶かし込んでいく。
赤と白が混ざり合い、スープは次第にまろやかなピンク色へと変化してきた。
変化したスープを、もうひとくちすする。
(……おいしい。酸味が加わって、味が全く違う表情を見せ始めた……)
サワークリームの爽やかな酸味が、牛肉の脂っぽさをきれいに打ち消し、後味を驚くほど軽やかに変えていく。
次に、スプーンで大きめの牛肉の塊を掬い上げ、口に含む。
モグ……ホロッ……。
噛む必要すらほとんどない。
舌の上で肉の繊維がホロホロと解け、内部に閉じ込められていた肉汁とスープの旨味が溢れ出してくる。煮込まれたキャベツは甘みを増し、ジャガイモはホクホクとした食感で胃を満たしている。
(……あたたかい……。身体の芯から、温まっていくのがわかる……)
食材そのものが持つ熱と栄養が、じわじわと細胞に浸透していくような快感があった。
「……美味しい。この真っ赤なスープ…落ち着く味がする…」
私の言葉に、カチューシャは満足そうに目を細めました。
「ふふ、喜んでもらえてよかったよ。丁寧に仕込んだ甲斐があったというものだよ」
一滴も残さずボルシチを美味しく平らげると、カチューシャは立ち上がり、厨房の奥から不思議な金属製の道具を持ってきた。
縦長の金属製のタンクに、煙突のような管と蛇口がついた重厚な湯沸かし器だった。
「うちはロシアンティーが自慢でね。店名にもなっているこの『サモワール』という給湯器で淹れるお湯にこだわっているんだよ。食後にお茶を楽しもうか。スープをきれいに食べてくれたお礼に、プリャーニクもサービスするよ」
サモワールの蛇口から注がれたお湯で淹れられたお茶と、ジャム、そして表面に繊細な模様が刻まれた伝統的な焼き菓子『プリャーニク』がテーブルに並べられた。
プリャーニクを指でつまみ、一口かじってみる。
サクッ……。
(……香ばしい。スパイスの風味と、ハチミツの深い甘みが広がる……)
ほのかにニッキやスパイスが香る素朴な焼き菓子だった。そこへ、ジャムを少し舐めながら、サモワールで淹れた濃いめの温かいお茶を流し込む。
ゴク……ふぅ……。
お茶の渋みと、ジャムとプリャーニクの甘みが口内で混ざり合い、食後の余韻を生み出す。
お茶の湯気を眺めながら寛いでいると、カチューシャがふと溜息をつき、肘をついて困ったような顔を見せました。
「……ねえ、プイくん。少し相談に乗ってもらってもいいかい?」
「……私でよかったら。なに…カチューシャ?」
カチューシャは店内を見回しながら、ぽつりと吐露した。
「実はね、この店……本当にお客さんが入らないんだよ。今日もプイくんが来てくれるまで、ずっと誰も来なかったんだ。……私はね、都市の不条理な格差や仕組みを改革しようとしている『ユロージヴィ』という組織の構成員なんだ。活動資金を稼ぐって名目で、やりたかったから兼業でこのカフェを始めたんだけど……やっぱり、怪しい組織の人間がやっている店だから、街の人々に警戒されているのかな、と思ってね」
それに…赤字になりつつあるからそれも困ってて…なんて苦い顔をしながら話している。
カチューシャの真剣な悩みを聞き、私はカップを置いて、静かに店内とここへ来るまでの道のりを思い出した。
(……なるほど。そういうことか)
私はカチューシャの目をじっと見つめ、ゆっくりと口を開きました。
「……カチューシャ」
「なんだい、プイくん?」
「……私は、客が入ってこないのは…あなたのせいじゃないと思う」
「え? 組織のせいじゃないというの?」
「はい。……単に、このお店が隠れ家過ぎて、誰もお店の存在に気づいていないだけだと思う…」
カチューシャは一瞬、きょとんとした表情を浮かべました。
「……はい? 存在に、気づいていない?」
「うん…外の路地から見ても、看板は小さいし…建物の陰に隠れているし…通りを歩いている人々は、ここに温かいスープやお茶を楽しめる場所があること自体を知らないと思う。警戒される以前の問題として、店の存在自体が知られていないんじゃないと思う」
私の至極当然な指摘を聞いたカチューシャは、数秒間固まった後、ぽかんと口を開けた。
そして次の瞬間、腹を抱えて大笑いし始めました。
「……ハハハハハ! なんだいそれは! 思想や不気味な組織の噂のせいじゃなくて、ただの集客・宣伝不足だったのかい! 確かに、看板らしい看板なんて一度も出していなかったよ!」
「ユロージヴィで活動しているときは隠れていることが最優先だったからね…いつの間にか店も隠してしまっていたんだね!」
笑い飛ばしたカチューシャの表情からは、先ほどまでの湿っぽい悩みがすっかり消え去っていた。
「ありがとう、プイくん! 目から大きな鱗が落ちたよ。自分の難しく考える癖が出ていたんだね。さっそく明日から、表の大通りからでも見えるような、どデカい看板を作ることにするよ!」
「……うん。美味しいお店だから…きっと看板を出せばたくさんの人がやってくると思う。応援するよ…カチューシャ」
美味しいボルシチと、こだわりのロシアンティー、そして香ばしいプリャーニクをすべてお腹に収め、私は席を立った。
代金を支払おうとしたが、カチューシャは「アドバイスの礼だ」と言って受け取ろうとせず、最後は笑顔で見送ってくれた。
扉を開けて外に出ると、裏路地の風は相変わらず冷たく頬を撫でた。
しかし、私の身体の奥深くには、真っ赤なボルシチと温かいお茶、そして笑い合った時間が残してくれた確かな熱が宿っていた。
(……さて。身体も、お腹も、すっかり温まったし……。店へと戻り、午後の仕事を始めよう)
プイの足は冷たい風を押し返すように、力強く踏み出されていくのだった。
(第7話・おわり)
この小説も原作に習って1クール分でいったん区切りにしましょうかねぇ。