MFG GREAT ––ナスカーの刺客–– 作:車っていいなって思うんすよね
202X年――日本。
かつて世界中の道路を走っていたガソリンエンジン車は、今やその役目を終えようとしていた。
環境技術の発展とエネルギー革命によって、世界の自動車産業は大きな転換期を迎えていたのである。
内燃機関を搭載する新車の製造は中止され、代わって電気自動車や燃料電池自動車が急速に普及。かつて世界中の道路に響き渡っていたエンジン音は、少しずつ人々の日常から姿を消しつつあった。
東京の街並みも例外ではない。
整備された道路を、無数の電気自動車が静かに走り抜けていく。
交差点の信号が青へと変わっても、聞こえてくるのはタイヤが路面を転がる音と、わずかなモーター音だけ。
かつてのように、エンジンの唸り声や排気音が街中に響き渡ることは、ほとんどなくなっていた。
それが、この時代の当たり前の光景だった。
しかし――。
そんな時代にあって、かつての自動車文化を色濃く残す日本では、あるモータースポーツが爆発的な人気を集めていた。
その名は――。
MFG(エムエフジー)。
日本の一般公道を舞台として開催される、内燃機関を搭載したスポーツカーによる巨大モータースポーツイベント。
世界中に数千万人もの視聴者を抱え、そのレース映像はインターネットを通じて各国へと配信されている。
ポルシェ、フェラーリ、ランボルギーニ、アウディ、メルセデスAMG。
そして、日産やトヨタといった日本の自動車メーカー。
かつて世界各国のサーキットや公道で名を馳せた名車たちが、日本という極東の島国へと集結する。
その光景は、内燃機関車が希少となった現代において、人々の心を強く惹きつけていた。
だが、MFGの魅力は、単に高性能なスポーツカーが競争することだけではない。
最大の特徴は、そのレースが開催される舞台そのものにあった。
険しい山岳道路。
海岸線に沿って続くワインディングロード。
急勾配のヒルクライムに、複雑なヘアピンカーブ。
さらには、一瞬の判断ミスが命取りになりかねない高速ダウンヒル。
通常のサーキットとは異なり、公道の路面にはうねりがあり、勾配も目まぐるしく変化する。
場所によっては、道路全体を覆い尽くすほどの濃霧が発生することさえあった。
そんな過酷な環境の中、世界各国から集まったドライバーたちは、自らのマシンを限界まで操り、コンマ1秒を削り合う。
この巨大イベントを創設した人物こそ、リョウ・タカハシ。
彼が構築したMFGには、独自のレギュレーションが存在していた。
その中核をなすのが、『グリップウェイトレシオの均一化』というルールである。
車両重量に応じて装着できるタイヤのサイズが制限され、重量の大きな車には幅の広いタイヤが認められる一方、軽量な車は使用できるタイヤの幅が狭くなる。
エンジンの排気量や出力そのものには制限がない。
そのため、絶対的なパワーを誇るスーパーカーが有利であることは間違いなかった。
しかし、いかに強大なエンジンパワーを持っていようと、それを路面へ伝えきれなければ意味がない。
ましてや、舞台は複雑な日本の公道。
マシンの性能だけでなく、ドライバーの技術、タイヤマネジメント、そして刻一刻と変化する路面状況への対応力が勝敗を大きく左右する。
そして、MFGにおいて決勝レースへの出場が許されるのは、予選を突破したわずか15台のみ。
その栄光を勝ち取ったドライバーたちは、特別な呼び名で称えられていた。
――神フィフティーン。
世界中から集まった一流ドライバーたちの中でも、特に優れた15人。
彼らが繰り広げる激闘に、数千万人ものファンが熱狂するのである。
そして、今年もまた新たなシーズンの幕が上がった。
開幕戦の舞台は、神奈川県小田原市。
第1戦『小田原パイクスピーク』。
箱根の山々を駆け抜ける過酷なコースで、世界最高峰のスポーツカーたちによる激闘が繰り広げられた。
その開幕戦において、一人の若きドライバーが大きな注目を集めることとなる。
イギリスからやって来た、無名のルーキー。
カナタ・リヴィントン。
彼が操るのは、並み居るスーパーカーと比較すれば非力なトヨタ86GT。
しかし、そのドライビングテクニックは、世界中の視聴者に衝撃を与えるものだった。
初参戦にして、決勝レースを9位でフィニッシュ。
誰もが予想しなかった、新たな才能の出現。
それは、MFGに新しい時代が訪れようとしていることを予感させる出来事だった。
そして今――。
そんな日本へ向かう、一機の旅客機があった。
その機内には、もう一人の若きレーシングドライバーが乗っていた。
まだMFGのファンには、その存在をほとんど知られていない青年。
だが、彼もまた、並外れた才能と情熱を持つ男だった。
その名は――。
ベンジャミン・フィッツロイ。
19歳。
アメリカ合衆国出身。
彼の物語は、まさにここから始まろうとしていた。
* * *
日本へと向かう国際線旅客機。
長時間に及んだフライトも、いよいよ終わりに近づいていた。
窓の外には、どこまでも続く青空。その下には、白い雲がまるで巨大な絨毯のように広がっている。
機内は比較的静かだった。
長時間の移動に疲れて眠りについている乗客や、機内エンターテインメントを楽しむ者。イヤホンを耳に差し込み、音楽を聴いている者など、乗客たちは思い思いの時間を過ごしていた。
そんな中――。
「…………」
窓際の座席で、一人の青年がスマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。
短く整えられた金髪。
年齢相応の若々しさを残しながらも、どこか自信に満ちた顔立ち。
長い手足と、無駄のない引き締まった体格。
ラフなTシャツにジャケットという、いかにもアメリカの若者らしい服装をしている。
ベンジャミン・フィッツロイ。
それが彼の名前だった。
「…………へえ」
画面を見つめながら、ベンジャミンは感心したように呟いた。
スマートフォンに映し出されているのは、日本で開催されているモータースポーツイベントの映像。
MFG。
その開幕戦、小田原パイクスピークのレース映像だった。
搭乗前に保存しておいた動画を、彼はもう何度も繰り返し再生していた。
画面の中では、色とりどりのスポーツカーが激しいバトルを繰り広げている。
ポルシェ911。
フェラーリ488GTB。
日産GT-R。
どれも世界的に有名な高性能マシンばかりだ。
だが、ベンジャミンが最も注目していたのは、それらのスーパーカーではなかった。
「おっ……来た来た!」
思わず身を乗り出す。
画面に映ったのは、ライトニングレッドボディの一台の日本車。
トヨタ86GT。
ゼッケンナンバーは、86。
並み居る高性能マシンと比較すれば、エンジンの出力は決して高くない。
ストレートでは、圧倒的なパワー差によって引き離されてしまう。
しかし――。
「おいおい……マジかよ」
ベンジャミンの口元が、ゆっくりと吊り上がった。
画面の向こうで、86が鋭くコーナーへ飛び込んだ。
ブレーキング。
ターンイン。
そして、コーナー出口へ向けた加速。
その一連の動作には、まったくと言っていいほど無駄がなかった。
マシンが滑らかに向きを変え、驚くほど自然に次の直線へとつながっていく。
「ハハッ! やるじゃねえか!」
思わず声が出た。
隣の座席で雑誌を読んでいた乗客が、ちらりとこちらを見る。
しかし、当の本人は気づいていない。
ベンジャミンの目は、完全に画面の中の86へと釘付けになっていた。
やがて映像は、箱根の山中へと切り替わった。
深い霧が道路を覆い尽くしている。
視界は極端に悪く、少し先の道路さえ確認することが難しい。
通称、デスエリア。
小田原パイクスピーク最大の難所の一つだ。
「うっわ……」
ベンジャミンは、思わず眉を上げた。
「なんだよ、この霧。ほとんど何も見えねえじゃねえか」
映像が車載カメラへと切り替わる。
フロントウインドウの向こうは、ほとんど真っ白だった。
道路の形状さえ判別しづらい。
にもかかわらず、86は速度を大きく落とすことなく走り続けている。
まるで、見えないはずのコーナーが、ドライバーの目にははっきりと映っているかのように。
「…………」
いつの間にか、ベンジャミンの表情から笑みが消えていた。
画面を見る目が、真剣なものへと変わる。
今まで数え切れないほどのレースを走ってきた。
広大なオーバルコースも、複雑なロードコースも経験している。
時速300キロを超える領域で、他車と数センチの距離まで接近したことだってある。
それでも、目の前の映像には思わず息を呑んだ。
見通しの悪い山道。
狭い道路。
容赦なく迫ってくる連続コーナー。
そこを、信じられないほど正確なラインで駆け抜けていく。
「……スゲえな」
ぽつりと呟く。
直後、86がライバルのマシンを抜き去る映像が流れた。
「うおおおおっ!!」
今度こそ、ベンジャミンは大きな声を上げた。
「やるじゃねえか、カナタ!!」
「……っ!?」
隣の乗客が、びくりと肩を震わせた。
通路の向こうでも、数人の乗客がこちらへ振り向いている。
それに気づいたベンジャミンは、ようやく口を閉じた。
「……あ」
一瞬の沈黙。
そして、にかっと笑う。
「ソーリー、ソーリー!」
両手を合わせるような仕草をして、軽く頭を下げた。
隣の乗客は困ったように微笑み、再び雑誌へと視線を戻す。
ベンジャミンも座席に座り直した。
「……っと。いけねえ、いけねえ」
小声で呟く。
「日本に着く前から騒ぎすぎちまったぜ」
そう言いながらも、口元には楽しそうな笑みが浮かんでいた。
そして、再びスマートフォンへ目を落とす。
画面には、86を操るドライバーの名前が表示されていた。
――KANATA KATAGIRI
それを見た瞬間、ベンジャミンは懐かしそうに目を細めた。
「……カナタ」
その名を口にした声は、先ほどまでとは少し違っていた。
どこか親しみを含んだ、柔らかい響き。
カナタ・リヴィントン。
彼にとって、その名前は決して見知らぬレーシングドライバーのものではなかった。
幼い頃から知っている、大切な従兄弟の名前だった。
「ったく……いつの間にこんなに速くなりやがったんだよ」
呆れたように笑う。
幼い頃の記憶が、ふと脳裏をよぎった。
まだ二人とも背が低かった頃。
一緒に遊び、くだらないことで笑い合っていた日々。
カナタは昔から、どちらかといえば落ち着いた性格だった。
少なくとも、ベンジャミンのように思ったことをすぐ口に出すタイプではなかった。
そんな従兄弟が、今や世界中の視聴者を驚かせている。
しかも、スーパーカーを相手に、非力な86で堂々と渡り合っているのだ。
「ヘヘッ……」
ベンジャミンは嬉しそうに笑った。
「やっぱ、お前は最高だぜ」
もう一度、映像を見つめる。
そこでは、霧の中から飛び出した86が、ライバルたちとの激しい争いを繰り広げていた。
そして、最終的に9位でチェッカーフラッグを受ける。
15番手からスタートしたルーキーが、6つも順位を上げてフィニッシュしたのだ。
「9位か……」
画面に表示されたリザルトを見ながら、ベンジャミンは呟いた。
「初めてのレースで、あの連中を相手に9位……か」
軽く口笛を吹く。
「こりゃあ、のんびりしてらんねえな」
そう言って、スマートフォンを握り直した。
彼の瞳には、はっきりとした闘志が宿っていた。
レースの世界では、相手が誰であろうと関係ない。
友人だろうが、家族だろうが、尊敬するドライバーだろうが。
ひとたびスターティンググリッドに並べば、全員がライバルになる。
そしてベンジャミンは、勝負事となれば誰よりも負けず嫌いな男だった。
「いいぜ、カナタ」
口元を吊り上げる。
「お前が先に暴れてるってんなら、俺も負けてらんねえよな」
再び映像が再生される。
ポルシェのエンジンが唸り、フェラーリが猛然と加速する。
その後方から、86がコーナーでじりじりと距離を詰めていく。
ベンジャミンの胸の奥が、熱くなった。
「ストリートレース、か……」
彼がこれまで主戦場としてきたのは、アメリカのレースフィールドだった。
巨大なオーバルコースを、他車と密集しながら猛スピードで駆け抜ける。
わずかな判断ミスが、多重クラッシュにつながることもある。
そんな極限の世界で、彼は長年ステアリングを握り続けてきた。
だが、日本の公道を舞台としたMFGは、それとはまるで違っている。
狭い道路。
激しい高低差。
次々と変化するコーナーの曲率。
そして、コースの外側にはガードレールやコンクリートの壁。
サーキットにあるような広大なランオフエリアは、ほとんど存在しない。
一瞬のミスが、そのままリタイアへ直結する。
「……面白え」
普通なら、恐怖を覚えてもおかしくない。
しかし、ベンジャミンは違った。
彼の口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいた。
「めちゃくちゃ面白そうじゃねえか!」
新しいコース。
新しいライバル。
そして、今まで経験したことのないレース。
それらを想像するだけで、心臓が高鳴ってくる。
「ポルシェにフェラーリ、ランボルギーニ……おまけにGT-Rまでいやがる!」
画面に映るマシンを指で数えながら、楽しそうに笑う。
「ハハッ! こいつは最高だぜ!」
そのまま、座席の背もたれへ身体を預ける。
「さて、と……」
スマートフォンの画面を操作する。
表示されたのは、あらかじめ保存しておいたMFGの公式レーススケジュール。
そこには、今シーズンの開催日程が掲載されていた。
開幕戦、小田原パイクスピーク。
その次に表示されているのは――。
第2戦・芦ノ湖GT。
神奈川県の芦ノ湖周辺を舞台とする、MFGの第二ラウンド。
ベンジャミンは、その文字をじっと見つめた。
「アシノコ……ジーティー」
慣れない日本語を、ゆっくりと読み上げる。
「ふーん……次はここか」
画面を指でスクロールする。
湖と山々に囲まれたコース。
複雑な地形。
そして、かつての富士山の火山活動による影響を色濃く残した地域。
アメリカでは見たことのない景色だった。
「……へへっ」
ベンジャミンは、スマートフォンを胸元まで下ろした。
そして、窓の外へ目を向ける。
「待ってろよ、日本」
その声には、先ほどまでの軽い調子とは異なる響きがあった。
「俺も、そっちに行くぜ」
日本でレースをする。
それは、彼がこの飛行機に乗った最大の理由だった。
今はまだ、所属するレーシングチームもない。
この先、何が待っているのかも分からない。
だが、不思議と不安はなかった。
少なくとも、ステアリングを握っている間だけは、どんな困難も乗り越えられる。
ベンジャミンは、そう信じていた。
「それに……」
ふと、笑みを浮かべる。
「カナタにも会いてえしな」
昔からよく知っている従兄弟。
最後に顔を合わせてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
画面の中で見た彼は、もう立派なレーシングドライバーになっていた。
それが嬉しい。
同時に、少しだけ悔しくもある。
「ま、会ったら最初に言ってやるか」
ベンジャミンは、一人で楽しそうに笑った。
「お前、ずいぶんカッコつけるようになったじゃねえか、ってな!」
そんなことを考えていると、不意に機内アナウンスが流れ始めた。
『Ladies and gentlemen――』
女性の落ち着いた声が、機内に響き渡る。
まもなく羽田空港への着陸態勢に入るという案内だった。
その瞬間――。
「……おっ!」
ベンジャミンが、がばっと身体を起こした。
「マジか! もう着くのか!?」
慌ててスマートフォンをしまい、窓の外を覗き込む。
飛行機は、いつの間にか高度を下げ始めていた。
眼下に広がっていた雲が少しずつ途切れ、その向こうに青い海が姿を現す。
東京湾。
そして、その先には巨大な都市が広がっていた。
「うおお……!」
ベンジャミンは、思わず感嘆の声を漏らした。
海岸線に沿って続く建物。
規則正しく延びる道路。
空へ向かって伸びる高層ビル群。
アメリカの都市とは、また違った景色だった。
「すっげえ……!」
子供のように目を輝かせる。
機内のモニターには、日本各地の観光映像が流れていた。
雄大な富士山。
東京の高層ビル群。
そして、緑豊かな箱根の山々。
その映像を見たベンジャミンは、思わずニヤリと笑った。
「……ヘヘッ」
両手を軽く握り締める。
「いよいよだぜ、ジャパン!」
期待に胸を膨らませながら、彼は再び窓の外へ視線を戻した。
* * *
旅客機は、東京湾上空をゆっくりと降下していく。
高度が下がるにつれて、地上の様子が次第にはっきりと見えるようになってきた。
海上を進む船。
埋立地に建ち並ぶ施設。
そして、海へ向かって真っ直ぐに延びる滑走路。
羽田空港。
日本を代表する国際空港が、いよいよ目前に迫っていた。
「おおっ……!」
窓に顔を近づけながら、ベンジャミンは目を輝かせる。
「見えてきたぜ!」
機体がゆっくりと旋回する。
眼下の滑走路が、徐々に近づいてくる。
その瞬間、ベンジャミンの胸の奥に、不思議な感覚が込み上げた。
これまで、レースのために何度も飛行機へ乗ってきた。
アメリカ国内の移動はもちろん、さまざまな場所を訪れた経験もある。
だが、今回の旅は少し違う。
知っている人間がほとんどいない国。
慣れない言葉。
異なる文化。
そして、これまで一度も走ったことのない道路。
そのすべてが、彼にとって新しい挑戦だった。
「…………」
珍しく、ベンジャミンは黙っていた。
飛行機が滑走路へ向けて降下していく。
地面が、みるみる近づいてくる。
そして――。
ドンッ!
機体がわずかに揺れた。
主脚のタイヤが滑走路へ接地し、飛行機は力強く減速を始める。
着陸。
その瞬間――。
「よっしゃあああっ!!」
ベンジャミンは、思わず拳を突き上げた。
「着いたぜえええっ!!」
「……っ!?」
隣の乗客が再び驚いて振り向く。
前方の座席からも、何人かがこちらへ視線を向けていた。
しかし、本人はまったく気にしていなかった。
「ハハハッ! ついに来ちまったぜ、日本!」
満面の笑みを浮かべながら、窓の外を見つめる。
滑走路の向こうには、数多くの航空機が並んでいた。
巨大なターミナルビル。
忙しなく行き交う空港車両。
そして、遠くに広がる東京の街並み。
そのどれもが、ベンジャミンの目には新鮮に映った。
「へえ……」
興味深そうに窓の外を眺める。
「これが羽田空港ってヤツか」
やがて飛行機は誘導路を進み、ターミナルへと向かっていった。
機体が完全に停止すると、ほどなくしてシートベルト着用サインが消灯する。
乗客たちは次々と立ち上がり、頭上の収納棚から荷物を取り出し始めた。
ベンジャミンも座席から立ち上がる。
「よっ……と!」
大きく伸びをする。
「くぅ〜っ! さすがに長かったぜ!」
長時間のフライトで固まった身体を、軽くほぐす。
そして、頭上の収納棚から自分のバッグを取り出した。
特別に豪華な荷物というわけではない。
少し大きめのバッグと、手元に置いていた身の回りの品。
彼が日本へ持ってきたものは、それほど多くなかった。
だが、その胸の中には、荷物には収まりきらないほどの期待が詰まっている。
「さてさて……」
バッグを肩に担ぎ、周囲を見回す。
「いよいよ日本デビューってワケだ!」
ニヤリと笑う。
それから、乗客たちの列に加わって機体の出口へと向かった。
ゆっくりと進む列。
やがて、前方に開いたドアが見えてきた。
出口では、客室乗務員たちが乗客を見送っていた。
「ありがとうございました」
ベンジャミンにも、日本語で丁寧な挨拶が向けられる。
「…………」
一瞬、彼はきょとんとした。
しかし、すぐに満面の笑みを浮かべる。
「オーケー!」
そして、勢いよく親指を立てた。
「アリガトー!!」
妙に力の入った発音だった。
本人としては、完璧な日本語を披露したつもりらしい。
客室乗務員は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑顔で会釈した。
ベンジャミンも満足そうに頷く。
「ヘヘッ! やっぱ俺、日本語の才能あるんじゃねえか?」
誰にともなく呟きながら、機体の出口を抜けた。
その先には、ボーディングブリッジが続いていた。
ガラス窓の向こうには、羽田空港の広大な敷地が広がっている。
駐機している大型旅客機。
滑走路を移動する航空機。
その向こうでは、別の旅客機が轟音を響かせながら空へと舞い上がっていった。
「…………」
ベンジャミンは、不意に足を止めた。
窓の向こうを見つめる。
アメリカとは違う空気。
違う言葉。
違う街並み。
そして、この国には、まだ彼が知らない数多くのレーシングドライバーたちがいる。
世界中から集まってきた、腕自慢の猛者たち。
ポルシェやフェラーリを操る強豪。
そして、あの86を駆る従兄弟。
カナタ・リヴィントン。
彼らが、日本の公道を舞台に、激しい戦いを繰り広げている。
「……へへっ」
自然と笑みがこぼれた。
どんなドライバーがいるのだろう。
どんなマシンが走っているのだろう。
そして、自分はその中で、どこまで戦えるのだろう。
考えれば考えるほど、胸が高鳴ってくる。
「さーて……」
ベンジャミンは、肩に担いだバッグを持ち直した。
「どんなヤツらが待ってんのか、楽しみだぜ!」
その瞳には、迷いも不安もなかった。
あるのは、これから始まる新しいレースへの期待。
そして、誰にも負けたくないという、レーシングドライバーとしての純粋な闘争心だけだった。
「カナタのヤツにも、早く会いてえしな!」
楽しそうに笑う。
「まったく……日本ってのは、面白そうなことだらけじゃねえか!」
そう言うと、再び歩き出そうとした。
しかし――。
「……あっ!」
何かを思い出したように、ぴたりと足を止める。
そして、くるりと窓の外へ向き直った。
「そうだ! せっかくだし、アレを言わねえとな!」
一人で勝手に納得する。
周囲の乗客たちは、彼が何をしようとしているのか分からない。
そんなことなどお構いなしに、ベンジャミンは大きく息を吸い込んだ。
そして――。
「よっしゃあ!!」
右手を高々と突き上げる。
「WELCOME TO JAPAN!!」
ボーディングブリッジに、威勢のいい声が響き渡った。
突然の大声に、周囲の乗客たちが一斉に振り向く。
しかし、ベンジャミンはまったく動じない。
むしろ、ますます楽しそうに笑っていた。
「ハーッハッハッハ!!」
そして、ニヤリと口元を吊り上げる。
「日本! ベンジャミン・フィッツロイ様のお通りだぜ!!」
そう叫ぶと、彼は勢いよく一歩を踏み出した。
その足取りは、どこまでも軽かった。
まるで、これから始まる冒険が楽しみで仕方ない少年のように。
こうして――。
一人のアメリカ人レーシングドライバーが、日本へと降り立った。
ベンジャミン・フィッツロイ。
19歳。
明るく、豪快で、少々調子に乗りやすい青年。
そして、その胸の奥に、並外れたレースへの情熱を秘めた男。
この時、彼のことを知る日本のMFGファンは、ほとんどいなかった。
当然だろう。
彼はまだ、MFGのスターティンググリッドに並んだことさえないのだから。
だが――。
彼の挑戦は、すでに始まっていた。
目指すは、世界最高峰の公道レース。
MFG。
次なる舞台は、神奈川県小田原市。
第2戦――芦ノ湖GT。
そこで、どのような戦いが彼を待っているのか。
それは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
この日、日本へやって来た一人の青年が、やがてMFGに新たな旋風を巻き起こすことになるということだ。
新たな公道最速伝説。
その物語は、今、静かに幕を開けた――。