春休みとかに免許取れたら食べに行ってみたいですね。
時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たすとき、人は束の間、自分勝手になり「自由」になる。
誰にも邪魔されず、気を遣わず物を食べるという孤高の行為。
この行為こそが、現代都市の人々に平等に与えられた最高の『救い』と言えるのだ。
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K社の裏路地は、今日も雑多で混沌とした熱気に満ちていた。
私は社長からもらった昼休みに、あてもなく路地を歩いていた。
先日、社長から「太ったのではなく成長したのだ」と諭されて以来、私の心からは妙な惑いは消え去っていた。健康になった身体と強固になった胃袋を携え、ただ素直に目の前の美味いものと向き合えばいい。そう思い直すと、足取りも自然と軽くなるのだった。
灰色のコンクリートと錆びた配管が入り組む裏路地を奥へと進んでいくと、突如として周囲の景観とは異質な、ひときわ目を引く重厚な門構えの建物が現れた。
木製の立派な引き戸と、白地に墨で書かれた大きな暖簾。K社の景観の中にぽつりと浮かび上がる、洗練された和風の佇まいだった。
(……わあ。ここに、こんなに立派なお店があるなんて……)
暖簾をくぐり、ガラガラと静かに引き戸を開けて店内に入る。
店内には香ばしい出汁の香りが漂い、粗さの中に機能美が混じる石畳と綺麗な木目のカウンター席が広がっていた。都市の殺伐とした空気を感じさせない、清涼で凛とした空間だ。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか? カウンターへどうぞ」
着物姿の店員に案内され、席につく。
手渡されたお品書きを開くと、様々な蕎麦のメニューが並んでいた。その中で、一際大きな文字で書かれた特殊なコースが目に飛び込んできた。
『挑戦!わんこそば』
「わんこ…犬!?」
添えられた説明文を読む。
お給仕さんが給仕する、汁の入ったお椀に、一口分の蕎麦が次々と投げ込まれ、客がフタを閉めるまで無限に食べ続けさせるスタイル、とある。
「…なんだ…びっくりした」
(……満足するまで、食べ続けさせる蕎麦……)
私は自分の胃袋に問いかけた。
社長の言葉を借りるなら、今の私は「成長」している。以前よりも一度に食べられる量が増え、食に対する限界値が高くなっているのを感じていた。
(……今の私の身体は、どこまで美味しく食べ続けることができるのかな。試してみる価値はある……)
「……この『わんこそば』をお願いします」
「かしこまりました! わんこそば一丁入ります!」
威勢の良い声が厨房に響く。
しばらくすると、目の前のテーブルに小鉢に入った薬味(刻みネギ、もみじおろし、わさび、海苔)と、出来立ての天ぷら盛り合わせ(海老、大葉、茄子)、そして空のお椀がセットされた。
給仕用の盆を持った店員が私の脇に立つ。
「準備はいいですか? それでは、参ります!」
「うん。よろしく」
「はい、じゃんじゃん!」
ポトン、とお椀に一口分の蕎麦とツユが放り込まれた。
まずはそのまま、一口で啜る。
ツルッ……!
(……っ! ……おいしい……!)
驚いた。単なるアトラクションのような料理かと思いきや、蕎麦の品質が極めて高い。
喉越しが良く、香ばしい蕎麦の香りが鼻から抜けていく。鰹節と昆布の利いた出汁の効いたツユが、繊細に麺に絡みついてくる。
「はい、どんどん!」
一口食べ終えると同時に、すぐさま次の一口が投げ込まれる。
ツルッ、ツルッ、とリズム良く胃の中に収まっていく。
十数杯を食べ進めたところで、薬味と天ぷらに手を伸ばした。サクサクとした衣の海老天をかじり、蕎麦と一緒に口へ運ぶ。
(……いい。揚げたての油が、さっぱりとした蕎麦とツユに最高のアクセントを与えている……)
テンポよくお椀が重なっていく。
「はい、もう一杯!」
「はい、がんばって!」
給仕さんの威勢の良い掛け声と共に、手元のお椀の塔が少しずつ高くなっていく。
50杯目を数えたところで、私は一度箸を休めることなく、静かに自分の胃袋の感覚に集中した。
(……ふぅ。50杯。少し、お腹に溜まってきた感覚がある……)
しかしまだ余裕だ。蕎麦の風味は衰えず、薬味のワサビやもみじおろしで味を変えながら、どんどん食べ進めていく。
70杯、80杯、90杯……。
カシャン、カシャンとお椀が重ねられる音が、心地よいリズムとなって耳に届く。
そして、100杯目。
ツルッ……ゴク……。
お椀を重ね、深く息を吐く。
(……100杯か。やっぱり、かなりの満足感が……)
お腹の中に重厚な蕎麦の層が出来上がりつつあった。ツユの塩分と水分が胃を満たし、満腹感がじわじわと身体全体へと広がっていく。
110杯、120杯。
箸を動かす速度が、ほんの少しだけ鈍くなり始めた。美味い。間違いなく美味いが、胃のキャパシティという物理的な限界が近づいているのを肌で感じる。
(……そろそろ、引き時だろうか。苦しくなる手前でフタを閉めるのが、粋というもの……)
130杯目を飲み干し、お椀のフタを取って閉じようとした、その時だった。
給仕さんが手際よく蕎麦を投げ入れながら、ニッコリと微笑んで話しかけてきた。
「お見事です! 100杯越えは素晴らしいですよ! ちなみに、本日の最高記録のお客様は187杯でしたよ!」
(……なっ……!?)
手に持っていたフタが止まった。
187杯。
いまの私の130杯という数字を、遥かに凌駕する記録が今日すでに打ち立てられているというのか。
胸の奥で、カチリと何かが音を立てた。
かつての私なら、「他人の記録などどうでもいい」と切り捨てていただろう。しかし、今の私は自分の限界に挑み、美味いものを心ゆくまで楽しむ自由を知っている。
(……187杯。……負けていられない……!)
フタを閉じようとした手を引っ込め、私は再びお椀を突き出した。
「……もう一杯、お願いします」
「はい、喜んで! はい、どんどん!」
スイッチが入った。
140杯、150杯。
ここからは完全に自分との戦いだった。
喉の奥まで蕎麦が充満しているような感覚。一口手繰り寄せるたびに、重みが増していく。だが、出汁の旨味と蕎麦の香りは不思議と途切れない。
(……たべれる。今の私の身体は、成長している……!)
160杯、170杯。
額から汗が吹き出してくる。視界が少し狭まり、目の前の蕎麦だけに意識が集中する。
天ぷらの衣の油分すら愛おしく、味覚を刺激して胃袋を無理やり広げていく。
「すごい! 180杯! あと少しですよ!」
給仕さんの声にも力が入る。周囲の客からも、静かな注目が集まっているのを感じた。
185杯、186杯、187杯……タイ記録。
そして――。
188杯目。
ツルリ……っ……ゴク……!!
新記録達成の瞬間だった。
しかし、私の限界突破は止まらない。キリの良い数字まで、自分の限界の向こう側まで走り抜ける。
190杯、195杯、199杯……。
そして、運命の200杯目。
最後の一口を、魂を込めて口の中に押し込み、咀嚼し、嚥下する。
ゴクッ……!!
すかさず、持っていたフタを「パタン!」とお椀の上にかぶせた。
「……勝った。ごちそうさま……」
「おめでとうございますーーッ!! 200杯完食! 本日の新記録更新です!!」
店内に拍手が巻き起こった。
目の前には、見上げるほど高く積み上げられたお椀の塔がいくつも出来上がっていた。
「素晴らしい食べっぷりでした! こちら、新記録達成の記念品の特製・手形です!」
店主から恭しく手渡されたのは、木製の小さな楯に朱色で手形が押された立派な記念品だった。
「……あ、ありがとう……」
会計を済ませ、手形盾を抱えて店を出る。
外の空気を吸った瞬間、猛烈な重圧が全身を襲った。
(……う……ぐ……っ……)
半端ではない。満腹というレベルを超えていた。
胃袋が風船のようにパンパンに膨れ上がり、一歩足を踏み出すたびに、胃の中の200杯の蕎麦がズシリと揺れて全身に激痛に近い衝撃を与える。
(……限…界を……完全に…超えてる……)
呼吸をするのも苦しい。背中を丸め、抱えた手形盾を落とさないように必死に抱え込みながら、私は亀のような歩みで裏路地を歩き始めた。
身体は悲鳴を上げていたが、不思議と後悔はなかった。
自分の限界に挑み、200杯という高みを突き抜けたという、圧倒的な達成感がそこにはあった。
(……苦しい……けど……食べた……食べきった……)
夕闇が迫るK社の裏路地で、重くなった身体を必死に引きずりながら、私は社長の待つ家へと、一歩一歩静かに帰路につくのだった。
(第9話・おわり)
???「大食いなんて…と思っていたが。意外と楽しいものだったな。この手形は…デスクにでも飾って置こう(187杯)」
???「本当に久々の休暇でしたけど…こういうのも楽しかったです。ユジン部長(132杯)」
???「二人ともよく食べれますね。僕なんて全然だったのに(101杯)」