MFG GREAT ––ナスカーの刺客––   作:車っていいなって思うんすよね

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この話から英語を使わせてみてます。


第10話 「AMERICAN THUNDER!」

 

 

 六月下旬。

 

 神奈川県、箱根。

 

 日本有数の観光地として知られるこの山岳地帯は、今や世界中のモータースポーツファンから熱い視線を浴びていた。

 

 MFG第二戦――芦ノ湖GT。

 

 全長25.3キロメートル。

 

 決勝レースは、そのコースを三周する。

 

 高低差のあるワインディング、湖畔を走る高速区間、そして火山灰が堆積した恐怖のデスエリア。

 

 ドライバーの技術だけでなく、マシンの性能、セッティング、さらには天候さえも勝敗を左右する難コースである。

 

 そんな箱根の空は、朝から厚い雲に覆われていた。

 

 そして――。

 

 ザーッ……。

 

 雨。

 

 決勝を目前に控えた芦ノ湖周辺には、冷たい雨が降り注いでいた。

 

 路面は黒く濡れ、水たまりがあちこちに形成されている。

 

 山肌には薄い靄がかかり、遠くに見えるはずの芦ノ湖も、その輪郭をぼんやりと滲ませていた。

 

 晴天の予選とは、まるで別のコース。

 

 だが、この雨に絶望する者ばかりではない。

 

 むしろ、歓迎している者すらいた。

 

 その一人が――。

 

「……ハハッ!」

 

 ターコイズグリーンのシボレー・カマロSS。

 

 その運転席で、ベンジャミン・リヴィントンは楽しそうに笑っていた。

 

「最高じゃねえか……!」

 

 フロントガラスを流れ落ちる雨粒。

 

 一定のリズムで動くワイパー。

 

 そして、アイドリング状態でも低く響く6.2リッター自然吸気V8エンジンの鼓動。

 

 そのすべてが、彼の闘争心を刺激していた。

 

「初めてのMFG決勝が雨のレースだなんて……神様も、なかなか粋なことするぜ!」

 

「ベンジャミン」

 

 運転席の外から、聞き慣れた女性の声がした。

 

 顔を向けると、黒い傘を差したメイが立っていた。

 

「浮かれるのは結構だけど、予選とはコンディションがまったく違うわ。わかっているでしょうね?」

 

「もちろん!」

 

「……本当に?」

 

「姉貴。俺を誰だと思ってる?」

 

「調子に乗ると失敗する、手のかかる弟」

 

「ひでえ!」

 

 即答だった。

 

 ベンジャミンが抗議すると、メイは小さくため息をついた。

 

「あなたの実力は認めているわ。でも、ここはアメリカのサーキットじゃない。日本の公道なのよ」

 

「ああ。ちゃんとわかってる」

 

 ベンジャミンはハンドルに手を置いた。

 

「この道を甘く見たら、痛い目に遭う。それは予選で嫌ってほど思い知らされたからな」

 

 そう言いながら、彼の視線はカマロのダッシュボードへ向けられる。

 

 奥山が仕上げた電子制御システム。

 

 NORMAL。

 

 COMPETITION。

 

 FULL OFF。

 

 三段階で切り替えられる専用セッティングだ。

 

 NORMALではトラクションコントロールとスタビリティコントロールが積極的に介入する。

 

 COMPETITIONではトラクションコントロールを解除し、スタビリティコントロールの介入を限定する。

 

 そしてFULL OFFでは、その両方を解除する。

 

 なお、ABSはどのモードでも維持される。

 

 予選では、この切り替えが大きな武器となった。

 

 特に火山灰の堆積したスリッピートラップ。

 

 あの場所でNORMALを使用した判断が、結果的に七番手という好成績につながっている。

 

 しかし、今日は違う。

 

 路面全体が濡れているのだ。

 

 FR。

 

 大排気量。

 

 大トルク。

 

 アメリカン・マッスルカーの象徴ともいえるカマロSSにとって、決して楽なコンディションではない。

 

 それでも。

 

「……面白え」

 

 ベンジャミンは笑った。

 

「こういうレース、大好きなんだよな!」

 

「……まったく」

 

 メイは呆れたように肩をすくめる。

 

「いい? 無理に順位を上げようとしないこと。特に序盤は慎重に走りなさい」

 

「Yes, ma'am!」

 

「それと、私の指示はちゃんと聞くこと」

 

「Yes, ma'am!」

 

「ふざけない」

 

「Yes, ma'am!」

 

「……ベンジャミン」

 

「SORRY!!」

 

 いつもの姉弟だった。

 

 だが、メイはそんな弟の顔を見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。

 

 幼い頃から、彼はこうだった。

 

 カートでも、クォーターミジェットでも。

 

 そしてアメリカのレースカテゴリーへ進んでからも。

 

 どれほど大きな舞台であろうと、ベンジャミンはスタート前になると笑っていた。

 

 恐怖を知らないわけではない。

 

 むしろ、誰よりも危険を理解している。

 

 そのうえで――。

 

 レースというものを、心の底から愛しているのだ。

 

「……期待してるわよ、ベン」

 

「任せとけって!」

 

 ベンジャミンは親指を立てた。

 

「アメリカン・サンダーの本領、見せてやるぜ!」

 

     ◇

 

 決勝開始まで、残りわずか。

 

 パドックでは各チームが最後の準備を進めていた。

 

 そんな中、メイがカマロから少し離れたところで端末を確認していると――。

 

「おや?」

 

 背後から、男の声がした。

 

「これはまた、とんでもない美人がいるじゃないか」

 

 振り返る。

 

 そこに立っていたのは、一人の日本人男性だった。

 

 長身で、整った顔立ち。

 

 どこか余裕を感じさせる笑みを浮かべている。

 

 その背後には、鮮やかな赤いフェラーリ。

 

 ゼッケン2。

 

 フェラーリ488GTBを駆る、赤羽海人だった。

 

「初めまして、お嬢さん」

 

 赤羽は慣れた仕草で笑いかけた。

 

「俺は赤羽海人。MFGに出ているドライバーだ」

 

「存じています」

 

「へえ。俺のことを知ってくれてるのか」

 

「ええ。有名な方ですものね」

 

 メイは表情を崩さずに答える。

 

 赤羽は嬉しそうに笑った。

 

「それなら話が早い。レースが終わったら、食事でもどうかな?」

 

「お断りします」

 

「……おっと」

 

 あまりにも早い返答だった。

 

 赤羽は一瞬だけ目を丸くする。

 

「即答とは、なかなか手厳しいね」

 

「仕事がありますので」

 

「仕事?」

 

「ええ。あちらのチームに関係しています」

 

 メイが指差した先。

 

 そこには、ターコイズグリーンのカマロSSがあった。

 

「……ああ、なるほど」

 

 赤羽は納得したように頷いた。

 

「例のアメリカ人ルーキーか」

 

「そうです」

 

「予選七番手だったな。あの大きなアメリカ車で、なかなかやるじゃないか」

 

 そう言いながら、赤羽は再びメイへ視線を戻す。

 

「ところで、彼とはどういう関係なんだい?」

 

「姉です」

 

「……姉?」

 

「ええ。実の姉です」

 

 赤羽はカマロを見た。

 

 それからメイを見る。

 

 そして、もう一度カマロへ視線を戻した。

 

「……なるほど。そういうことか」

 

 何かを察したように笑う。

 

「つまり、あのルーキーのスポンサーでもあるわけだ」

 

「そういうことになりますね」

 

「ますます興味が湧いたな」

 

「そうですか」

 

「ええ。君にも、あのマシンにもね」

 

 赤羽は軽く肩をすくめた。

 

「それじゃあ、決勝で彼といい勝負ができることを期待しているよ」

 

「そうですね」

 

 メイは微笑んだ。

 

 ただし、その笑顔はどこか冷たい。

 

「弟にも、そう伝えておきます」

 

 赤羽は片手を上げ、フェラーリの方へ歩いていった。

 

 その背中を見送りながら、メイは小さく息を吐く。

 

「……まったく」

 

 どうしてこういう男は、初対面の女性にあれほど気軽に声をかけられるのだろう。

 

 不意に、一人の男性の姿が脳裏をよぎった。

 

 かつて出会った、イタリア人の男。

 

 陽気で、女性への距離の詰め方が妙に上手くて。

 

 あの男にも、似たようなところがあった。

 

「……嫌なことを思い出したわ」

 

 メイは首を振った。

 

 そして、その記憶を振り払うように端末へ視線を戻す。

 

 今は仕事中だ。

 

 それも、大切な弟の初めてのMFG決勝。

 

 余計なことを考えている場合ではない。

 

「……さて」

 

 メイの口元が、わずかに上がった。

 

「赤羽海人、ね」

 

 覚えておくことにしよう。

 

     ◇

 

 一方。

 

 MFGの実況ブースでは、世界中へ向けた中継が始まっていた。

 

『さあ皆さん! いよいよこの時がやってまいりました!!』

 

 実況担当、田中洋二。

 

 その興奮した声が、放送に乗って響き渡る。

 

『MFG第二戦! 芦ノ湖GT!! 決勝レースのスタートが、間もなく迫っています!!』

 

 モニターには、スターティンググリッドへ向かう十五台のマシンが映し出されていた。

 

『しかし、あいにくの雨模様! 予選とはまったく異なるコンディションとなりました!』

 

『この雨は、かなり難しいレースにしてくれるでしょうね』

 

 解説席から答えたのは、池田竜次だった。

 

 元プロレーシングドライバー。

 

 MFGのレギュレーションと車両特性を熟知する男である。

 

『特に、パワーのある後輪駆動車は難しいでしょう。路面のグリップが低下していますからね』

 

『なるほど! では、四輪駆動勢が有利ということでしょうか!?』

 

『序盤はそうなる可能性が高いですね。ただ、これは公道レースです。コーナーの数も多いですし、雨量も場所によって変わります。単純に駆動方式だけで決まるわけではありません』

 

『ありがとうございます!』

 

 そこで田中は手元の資料へ目を落とした。

 

『さて! 今回の芦ノ湖GTでは、注目すべきニューフェイスが何人も登場しています!』

 

 画面が切り替わる。

 

 映し出されたのは、ゼッケン283。

 

 ターコイズグリーンのシボレー・カマロSSだった。

 

『その中でも、今回ぜひご紹介したいのが、この男です!!』

 

 モニターに選手情報が表示される。

 

【No.283】

 

【BENJAMIN RIVINGTON】

 

【CHEVROLET CAMARO SS】

 

【QUALIFYING POSITION:7th】

 

『アメリカ合衆国出身! 十九歳の若きレーシングドライバー! ベンジャミン・リヴィントン!!』

 

 世界中の視聴者へ、田中の声が響く。

 

『今回、予選七番手という素晴らしい結果を残した彼ですが、実はその経歴が非常に興味深いんです!』

 

『ほう』

 

 池田が反応する。

 

『私も予選で彼の走りを見て、只者ではないと思っていました』

 

『そうなんです! そこで今回、我々はアメリカの関係者へ独自取材を敢行しました!!』

 

 画面には、ベンジャミンの過去のレーシングキャリアを紹介する映像と資料が表示された。

 

『なんと彼は、わずか五歳でクォーターミジェットに乗り始めたというんです!』

 

『五歳ですか』

 

『ええ! そして、幼少期から数々のタイトルを獲得! その後、十四歳からはUSFジュニアなどのフォーミュラ系カテゴリーと、NASCARにつながるストックカーレースの世界へ進んでいます!』

 

 田中の声が、さらに熱を帯びる。

 

『しかも、驚くべきことに!!』

 

 一拍。

 

『彼は、その両方で優勝経験を持っているというんです!!』

 

『……なるほど』

 

 池田が感心したように頷いた。

 

『それなら、予選で見せたあの走りにも納得がいきますね』

 

『と、いいますと!?』

 

『彼のドライビングは、かなり独特でした』

 

 モニターに、予選でのカマロの走行映像が流れる。

 

『まず、ブレーキングです』

 

 映像がスローモーションになる。

 

 重いカマロがコーナーへ進入する。

 

『車重があるぶん、制動距離は長くなりがちです。ですが彼は、ブレーキを非常に上手く使っている』

 

『ほう!』

 

『進入で荷重を前輪に移し、そこからコーナーの奥へ向かって丁寧に減速している。いわゆるトレイルブレーキングですね』

 

 画面のカマロが、コーナーの頂点へ向かって鋭く向きを変える。

 

『さらに、ダイヤモンドラインも使っていました』

 

『ダイヤモンドライン!』

 

『ええ。コーナーの中でいったん向きを変え、立ち上がりで加速できる姿勢を早めに作る走り方です。重量級のFR車にとって、とても合理的な技術ですよ』

 

 続いて、カマロのリアがわずかに流れる映像。

 

『そして、スロットルステア』

 

『アクセルでマシンの向きを変える技術ですね!?』

 

『そうです。彼はアクセルワークで後輪のスリップ量を調整している。ストックカーレースで培った感覚が、ここでも活きているんでしょう』

 

 池田は腕を組む。

 

『ただし、今日のような雨では話が変わります。大排気量エンジンの強烈なトルクは、簡単にリアタイヤを滑らせてしまう。彼がこの状況にどう対応するか、非常に興味がありますね』

 

『なるほど!!』

 

 田中は頷いた。

 

 そして。

 

『さて! ここでもう一つ、驚きの情報があります!!』

 

 その声に、池田が顔を向ける。

 

『実は、このベンジャミン・リヴィントンという選手! とあるドライバーと、非常に深い関係にあることが判明しました!!』

 

『深い関係、ですか?』

 

『ええ! 皆さんも、リヴィントンという姓に聞き覚えがあるのではないでしょうか!?』

 

 画面が切り替わる。

 

 ライトニングレッドのトヨタ86GT。

 

 ゼッケン86。

 

【KANATA KATAGIRI】

 

『そうです!! 前戦、小田原パイクスピークで奇跡の走りを披露した、片桐カナタ!!』

 

 田中の声が一段と大きくなる。

 

『実は、片桐カナタの本名はカナタ・リヴィントン! そして――!!』

 

 画面には、二人の顔写真が並んで表示された。

 

『ベンジャミン・リヴィントンと片桐カナタは、なんと従兄弟同士だったのです!!』

 

『……なんと』

 

 池田も驚いた様子を見せる。

 

『それは初耳ですね』

 

『今回の取材で確認が取れました! 二人の母親は姉妹であり、幼少期から交流があったそうです!!』

 

 田中はさらに続けた。

 

『ちなみに、ベンジャミン選手の本名はベンジャミン・フィッツロイ! MFGには母方の姓であるリヴィントンを使用して登録しています!』

 

『なるほど。そういうことだったんですね』

 

『つまり!!』

 

 田中が力強く言い放つ。

 

『イギリスでドライビングを学んだ片桐カナタ! そして、アメリカのモータースポーツで腕を磨いたベンジャミン・リヴィントン!!』

 

 画面には、二人の予選走行が交互に映し出される。

 

『まったく異なるレース文化の中で育った二人の若き才能が、この日本で再会し、同じMFGの舞台に立っているのです!!』

 

『面白いですね』

 

 池田が微笑んだ。

 

『二人とも、若くして非常に高い技術を身につけている。しかも、まったく違う走り方をする』

 

『おお!』

 

『片桐選手は、軽量な86の特性を活かした、非常に繊細で正確なドライビングです。一方、ベンジャミン選手は大柄なカマロを巧みに操り、パワーを積極的に使っている』

 

『まさに対照的!!』

 

『ええ。この二人が同じコースでどんな走りを見せるのか、楽しみですね』

 

 田中は大きく頷いた。

 

『ありがとうございます!!』

 

 そして、さらに声を張り上げる。

 

『さあ!! アメリカからやってきた若き雷鳴!! ベンジャミン・リヴィントン!!』

 

 ターコイズグリーンのカマロが、雨の中をゆっくりと進む。

 

『果たして、この重厚なアメリカン・マッスルカーで、どのような走りを披露してくれるのでしょうか!?』

 

     ◇

 

「……へえ」

 

 カマロの運転席。

 

 ベンジャミンは、片耳のヘッドセット越しにメイの声を聞いていた。

 

『ベン。今、実況であなたの経歴が紹介されているわよ』

 

「マジで?」

 

『ええ。アメリカで取材までしたらしいわ』

 

「ハハッ! そいつはありがたい!」

 

 ベンジャミンは楽しそうに笑った。

 

「ついに俺のすごさが日本中に知れ渡っちまったか!」

 

『……あなた、本当に変わらないわね』

 

「何が?」

 

『その自信過剰なところ』

 

「自信があるのはいいことだろ?」

 

『限度というものがあるのよ』

 

 メイはため息をついた。

 

 そして、少しだけ声の調子を変える。

 

『……それと』

 

「ん?」

 

『あなたとカナタの関係も紹介されたわ』

 

「……ああ」

 

 ベンジャミンの笑みが、少しだけ柔らかくなった。

 

「そっか」

 

『それから、登録名のことも』

 

「……」

 

 ほんの一瞬。

 

 ベンジャミンの表情から、笑みが消えた。

 

 だが、それはすぐに戻った。

 

「別に、隠してるわけじゃねえしな」

 

『……そうね』

 

 それ以上、メイは何も言わなかった。

 

 ベンジャミンも、何も聞かなかった。

 

 今の彼にとって重要なのは、名前ではない。

 

 この場所で。

 

 あのカナタと一緒に。

 

 レースをすること。

 

 ただ、それだけだった。

 

「……ところで姉貴」

 

『何?』

 

「カナタは?」

 

『十番手のグリッドにいるわよ』

 

「そっか」

 

 ベンジャミンはルームミラーを確認した。

 

 雨粒に滲む後方の景色。

 

 その向こうに、ライトニングレッドの86が見えた。

 

「……ヘヘッ」

 

『何を笑っているの?』

 

「いや、別に」

 

 ベンジャミンは前を向いた。

 

「ちょっと、楽しくなってきただけだ」

 

     ◇

 

 その頃。

 

 ゼッケン86のトヨタ86GT。

 

 片桐カナタもまた、雨に濡れるコースを静かに見つめていた。

 

『カナタ、路面がかなり悪いみたいだ』

 

 片耳のヘッドセットから、緒方の声が聞こえる。

 

『予選と比べてグリップも落ちてる。無理はしないでくれよ』

 

「はい、緒方さん」

 

 カナタは穏やかに答えた。

 

「大丈夫です」

 

『……本当に?』

 

「ええ」

 

 そして、微笑む。

 

「僕は、雨が嫌いじゃありませんから」

 

『……そうか』

 

 緒方は少しだけ安心したようだった。

 

 カナタは前方を見つめる。

 

 十番手スタート。

 

 その三つ前には、見慣れたターコイズグリーンの車体があった。

 

「……ベン」

 

 小さく、その名を呟く。

 

 幼い頃、一緒に遊んだ従兄弟。

 

 いつも元気で、騒がしくて。

 

 何かあるたびに自信満々で。

 

 そして、誰よりも車が好きだった少年。

 

 そんな彼が、今は同じレースのスターティンググリッドにいる。

 

 しかも、予選では自分より上位。

 

 カナタの口元が、わずかに上がった。

 

「……負けないよ」

 

 その声は、誰にも届かなかった。

 

     ◇

 

『さあ!! 全車、スターティンググリッドへの整列が完了しました!!』

 

 田中洋二の声が響く。

 

『ポールポジションは、ミハイル・ベッケンバウアー!!』

 

 白いポルシェが映し出される。

 

『そして二番手には、芦ノ湖GTから参戦した沢渡光輝!!』

 

 青いアルピーヌA110。

 

 かつてベンジャミンを箱根の峠で置き去りにした、あの車だった。

 

『三番手には昨年度チャンピオン、石神風神!!』

 

 次々と上位グリッドが紹介される。

 

 そして。

 

『七番手! ベンジャミン・リヴィントン!!』

 

 画面にカマロが映る。

 

『十番手! 片桐カナタ!!』

 

 ライトニングレッドの86。

 

『さあ!! いよいよスタートです!!』

 

 雨が降り続ける。

 

 ワイパーが動く。

 

 エンジンの回転数が上がる。

 

 そして――。

 

 スタートシグナルが、順番に点灯していく。

 

 ひとつ。

 

 ふたつ。

 

 みっつ。

 

 よっつ。

 

 いつつ。

 

 世界中が、その瞬間を待っていた。

 

 ベンジャミンは、静かに息を吐いた。

 

「……さあ」

 

 アクセルを踏み込む。

 

 V8エンジンが、低く唸った。

 

「Let's Rock!!」

 

 ――ブラックアウト。

 

『スタアアアアアアアトッ!!』

 

 十五台のマシンが、一斉に動き出した。

 

     ◇

 

 直後。

 

『おおっと!! やはり四輪駆動勢が速い!!』

 

 田中の実況が響く。

 

 濡れた路面。

 

 スタート直後の加速。

 

 その条件では、四輪駆動車が圧倒的なトラクション性能を発揮する。

 

 各車が水しぶきを巻き上げながら、ポジションを争っていた。

 

 そして、七番手からスタートしたベンジャミンも――。

 

「おおっと……!」

 

 カマロのリアタイヤが、わずかに空転した。

 

 ベンジャミンは即座にアクセルを戻す。

 

「……やっぱり、食いつかねえ!」

 

 6.2リッターV8。

 

 最高出力453馬力。

 

 その強烈なトルクを、濡れた路面に伝えなければならない。

 

 だが、ここでアクセルを踏みすぎれば、リアタイヤは簡単にグリップを失う。

 

『ベン! 慎重に!』

 

「わかってる!」

 

 メイの声に答えながら、ベンジャミンは右足の動きを細かく調整した。

 

 アクセルを踏む。

 

 戻す。

 

 そして、再び踏む。

 

 リアタイヤの空転を抑えながら、巨体を前へ押し出していく。

 

「……よし!」

 

 カマロが加速する。

 

 視界の先には、何台ものマシン。

 

 そのテールランプが、雨の中で赤く滲んでいた。

 

『ベンジャミン選手、スタートでは慎重な加速を見せています!』

 

『いい判断ですね』

 

 池田が言った。

 

『あの大排気量FR車で、無理にアクセルを踏み込めば簡単にスピンします。彼はタイヤのグリップを確かめながら、加速している』

 

『なるほど!』

 

『序盤はとにかく、リズムを作ることが大切です』

 

 その言葉どおり。

 

 ベンジャミンは、焦っていなかった。

 

「……なるほどな」

 

 コーナーが近づく。

 

 ブレーキペダルへ足を移す。

 

 強く。

 

 だが、乱暴ではなく。

 

 ABSが作動する寸前の感触を探りながら、速度を落としていく。

 

 前輪に荷重が移る。

 

 ステアリングを切り込む。

 

 巨大なカマロが、ゆっくりと向きを変えた。

 

「……ハハッ」

 

 ベンジャミンが笑う。

 

「いいじゃねえか!」

 

 ステアリングの感触。

 

 タイヤから伝わる情報。

 

 そして、奥山が作り上げた足回り。

 

 この車は、予選の時よりもさらに自分の身体に馴染んでいた。

 

「サンキュー、ミスター奥山……!」

 

 小さく呟く。

 

「最高の仕事だぜ!」

 

     ◇

 

 レースは、第一セクターへ突入した。

 

 雨脚は依然として強い。

 

 各車が、普段以上に慎重なドライビングを強いられていた。

 

 そんな中。

 

『おおっと!! 片桐カナタが動いた!!』

 

 ライトニングレッドの86。

 

 十番手スタートのカナタが、前方のマシンへ襲いかかっていた。

 

『このウェットコンディションで、まったく臆することのない走り!!』

 

『彼は非常に上手いですね』

 

 池田が感心したように言う。

 

『ブレーキングの安定感が素晴らしい。濡れた路面でも、車の姿勢をほとんど乱していません』

 

 86がコーナーへ飛び込む。

 

 鋭いターンイン。

 

 そして、滑らかな立ち上がり。

 

 四輪駆動車が加速に優れる一方、カナタはコーナーで差を詰めていく。

 

 大谷。

 

 そして、テイラー。

 

 次々と前方の車へ迫る。

 

『これは面白い!! 雨の中で、片桐カナタの86が存在感を増しています!!』

 

 その映像は、別の車の運転席にも届いていた。

 

『ベン』

 

「ん?」

 

『カナタが順位を上げているわ』

 

「……へえ!」

 

 ベンジャミンが楽しそうに笑う。

 

「やるじゃねえか、カナタ!」

 

『あなたも負けていられないわね』

 

「言われなくても!」

 

 彼はアクセルを踏み込んだ。

 

「俺だって、ここからだぜ!!」

 

     ◇

 

 第一周。

 

 カマロの車内。

 

 ベンジャミンは、前方のマシンとの距離を測っていた。

 

 直線では、カマロのパワーが武器になる。

 

 しかし、コーナーでは巨体が足枷となる。

 

 特に雨の中では、その傾向が顕著だった。

 

 重い車体。

 

 大きな慣性。

 

 制動時には、どうしてもタイヤへ大きな負担がかかる。

 

「……ったく」

 

 ベンジャミンが笑う。

 

「やっぱり、簡単にはいかねえな!」

 

 フロントガラスの向こう。

 

 前走車がコーナーへ進入していく。

 

 ベンジャミンは、そのラインを見た。

 

 そして――。

 

「……そこだ」

 

 ブレーキ。

 

 荷重移動。

 

 ステアリング。

 

 コーナーの進入では、あえて少し大きく回り込む。

 

 そして、中盤で車の向きを変える。

 

 ダイヤモンドライン。

 

 立ち上がりでは、車体を可能な限り真っ直ぐにする。

 

 そこで初めて、アクセルを大きく開けた。

 

 ――グオオオオオオッ!!

 

 V8エンジンが吠える。

 

 リアタイヤが路面を掴んだ。

 

 カマロが一気に加速する。

 

『おおっと!! 283号車、立ち上がりが速い!!』

 

 田中が叫ぶ。

 

『重量級のカマロが、まるで弾丸のように飛び出していきました!!』

 

『上手いですね』

 

 池田の声にも熱がこもる。

 

『彼は車を無理に曲げようとしていません。車体の向きが変わってから、強烈なトルクを使っている』

 

『なるほど!!』

 

『しかも、アクセル操作が非常に繊細です。あれだけのトルクを、濡れた路面にしっかり伝えている』

 

 カマロは前走車へ接近する。

 

 だが、ベンジャミンは無理に飛び込まなかった。

 

「……まだだ」

 

 前方には、次のコーナー。

 

 路面には水が溜まっている。

 

 今ここで強引に並べば、接触の危険がある。

 

「……焦るな、ベン」

 

 自分に言い聞かせる。

 

 これは短距離のスプリントではない。

 

 全長25.3キロメートル。

 

 三周。

 

 合計75.9キロメートル。

 

 この条件では、わずかなミスが致命傷となる。

 

 そして何より――。

 

「……俺には、まだ武器がある」

 

 ベンジャミンはステアリングのスイッチへ視線を落とした。

 

 現在のモードはCOMPETITION。

 

 トラクションコントロールを解除しつつ、スタビリティコントロールの介入を限定した設定。

 

 アクセルによる姿勢制御と、安全性のバランスを取った状態だ。

 

「……これで十分だ」

 

 無理にFULL OFFへ切り替える必要はない。

 

 今は、雨の路面を知ること。

 

 そして、レースの流れを掴むこと。

 

 それが優先だった。

 

     ◇

 

 第一周の後半。

 

 上位グループでは、激しい攻防が続いていた。

 

 ベッケンバウアー。

 

 沢渡光輝。

 

 そして、後続のハイパワーマシンたち。

 

 雨の中でも、そのスピードは衰えない。

 

『首位争いも熾烈です!! ベッケンバウアーのポルシェに、沢渡のアルピーヌが食らいついています!!』

 

 青いアルピーヌA110。

 

 その軽量な車体は、雨のワインディングで驚異的な動きを見せていた。

 

 そして、その映像を見たベンジャミンは――。

 

「……沢渡」

 

 小さく呟いた。

 

 思い出すのは、あの日の箱根。

 

 青いアルピーヌに追いつこうと、必死にカマロを走らせた。

 

 だが、結局追いつけなかった。

 

 軽量な車体。

 

 鋭いターンイン。

 

 そして、沢渡自身の高い技術。

 

 あの時は、完全にしてやられた。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンの口元が上がる。

 

「やっぱり、すげえな」

 

『ベン?』

 

「ああ、何でもねえ」

 

 彼は前を向いた。

 

「……いつか、絶対に追いついてやる」

 

 今すぐでなくてもいい。

 

 まずは、目の前の相手だ。

 

     ◇

 

 そして、レースは第二周へ突入する。

 

『さあ!! 先頭集団が二周目に入りました!!』

 

 田中の実況が響く。

 

『雨は依然として降り続いています! 各車、非常に難しいコンディションでの戦いを強いられています!!』

 

 その直後だった。

 

 デスエリア。

 

 火山灰が堆積した、恐怖のスリッピートラップ。

 

 そこで、トップ争いが一気に動いた。

 

『沢渡が来たあああああっ!!』

 

 青いアルピーヌが、白いポルシェへ肉薄する。

 

 火山灰。

 

 雨水。

 

 極端に低下したグリップ。

 

 その危険な路面で、沢渡は大胆に勝負を仕掛けた。

 

『信じられません!! この場所で仕掛けるのか、沢渡光輝!!』

 

 ベッケンバウアーも簡単には譲らない。

 

 二台のマシンが、ほとんど接触するような距離でコーナーへ飛び込む。

 

 そして――。

 

『抜いたああああああっ!!』

 

 青いアルピーヌが前へ出る。

 

『沢渡光輝!! ベッケンバウアーをかわして、ついにトップへ躍り出ました!!』

 

 実況ブースが沸いた。

 

『恐ろしいですね……』

 

 池田が、感嘆の声を漏らす。

 

『あの路面で、あれほど正確にマシンを操れるとは』

 

 ベンジャミンもまた、その報告を聞いていた。

 

『ベン。沢渡がトップになったそうよ』

 

「……ハッ!」

 

 思わず笑い声が漏れた。

 

「マジかよ!」

 

『ええ。デスエリアでベッケンバウアーを抜いたって』

 

「……最高だぜ、あいつ!」

 

 ベンジャミンの胸が高鳴る。

 

 かつて自分を置き去りにした、青いアルピーヌ。

 

 そのドライバーが、今やMFGのトップを走っている。

 

「……面白え」

 

 ステアリングを握る手に、自然と力が入った。

 

「このレース、面白すぎるぜ!!」

 

     ◇

 

 だが、その頃。

 

 レースは別の意味でも荒れ始めていた。

 

 雨に濡れた路面で、次々とマシンが姿勢を乱す。

 

 特に、火山灰が堆積したデスエリア。

 

 その危険性は、予選とは比較にならなかった。

 

『おおっと!! 大石代吾のランボルギーニが!!』

 

 画面に映し出されたのは、ゼッケン3。

 

 ランボルギーニ・ウラカン。

 

 その車体が大きく乱れ、コースから外れていく。

 

『コースアウト!! 大石がコースアウトです!!』

 

 雨水を含んだ火山灰。

 

 極端に低下した摩擦係数。

 

 一度グリップを失えば、強力な四輪駆動システムでもどうにもならない。

 

『これは厳しい!! 大石代吾、ここでリタイアとなる模様です!!』

 

 田中の声が響く。

 

 その報告を聞きながら、ベンジャミンは視線を前方へ固定していた。

 

「……なるほどな」

 

 ステアリングを微調整する。

 

「こりゃ、油断したら終わりだ」

 

 フロントタイヤが、わずかに滑る。

 

 ベンジャミンは即座にアクセルを戻した。

 

 そして、進入速度を落とす。

 

 ここでは無理をしない。

 

 予選で学んだことがある。

 

 どれだけ速いマシンでも、グリップがなければ前には進めない。

 

「……よし」

 

 ステアリングのスイッチを操作する。

 

 COMPETITIONから、NORMALへ。

 

 電子制御を積極的に介入させる設定。

 

 パワーよりも、安定性を優先する。

 

『ベン、どう?』

 

「大丈夫だ!」

 

 ベンジャミンは答える。

 

「この区間は慎重に行く!」

 

『ええ。それでいいわ』

 

 カマロが、滑りやすい路面を進んでいく。

 

 アクセルを開けようとすると、電子制御がトルクを抑える。

 

 当然、加速は鈍くなる。

 

 だが、それでいい。

 

 ここでスピンすれば、すべてが終わる。

 

 ベンジャミンは、目先の加速よりも確実な通過を選んだ。

 

 そして。

 

「……抜けた!」

 

 デスエリアを脱出する。

 

 前方には、比較的グリップのある路面。

 

 ベンジャミンは再びモードを切り替えた。

 

 COMPETITION。

 

 そして――。

 

「……さあ!」

 

 アクセルを踏み込む。

 

 V8エンジンが、再び咆哮した。

 

「ここからだぜ!!」

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 ライトニングレッドの86も、デスエリアを駆け抜けていた。

 

『片桐カナタ!! ここでも速い!!』

 

 田中が叫ぶ。

 

 前方にいた坂本雄大のアウディ。

 

 その四輪駆動車に対して、カナタは果敢に攻め込んでいた。

 

 ブレーキング。

 

 ターンイン。

 

 そして、コーナーの立ち上がり。

 

 濡れた火山灰の上でも、86は驚くほど安定している。

 

『抜いたあああっ!!』

 

 カナタが、坂本のアウディをかわす。

 

『片桐カナタ!! またしてもデスエリアでオーバーテイクを成功させました!!』

 

 池田が感心したように頷く。

 

『本当に上手いですね。彼は限界を超えないんです』

 

『限界を超えない!?』

 

『そうです。限界を正確に把握しているからこそ、ギリギリまで攻めることができる』

 

 86が、滑らかにコーナーを抜ける。

 

『しかも、その限界を見極める能力がずば抜けている。これほど路面が悪くても、ドライビングが乱れない』

 

 カナタは、淡々と前を見つめていた。

 

「……よし」

 

 そして、小さく呟く。

 

「まだ、行ける」

 

     ◇

 

 第二周も後半へ差しかかった頃。

 

 上位グループで、さらに大きな動きがあった。

 

 昨年度チャンピオン。

 

 石神風神。

 

 そのポルシェ911GT3が、赤羽海人のフェラーリから猛烈なプレッシャーを受けていた。

 

『さあ!! 三番手争いも激しい!!』

 

 フェラーリの赤い車体が、ポルシェの背後へ迫る。

 

 赤羽は、一切容赦しなかった。

 

 ブレーキングで距離を詰める。

 

 コーナーの出口でも離れない。

 

 前走車のミスを誘うように、何度もプレッシャーをかけ続ける。

 

 そして――。

 

『ああああっと!!』

 

 ポルシェの姿勢が乱れた。

 

『石神がスピン!!』

 

 雨の中。

 

 赤羽との激しい攻防。

 

 その最中に、昨年度チャンピオンが大きく順位を落とした。

 

『これは大波乱!! 昨年度チャンピオンが後退です!!』

 

 田中が叫ぶ。

 

『赤羽海人が三番手へ浮上!!』

 

 赤いフェラーリが、そのまま加速していく。

 

 そして、その後方でも。

 

 一台のマシンが、着実に順位を上げていた。

 

 ターコイズグリーン。

 

 ゼッケン283。

 

 シボレー・カマロSS。

 

『さあ!! ここで注目していただきたいのが、ベンジャミン・リヴィントンです!!』

 

 画面が切り替わる。

 

『上位勢の脱落もあり、現在五番手まで浮上しています!!』

 

『彼は非常に冷静ですね』

 

 池田が言った。

 

『周囲でこれだけアクシデントが起きているのに、自分のリズムを崩していない』

 

 確かに。

 

 ベンジャミンは、焦っていなかった。

 

 むしろ。

 

「……よし」

 

 前方のマシンを見つめる。

 

「やっと、見えてきたな」

 

 その視線の先。

 

 四番手を走る、一台のスポーツカー。

 

 ホンダNSX。

 

 ドライバーは、前園和宏。

 

 高性能な二輪駆動システムを持つ、日本のスーパースポーツだった。

 

「……NSXか」

 

 ベンジャミンの口元が上がる。

 

「いいねえ……!」

 

 前園のNSXは速かった。

 

 特に、立ち上がり。

 

 二輪駆動のトラクションを活かし、濡れた路面でも安定して加速していく。

 

 だが――。

 

「……なるほど」

 

 ベンジャミンは、何度かコーナーを走るうちに気づいた。

 

 NSXの強み。

 

 そして、弱み。

 

「……そういうことか」

 

 コーナー進入。

 

 前園がブレーキを踏む。

 

 NSXの車体が沈み込み、滑らかに旋回する。

 

 続いて、カマロ。

 

 ベンジャミンは少し早めに減速を開始した。

 

 しかし、そこで終わらない。

 

 ブレーキを残しながら、車体の向きを変える。

 

 そして、前園よりも早いタイミングでステアリングを戻し始めた。

 

「……よし」

 

 アクセルを開ける。

 

 V8エンジンが唸る。

 

 カマロが、コーナーの出口で鋭く加速した。

 

『おおっと!! 283号車が前園に迫る!!』

 

 田中が叫ぶ。

 

『これは速い!! コーナーの立ち上がりで、NSXとの距離が一気に縮まりました!!』

 

『いいですね』

 

 池田の声が弾む。

 

『前園選手はうまくトラクションを使っていますが、ベンジャミン選手はコーナーの旋回を早く終わらせて、加速する時間を長く取っています』

 

『なるほど!!』

 

『ダイヤモンドラインが、非常に上手く機能しています』

 

 画面には、二台のマシン。

 

 前園のNSX。

 

 そして、その背後へ迫るカマロ。

 

『これは面白い!! 日本のスーパースポーツと、アメリカン・マッスルカーの対決です!!』

 

     ◇

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは笑っていた。

 

「いいじゃねえか、NSX!」

 

 前園の走りは安定していた。

 

 ブレーキング。

 

 ターンイン。

 

 立ち上がり。

 

 どれも高いレベルでまとまっている。

 

 簡単に抜ける相手ではない。

 

 だが、それがいい。

 

「……こういうのを待ってたんだよ!」

 

 コーナーが近づく。

 

 前園がブレーキ。

 

 ベンジャミンもブレーキ。

 

 しかし、カマロの方がわずかに遅い。

 

『おおっと!! カマロが突っ込む!!』

 

 田中が叫ぶ。

 

 だが。

 

『……いや、違いますね』

 

 池田が口を開く。

 

『彼は、最初からあのラインを狙っています』

 

 カマロはNSXの後方から、わずかに外側へラインを変えた。

 

 そして、前園よりも少し大きな弧を描いてコーナーへ進入する。

 

 前輪に荷重を乗せる。

 

 ステアリングを切り込む。

 

 車体が向きを変える。

 

 その瞬間。

 

「……NOW!!」

 

 ベンジャミンがアクセルを踏んだ。

 

 ――グオオオオオオオッ!!

 

 V8の咆哮。

 

 リアタイヤが路面を掴む。

 

 カマロが、鋭く加速を開始した。

 

 前園もアクセルを踏む。

 

 NSXが立ち上がる。

 

 しかし――。

 

『おおおおっと!!』

 

 二台が並ぶ。

 

 カマロのノーズが、NSXの横へ出た。

 

『283号車が並んだあああっ!!』

 

 ベンジャミンはアクセルを緩めない。

 

 もちろん、無理に全開へ踏み込んでいるわけではない。

 

 リアタイヤのグリップを感じながら、限界ぎりぎりまでトルクをかけていく。

 

 僅かなホイールスピン。

 

 それを右足で抑える。

 

 そして。

 

「……行けええええっ!!」

 

 カマロが、前へ出た。

 

『抜いたああああああっ!!』

 

 田中の絶叫が響く。

 

『ベンジャミン・リヴィントン!! 前園和宏のNSXをオーバーテイク!!』

 

 画面には、ターコイズグリーンのカマロ。

 

 その背後に、前園のNSX。

 

『四番手へ浮上です!!』

 

 実況ブースが沸いた。

 

『素晴らしいですね!』

 

 池田が言う。

 

『あの重量級のカマロで、見事なオーバーテイクです!』

 

『これは驚きました!!』

 

『車の特性を非常によく理解しています。ブレーキングで姿勢を作り、コーナーの出口で勝負した。あの加速は、大排気量エンジンのトルクを最大限に活かしていますね』

 

 田中が興奮したように叫ぶ。

 

『これぞアメリカン・マッスル!! 雨の箱根に、V8エンジンの雷鳴が轟いています!!』

 

     ◇

 

「YEAAAAAAAH!!」

 

 カマロの運転席。

 

 ベンジャミンが歓声を上げた。

 

「どうだあああっ!!」

 

『ベン!!』

 

 メイの声が飛ぶ。

 

『喜ぶのはいいけど、まだレース中よ!』

 

「わかってるって!!」

 

『前方との差はまだ大きいわ。無理に追わないで』

 

「OK!」

 

 ベンジャミンは笑った。

 

「でも、四番手だぜ!?」

 

『ええ。見事だったわ』

 

「だろ!?」

 

『……だからこそ、落ち着いて』

 

「Yes, ma'am!」

 

 メイは小さくため息をついた。

 

 しかし、その口元には笑みが浮かんでいた。

 

 予選七番手。

 

 初めてのMFG。

 

 しかも雨の決勝。

 

 その条件で、四番手。

 

 十分すぎるほどの走りだった。

 

 だが。

 

 メイには、ひとつ気になることがあった。

 

 モニターを確認する。

 

 四番手。

 

 ベンジャミン。

 

 五番手。

 

 前園。

 

 そして――。

 

 六番手。

 

 片桐カナタ。

 

「……あら」

 

 メイは目を細めた。

 

「面白いことになってきたわね」

 

     ◇

 

 その頃。

 

 ライトニングレッドの86は、前園のNSXを追っていた。

 

 そのさらに前方には、ターコイズグリーンのカマロ。

 

「……ベン」

 

 カナタは小さく呟いた。

 

 予選では、自分より三つ上。

 

 そして、決勝でも。

 

 ベンジャミンは先に四番手へ到達した。

 

「……すごいな」

 

 その声には、純粋な感心があった。

 

 だが、それだけではない。

 

 カナタの表情が、少しだけ変わる。

 

「……でも」

 

 ステアリングを握り直す。

 

「僕だって、負けるつもりはないよ」

 

『カナタ?』

 

 緒方の声が聞こえる。

 

「はい」

 

『どうした?』

 

「……いえ」

 

 カナタは穏やかに答えた。

 

「ベンが、前園さんを抜いたみたいですね」

 

『あ、ああ! そうなんだよ!』

 

 緒方は興奮したように答える。

 

『あいつ、すごいな……! あのカマロで四番手まで上がってきたんだ!』

 

「はい」

 

 カナタは微笑んだ。

 

「さすが、ベンです」

 

 そして。

 

「……でも、僕も行きます」

 

『……え?』

 

「もっと、前へ」

 

 カナタの声は静かだった。

 

 しかし、その言葉には確かな意志があった。

 

『……ああ!』

 

 緒方も、それを感じ取った。

 

『頼むぞ、カナタ!』

 

「はい!」

 

 86のエンジンが唸る。

 

 ライトニングレッドの車体が、前園のNSXへ迫っていく。

 

     ◇

 

 レースは、第二周の終盤へと差しかかっていた。

 

 先頭を走るのは、沢渡光輝。

 

 二番手には、ミハイル・ベッケンバウアー。

 

 三番手、赤羽海人。

 

 そして。

 

 四番手、ベンジャミン・リヴィントン。

 

 五番手、前園和宏。

 

 六番手、片桐カナタ。

 

『さあ!! 上位陣の顔ぶれが大きく変わりました!!』

 

 田中洋二が叫ぶ。

 

『注目すべきは、やはり四番手のベンジャミン・リヴィントン!!』

 

 画面に映し出される、ターコイズグリーンのカマロ。

 

『予選七番手から、三つ順位を上げています!!』

 

『見事な走りですね』

 

 池田が頷く。

 

『重量級のFR車という不利な条件を、技術で補っています』

 

『しかし、背後には前園のNSX! そして片桐カナタの86も迫っています!!』

 

『ええ』

 

 池田は少しだけ笑った。

 

『面白い展開になってきましたね』

 

『と、いいますと!?』

 

『ベンジャミン選手と片桐選手は、従兄弟同士なんですよね?』

 

『そのとおりです!!』

 

『しかも、二人とも非常に高い技術を持っている。これから直接対決になる可能性も十分にあります』

 

 田中の声が弾む。

 

『なるほど!! それは見逃せません!!』

 

 画面には、三台のマシン。

 

 カマロ。

 

 NSX。

 

 86。

 

 まったく異なる設計思想を持つ三台が、雨の箱根を駆け抜けていた。

 

     ◇

 

「……ふう」

 

 ベンジャミンは、小さく息を吐いた。

 

 四番手。

 

 悪くない。

 

 いや、上出来と言っていい。

 

 だが――。

 

「……まだまだだな」

 

 視線の先。

 

 三番手の赤羽が走っている。

 

 フェラーリ488GTB。

 

 その赤い車体は、まだ遠い。

 

「……あいつも速えな」

 

 ベンジャミンは笑った。

 

 世界中から集まった強豪たち。

 

 その中で、たった四番手までしか上がれていない。

 

 いや。

 

 初めてのMFGで四番手まで上がれた。

 

 どちらの考え方もできる。

 

 だが、ベンジャミンが選んだのは――。

 

「……もっと上だ」

 

 その一言だった。

 

 どれほどの相手がいようと。

 

 どれほど難しいコースだろうと。

 

 目指す場所は、いつだって同じ。

 

 一番前。

 

 ただ、それだけだ。

 

『ベン』

 

「ん?」

 

『そろそろ二周目が終わるわ』

 

「ああ」

 

『残り一周。ここからが本当の勝負よ』

 

 ベンジャミンは頷いた。

 

「……わかってる」

 

 そして。

 

「ところで、姉貴」

 

『何?』

 

「カナタは?」

 

『……六番手よ』

 

「……へえ」

 

 ベンジャミンの口元が上がる。

 

「やっぱり、来たか」

 

『あなたの後ろには前園のNSXがいるわ。そのさらに後ろがカナタ』

 

「……なるほど」

 

 ベンジャミンは笑った。

 

「じゃあ、そろそろだな」

 

『……何が?』

 

「カナタとの勝負だよ」

 

 メイは、一瞬だけ黙った。

 

 そして、笑う。

 

『……そうね』

 

「ああ」

 

 ベンジャミンは前を向いた。

 

「楽しみだぜ」

 

     ◇

 

 やがて、先頭集団が最終周へ突入した。

 

『さあああっ!! ファイナルラップです!!』

 

 田中の声が響き渡る。

 

『芦ノ湖GT!! 残すところ、あと一周となりました!!』

 

 沢渡。

 

 ベッケンバウアー。

 

 赤羽。

 

 ベンジャミン。

 

 前園。

 

 カナタ。

 

 それぞれのドライバーが、それぞれの思惑を胸に走っていた。

 

 残り25.3キロメートル。

 

 この一周で、すべてが決まる。

 

 だが――。

 

 その時。

 

 箱根の空に、ある変化が起こり始めていた。

 

 先ほどまで降り続いていた雨。

 

 その勢いが、少しずつ弱くなっていたのだ。

 

 ぽつり。

 

 ぽつり。

 

 フロントガラスに当たる雨粒が、徐々に減っていく。

 

「……ん?」

 

 ベンジャミンはワイパーの動きを見た。

 

「雨……弱くなってる?」

 

『そうみたいね』

 

 メイが答える。

 

『雨雲が移動しているらしいわ』

 

「……なるほど」

 

 ベンジャミンは前を向いた。

 

 雨が止めば、路面の状態も変わる。

 

 ウェットから、徐々にドライへ。

 

 それならば、カマロの大排気量エンジンも使いやすくなる。

 

「……いいじゃねえか」

 

 彼は笑った。

 

「ようやく、俺のカマロが本気を出せるってわけだ!」

 

 だが。

 

 彼はまだ知らなかった。

 

 この箱根において。

 

 雨が止むということが、必ずしも幸運を意味するわけではないということを。

 

     ◇

 

 芦ノ湖スカイライン。

 

 山肌を覆っていた雨雲が、ゆっくりと流れていく。

 

 そして。

 

 雨が弱まるにつれて、路面から白い靄が立ち上り始めた。

 

 最初は、ほんのわずかだった。

 

 だが、その白い靄は。

 

 時間が経つにつれて、次第に濃くなっていく。

 

 山の斜面。

 

 木々の隙間。

 

 そして、道路の向こう側。

 

 周囲の景色が、ゆっくりと白に染まり始めていた。

 

 ――霧。

 

 箱根では、決して珍しくない気象現象。

 

 しかし。

 

 その場所が、MFGのレースコースであるならば。

 

 話はまったく別だった。

 

 実況ブース。

 

 コース上のカメラ映像を確認していた田中が、異変に気づく。

 

『……おや?』

 

 モニターに映し出された山岳区間。

 

 その奥が、白く霞んでいる。

 

『これは……』

 

 田中の声が、わずかに変わった。

 

『皆さん! ご覧ください!!』

 

 画面が切り替わる。

 

 そこには、濃い霧に包まれ始めた芦ノ湖スカイラインの姿があった。

 

『これは一体……!?』

 

 池田が、静かに口を開いた。

 

『……まずいですね』

 

『池田さん!?』

 

『雨が止んだことで、霧が発生し始めています』

 

『霧……ですか!?』

 

『ええ。しかも、この場所で……』

 

 池田の表情が険しくなる。

 

『これから、視界が急激に悪化する可能性があります』

 

 田中が、モニターを凝視する。

 

 白い霧。

 

 濡れた路面。

 

 そして。

 

 その先に待ち受ける、デスエリア。

 

『……まさか』

 

 田中が呟く。

 

『これは……』

 

 そして、叫んだ。

 

『芦ノ湖スカイラインに、濃霧が発生しています!!』

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 ゼッケン86。

 

 片桐カナタは、前方の景色を見つめていた。

 

「……あれ?」

 

 雨が止み始めている。

 

 それだけではない。

 

 コースの先。

 

 山肌を覆う白いもの。

 

 霧。

 

 カナタは、それを見た。

 

 そして――。

 

「……なるほど」

 

 その表情が、わずかに変わった。

 

『カナタ?』

 

 緒方の声。

 

『どうした?』

 

「……緒方さん」

 

『ん?』

 

「霧が、出てきましたね」

 

『……あ、ああ』

 

 緒方もモニターを確認する。

 

『そうだな……。かなり濃くなりそうだ』

 

「……はい」

 

 カナタは静かに頷いた。

 

 そして、前方を見つめる。

 

 霧。

 

 視界の悪化。

 

 そして、箱根の山道。

 

 その組み合わせは、彼にある記憶を呼び起こさせていた。

 

 かつて。

 

 別の箱根のコースで経験した、あの出来事。

 

 カナタは、小さく息を吐く。

 

 その表情に、恐怖はなかった。

 

 むしろ――。

 

 何かを確信したような、静かな微笑みが浮かんでいた。

 

     ◇

 

 一方。

 

 四番手を走るカマロ。

 

 ベンジャミンもまた、前方の異変に気づいていた。

 

「……おいおい」

 

 フロントガラスの向こう。

 

 景色が、少しずつ白くなっていく。

 

「……霧か?」

 

『ベン』

 

 メイの声が、わずかに緊張していた。

 

『前方の山岳区間で、濃い霧が発生しているわ』

 

「……ああ」

 

『視界がかなり悪くなる可能性がある。気をつけて』

 

「わかってる」

 

 ベンジャミンは頷いた。

 

 そして。

 

「……ハハッ」

 

 小さく笑った。

 

『……ベン?』

 

「いや……」

 

 その目が、前方を見据える。

 

「雨の次は霧かよ」

 

 濡れた路面。

 

 火山灰。

 

 視界不良。

 

 次から次へと、難題が押し寄せてくる。

 

 だが。

 

 それでも。

 

「……面白え」

 

 ベンジャミンは、笑っていた。

 

「ほんっと……このレース、最高だぜ!!」

 

 6.2リッターV8。

 

 その咆哮が、箱根の山に響き渡る。

 

 ターコイズグリーンのカマロは、白く霞み始めたコースへと突き進んでいった。

 

 その後方には、前園のNSX。

 

 そして、さらに後ろから迫るライトニングレッドの86。

 

 三台の距離は、少しずつ縮まっていた。

 

 誰もが、まだ知らなかった。

 

 この先。

 

 白く閉ざされた山岳区間で。

 

 MFGの歴史に残る、壮絶な追い抜き劇が始まろうとしていることを。

 

 そして。

 

 その中心にいるのが――。

 

 二人の従兄弟だということを。

 

 アメリカの雷鳴。

 

 そして、イギリスで磨かれた若き才能。

 

 二つの走りが、いよいよ交錯しようとしていた。

 

 白い霧が、道路を覆っていく。

 

 箱根の山が、その姿を隠していく。

 

 まるで。

 

 これから始まる戦いを、外の世界から隔てるかのように。

 

 ――芦ノ湖スカイライン。

 

 そこに。

 

 白い悪魔が、姿を現し始めていた。

 

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