山岸由花子のお礼参り 作:故郷のピッツァが食べたい
2001年11月下旬。新東京国際空港。
「……なあ、由花子」
「何かしら?」
「オレ、ちょっと気になってることがあんだけどよォ」
「だから、何?」
「飛行機ってよォ……本当に落ちねーんだよな?」
山岸由花子は、隣に座る虹村億泰を無言で見つめた。出発ロビーに設けられたベンチ。その上で、億泰は落ち着きなく足を動かしていた。膝の上には旅行用のガイドブックが開かれているが、先ほどから一ページも進んでいない。
「……絶対に落ちないとは言い切れないんじゃないかしら」
「おいおいおい! 縁起でもねーこと言うんじゃねーよ!」
「だったら最初から聞かないでちょうだい」
由花子は呆れたようにため息をついた。そもそも、億泰がこんな質問を始めたのは、これで三度目である。一度目は集合した時、二度目は空港へ向かう途中。そして三度目が今だった。どうやら、飛行機に乗るという事実が近づくにつれ、ようやく恐怖を覚え始めたらしい。
「だってよォ、考えてみろよ! あんなデケー鉄の塊が空を飛ぶんだぜ!? おかしいと思わねーのか!?」
「別におかしくないでしょう。世界中で毎日飛んでいるんだから」
「そりゃそうだけどよォ……」
億泰は窓の外へ目を向けた。滑走路では、巨大な旅客機がゆっくりと移動している。あんなものが、これから自分を乗せて空へ飛び立つのだ。
「……なあ、ザ・ハンドで飛行機の前の空間を削り取ったら、もっと速く飛べたりすんのかな?」
「絶対にやめてちょうだい」
由花子が即答した。
「冗談だって! 冗談!」
「あなたの場合、本当にやりかねないから言っているのよ」
「ひでーなァ!」
億泰は不満そうに口を尖らせた。そんな二人から少し離れた席では、岸辺露伴が一冊の本を読んでいる。イタリアの美術や建築についてまとめられた資料らしい。傍らには使い込まれたスケッチブックが置かれており、数枚のページにはすでに何かが描き込まれていた。
「……君たち」
露伴が本から目を離さずに口を開いた。
「出発前からそんなに騒いでいて、向こうに着くまで体力が持つのか?」
「んだとォ、露伴!」
「特に虹村億泰。飛行機に乗るのが怖いなら、今からでも帰ればいいじゃあないか」
「こ、怖くなんかねーよ!」
「ほう? さっきからずいぶん落ち着きがないようだが」
「うっせーな! 初めてなんだから仕方ねーだろ!」
「だったら少しは静かにしてくれ。ぼくは本を読んでいるんだ」
そう言って、露伴は再びページへ視線を落とした。億泰はしばらく不満そうにしていたが、やがて諦めたようにガイドブックを開いた。そこには、焼きたてのピッツァの写真が大きく掲載されていた。
「……うまそうだなァ」
つい先ほどまで飛行機の心配をしていたとは思えない声だった。由花子はそんな億泰を横目に、手元の書類を確認する。
航空券、パスポート、宿泊先の案内、現地での緊急連絡先。スピードワゴン財団から渡された資料は一通り揃っている。財団の協力を得たことで、渡航の準備は予想以上に順調に進んだ。もちろん、すべてを任せきりにしたわけではない。由花子自身も旅程を調べ、必要な荷物を揃え、現地での移動についてできる限り情報を集めてきた。何しろ、今回の旅行には明確な目的がある。
ジョルノ・ジョバァーナ。
康一の荷物を盗んだ、その少年に会うこと。そして、きちんと謝罪してもらうことだ。
「……山岸由花子」
不意に露伴が声をかけた。
「はい?」
「一つ、確認しておきたいんだが」
露伴は本を閉じ、彼女へ顔を向けた。
「君、本当にそのジョルノ・ジョバァーナに謝罪させるだけで帰るつもりなんだな?」
「もちろんです」
「相手が拒否しても?」
「そのときは、納得してもらえるまでお話しします」
「……なるほどね」
露伴は眉間に皺を寄せた。
「君は分かっているのか? 相手が盗みを認めなかったら、そこで話が終わる可能性だってあるんだぞ」
「でも、康一くんのカバンを盗んだのは事実でしょう?」
「そうだとしても、本人がどう出るかは別問題だ」
「それなら、どうしてそんなことをしたのか、理由を聞きます」
由花子は当然のように答えた。
「康一くんは、その人のことを悪い人じゃあないって言っていたんです。だったら、最初から話が通じない人だと決めつける必要もないでしょう?」
「……ふうん」
露伴は意外そうに彼女を見た。
康一のためなら何をするか分からない女。それが山岸由花子に対する露伴の認識だった。しかし、少なくとも今の彼女は、本人なりに康一との約束を守ろうとしているらしい。
「まあ、君がそう言うならいいさ。ぼくは別に、君の恋愛事情についてとやかく言うつもりはないからな」
露伴はそう答えて本を開き直した。
「……ねえ、露伴先生」
「何だい?」
「先生こそ、本当に取材だけが目的なんですか?」
「当たり前だろう」
露伴は即答した。
「ぼくは君たちの恋愛事情に興味なんかない。ジョルノ・ジョバァーナというスタンド使いに会って、その能力を確かめる。それだけだ」
「そうですか」
「それに、イタリアには漫画の資料になるものがいくらでもある。わざわざ海外まで行くんだ。取材できるだけ取材して帰るつもりだよ」
由花子は頷いた。露伴がそう言うのであれば、特に疑う理由もない。むしろ、何らかの目的を持って行動する人物だと分かっている方が、彼女としても付き合いやすかった。
「……そうだ。一つ忘れていたな」
露伴が思い出したように口を開いた。
「何ですか、先生?」
「言葉の問題だよ。君たち、イタリア語は話せるのかい?」
「……いいえ。簡単な挨拶くらいなら覚えましたけど」
由花子は手元の会話帳へ視線を落とした。旅行の準備をしている間、基本的なイタリア語については勉強していた。しかし、現地の人間と不自由なく会話できるほどではない。
一方、億泰はというと。
「……あっ!」
「……何だい?」
「そういやそうだぜ! オレ、イタリア語なんて全然分かんねーぞ!」
露伴は呆れたように眉をひそめた。
「君は今まで何を準備していたんだ?」
「いや、パスポートとか荷物とか……あと、うめー店がどこにあるかとかよォ!」
「……君の心配事はそればかりだな」
「うっせーな! だってよォ、イタリア語が分かんなかったらメシの注文だってできねーじゃねーか!」
億泰は今になって重大な問題に気づいたようだった。由花子も少し困った顔になる。財団の担当者が日本語を話せるとはいえ、滞在中ずっと一緒に行動してくれるわけではない。ジョルノを探すためには、現地の人間に聞き込みをする必要もあるだろう。
そんな二人を見て、露伴は小さくため息をついた。
「……まったく。仕方ないな」
「……先生?」
「康一くんがイタリアへ行ったときにもやってやったことだ。君たちにも同じようにしてやるよ」
「……同じように?」
「ヘブンズ・ドアーだよ」
露伴は二人へ近づいた。
「これから君たちに、イタリア語を話せるようにしてやる。少しじっとしていたまえ」
「……えっ!? そんなことができるんですか?」
由花子が驚いたように尋ねた。
「当然だろう。康一くんがイタリア語を話せたのも、ぼくが書き込んでやったからなんだよ」
「おいおい、だったら最初っからやってくれりゃよかったじゃねーか!」
「君たちが自分で勉強してくるものだと思っていたんだよ。特に君は、今まで何も考えていなかったようだがね」
億泰が言い返そうとしたところで、露伴は周囲を確かめた。幸い、三人の近くにほかの旅行者はおらず、少なくともこちらをじっと見つめている人間はいない。
「……始めるぞ」
露伴の傍らに、小柄な人型のスタンドが現れた。
「ヘブンズ・ドアー!」
次の瞬間、由花子と億泰の顔が本のページのように開かれる。億泰が思わず声を上げ、由花子も目を見開いたが、露伴は構わずペンを取り出すと、それぞれのページへ同じ文章を書き込んでいった。
『イタリア語を理解し、自由に読み書きと会話ができる』
「……よし。これでいい」
露伴がペンを離すと、二人の顔は元に戻った。
「……え?」
由花子は目を瞬かせた。身体に何か変化が起きたような感覚はない。しかし、試しに手元のイタリア語の会話帳を開いてみると、それまで意味を調べなければ読めなかった文章が、何の苦労もなく理解できた。
「……すごい。本当に読めるわ」
「マジかよ!?」
億泰も慌ててガイドブックを開いた。現地の料理店を紹介するページには、様々なイタリア語の料理名や説明が載っている。
「……おおおおっ!」
億泰の目が輝いた。
「スゲー! 何て書いてあるか分かるぜ! これでイタリアのメニューも読み放題じゃねーか!」
「……まったく」
露伴は呆れたように肩をすくめた。
「せっかく言葉が通じるようにしてやったんだ。少しは取材の役に立ってくれよ」
「おう! ありがとな、露伴!」
億泰は満面の笑みで答えた。由花子も嬉しそうに頭を下げる。
「ありがとうございます、先生。これなら現地での聞き込みもずっと楽になりますね」
「まあ、そのためにやったんだがね」
露伴はそう答え、ペンをしまった。
彼自身も以前の取材でイタリアを訪れたことがあり、日常会話には不自由しない程度の知識を身につけていた。しかし、今回は二人が自由に行動することも考えられる。いちいち露伴が通訳をしていては、取材どころではなくなってしまうだろう。
「なあなあ! イタリアって、ピッツァ以外にも何かうめーもんあんのか?」
億泰が再び二人の会話に割り込んできた。
「……さっきから食べ物のことばかりね」
「だってよォ、せっかくイタリア行くんだぜ? 食わなきゃ損だろ!」
「……君は本当に気楽でいいな」
露伴が呆れたように言った。
「んだとォ!?」
「二人とも、また喧嘩しないでちょうだい」
由花子はそう言ってから、時計に目を向けた。そろそろ搭乗の時間が近づいている。彼女は書類を鞄にしまい、立ち上がった。
「行きましょう。乗り遅れたら大変だわ」
「おう!」
億泰も立ち上がる。露伴は本に栞を挟んで鞄へしまうと、ゆっくりと腰を上げた。
こうして三人は、イタリアへ向かう旅客機に乗り込んだ。
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日本を出発してから、十数時間。
長い空の旅と乗り継ぎを経て、三人はようやくイタリア南部の都市、ネアポリスへ到着した。
「…………」
空港の到着ロビーで、虹村億泰は立ち尽くしていた。
「……着いた」
誰に言うでもなく、そう呟く。
「……本当に着いちまったぜ」
「何を当たり前のことを言っているんだ、君は」
露伴が呆れたように答えた。
「いや、だってよォ! オレ、外国なんて初めてなんだぜ!? マジでイタリアに来ちまったんだなァ!」
億泰は興奮した様子で辺りを見回した。案内板に書かれた文字も、行き交う人々の顔立ちや服装も、普段の杜王町とはまるで違っていた。周囲からはイタリア語の会話が聞こえてくるが、不思議なことに、その意味だけは何の苦労もなく理解できる。
「うおお……スゲーなァ!」
「ちょっと、虹村くん。あまりキョロキョロしないで。田舎者みたいよ」
「仕方ねーだろ! 初めてなんだからよォ!」
「……君たち、いい加減にしてくれないか」
露伴は小さくため息をついた。ただ、その目は億泰とは違う意味で周囲を観察していた。旅行者、空港職員、荷物を運ぶ人々。何気ない仕草や表情、会話の様子まで、彼にとっては漫画の資料になる。実際、先ほどから何度かスケッチブックを取り出しかけていた。
「……先生」
由花子が声をかけた。
「何だい?」
「取材は後にしていただけませんか? まずは荷物を受け取らないと」
「分かっているよ」
露伴は不服そうに答えた。そのとき、億泰が思い出したように声を上げた。
「……あっ!」
「どうしたの?」
「いや、そういや康一もここに来たんだよな?」
「ええ、そうよ」
「んで、カバン盗られたんだろ?」
由花子の表情が僅かに変わった。億泰は気づかずに話を続ける。
「ってことはよォ、オレたちも気をつけねーとマズいんじゃねーか? 荷物盗まれたりしたらシャレになんねーぜ!」
「……ええ。そうね」
由花子は静かに頷いた。
「絶対に、盗まれないようにしましょう」
その声を聞いた露伴は、二人へ視線を向けた。由花子の長い黒髪が、鞄の持ち手にしっかりと巻きついていた。まるで、そこから決して離さないとでもいうように。
「……おい、山岸由花子」
「何ですか?」
「髪で鞄を押さえるのは構わないが、あまり目立つ真似はしないでくれよ」
「……そんなに目立っていますか?」
「君の髪は普通の人間にも見えるんだ。鞄に勝手に巻きついているのを見られたら、不審に思われるだろう」
「……そうですね。気をつけます」
由花子はそう答え、鞄の持ち手に絡めていた髪をゆっくりと解いた。
ラブ・デラックスは由花子自身の髪の毛を自在に操るスタンドであり、その髪は一般人にも見える。本人にとっては便利な能力でも、人目の多い空港で不自然に動かせば、周囲の注目を集めかねなかった。
「……ったくよォ」
億泰は自分の旅行鞄を持ち直した。
「康一の奴も、こんなとこでいきなり盗まれたんだもんなァ。そりゃビックリしただろーな」
「ええ……」
由花子は頷いた。
実際に空港へ来てみると、康一がどのような場所でジョルノに出会ったのか、以前よりも少しだけ想像できるようになった。見知らぬ国の空港で、ようやく長旅を終えたところへ日本語で話しかけてくる少年がいたら、つい安心してしまうかもしれない。
そして、その少年が実は荷物を盗むつもりだったとしたら。
(……やっぱり、直接会って話を聞かなくて)
由花子は改めてそう思った。
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荷物を受け取り、到着ロビーを出たところで、三人はスーツ姿の男性に声をかけられた。
「山岸由花子様、岸辺露伴様、虹村億泰様でいらっしゃいますか?」
流暢な日本語だった。由花子が振り返る。
「はい、そうですけど」
「お待ちしておりました。スピードワゴン財団の現地担当者です」
男性は丁寧に一礼した。
「本日から皆様の滞在中、移動や緊急時の連絡についてお手伝いさせていただきます」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
由花子も礼を返した。一方、億泰は目を丸くしている。
「おおっ! 日本語じゃねーか!」
「はい。皆様が不自由されないよう、日本語で対応できる者が担当することになっております」
「スゲーなァ! さすがスピードワゴン財団だぜ!」
億泰はすっかり感心した様子だった。男性は微笑み、三人の荷物へ視線を向ける。
「お荷物をお持ちしましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
由花子が即答した。自分の鞄をしっかりと引き寄せる。男性は少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。
「かしこまりました。それでは、車までご案内いたします」
そう言って歩き始めた担当者の後ろを、三人がついていく。その途中、露伴が何気ない口調で尋ねた。
「ところで、ぼくたちが探している人物については、何か分かったのかな?」
男性は歩みを緩めずに答えた。
「……ジョルノ・ジョバァーナ様の件ですね」
「そうだ」
「現在、先方と面会の日程について調整を進めております。ただ、私から具体的なお約束をすることはまだできません」
「……ふうん」
露伴は目を細めた。
日本で話を聞いた財団の職員も、似たような説明をしていた。しかし、こちらが相手の居場所を尋ねても、そこについては教えてくれない。
「……君たち、ずいぶん慎重なんだな」
「先方にもご都合がありますので、正式にお返事をいただくまでは、個人情報をお伝えできないことになっております」
「なるほど。それは結構なことだ」
露伴は小さく笑った。
「だが、ぼくが知りたいのは居場所だけじゃあないんだ。そいつがどんな人物なのか、君たちは知っているんだろう?」
担当者は少し困ったような表情になった。
「申し訳ありません。現時点では、私からお伝えできることはございません」
「……まあ、いいだろう」
露伴はそれ以上追及せず、男性の後ろについていく。
別に、財団の担当者を困らせるために来たわけではない。答えてもらえないなら、別の方法で調べればいいだけだ。それに、財団が相手の事情を尊重しているというのなら、それも一つの手掛かりになる。
一方、由花子はそのやり取りを聞きながら、少しだけ眉をひそめていた。
「……あの、面会の件なんですけど」
「はい」
「本当に、お話をするだけなんです。それでも、そんなに時間がかかるんでしょうか?」
担当者は穏やかな声で答えた。
「申し訳ありません。先方も多忙な方ですので。ただ、皆様が日本からお越しになったことは、すでにお伝えしております」
「そうですか……」
由花子は頷いた。
少なくとも、財団は約束どおり動いてくれているらしい。ならば、返事を待つ間に自分たちで手掛かりを調べてもいいだろう。もしかしたら、財団から連絡が来るより先にジョルノを見つけられるかもしれない。
(……そのときは、そのときね)
由花子はそう考え、静かに歩き続けた。
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空港から市街地へ向かう車の中。
「うおおおおお……!」
窓に顔を近づけた億泰が、感嘆の声を漏らした。
「スゲー! 建物が全然違うぜ!」
車窓の向こうには、日本とは異なる街並みが広がっていた。歴史を感じさせる石造りの建物。狭い道路を忙しなく走る車やスクーター。壁に干された洗濯物や、通りに設けられた小さな店。賑やかで、どこか雑然としていて、それでいて不思議な活気に満ちている。杜王町とはまるで違う光景だった。
「……なるほど」
露伴も窓の外を眺めていた。
「確かに面白い街だな」
「先生もそう思うんですね」
由花子が尋ねる。
「ああ。建物の造りも、人の動きも、日本とは違う。街そのものに独特の生活感がある」
露伴はスケッチブックを取り出し、窓の外の建物を描き始めた。
「こういうものは実際に見ないと分からないからな。写真だけじゃあ伝わらないものがある」
「へえ……」
億泰は感心したように頷いた。
「漫画家ってのも大変なんだなァ」
「君が何を想像しているのか知らないが、漫画家というのは大変な仕事なんだよ」
「ふーん」
億泰はあっさりと答え、再び窓の外へ視線を向けた。そのとき、遠くに見える山に気づいた。
「……あれ、何だ?」
「ああ、ヴェスヴィオ火山ですね」
運転席の担当者が答えた。
「この地域を代表する山です。古代ローマ時代には、大噴火によってポンペイという都市が埋もれたことでも知られています」
「へえー! 火山かァ!」
億泰は感心したように頷いた。
「イタリアにもあんだなァ、火山って!」
「日本と同じく、イタリアにも火山がありますからね」
「なるほどなァ……」
露伴はその山を眺め、手元のスケッチブックに輪郭を描き加えた。古代都市を埋め尽くした噴火の歴史も、火山の麓で暮らす人々の日常も、彼にとっては興味深いものだった。
「……まったく、観光客そのものだな」
露伴が呟くと、億泰が振り返った。
「観光客じゃねーか、オレたちは」
「一応、別の目的もあるだろう」
「分かってるって!」
億泰はそう言ってから、由花子へ顔を向けた。
「なあ、由花子」
「何?」
「ジョルノって奴、どうやって探すんだ?」
「まずは康一くんが会った場所から調べようと思っているわ」
「空港か?」
「ええ。あの人、タクシーの運転手をしていたそうだから、そこで働いていた人に聞けば何か分かるかもしれないでしょう?」
「なるほどなァ!」
億泰は納得したように頷いた。露伴もスケッチブックから顔を上げる。
「……ちょっと待て。康一くんの話では、その少年は十五歳だったんだろう?」
「ええ。今年の春は、そうだったそうです」
「十五歳の少年が正規のタクシー運転手だったとは思えないね。おそらく、運転手のふりをして旅行者に近づいていたんだろう」
「……あ」
由花子は思わず声を漏らした。
「そういえば、そうですよね……」
「空港へ行くのは構わないが、そこで名前を尋ねても分からない可能性が高いぞ。それに、八か月も前の話だ」
「……じゃあ、ほかの場所も調べないといけませんね」
「そういうことだ」
露伴は頷いた。
「まずは学校だな。康一くんが調査していた人物なら、以前通っていた学校くらいは分かっているはずだ。君は詳しい住所を聞いてこなかったようだが」
「……すみません」
「ぼくに謝られても困るね」
由花子は少し考え込んだ。確かに康一からもっと詳しい情報を聞くことはできただろう。しかし、彼は最後まで今回の旅行に反対していた。そんな相手に、調査のためだからと無理に質問を重ねるのも気が引けたのである。
「……まあ、現地で調べれば何か分かるでしょう?」
由花子が言うと、露伴は肩をすくめた。
「君は本当に、考え始めると一直線だな」
「先生に言われたくありませんけど」
「……何だって?」
露伴が眉をひそめる。億泰はそのやり取りを聞きながら、にやにやと笑っていた。
「ま、何とかなるだろ! オレも手伝うぜ!」
「ありがとう、虹村くん」
「おう!」
由花子は窓の外を眺めた。
ジョルノ・ジョバァーナ。
今は十六歳になっているはずの少年。康一から聞いた情報によれば、金髪で、特徴的な髪型をしているという。どれほど大きな街かは分からないが、少なくとも人目につく容姿ではありそうだ。
(……会えば、ちゃんと話を聞いてもらえるかしら)
由花子が考えていたのは、その程度のことだった。
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やがて、車は海に近い地区にあるホテルへ到着した。建物は落ち着いた外観をしており、内部も清潔で、宿泊客のための設備が一通り揃っている。
三人は受付で手続きを済ませ、それぞれの部屋へ荷物を運んだ。
「……いやァ~、助かったぜ!」
部屋に入るなり、億泰はベッドへ倒れ込んだ。長時間の移動による疲労が、ようやく押し寄せてきたらしい。
「くあああ……! もう動きたくねー……」
「だったら、今日はそのまま寝ていればいいじゃあないか」
露伴が冷たく言い放った。
「おいおい露伴! せっかくイタリアまで来たんだぜ!? 何もしねーで寝るなんてもったいねーだろ!」
「今、自分で動きたくないと言ったばかりだろう」
「それとこれとは話が別だ!」
「……まったく」
露伴は呆れたようにため息をついた。今回は財団側の手配で、各自に個室が用意されている。もっとも、今は今後の予定を確認するため、億泰の部屋に三人が集まっていた。
「それで、明日からどうするんだい?」
露伴が尋ねる。由花子は机の上に広げた地図を指さした。
「まず、空港でジョルノ・ジョバァーナという人を知らないか聞いてみようと思っています」
「……さっきも言ったが、それだけではあまり期待できないぞ」
「ええ。ですから、その人が昔通っていた学校とか、住んでいた場所とか……調べられるところから調べていくつもりです」
露伴は地図に目を落とした。
「……康一くんから住所は聞かなかったのか?」
「聞いていません」
「ふむ」
露伴は少し考えた。康一が当時調査していた人物ということは、承太郎は何らかの個人情報を持っていたはずである。しかし、今になって承太郎へ直接問い合わせたところで、素直に教えてくれるとは思えない。むしろ、余計な詮索をするなと言われる可能性の方が高かった。
「……まあ、足を使って調べるのも取材のうちだな」
露伴はそう結論づけた。そのとき、億泰がベッドから勢いよく起き上がった。
「なあ! その前にメシ食いに行こうぜ!」
「……あなた、本当にそればっかりね」
由花子が呆れたように言った。
「だってよォ! もうイタリアに着いてんだぜ!? 本場のピッツァが食えるんだぞ!」
「……ぼくは別に構わないが」
露伴が時計を確認した。
「今からなら、まだ食事に行ける時間だな。それに街の様子も見ておきたい」
「おおっ! 話が分かるじゃねーか露伴!」
「勘違いするな。ぼくは取材のために外へ出るんだ」
「はいはい、分かってるって!」
億泰は上機嫌で立ち上がった。由花子も少し考えてから頷く。
「……そうね。せっかくだし、夕食は外で食べましょうか」
「よっしゃあ!」
億泰が拳を握って喜んだ。露伴はそんな彼を見ながら、小さく呟いた。
「……本当に食べ物のことになると元気な奴だな」
こうして三人は、ホテルを出てネアポリスの街へと繰り出すことになった。
その少し前。
三人をホテルまで送り届けたスピードワゴン財団の担当者は、建物の外で一本の電話をかけていた。
「……はい。三名とも、無事に到着されました」
電話の向こうから、落ち着いた声が返ってくる。
『問題は?』
「特にありません。皆様、無事にチェックインを済ませていらっしゃいます」
『そうか』
担当者は手帳を開き、今後の予定に目を通した。
「なお、岸辺露伴氏からは、ジョルノ・ジョバァーナ氏について何度かご質問を受けました」
『……まあ、そうだろうな』
「こちらからは、面会の調整中であることだけをお伝えしております」
『それで構わん。先方との連絡が取れ次第、また知らせてくれ』
「承知しました」
通話が終わる。担当者は電話をしまい、ホテルの入口へ目を向けた。
今回の仕事は、普段の渡航支援とは少々事情が違っていた。なにしろ、支援対象の三人は全員がスタンド使い。しかも、彼らが探している人物は、現在のイタリアにおいて極めて特殊な立場にある少年なのだ。
もっとも、今のところ三人は普通の旅行者と大して変わらない。到着時には少し騒がしかったものの、ホテルへ向かう途中も街並みの話で盛り上がっていただけだった。
担当者は小さく笑った。
(……無事に面会が決まるといいのですが)
彼はそんなことを考えながら、次の仕事へ戻っていった。
---
ネアポリスの夜は、杜王町とはまるで違っていた。
街灯に照らされた石畳の道。古びた建物の間を縫うように走るスクーター。店先では人々が身振り手振りを交えながら会話を楽しみ、開け放たれた扉の向こうからは賑やかな笑い声が聞こえてくる。
その光景を前に、虹村億泰は完全に舞い上がっていた。
「スゲーなァ! なあ露伴、見ろよあの建物! 何年前から建ってんだろーな!?」
「さあな。百年以上前のものも珍しくないだろう」
「ひゃ、百年!? マジかよォ!」
「……いちいち大声を出すな。恥ずかしいだろう」
露伴はそう言いながらも、興味深そうに周囲を見回していた。さっきから目に入るもののほとんどが、漫画の資料として使えそうなものばかりだった。建物の装飾、路地の形、道を歩く人々の服装。どれも日本で暮らしているだけでは得られない情報である。
特に、人々の表情がいい。道端で話し込む老人。店の前で遊ぶ子供たち。スクーターに乗りながら何やら大声で叫んでいる若者。その一つ一つに、独特の生活感があった。
「……ふむ」
露伴はスケッチブックを取り出した。
「ちょっと待ってくれ。あの建物を描いておきたい」
「えー!? またかよォ!」
億泰が不満そうに声を上げた。
「さっきからそればっかじゃねーか! 腹減ったんだよ、オレは!」
「だったら先に行けばいいだろう」
「そういうわけにもいかねーだろーが!」
「だったら黙って待っていろ」
「んだとォ!?」
二人が再び言い争いを始めたところで、由花子が口を挟んだ。
「……先生、どれくらいかかりますか?」
「五分もあれば十分だ」
「分かりました。では、先に近くのお店を見ておきますね」
「えっ!? 由花子!?」
億泰が驚いたように振り返る。
「おめーまで先に行くのかよ!」
「だって、虹村くんはお腹が空いているんでしょう?」
「そりゃそうだけどよォ……」
「だったら、お店を探しておいた方がいいじゃない」
「……おお!」
億泰は納得したように頷いた。
「そういうことか! 頭いいなァ、由花子!」
露伴は何も言わず、スケッチブックにペンを走らせ始めた。由花子と億泰は、その様子をしばらく眺めていたが、やがて近くの飲食店を探し始める。
幸い、店はすぐに見つかった。店先に置かれた看板にはイタリア語で料理の名前が書かれており、開いた扉からは焼きたての生地とチーズの香ばしい匂いが漂っている。
その匂いを嗅いだ瞬間、億泰の目が輝いた。
「……おおおお!」
「……虹村くん?」
「ピッツァだ……!」
億泰は震える声で呟いた。
「本場のピッツァの匂いがするぜェ~~~ッ!」
「……匂いだけで分かるの?」
「分かる! 絶対分かるぜ!」
どうやら、本人の中では確信があるらしい。由花子は小さく笑った。
「じゃあ、先生が戻ってきたらここに入りましょうか」
「おう!」
億泰は嬉しそうに頷いた。
---
数十分後。
三人は、先ほど見つけた小さなピッツェリアに入っていた。店内には木製のテーブルが並び、奥には大きな薪窯が据えられている。赤々と燃える炎の前では職人が忙しなく動き回り、次々と生地を窯に入れていた。
「へえ……」
露伴は興味深そうに店内を眺めた。
「なかなか雰囲気のある店じゃあないか」
「でしょう? ここなら美味しいものが食べられそうだと思って」
由花子が答える。
「そんなことよりよォ、早く頼もうぜ!」
億泰はすでにメニューを広げていた。そこには様々な料理がイタリア語で紹介されているが、今の億泰には何が書いてあるのか問題なく理解できた。もっとも、料理名が分かったところで、実際にどんな料理が出てくるのかまで分かるわけではない。
「……なあ露伴。この『マルゲリータ』ってやつ、何なんだ?」
「ピッツァの名前だよ。トマトとモッツァレラチーズ、バジルを使ったものだ」
「おおっ! チーズとトマトか!」
億泰の顔が明るくなった。
「トニオさんの店でも食ったよなァ! あのチーズとトマトのサラダ!」
「……ああ、そういえば」
露伴もトニオの店のことは知っている。
「じゃあ、オレそれにするぜ!」
注文を終えた三人は、料理が運ばれてくるまで店内を眺めていた。億泰はそわそわと厨房の方へ視線を向け、露伴は職人の動きを観察している。由花子は旅行用の手帳を開き、明日からの予定を確認していた。
やがて、店員が大きな皿を運んできた。
「マルゲリータです!」
テーブルに置かれたそれを見た瞬間、億泰は目を見開いた。
「おおおおお……!」
皿の上には、焼きたてのピッツァが乗っていた。ふっくらと膨らんだ縁には所々に焦げ目がつき、中央には赤いトマトソースと白いチーズが広がっている。鮮やかな緑色のバジルが彩りを添え、表面に浮かぶオリーブオイルが店の明かりを反射していた。
「……うまそうだぜェ~~!」
億泰は思わず身を乗り出した。
「ほう。なかなかいい焼き加減じゃあないか」
露伴も感心したように呟く。億泰はナイフとフォークを手に取り、ピッツァを切り分けた。そして、チーズが糸を引く一切れを口へ運ぶ。
「……ん?」
一度、咀嚼する。
「…………」
もう一度。
「…………ッ!」
億泰の目が大きく見開かれた。次の瞬間。
「ゥンまあああああああああああああああいッ!!」
店内に、凄まじい歓声が響き渡った。
「ちょ、ちょっと虹村くん!?」
由花子が慌てて声をかける。しかし、億泰は止まらなかった。
「な、何だこりゃあ!? 何なんだ、このピッツァはよォ~~ッ! 生地が! 生地がスゲーんだよ!」
億泰は興奮した様子で、切り分けたピッツァを持ち上げた。
「外側はよォ、ちょっと焦げててパリッとしてんのによォ! 噛むと中がふわっとしてて、モッチモチなんだぜ! だけど重たくねーんだ! 噛めば噛むほど小麦の甘さが出てきやがる!」
「…………」
露伴は黙って億泰を見つめた。
「それによォ! このトマトソース! ただ酸っぱいだけじゃあねー! 最初はキュッと舌を刺激してくんのに、後から甘さが追いかけてくるんだ!」
億泰の勢いはますます増していく。
「そこにチーズがとろ~っと溶けてよォ! トマトの酸っぱさを包み込んでくれる! かと思ったら、今度はバジルの香りが鼻からスーッと抜けていくんだぜ!」
「……お、おい。ちょっと待て」
露伴が口を挟んだ。しかし、億泰は聞いていなかった。
「何つーかよォ、このピッツァは全員で一つの仕事をしてるっつーか! トマトが先頭で突っ走って、チーズがそいつを支えて、最後にバジルがビシッと決めるんだよ!」
億泰は拳を握りしめた。
「例えるならよォ、仗助が敵に突っ込んで、オレがザ・ハンドで道を作って、最後に康一がエコーズで動きを止める! そういう三人の連携攻撃みてーな味なんだ!」
「…………」
由花子は目を瞬かせた。露伴も、思わず口を閉じた。
「しかもよォ! この生地がただの土台じゃあねーんだ! トマトとチーズだけじゃ濃くなりすぎるところを、生地が全部受け止めてくれる! 何つーか……全員好き勝手に暴れてんのに、ちゃんと一つにまとまってるんだよなァ~~!」
億泰はそう言って、再びピッツァを口に運んだ。
「ンン~~ッ! こいつァたまらねーぜッ!」
しばらくの沈黙。露伴はゆっくりとフォークを置いた。
「……虹村億泰」
「あん?」
「……君、そんなに言葉を知っていたのか?」
「はァ? 何だよいきなり」
「いや……」
露伴は何とも言えない表情で億泰を見つめた。
普段の億泰といえば、複雑な話になるとすぐに混乱し、考えることを放棄する男である。しかし、今の食事に対する感想はどうだ。味や食感の違いを的確に捉え、それぞれの食材が果たしている役割まで説明していた。しかも、そこに独創的な比喩まで加えている。漫画家として様々な人間を観察してきた露伴でさえ、今の億泰には少々驚かされた。
「……ねえ、虹村くん」
由花子も不思議そうに尋ねた。
「あなた、普段からそんなに詳しく食べ物の感想を言えるの?」
「ん? いや、別に普通じゃねーか?」
億泰はきょとんとしていた。本人に自覚はないらしい。
「美味えもん食ったら、どこが美味えのか言いたくなるだろ?」
「……そういうものかしら」
由花子は首を傾げた。
「……なるほど」
露伴は腕を組んだ。
「君にも意外な才能があったわけだ」
「おい露伴! それどういう意味だよ!」
「言葉通りの意味さ」
「何だとォ!?」
「まあ、待て。ぼくも一口食べてみよう」
露伴は自分の皿から一切れを切り取り、口に運んだ。
「…………」
しばらく咀嚼する。
「……ふむ」
確かに美味しい。焼きたての生地は柔らかく、縁には香ばしい焦げ目がついている。トマトの酸味とチーズのコクも、互いを邪魔することなく調和していた。何より、食べ終えた後に残るバジルの香りが心地よい。
「……なるほど。悪くない」
露伴は静かに頷いた。
「だろォ!?」
億泰が嬉しそうに声を上げた。
「しかもよォ、トニオさんの店のチーズとトマトのサラダとは、また違うんだよな!」
「……ほう?」
「トニオさんのやつはよォ、トマトとチーズがお互いを引き立て合ってる感じだったろ? でもこっちは、そこに生地が加わってんだ!」
億泰は身を乗り出した。
「例えるなら、二人で歌ってたところにドラムとベースが入ってきて、いきなりでっけーコンサートが始まったみてーな感じなんだよ!」
「…………」
露伴は眉を上げた。
「……ほう。それはなかなか面白い例えだな」
「だろ!?」
億泰は得意げに笑った。
「それにトニオさんの料理は、食うと体までスゲーことになっちまうけどよォ、こいつは普通に美味えんだ! いや、普通っつっても普通じゃねーんだけど!」
「……何を言っているのか分からなくなってきたぞ」
露伴が呆れたように言った。
「だからよォ! スタンドが入ってなくても、料理ってのはこんなに美味くなるんだなァってことだよ!」
億泰はそう言って笑った。
「トニオさんが言ってたこと、ちょっと分かった気がするぜ。イタリアの料理人ってのはスゲーんだな!」
その言葉を聞いて、由花子も自分のピッツァを口に運んだ。
「……あら」
思わず声が漏れた。確かに美味しい。特に、焼きたての生地とトマトソースの相性がいい。シンプルな料理なのに、食べ飽きない味だった。
「……本当に美味しいわね」
「だろォ!?」
億泰は満面の笑みを浮かべた。
「……康一くんにも食べさせてあげたいわ」
由花子がぽつりと呟いた。すると億泰が頷く。
「おう! 康一も絶対喜ぶぜ!」
「そうね……」
由花子は小さく微笑んだ。
遠く離れたイタリアの街で、美味しい食事を楽しみながら、ふと恋人のことを考える。今回の旅行の目的が何であれ、こうして一つ一つ新しいものに触れていく時間は悪くなかった。
露伴はそんな彼女を横目に、自分の食事を続けていた。
「……ところで山岸由花子」
「何ですか?」
「君、康一くんに土産でも買っていくつもりなのか?」
「もちろんです」
即答だった。
「康一くんが喜んでくれるものを、たくさん買って帰るつもりです」
「……そうか」
露伴はそれ以上何も言わなかった。ただ、彼女の鞄の中には、すでに観光地や土産物店についての資料が何枚も入っている。おそらく、相当な量の買い物をするつもりなのだろう。
(……まあ、ぼくには関係ないことだ)
露伴はそう結論づけ、食事を再開した。
---
「……なあ、露伴」
しばらくして、億泰が再び声をかけた。
「何だい?」
「この『マリナーラ』ってやつ、何なんだ?」
億泰はメニューの一角を指さしていた。
「……また食べるつもりなのか?」
「だってよォ、気になるじゃねーか!」
露伴はため息をついた。
「マリナーラは、基本的にトマトやニンニク、オレガノなんかを使うピッツァだ。マルゲリータと違って、チーズは使わない」
「……チーズがねーのか?」
億泰は目を丸くした。
「そんなんで美味えのかよ?」
「知らん。食べてみればいいだろう」
「……よし!」
億泰は店員を呼び、マリナーラを注文した。由花子は呆れたように笑った。
「……本当によく食べるわね」
「へへっ! せっかくだからよォ!」
しばらくして、二枚目のピッツァが運ばれてきた。今度はチーズの白さがなく、赤いトマトソースが生地の上に広がっている。細かく刻まれたニンニクとオレガノが散らされ、先ほどとは違った香りが漂ってきた。
億泰は一切れを持ち上げた。
「……どれどれ」
そして、口に運ぶ。
「…………」
一瞬の沈黙。
「……こっ」
億泰の目が見開かれた。
「こいつはああああああああああッ!!」
露伴が顔をしかめた。
「……また始まったぞ」
しかし億泰は止まらない。
「チーズがねーのに! 全然物足りなくねーじゃねーかよォ!」
億泰は興奮した様子でピッツァを見つめた。
「さっきのマルゲリータはよォ、チーズがトマトを包んでたんだ! でもこいつは違う! トマトが真正面からガツンと来やがる!」
「…………」
「そんでニンニクが後ろから追いかけてきて、オレガノが最後にフワッと香るんだぜ! さっきのは全員で協力してた味だけど、こいつはトマトが一人で大暴れしてんだよ!」
億泰は拳を握りしめた。
「なのに、ちゃんとまとまってやがる! チーズがねーぶん、トマトのうまさがごまかしなしでドカンと来るんだ! そいつをニンニクがグッと引き立ててよォ、最後にオレガノの香りがスーッと残る! 味は濃いのに、全然しつこくねー! こいつァ何枚でも食えそうだぜェ~~ッ!」
「……君は本当に、食べ物のことになると熱心だな」
露伴が半ば呆れ、半ば感心したように呟いた。
「当たりめーだろ! こんなうめーもん、適当に食っちまったらもったいねーじゃねーか!」
「……まあ、それはそうだが」
露伴は肩をすくめた。由花子はそんな二人を見ながら、小さく笑った。
少なくとも、今日の億泰は実に楽しそうだった。普段は少々騒がしく、考えなしに行動するところもあるが、こうして美味しい料理を心から楽しんでいる姿は、見ていて悪い気分にはならない。
(……そういえば、康一くんも虹村くんとは仲がよかったわね)
由花子はふと思い出した。康一が億泰と一緒にいるときは、いつも楽しそうにしている。仗助も含めた三人は、本当に仲のいい友人同士なのだろう。
そんな康一の友人が今回の旅行に同行してくれたことを、由花子は少しだけありがたく思った。もっとも、本人に伝えるつもりはなかったが。
---
食事も終盤に差しかかった頃。
由花子は店員がテーブルの横を通りかかるのを見て、声をかけた。
「すみません。少しお聞きしたいことがあるんですけど」
店員が振り返る。由花子が口にしたのは、流暢なイタリア語だった。出発前に露伴がヘブンズ・ドアーで書き込んだおかげで、彼女は相手の言葉を理解することも、自分の考えをイタリア語で伝えることもできる。
「はい、何でしょう?」
店員の返事も問題なく理解できた。
「ジョルノ・ジョバァーナという人をご存じありませんか?」
店員は少し考えてから首を横に振った。
「いいえ。申し訳ありませんが、その名前には心当たりがありません」
「……そうですか。ありがとうございます」
由花子は少し残念そうに肩を落とした。店員は申し訳なさそうに笑い、仕事へ戻っていく。その様子を見ていた露伴が口を開いた。
「……名前だけでは難しいだろうな」
「そうですね……」
「顔写真でもあれば、多少は違うんだろうが」
「康一くんに聞いてみたんですけど、持っていないそうです」
「……そうか」
露伴は顎に手を当てた。
ジョルノ・ジョバァーナ。現在は十六歳の少年。金髪で、独特の髪型をしているらしい。そして、空港で旅行者から荷物を盗んでいたスタンド使い。
情報としては、それほど多くない。しかし、露伴にとっては十分に興味を引くものだった。何しろ、ただの少年ではないことだけは確かなのだから。
「……まあ、焦ることはない」
露伴はそう言って、グラスに手を伸ばした。
「まだ着いたばかりだ。明日から本格的に調べればいいさ」
「……そうですね」
由花子も頷いた。その隣では、億泰が満足そうに腹をさすっていた。
「いやァ~、食った食った!」
「……ようやく満足したのかい?」
露伴が尋ねる。
「おう! 最高だったぜ!」
億泰は満面の笑みを浮かべた。
「やっぱイタリアはスゲーなァ! 来てよかったぜ!」
「……まだ本来の目的は何一つ達成していないんだがね」
露伴が呆れたように言った。
「分かってるって! 明日からちゃんと探すんだろ?」
「……そうよ」
由花子も頷いた。
「明日は朝から動くつもりだから、今日は早く休みましょう」
「おう!」
億泰は元気よく返事をした。その様子を見ていた露伴は、小さくため息をついた。
「……まったく」
もっとも、悪い気分ではなかった。実際、今日の食事には十分満足していたし、街並みの取材もできた。何より、億泰の突然の語彙力には少々驚かされた。
(……あいつ、食事のことになると別人みたいになるな)
露伴はそんなことを考えながら、最後の一口を食べ終えた。
しかし、そんな三人の様子を、店内の奥から眺めていた人物がいたことには気づかなかった。
窓際から少し離れた席に座る、一人の男。地元の客らしいその男は、先ほど由花子が口にした名前を聞いた瞬間、僅かに表情を変えていた。
ジョルノ・ジョバァーナ。
男はその名前に聞き覚えがあった。というより、知っていて当然だった。彼自身、現在のパッショーネに関わる仕事をしている人間だったからだ。
(……日本人か)
三人を横目で観察する。一人は長い黒髪の少女。もう一人は、奇妙な髪型をした体格のいい少年。そして最後の一人は、スケッチブックを持った青年。
(……あの三人だな)
男は小さく頷いた。どうやら、事前に聞いていた日本人旅行者たちで間違いないらしい。
日本からジョルノを訪ねてくる三人組について、話はすでに伝わっていた。スピードワゴン財団が渡航を支援していることも、彼らがジョルノに個人的な用件を持っていることも聞いている。
ただし、実際に顔を見てみると、何とも拍子抜けする光景だった。
一人は料理を食べるたびに大騒ぎし、もう一人はそれを呆れたように見つめている。少女も途中から一緒に食事を楽しみ、今は店員に尋ね事をしているらしい。
(……普通の観光客じゃあないか)
男は思わず苦笑した。
もちろん、三人ともスタンド使いだということは聞いている。中でも漫画家の能力は、他人の記憶を読み取ることができるらしい。だからこそ、余計な誤解が生じないよう、こちらから不用意に近づくことは避けるよう指示されていた。
男は静かに席を立った。勘定を済ませ、店の外へ出る。そして、少し離れた場所で携帯電話を取り出した。
「……俺だ」
電話の相手に向かって告げる。
「例の日本人たちを見つけた。今、街のピッツェリアにいる」
『……何か問題は起こしているか?』
「いや。普通に食事をしているだけだ」
『そうか』
相手の声が少し和らいだ。
「ただ、女の方がジョルノ・ジョバァーナの名前を店員に尋ねていた。自分たちでも探すつもりらしい」
『……なるほど。まだ財団から面会の連絡が届いていないのかもしれないな』
「ああ。どうする?」
『今のところ特に問題はない。こちらから案内できるようになるまで、余計な接触は避けてくれ』
「了解した」
通話が切れる。男は携帯電話をしまい、再び店へ視線を向けた。ガラス越しに見える三人は、相変わらず楽しそうに食事をしていた。
男は少しだけ肩の力を抜いた。
(……しかし、よく食う奴だな)
ちょうどそのとき、億泰が再び何か叫び、隣にいた露伴が呆れたように顔をしかめた。
その様子を見て、男は小さく笑った。
---
「……街中でジョジョの名前を聞いて回っている?」
パンナコッタ・フーゴは、受話器を持ったまま眉をひそめた。
「はい。先ほど、こちらの担当者から報告がありました」
電話の向こうの部下が答える。
「三人とも、現在は普通に食事をしているだけです。ただ、山岸由花子という女性が、店員にジョルノ・ジョバァーナの名前を尋ねていたそうで……」
「……分かりました。こちらから連絡するまでは、余計なことはしないよう伝えてください」
「承知しました」
フーゴは電話を切った。それから、机の上の資料へ視線を落とす。
「……どうした?」
向かいの椅子に座っていたミスタが尋ねた。
「何かあったのか?」
「例の日本人たちです」
「ああ、カバンの件か」
ミスタは思い出したように頷いた。
「もう着いたのか?」
「ええ。今日、ネアポリスへ到着したそうです」
「ふうん。それで?」
「……街中でジョジョの名前を尋ね始めているそうですよ」
「……ああ、そういうことか」
ミスタは頭を掻いた。
「そういや、財団の方じゃあまだ居場所を教えてねーんだったな」
「ええ。こちらとの面会が正式に決まるまでは、詳しい情報を伝えないことになっているようです」
「だったら、そいつらも自分で探すしかねーわけか」
ミスタは納得したように頷いた。
「……でもよォ、ジョルノなら別に会ってもいいって言ってただろ? さっさと会わせてやりゃいいんじゃねーのか?」
「それは僕も同じ考えです。ただ、日程の調整と本人確認が必要ですから」
フーゴは資料をめくった。そこには、三人の日本人についての簡単な情報が記されている。
山岸由花子。スタンド名、ラブ・デラックス。
岸辺露伴。スタンド名、ヘブンズ・ドアー。
虹村億泰。スタンド名、ザ・ハンド。
その能力の概要を読んだフーゴは、少し考え込んだ。
「……特に、この岸辺露伴という人物については、会う前に少し説明が必要でしょうね」
「ん? なんでだ?」
「他人を本のような状態にして、記憶や情報を読み取るスタンド能力を持っているそうです」
「……何だそりゃ?」
ミスタは目を丸くした。
「そんな便利な能力があんのかよ」
「便利というだけでは済みませんよ。相手の了承なく記憶を読めるのなら、扱い方によっては相当厄介です」
「そりゃそうだけどよォ……」
ミスタは頬を掻いた。
「でも、そいつ漫画家なんだろ? ジョルノのスタンドに興味があるって話じゃねーか」
「ええ。目的がそれだけなら、こちらとしても特に問題はありません。ただ、組織の仕事に関わることまで調べられるのは困ります」
フーゴは落ち着いた口調で答えた。
「話をする前に、そのあたりも確認しておきたいんです」
「なるほどなァ」
ミスタは頷いた。それから、ふと思い出したように笑った。
「……しかし、ジョルノも妙なことになったよな」
「何がです?」
「いやよォ、カバン泥棒のことで日本からわざわざ人が来るなんて、普通ねーだろ?」
「……確かに、珍しい話ではありますね」
フーゴも否定はしなかった。
実際、今回の件は組織の仕事とはほとんど関係がない。ジョルノがまだパッショーネに入る前、空港で旅行者の荷物を盗んだ。その被害者の恋人が、日本から謝罪を求めに来ている。それだけのことだ。
もっとも、ジョルノが現在のパッショーネを率いる立場にある以上、面会のために多少の手続きが必要になるのは仕方がなかった。
「……早めに会っていただく方がよさそうですね」
フーゴはそう結論づけた。
「相手もわざわざ日本から来ているんですし、いつまでも待たせるわけにはいきません」
「……おまえが会いに行くのか?」
「ええ。まずは僕の方から事情を説明しようと思っています」
ミスタは少し考えた。そして、ふっと笑った。
「……だったら、オレも行こうかな」
「……何を言っているんです?」
フーゴが顔を上げた。
「いや、ちょっと気になるじゃねーか。日本からわざわざジョルノに文句言いに来た連中だぜ?」
「遊びじゃあないんですよ、ミスタ」
「分かってるって!」
ミスタは笑いながら答えた。
「ただよォ、あのジョルノがカバン泥棒で追っかけられるなんて、滅多にねー話だろ?」
「……そういうところを面白がらないでください」
フーゴは額に手を当てた。
「それに、ミスタまで同行する必要はありませんよ」
「何だよ。いいじゃねーか!」
「必要がないと言っているんです」
「相変わらず堅いなァ、おまえは」
「あなたが適当すぎるんです」
二人はしばらく言い合っていたが、やがてフーゴが息を吐いた。
「……分かりました。ただし、先方に失礼なことは言わないでくださいよ」
「しねーよ!」
「本当でしょうね?」
「信用ねーなァ!」
ミスタは不満そうに口を尖らせた。
フーゴは彼の返事を聞きながら、書類を閉じた。
かつての仲間であるミスタと、こうして普通に仕事の話ができることは、少し前までの自分には想像できなかったことだった。ブチャラティのチームを離れたあの日以来、二人の間には簡単には埋まらない距離があった。シチリアでの任務を終え、ジョルノへの忠誠を示した今も、過去の出来事がなかったことになったわけではない。
しかし、以前のように何も言えない間柄でもなかった。
だからこそ、目の前の男が冗談を言い、自分が呆れながら言い返していることを、フーゴはどこか不思議に感じていた。
「……じゃあ、財団の担当者へ連絡しておきます」
「おう。頼むぜ」
ミスタは軽く手を上げた。
彼らが考えていたのは、あくまで日本から来た三人に事情を説明し、ジョルノとの面会を調整することだった。少なくとも現時点では、それ以上の問題にするつもりなどなかった。
もっとも、フーゴには一つだけ気になることがあった。
岸辺露伴。
資料を見る限り、この漫画家はかなり独特な人物らしい。特に、興味を持ったことを調べるためなら、周囲の迷惑をあまり気にしないところがあるという。
(……説明だけで納得してくれるといいんですが)
フーゴはそう思いながら、電話へ手を伸ばした。
---
同じ頃。
ネアポリスのホテルでは、山岸由花子が自分の部屋で荷物の整理をしていた。机の上には、旅行用の小さな手帳と、康一から教えてもらった情報が書き込まれたメモが置かれている。
『ジョルノ・ジョバァーナ』
『旧名:汐華初流乃』
『十六歳』
『金髪、特徴的な髪型』
『物体を生物に変えるスタンド』
由花子はそのメモを眺めながら、静かに息をついた。今日の聞き込みでは、結局何も分からなかった。もっとも、イタリアへ来たばかりなのだから、当然といえば当然である。明日からは、本格的に調査を始めることになる。
(……康一くん)
由花子は、ふと彼の顔を思い浮かべた。
出発前、康一は最後まで心配していた。危ないことはしないでほしい。無理にジョルノを追い詰めないでほしい。そして、何より無事に帰ってきてほしい。そんなことを何度も言っていた。
由花子は、その言葉をきちんと覚えている。だからこそ、今回の件を乱暴に解決するつもりはなかった。
「……大丈夫よ、康一くん」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
「あたし、ちゃんと約束は守るから」
もちろん、ジョルノが康一の荷物を盗んだことを許したわけではない。しかし、康一がジョルノを信頼しているというのなら、それも尊重したい。
ただ、一度は直接会って確かめたかった。康一が許した相手が、本当にそれに値する人物なのか。そして、自分がしたことをどう考えているのか。
由花子にとって、それはどうしても譲れないことだった。
彼女はメモを畳み、手帳へ挟んだ。それから、明日の予定を確認する。
空港での聞き込み。周辺の調査。必要ならば、学校や以前の住所についても調べる。
簡単な旅ではないだろう。しかし、ここまで来たのだ。今さら引き返すつもりはなかった。
由花子は窓辺へ歩み寄った。眼下には、ネアポリスの夜景が広がっていた。遠くに見える街の明かり。行き交う車のヘッドライト。そして、海の向こうに広がる暗い空。
そのどこかに、ジョルノ・ジョバァーナがいる。
「……待っていなさい」
由花子は静かに微笑んだ。
「ジョルノ・ジョバァーナ」
その声には、不思議なほどの確信があった。
彼女はまだ知らない。スピードワゴン財団だけでなく、ジョルノの関係者もすでに自分たちの到着を把握していることを。そして、その関係者が、今まさに面会のための準備を進めていることも。
その頃、隣の部屋では虹村億泰が満腹になった腹をさすりながら眠りについていた。岸辺露伴は自室で今日のスケッチを整理し、明日訪ねてみたい場所をノートに書き込んでいる。
目的はそれぞれ違っていても、三人は確かにイタリアまでやってきた。
恋人のために納得のいく謝罪を求める少女。未知のスタンド能力と異国の文化に興味を抱く漫画家。そして、本場の料理を心から楽しみにしている高校生。
その三人を迎えることになったのが、かつて空港で一人の日本人旅行者からカバンを盗んだ少年である。
ジョルノ・ジョバァーナ。
現在のパッショーネを率いるその少年は、まさか自分が八か月ほど前に行った窃盗について、こんな形で改めて話をすることになるとは、春の時点では想像もしていなかっただろう。
そして、由花子たちもまだ知らない。
自分たちが探している相手は、すでに訪問のことを知っている。それどころか、こちらと会うことについても、前向きに考えているのだ。
そんなことを知らない三人の、イタリアでの一日目が終わろうとしていた。
――To Be Continued.