MFG GREAT ––ナスカーの刺客––   作:車っていいなって思うんすよね

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第11話「WHITE DEVIL!」

 

 ――箱根。

 

 芦ノ湖スカイライン。

 

 MFG第二戦、芦ノ湖GT。

 

 決勝レースは、ついに最終周へ突入していた。

 

 全長25.3キロメートル。

 

 三周にわたる過酷な戦いも、残すところあと一周。

 

 しかし、ここにきて箱根の山は、ドライバーたちへ新たな試練を突きつけようとしていた。

 

 雨が、止み始めたのである。

 

 先ほどまで路面を叩いていた雨粒は、徐々にその数を減らしていた。

 

 だが、路面は依然として濡れている。

 

 山の斜面から流れ込んだ雨水が、コースの至るところに残っていた。

 

 さらに、デスエリアには火山灰が堆積している。

 

 雨水を含んだ火山灰。

 

 それは、通常のウェット路面よりもはるかに厄介な存在だった。

 

 そして――。

 

 もうひとつ。

 

 ドライバーたちを苦しめる存在が、その姿を現し始めていた。

 

 白い霧。

 

 最初は、山肌を覆う薄い靄にすぎなかった。

 

 だが、時間の経過とともに濃度を増し、ついには道路全体を覆い隠してしまったのである。

 

 視界は急激に悪化していた。

 

 数十メートル先の道路すら、満足に確認できない。

 

 ましてや、次のコーナーが右なのか左なのか。

 

 それすらも、白い闇の向こう側だった。

 

 そして、この異常な状況が。

 

 MFG第二戦の順位を、大きく変えることになる。

 

     ◇

 

『さあ皆さん!! ご覧ください!!』

 

 実況担当、田中洋二。

 

 その声が、世界中へ向けて響き渡った。

 

『芦ノ湖スカイラインに、非常に濃い霧が発生しています!!』

 

 中継映像には、白く霞んだ山岳道路が映し出されていた。

 

 コース脇に配置されたカメラが、次々と映像を切り替える。

 

 しかし。

 

 そこに映っていたのは、ほとんど白一色の世界だった。

 

『これはひどい!! カメラでも、コースの先がほとんど見えません!!』

 

『かなり危険な状態ですね』

 

 解説席の池田竜次が、険しい表情で答える。

 

『路面が濡れているだけでも難しいのに、今回はデスエリアの火山灰があります。さらに、この霧ですからね』

 

『なるほど!!』

 

『ドライバーは視覚から得られる情報を大きく失います。ブレーキングポイントも、コーナーの曲率も、目で確認してからでは遅すぎる場合がある』

 

 池田はモニターを見つめた。

 

『大幅に速度を落とす以外に、安全な選択肢がなくなるでしょう』

 

『つまり、ここでは各車のペースダウンが予想されると!?』

 

『ええ。どれほど優れたドライバーでも、見えないものに対処するのは難しいですから』

 

 その言葉に、田中も頷いた。

 

 だが。

 

『……ただし』

 

 池田は、続けた。

 

『例外がいるとすれば……』

 

『例外!?』

 

『コースを、完全に頭の中へ叩き込んでいるドライバーでしょうね』

 

 その瞬間。

 

 中継映像が切り替わった。

 

 映し出されたのは――。

 

 ライトニングレッドのトヨタ86GT。

 

 ゼッケン86。

 

 片桐カナタだった。

 

     ◇

 

「……雨、止んじゃいましたね」

 

 カナタは、フロントガラスの向こうを見つめながら呟いた。

 

 それは、決して喜ばしいことではなかった。

 

 路面は、まだ濡れている。

 

 タイヤのグリップが急激に回復するわけでもない。

 

 しかし、雨が止めば路面は少しずつ乾いていく。

 

 そうなれば、再びハイパワーマシンが有利になってくる。

 

 ポルシェ。

 

 フェラーリ。

 

 そして、ベンジャミンのカマロ。

 

 どれも、86とは比較にならないパワーを持っている。

 

 今のカナタは六番手。

 

 予選十番手から四つ順位を上げていた。

 

 だが、このままではいけない。

 

 残り一周。

 

 表彰台を狙うのであれば、ここからさらに順位を上げる必要がある。

 

 そして何より。

 

 仮に前へ出ることができたとしても、その後に追い抜かれてしまっては意味がない。

 

 ハイパワーマシンが本領を発揮する前に、可能な限り大きなマージンを作る必要があった。

 

「……どうしようかな」

 

 カナタは、静かに考えていた。

 

 このまま普通に走っても、上位勢を抜くのは簡単ではない。

 

 何かが必要だ。

 

 自分だけが使える、特別な武器が。

 

 その時だった。

 

『カナタ!!』

 

 片耳のヘッドセットから、緒方の声が響いた。

 

『大変だ! この先のデスエリアに、かなり濃い霧が発生してる!!』

 

「……霧?」

 

『ああ! 中継映像じゃ、道路がほとんど見えないんだ!』

 

 緒方の声には、明らかな焦りがあった。

 

『ただでさえ滑りやすい場所なんだ! 徹底的にスピードを落として突入してくれ!』

 

「……」

 

 カナタは、少しだけ目を見開いた。

 

 霧。

 

 視界不良。

 

 そして、デスエリア。

 

 その三つの条件が、頭の中で結びつく。

 

 次の瞬間。

 

 カナタの口元に、小さな笑みが浮かんだ。

 

「……なるほど」

 

『カナタ?』

 

「……緒方さん」

 

『ん?』

 

「これは、チャンスかもしれません」

 

『…………え?』

 

 緒方は、思わず聞き返した。

 

『チャ、チャンス……?』

 

「はい」

 

 カナタは、穏やかに答える。

 

「神様が、僕にチャンスをくれたのかもしれません」

 

『……はあ!?』

 

 緒方の声が裏返った。

 

『な、何言ってるんだよカナタ! 濃霧だぞ!? 前が見えないんだぞ!?』

 

「ええ。わかっています」

 

『だったら、どうして……!』

 

「……緒方さん」

 

 カナタは、静かに言った。

 

「予選の時と同じように、お願いします」

 

『……!』

 

 その一言で、緒方は察した。

 

『……あの、ボイスカウントか!?』

 

「はい」

 

 カナタは頷いた。

 

「もう一度、お願いします」

 

 開幕戦から使ってきた、音声によるカウントダウン。

 

 この芦ノ湖GTの予選でも、二人はその作戦を実践していた。

 

 コース上の基準点を利用し、緒方が無線で前の車とのタイム差を告げる。

 

 カナタはその音声を頼りに、自分の頭の中にあるコースの映像と、実際の走行位置を一致させる。

 

 そして、視覚に頼らずブレーキングポイントを判断する。

 

 それが、ボイスカウント作戦だった。

 

『……カナタ』

 

 緒方は、恐る恐る尋ねた。

 

『まさか、あの霧の中を……?』

 

「はい」

 

 カナタは、前方を見つめた。

 

 そこには、すでに白い霧が広がり始めている。

 

「コースは、全部覚えていますから」

 

『……』

 

「緒方さんのカウントがあれば、走れます」

 

 カナタは、静かに微笑んだ。

 

「それに……」

 

『……それに?』

 

「前の車を、抜きたいんです」

 

『…………』

 

 数秒の沈黙。

 

 そして。

 

『……えええええっ!?』

 

 緒方の悲鳴が、ヘッドセットから響いた。

 

『ぬ、抜くって!? あの霧の中でか!?』

 

「はい」

 

『いやいやいや! ちょっと待ってくれよ!』

 

 緒方は、思わず頭を抱えた。

 

『普通は、あんなところで勝負なんか仕掛けないだろ!?』

 

「そうですね」

 

『だったら……!』

 

「だからこそ、チャンスなんです」

 

 カナタは、穏やかに答えた。

 

 その言葉に、緒方は何も言えなくなった。

 

 確かに。

 

 普通のドライバーならば、この濃霧では大幅に速度を落とす。

 

 ブレーキングポイントがわからない。

 

 コーナーの入口も見えない。

 

 どれほど速いマシンであっても、視界が奪われれば、その性能を発揮することは難しい。

 

 だが、カナタには違う景色が見えている。

 

 頭の中に記憶された、芦ノ湖スカイラインの映像。

 

 その道路は、どれほど霧が濃くなろうと消えることはない。

 

「まず、霧の入口でNSXを抜きます」

 

『……え?』

 

「その後は、緒方さんのカウントに合わせて走ります」

 

 カナタは続けた。

 

「それから、ベンを抜いて……」

 

『……べ、ベンジャミンも!?』

 

「はい」

 

 そして。

 

「一番霧が濃くなる場所で、フェラーリも抜きたいです」

 

『…………』

 

 緒方は、完全に言葉を失った。

 

 現在六番手。

 

 前園。

 

 ベンジャミン。

 

 赤羽。

 

 この三台を、濃霧の中でまとめて抜く。

 

 つまり。

 

 三番手まで上がるというのだ。

 

『……マジかよ……』

 

 緒方は、弱々しく呟いた。

 

『……そういうこと、サラッと言わないでくれよ……』

 

 そして、両手で顔を覆う。

 

『……こっちは、貧血起こして倒れそうだよ……』

 

「ふふっ」

 

 カナタは、小さく笑った。

 

「大丈夫です、緒方さん」

 

『……何が大丈夫なんだよ……』

 

「僕を、信じてください」

 

 緒方は、モニターを見つめた。

 

 そこには、ライトニングレッドの86。

 

 そして、前を走る三台のマシン。

 

 前園のNSX。

 

 ベンジャミンのカマロ。

 

 赤羽のフェラーリ。

 

 どれも、86よりはるかに高性能な車だった。

 

 だが。

 

 緒方は知っている。

 

 カナタが、これまで何度となく常識を覆してきたことを。

 

 そして。

 

 彼が、決して無謀なだけのドライバーではないことを。

 

『……はあ』

 

 緒方は、大きくため息をついた。

 

『……わかったよ』

 

「……!」

 

『カウントは任せてくれ』

 

 カナタの表情が、少しだけ明るくなった。

 

「ありがとうございます、緒方さん」

 

『……でも、絶対に無茶だけはするなよ……』

 

「はい!」

 

 そして。

 

 ライトニングレッドの86が、白い霧の中へ突入した。

 

     ◇

 

 五番手。

 

 前園和宏。

 

 ホンダNSX。

 

 高性能な駆動システムを搭載した、日本を代表するスーパースポーツ。

 

 しかし、この状況では、その性能を十分に発揮することができなかった。

 

「……くそっ!」

 

 前園は、歯を食いしばる。

 

 視界が悪すぎる。

 

 ブレーキングポイントを探そうとしても、目印となる景色が霧に隠れている。

 

 しかも、路面はウェット。

 

 不用意に加速すれば、たちまち危険な状況に陥る。

 

「……こんなところで、無理はできない……!」

 

 前園は、慎重にアクセルを操作していた。

 

 霧が晴れれば、再び勝負ができる。

 

 今は、それまで順位を守ればいい。

 

「……こんなところでドッグファイトを仕掛ける奴なんて、いるわけが……」

 

 その時だった。

 

 ルームミラー。

 

 白い霧の奥に、何かが見えた。

 

「……ん?」

 

 最初は、小さな光だった。

 

 だが、その光は急速に大きくなっていく。

 

 そして。

 

「……なっ!?」

 

 前園は、思わず目を見開いた。

 

 赤い車体。

 

 低いシルエット。

 

 ライトニングレッドのトヨタ86GT。

 

「……片桐!?」

 

 ありえない。

 

 どうして、こんな速度で追いついてくる。

 

 自分ですら、前方のコーナーを確認するのに苦労しているというのに。

 

 それなのに、後方の86は――。

 

 まるで、霧など存在していないかのように。

 

 滑らかに。

 

 正確に。

 

 走っていた。

 

「……くそっ!」

 

 前園はアクセルを踏み込もうとした。

 

 だが、すぐに思いとどまる。

 

 この先のコーナーが見えない。

 

 ここで無理に加速するのは危険すぎる。

 

 その一瞬の判断。

 

 それが、勝負を決めた。

 

 ――シュンッ!!

 

「……なっ!?」

 

 86が、NSXの横を駆け抜けた。

 

 次の瞬間には、すでに前方へ出ていた。

 

『抜いたああああああっ!!』

 

 田中洋二の絶叫が響く。

 

『片桐カナタ!! 濃霧の入口で前園和宏のNSXをオーバーテイク!!』

 

 順位表示が変わる。

 

【5th KANATA KATAGIRI】

 

【6th KAZUHIRO MAEZONO】

 

『五番手へ浮上です!!』

 

 池田が、唸るように言った。

 

『これはすごいですね……』

 

『池田さん!! いったい何が起きているんでしょうか!?』

 

『前園選手は安全を優先して早めに減速しました。しかし、片桐選手はコーナーの位置を正確に把握しているようです』

 

 池田はモニターを凝視した。

 

『しかも、車体の姿勢を非常に上手く作っている。あれほど滑りやすい路面で、ほとんど無駄な動きがありません』

 

『なんということでしょう!!』

 

 画面には、NSXを抜き去った86。

 

『片桐カナタ!! この濃霧の中で、驚異的な走りを見せています!!』

 

 だが。

 

 その快進撃は、まだ始まったばかりだった。

 

 

     ◇

 

 

『……なっ!?』

 

 実況ブース。

 

 田中洋二が、思わず声を漏らした。

 

『片桐カナタの86が……!!』

 

 モニターに表示される速度。

 

 そして、各車の位置情報。

 

『速い!! この濃霧の中で、片桐カナタだけがペースを落としていません!!』

 

『……これは』

 

 池田竜次も、驚きを隠せなかった。

 

 各車は視界不良によって大きく減速している。

 

 もちろん、上位ドライバーたちも例外ではない。

 

 だが、86だけは違った。

 

 無謀にアクセルを踏み込んでいるわけではない。

 

 コーナーの手前では減速している。

 

 滑りやすい路面では、慎重に操作している。

 

 しかし、そのすべてに無駄がなかった。

 

『信じられませんね……』

 

 池田が呟く。

 

『彼は、コーナーの位置を知っているとしか思えません』

 

『位置を知っている!?』

 

『ええ。視界が悪い状況では、ほとんどのドライバーが安全のために早めのブレーキングを行います。しかし、片桐選手にはその迷いが見られない』

 

 画面には、白い霧の中を走る86。

 

『彼は必要な場所で、必要なだけ減速している。しかも、ターンインのタイミングが驚くほど正確です』

 

『なんということでしょう!!』

 

 田中の声が、さらに大きくなる。

 

『これはまさに、白い闇を見通すような走り!!』

 

 そして。

 

『おおっと!! 前方にはベンジャミン・リヴィントンのカマロ!! 86が急接近しています!!』

 

     ◇

 

 四番手。

 

 ゼッケン283。

 

 シボレー・カマロSS。

 

「……チッ」

 

 ベンジャミン・リヴィントンは、前方の白い景色を睨んでいた。

 

「……こりゃ、参ったな」

 

 先ほどまで、楽しくて仕方がなかった。

 

 雨のレース。

 

 濡れた路面。

 

 滑りやすいコーナー。

 

 それらの条件を、自分の技術で攻略することに興奮していた。

 

 だが。

 

 さすがに、この霧は厄介だった。

 

「……全然見えねえ」

 

 フロントガラスの向こう。

 

 そこには、白い壁が立ちはだかっていた。

 

 数十メートル先の景色が、ほとんど確認できない。

 

 それでも、ベンジャミンは決してパニックには陥らなかった。

 

 ステアリングを握る。

 

 アクセルを戻す。

 

 ブレーキを踏む。

 

 そして、タイヤから伝わる情報を感じ取る。

 

 カマロは重量級のFR車だ。

 

 見通しの悪いコーナーへ、強引に飛び込むわけにはいかない。

 

 ましてや、ここはデスエリア。

 

 火山灰が堆積した、極端に滑りやすい路面である。

 

「……仕方ねえ」

 

 ベンジャミンは、ステアリングのスイッチを操作した。

 

 COMPETITION。

 

 そこから、NORMALへ。

 

 トラクションコントロールとスタビリティコントロールを積極的に介入させるモードだ。

 

「……今は、これで行く」

 

 彼は、静かに息を吐いた。

 

 パワーを使い切れないことは、悔しい。

 

 だが、それ以上に重要なのは、コースアウトしないことだった。

 

『ベン』

 

 メイの声が聞こえる。

 

『霧の状況はどう?』

 

「最悪だな!」

 

『……でしょうね』

 

「マジで真っ白だぜ。何も見えやしねえ!」

 

『無理しないで。今は順位を守ることを優先して』

 

「ああ!」

 

 ベンジャミンは頷いた。

 

「わかってる!」

 

 そして、笑った。

 

「こんなところでリタイアなんて、冗談じゃねえからな!」

 

『……ええ』

 

 メイは安堵した。

 

 少なくとも、弟は冷静だ。

 

 豪快で、調子に乗りやすくて。

 

 レースになると、すぐに熱くなる。

 

 だが、危険な状況で無謀な判断をするほど、ベンジャミンは愚かではない。

 

 彼には、アメリカで積み重ねてきた経験がある。

 

 その経験が、今も確かに生きていた。

 

 しかし。

 

『……あら?』

 

 メイは、モニターを見て目を細めた。

 

 五番手。

 

 片桐カナタ。

 

 そして、その位置情報が。

 

 四番手のカマロへ、急速に接近していた。

 

『……ベン』

 

「ん?」

 

『後ろから、来ているわよ』

 

「……誰が?」

 

 メイは、少しだけ笑った。

 

『カナタよ』

 

「……」

 

 一瞬。

 

 ベンジャミンの表情が固まった。

 

 そして。

 

「……ハッ!」

 

 口元が、大きく吊り上がった。

 

「マジかよ!!」

 

     ◇

 

 白い霧の中。

 

 カナタは、次の目標を捉えていた。

 

 ターコイズグリーン。

 

 大柄な車体。

 

 そして、太いエキゾーストノート。

 

 シボレー・カマロSS。

 

 ゼッケン283。

 

「……ベン」

 

 カナタは、微笑んだ。

 

 前方のカマロは、慎重に走っている。

 

 その判断が間違っているわけではない。

 

 むしろ、この状況では極めて合理的だった。

 

 重い車体。

 

 大きなトルク。

 

 極端に低いグリップ。

 

 さらに、視界不良。

 

 これほど条件が悪ければ、ベンジャミンほどのドライバーでも慎重にならざるを得ない。

 

 だが。

 

 カナタには、別の武器があった。

 

 コースの記憶。

 

 そして、それを正確に再現する能力。

 

『カナタ!』

 

 緒方の声。

 

「ラジャー」

 

 カナタの表情が、引き締まる。

 

 86が加速し、カマロとの距離が、急速に縮まっていく。

 

 前方に見える、ターコイズグリーンの車体。

 

 カナタは、その動きを観察した。

 

 カマロが減速を始める。

 

 カナタは、さらに車間を詰めた。

 

 そして。

 

 ――ギュンッ!!

 

 86が、カマロのイン側へ飛び込んだ。

 

「……なっ!?」

 

 ベンジャミンが、目を見開く。

 

 赤い車体。

 

 その動きは、あまりにも鋭かった。

 

 ターンイン。

 

 荷重移動。

 

 そして、リアタイヤが滑り始める。

 

 だが、86は破綻しない。

 

 カナタは、アクセルとカウンターステアで姿勢を維持しながら、コーナーの奥へと車体を運んでいく。

 

「……おいおい!!」

 

 ベンジャミンは、驚きながらもステアリングを保持した。

 

 これ以上ラインを狭めれば、接触しかねない。

 

 相手はカナタだ。

 

 彼の技術は信頼している。

 

 だが、だからといって無理に競り合う場面ではない。

 

 ベンジャミンは、わずかにスペースを残した。

 

 その隙間を。

 

 86が、鋭く駆け抜ける。

 

 そして。

 

 カマロの前へ出た。

 

『抜いたああああああっ!!』

 

 田中洋二の絶叫。

 

『片桐カナタ!! ベンジャミン・リヴィントンをオーバーテイク!!』

 

 順位表示が切り替わる。

 

【4th KANATA KATAGIRI】

 

【5th BENJAMIN RIVINGTON】

 

『四番手へ浮上です!!』

 

 実況ブースが沸いた。

 

『なんということでしょう!! 従兄弟同士の直接対決は、片桐カナタに軍配が上がりました!!』

 

 池田が、感心したように頷く。

 

『見事ですね……』

 

『池田さん!!』

 

『ベンジャミン選手も、非常に冷静でした。無理にラインを閉めず、接触を避けています』

 

『なるほど!』

 

『この視界では、強引な防御は危険ですからね。彼は状況をよく理解していると思います』

 

 画面には、カマロの前を走る86。

 

『ただ、それ以上に片桐選手の走りが恐ろしい。あの濃霧の中で、これほど正確にオーバーテイクを成功させるとは……』

 

 田中は、興奮を抑えられなかった。

 

『まさに驚異のドライビング!! 片桐カナタ、四番手です!!』

 

     ◇

 

「……」

 

 ベンジャミンは、目の前の86を見つめていた。

 

 今のオーバーテイク。

 

 確かに、自分は慎重に走っていた。

 

 無理に防御するつもりもなかった。

 

 それでも。

 

 あの進入速度。

 

 あの正確なターンイン。

 

 そして、あの視界でのライン取り。

 

「……ハハッ」

 

 思わず笑ってしまった。

 

「……なんだよ、それ」

 

 正直に言えば、信じられなかった。

 

 前がほとんど見えない。

 

 自分ですら、コーナーの入口を探しながら走っている。

 

 それなのに。

 

 カナタは、迷わず飛び込んできた。

 

「……お前、マジですげえな」

 

 ベンジャミンは、楽しそうに笑った。

 

「さすが、カナタだぜ!」

 

『ベン!』

 

 メイの声。

 

『カナタに抜かれたわね』

 

「ああ!」

 

『……悔しくないの?』

 

「悔しいに決まってんだろ!」

 

 ベンジャミンは即答した。

 

 そして。

 

「でもよ……」

 

 前方の86を見る。

 

 小柄な日本製スポーツカー。

 

 その赤い車体が、白い霧の向こうへ消えていこうとしている。

 

「……すげえもん見せられたら、笑うしかねえだろ?」

 

 メイは、一瞬だけ黙った。

 

 そして。

 

『……そうね』

 

 小さく笑った。

 

『あの子、本当にすごいわ』

 

「ああ!」

 

 ベンジャミンも笑う。

 

「俺の従兄弟だからな!」

 

『……あなたの方が3ヶ月年下でしょう』

 

「そこは関係ねえだろ!」

 

 そんなやり取りを交わしながらも。

 

 ベンジャミンの視線は、決して前方から離れなかった。

 

「……でもな、カナタ」

 

 小さく呟く。

 

「まだ終わっちゃいねえぞ」

 

 彼はアクセルを踏む。

 

 もちろん、無理にパワーをかけるわけではない。

 

 NORMALモードの電子制御が、タイヤの空転を抑えている。

 

 今は耐える。

 

 この霧が晴れれば。

 

 このデスエリアを抜ければ。

 

 自分にも、まだ勝負できる場所がある。

 

「……待ってろよ」

 

 ベンジャミンは笑った。

 

「次は俺の番だ!」

 

 

     ◇

 

 

『さあ!! 片桐カナタが、ついに三番手の赤羽海人へ迫っています!!』

 

 田中洋二が叫ぶ。

 

『前園のNSXを抜き!! 続いてベンジャミンのカマロを抜き!! 今度は赤羽海人のフェラーリです!!』

 

 画面には、白い霧の中で急速に接近する二台。

 

『信じられません!! この濃霧の中で、片桐カナタが怒涛の追い上げを見せています!!』

 

『……すごいですね』

 

 池田竜次も、もはや驚きを隠せなかった。

 

『ここまでくると、彼のコース記憶能力は相当なものだと考えざるを得ません』

 

『やはり、記憶しているのでしょうか!?』

 

『ええ。単純に道順を覚えているというレベルではないでしょう』

 

 池田は画面を見つめる。

 

『ブレーキングポイントやコーナーの曲率、路面の傾きまで、かなり正確に把握しているはずです』

 

『なんということでしょう!!』

 

『ただし、注意したいのは、路面の状況まで完全に把握できるわけではないということです』

 

 池田は続けた。

 

『だからこそ、彼は無理に限界を超えていない。タイヤから伝わる情報を読み取りながら、記憶したコースを走っているんです』

 

 86が、フェラーリへ接近する。

 

『見てください。あのステアリング操作を』

 

 画面に映るカナタ。

 

 その表情は、驚くほど穏やかだった。

 

『ほとんど修正舵がありません。次に何が起きるかを予測しているからこそ、必要最小限の操作で走れている』

 

 田中が息を呑む。

 

『これは……!!』

 

 そして。

 

『片桐カナタ!! 赤羽海人へ、仕掛けるのかあああっ!?』

 

 

     ◇

 

 

 ――シュンッ!!

 

 白い霧の中から。

 

 ライトニングレッドの車体が、突如として姿を現した。

 

「なっ――!?」

 

 赤羽の視界を、赤い影が横切る。

 

 それは、ほんの一瞬だった。

 

 86は、鋭く向きを変えながらフェラーリの横を駆け抜ける。

 

 リアタイヤが滑る。

 

 しかし、姿勢は乱れない。

 

 ドリフト状態のまま、正確なラインを描いていく。

 

 そして。

 

 赤羽が何かを判断するよりも早く。

 

 86は、フェラーリの前へ出ていた。

 

「…………!?」

 

 赤羽は、言葉を失った。

 

 いったい、何が起きた。

 

 今、自分の横を通り過ぎたのは何だ。

 

 確かに、赤い車が見えた。

 

 しかし。

 

 ほんの一瞬。

 

 目の前を横切ったかと思えば、次の瞬間には霧の奥へ消えていた。

 

「……何だ、今のは」

 

 赤羽は、呆然と呟いた。

 

 白い霧。

 

 その奥へ、赤い86が消えていく。

 

「……霧の中で、俺は蜃気楼でも見たのか!?」

 

 その声には、隠しきれない驚愕が滲んでいた。

 

 

     ◇

 

 

『抜いたああああああああっ!!』

 

 田中洋二の絶叫が、世界中に響き渡る。

 

『片桐カナタ!! 赤羽海人のフェラーリ488GTBをオーバーテイク!!』

 

 順位表示が変わる。

 

【3rd KANATA KATAGIRI】

 

【4th KAITO AKABA】

 

【5th BENJAMIN RIVINGTON】

 

『三番手えええええっ!!』

 

 田中は、興奮のあまり声を裏返らせた。

 

『なんということでしょう!! 片桐カナタ!! 濃霧のデスエリアで、驚異の三台抜き!!』

 

 池田が、思わず息を吐いた。

 

『……信じられませんね』

 

『池田さん!!』

 

『これは、間違いなく世界トップクラスの技術ですよ』

 

 その声には、純粋な感嘆があった。

 

『この視界で、あれほど正確に走れるドライバーがいるとは……』

 

 画面には、霧を切り裂くように走る86。

 

『単純なスピードだけではありません。路面状況への対応、ブレーキング、荷重移動、そしてコース記憶。そのすべてが、極めて高い次元で噛み合っている』

 

 田中が叫ぶ。

 

『まさに、白い悪魔!!』

 

 ライトニングレッドの86が、白い霧の向こうへ消えていく。

 

『濃霧の中から現れ、次々とライバルを抜き去っていく!! 片桐カナタ!! この男は一体どこまで我々を驚かせてくれるのでしょうか!?』

 

     ◇

 

「……ふう」

 

 カナタは、小さく息を吐いた。

 

 三番手。

 

 ついに表彰台圏内へ入った。

 

『カ、カナタ……!』

 

 緒方の声が、震えていた。

 

『す、すごいな……! もう三番手だぞ……!』

 

「はい」

 

 カナタは、穏やかに答えた。

 

「でも、まだレースは終わっていません」

 

『あ、ああ……そうだな……』

 

 緒方は、モニターを見つめる。

 

 そこには、三番手へ浮上した86の姿。

 

 そして、その後方に続くフェラーリ。

 

 さらに、カマロ。

 

『……本当に、すごいよ』

 

 緒方は、小さく呟いた。

 

 その声には、どこか呆然とした響きがあった。

 

『なんで、あんなところをあの速さで走れるんだよ……』

 

 カナタは、少しだけ笑った。

 

「緒方さんのカウントが、正確だったからですよ」

 

『……いやいや! 俺は秒数を数えてただけだから!』

 

「ふふっ」

 

 カナタは、微笑んだ。

 

 そして、前を向く。

 

 白い霧。

 

 その中を、86が走っていく。

 

 ふと、先ほど追い抜いたカマロのことを思い出した。

 

 ベンジャミン。

 

 アメリカで腕を磨いた、年下の従兄弟。

 

 予選では、自分より上位だった。

 

 決勝でも、あの大きなカマロを巧みに操り、四番手まで上がってきた。

 

 そして。

 

 今、自分はその前を走っている。

 

「……ふふっ」

 

 カナタは、小さく笑った。

 

「楽しいね、ベン」

 

 もちろん、その声が相手へ届くことはない。

 

 だが。

 

 カナタは、確かに感じていた。

 

 ベンジャミンもまた、同じ気持ちで走っているのだと。

 

     ◇

 

 その頃。

 

 五番手へ後退したカマロの車内では――。

 

「……ハハッ!」

 

 ベンジャミンが笑っていた。

 

「やりやがった!!」

 

『ベン?』

 

 メイの声。

 

『カナタが、三番手へ上がったわ』

 

「ああ!」

 

 ベンジャミンは、楽しそうに笑った。

 

「聞いてたぜ!」

 

『……本当に、すごいわね』

 

「だろ!?」

 

 ベンジャミンの声が弾む。

 

「さすが、カナタだぜ!」

 

『……あなた、自分が抜かれたのに、随分嬉しそうね』

 

「そりゃそうだろ!」

 

 彼は、即答した。

 

「俺の従兄弟が、あんなすげえ走りしてんだぜ!?」

 

 メイは、小さく笑った。

 

『……そうね』

 

「ああ!」

 

 ベンジャミンは、前方を見つめた。

 

 赤羽のフェラーリ。

 

 そのさらに前に、カナタの86。

 

 白い霧の中、二台のテールランプがわずかに見えている。

 

「……でもよ」

 

 ベンジャミンは、笑みを深めた。

 

「俺だって、負けっぱなしで終わるつもりはねえぞ」

 

『……そうでしょうね』

 

「もちろん!」

 

 彼はアクセルを踏み込もうとした。

 

 だが、すぐに右足を緩めた。

 

 まだ霧が濃い。

 

 この状態で、無理に追いかけても意味がない。

 

 それどころか、コースアウトの危険性が高まるだけだ。

 

「……もう少しだな」

 

 ベンジャミンは呟く。

 

『何が?』

 

「この霧だよ」

 

 前方の景色。

 

 ほんの少しだけ、白い濃度が薄くなっている。

 

「……もうすぐ抜ける」

 

『……そうね』

 

 メイも、コース映像を確認した。

 

 霧は、山岳区間の一部に集中していた。

 

 そこを抜ければ、視界は回復するはずだ。

 

 そして。

 

 視界が戻れば。

 

 再び、マシンの性能が勝負を左右する。

 

『……ベン』

 

「ああ」

 

 ベンジャミンは、静かに頷いた。

 

「わかってる」

 

 そして、笑う。

 

「ここからが、俺の勝負だ」

 

     ◇

 

「……くそっ!」

 

 赤羽海人は、ステアリングを強く握りしめた。

 

 四番手。

 

 先ほどまで守っていた表彰台圏内から、叩き落とされた。

 

 しかも。

 

 相手は、非力なトヨタ86。

 

 あの車に、ほとんど抵抗すらできずに抜かれたのだ。

 

「……何なんだ、あいつは」

 

 赤羽は、前方を睨んだ。

 

 だが、86の姿はすでに霧の中へ消えている。

 

 まるで、最初からそこにいなかったかのように。

 

 それが、余計に腹立たしかった。

 

「……冗談じゃねえぞ」

 

 赤羽は、歯を食いしばる。

 

「こんなところで、表彰台を諦めてたまるか!」

 

 アクセルを踏む。

 

 フェラーリのエンジンが、力強く唸った。

 

 だが、すぐにコーナーが近づく。

 

 赤羽は、再びブレーキを踏んだ。

 

「……ちっ!」

 

 前が見えない。

 

 それが、どうしようもなくもどかしかった。

 

 しかし。

 

 霧は、徐々に薄くなっている。

 

 そして、デスエリアの終わりも近づいていた。

 

 この先。

 

 路面のグリップが戻れば。

 

 フェラーリの強大なパワーが、再び武器になる。

 

 カナタの86に対しては、圧倒的な加速力の差がある。

 

「……待ってろ、片桐」

 

 赤羽は、低く呟いた。

 

「まだ勝負は終わっちゃいねえぞ」

 

 その時だった。

 

 ――グオオオオオオッ!!

 

「……ん?」

 

 背後から、低いエンジン音が聞こえた。

 

 重厚で。

 

 腹の底に響くような。

 

 独特のサウンド。

 

「……この音は」

 

 赤羽は、ルームミラーを見る。

 

 白い霧の奥。

 

 そこから、二つのヘッドライトが現れた。

 

 そして。

 

 ターコイズグリーンの車体。

 

「……チッ」

 

 赤羽は、眉をひそめた。

 

「今度は、お前か……!」

 

 ゼッケン283。

 

 シボレー・カマロSS。

 

 ベンジャミン・リヴィントン。

 

 アメリカからやってきた、若きルーキー。

 

「……次から次へと……!」

 

 赤羽は、ステアリングを握り直した。

 

「そう簡単に、抜かせるかよ!!」

 

     ◇

 

『さあ!! デスエリアの終わりが近づいてきました!!』

 

 田中洋二の声が響く。

 

『濃霧の中で、片桐カナタが驚異の三台抜きを達成!! 三番手へ浮上しています!!』

 

 画面には、86。

 

 その後方にフェラーリ。

 

 そして、カマロ。

 

『しかし!! 赤羽海人も黙ってはいません!! フェラーリ488GTBの圧倒的なパワーを武器に、86へ迫っています!!』

 

『ここからは、また別の勝負になりますね』

 

 池田竜次が答える。

 

『霧が薄くなれば、ドライバーは通常の視覚情報を取り戻します。そうなると、カナタ選手が持っていた特別な優位性は小さくなる』

 

『なるほど!!』

 

『そして、赤羽選手のフェラーリは非常にパワフルなマシンです。速度が上がる区間では、86に対して明確なアドバンテージがあります』

 

 田中が頷く。

 

『つまり!! 三番手争いは、まだ終わっていないということですね!?』

 

『ええ。むしろ、ここからが本当の勝負でしょう』

 

 池田は、モニターへ視線を向けた。

 

『……ただ』

 

『ただ!?』

 

『もう一台、気になる車がいます』

 

 画面が切り替わる。

 

 ターコイズグリーンのカマロ。

 

『……283号車です』

 

 その車体が、赤羽のフェラーリへ接近していた。

 

『おおっと!!』

 

 田中が叫ぶ。

 

『ベンジャミン・リヴィントン!! 赤羽海人のフェラーリに迫っています!!』

 

     ◇

 

「……よし」

 

 ベンジャミンは、静かに呟いた。

 

 前方の霧が、薄くなり始めている。

 

 そして、路面の感触も変わってきた。

 

 火山灰の堆積した区間から、通常の舗装路へ。

 

 もちろん、まだ路面は濡れている。

 

 だが、デスエリアに比べれば、はるかにグリップを得やすい。

 

「……いいねえ」

 

 ベンジャミンの口元が上がる。

 

「ようやく、走りやすくなってきたぜ」

 

 ステアリングのスイッチ。

 

 NORMAL。

 

 そこから――。

 

 COMPETITION。

 

 トラクションコントロールを解除し、スタビリティコントロールの介入を限定する。

 

 ベンジャミンは、アクセルへ足を乗せた。

 

「……さあ」

 

 右足に、少しずつ力を込める。

 

 6.2リッター自然吸気V8。

 

 453馬力。

 

 その強烈なトルクが、後輪へ伝わっていく。

 

 ――グオオオオオオッ!!

 

 エンジンが、吠えた。

 

 カマロが加速する。

 

 前方には、赤羽のフェラーリ。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、笑った。

 

「なかなかいいマシーンじゃねえか」

 

 だが。

 

「……まずは、様子見だな」

 

 ベンジャミンは、アクセルを調整した。

 

 赤羽は、間違いなくカナタを狙っている。

 

 霧の中で奪われた三番手。

 

 それを取り返そうとしているのだ。

 

 ならば。

 

「……ちょうどいい」

 

 ベンジャミンは、笑った。

 

「しばらく、後ろから見せてもらうぜ」

 

 赤羽がここからは見えないカナタを追いかける。

 

 そして追いついたタイミングでの勝負で、二台のラインが変わる。

 

 あるいは、どちらかがわずかに失速する。

 

 その瞬間を狙う。

 

 それが、今のベンジャミンの考えだった。

 

 もちろん、ただ後ろを走っているだけではない。

 

 少しでも前へ出るための準備。

 

 それを、着実に進めていた。

 

 

     ◇

 

 

 ――グオオオオオオッ!!

 

 カマロのV8エンジンが、力強く響く。

 

 前方のフェラーリとの距離が縮まっていく。

 

 ベンジャミンは、アクセルを細かく操作した。

 

 接近しすぎない。

 

 しかし、離れすぎない。

 

 前走車の動きを観察する。

 

 ブレーキング。

 

 加速。

 

 ステアリング操作。

 

 その一つひとつを、正確に読み取っていく。

 

 そして。

 

「……なるほどな」

 

 ベンジャミンは、呟いた。

 

 赤羽の走り。

 

 やはり、上手い。

 

 フェラーリのパワーを活かしながら、濡れた路面でも車体を安定させている。

 

 無理に加速しない。

 

 だが、使える場所では確実に加速する。

 

 その判断が、非常に的確だった。

 

「……いいドライバーじゃねえか」

 

 ベンジャミンは、楽しそうに笑った。

 

 そして。

 

「……なら」

 

 少しだけ、アクセルを踏み込む。

 

「こっちも、本気で行かせてもらうぜ!」

 

 ――グオオオオオッ!!

 

 カマロが、フェラーリへ急接近する。

 

 車間距離が縮まる。

 

 そして。

 

 ベンジャミンは、フェラーリの真後ろへ車体を合わせた。

 

 前走車の走行ライン。

 

 その微妙な変化に合わせて、ステアリングを調整する。

 

 アクセルを緩める。

 

 再び踏む。

 

 必要に応じて、わずかにブレーキを使う。

 

 その動きに、無駄はなかった。

 

 まるで。

 

 二台のマシンが、一本の線で結ばれているかのように。

 

 ターコイズグリーンのカマロが、赤いフェラーリの背後へ張り付いた。

 

 

     ◇

 

 

『おおおおっと!!』

 

 田中洋二が叫ぶ。

 

『283号車!! ベンジャミン・リヴィントンのカマロが!!』

 

 画面が切り替わる。

 

 そこには。

 

 フェラーリの真後ろを走る、カマロの姿があった。

 

『赤羽海人のフェラーリ、その真後ろにピタリと張り付いています!!』

 

 田中の声が、さらに大きくなる。

 

『なんという近さだ!! ほとんど車間がありません!!』

 

 そして。

 

『テール・トゥ・ノーズ!! まさに、テール・トゥ・ノーズです!!』

 

 池田竜次が、思わず身を乗り出した。

 

『……これは、すごいですね』

 

『池田さん!!』

 

『ベンジャミン選手の経歴を思い出してください』

 

『経歴!?』

 

『ええ。彼は、NASCARでのレース経験を持っています』

 

 田中が頷く。

 

『そうでした!! アメリカのストックカーレースですね!!』

 

『NASCARでは、前走車との距離を極端に詰めて走る技術が重要になります』

 

 池田は、画面を指差した。

 

『高速域では、前走車の後方に発生する空気の流れを利用して、空気抵抗を減らすことができます』

 

『いわゆる、スリップストリームですね!?』

 

『そうです。ただし、それを効果的に使うには、非常に精密な車間距離の調整が必要になります』

 

 画面には、フェラーリの後方に張り付くカマロ。

 

『今の彼は、まさにその技術を使っています』

 

『なるほど!!』

 

『もちろん、NASCARのオーバルコースと、MFGの公道コースでは条件が違います。特に、このようなコーナーの多い場所では、単純に空気抵抗を減らせばいいというわけではありません』

 

 池田は続ける。

 

『ですが、前走車の動きに合わせて距離を調整する能力。これは非常に高いレベルにあります』

 

 田中が、モニターを見つめる。

 

『確かに!! カマロがフェラーリの動きに、まるで吸い付くようについていきます!!』

 

『見てください。前走車がわずかに減速した瞬間、彼もすぐにアクセルを戻している』

 

 画面には、二台のマシン。

 

『逆に、フェラーリが加速すれば、カマロも遅れずに加速する。しかも、ステアリング操作が非常に滑らかです』

 

『なんという技術でしょう!!』

 

『あれだけ車間を詰めれば、前走車の動きが少し変わっただけでも接触する危険があります』

 

 池田の声が、真剣なものになる。

 

『だからこそ、これほどの精度で走れること自体が、彼の技術の高さを証明しているんです』

 

 田中は、興奮したように叫んだ。

 

『アメリカ仕込みの超接近戦!! ベンジャミン・リヴィントン!! ここにきて、NASCARで培った技術を披露しています!!』

 

     ◇

 

「……くそっ!」

 

 赤羽海人は、ルームミラーを睨んだ。

 

 ターコイズグリーンのカマロ。

 

 その大きなフロントマスクが、ミラーいっぱいに映っている。

 

「……近すぎるだろ!」

 

 思わず、吐き捨てた。

 

 こちらが減速すれば、同じように減速する。

 

 加速すれば、遅れることなくついてくる。

 

 ラインを少し変えても、すぐに合わせてくる。

 

 まるで、こちらの操作を先読みしているかのようだった。

 

「……何なんだ、こいつは……!」

 

 赤羽は、アクセルを踏み込んだ。

 

 フェラーリのエンジンが、甲高いサウンドを響かせる。

 

 だが。

 

 カマロは、離れない。

 

 それどころか、直線へ出ると距離が縮まる。

 

「……ちっ!」

 

 赤羽は、歯を食いしばった。

 

 前には、カナタの86。

 

 後ろには、ベンジャミンのカマロ。

 

 まったく異なる二台のマシンが、自分のフェラーリを挟み込むように走っている。

 

「……ふざけやがって……!」

 

 赤羽は、前方を睨んだ。

 

「どいつもこいつも、俺の邪魔をしやがる!!」

 

 しかし。

 

 その言葉とは裏腹に。

 

 赤羽は、背後のカマロを無視できなくなっていた。

 

     ◇

 

 一方。

 

 カマロの運転席。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、楽しそうに笑っていた。

 

「いいねえ……!」

 

 前方のフェラーリ。

 

 赤羽海人。

 

 なるほど。

 

 上手い。

 

 確かに上手いドライバーだ。

 

 簡単には隙を見せない。

 

 だが。

 

「……この距離なら」

 

 ベンジャミンは、アクセルを細かく調整した。

 

「いつでも仕掛けられるぜ」

 

 もちろん、すぐに抜くつもりはなかった。

 

 今の狙いは、そのさらに前。

 

 ライトニングレッドの86。

 

 カナタだ。

 

 赤羽は、間違いなくカナタを追っている。

 

 そして、カナタも簡単には譲らない。

 

 ならば。

 

「……まずは、あいつに仕掛けてもらうか」

 

 ベンジャミンは、笑った。

 

「その後で、俺がまとめていただく」

 

 実に、彼らしい考えだった。

 

 相手の動きを利用する。

 

 そして、自分に最も有利なタイミングで勝負を仕掛ける。

 

 NASCARでも、何度となく使ってきた戦い方だ。

 

 相手を観察し。

 

 隙を見つけ。

 

 一気に勝負を決める。

 

「……さあ」

 

 ベンジャミンは、前を見つめた。

 

「どうする、フェラーリ?」

 

 その時だった。

 

『……ベン』

 

 メイの声が、聞こえた。

 

「ん?」

 

『ちょっと、いいかしら?』

 

「ああ、何だ?」

 

『あなたの前を走っているフェラーリだけど……』

 

 ベンジャミンは、前方を確認した。

 

「……ああ。赤いフェラーリだろ?」

 

『ええ』

 

「赤羽海人、だったっけ?」

 

『そう。その人』

 

 メイの声は、妙に落ち着いていた。

 

 ベンジャミンは、少しだけ首を傾げる。

 

「……どうしたんだよ?」

 

『別に、大したことじゃないんだけど』

 

「ん?」

 

『決勝が始まる前にね、声をかけられたのよ』

 

「……声?」

 

『ええ』

 

 メイは、何でもないことのように続けた。

 

『食事に誘われたわ』

 

「……」

 

 ベンジャミンは、一瞬だけ黙った。

 

「……は?」

 

『もちろん、断ったけど』

 

「……」

 

 数秒。

 

 ベンジャミンは、無言だった。

 

 そして。

 

「……待て待て待て」

 

『何?』

 

「……姉貴」

 

『ええ』

 

「……今、何て言った?」

 

『だから、食事に誘われたのよ』

 

「……誰に?」

 

『赤羽海人』

 

「……」

 

 ベンジャミンは、再び前を見た。

 

 赤いフェラーリ。

 

 そのテールランプ。

 

 そして、車体に表示されたゼッケン2。

 

「……こいつに?」

 

『そうよ』

 

「……」

 

 ベンジャミンは、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……マジかよ」

 

 思わず、呟いた。

 

『ええ。マジよ』

 

 メイの声は、実に穏やかだった。

 

 だが。

 

 ベンジャミンは知っている。

 

 姉のメイが、こういう声を出す時。

 

 それは、決して安心できる状況ではないということを。

 

「……あのさ、姉貴」

 

『何?』

 

「……何で今、それを俺に言うんだ?」

 

『別に』

 

 メイは、さらりと答えた。

 

『ちょうど、あなたが彼の後ろを走っているから』

 

「……」

 

 ベンジャミンは、前方のフェラーリを見つめた。

 

 そして。

 

「……まさか」

 

 嫌な予感がした。

 

 非常に、嫌な予感が。

 

「……姉貴?」

 

『何かしら?』

 

「……ひょっとして」

 

 ベンジャミンは、恐る恐る尋ねた。

 

「……何か、俺にやらせようとしてる?」

 

 その質問に。

 

 メイは、少しだけ笑った。

 

『……そうね』

 

「……」

 

 ベンジャミンの背筋に、冷たいものが走った。

 

 雨でもない。

 

 霧でもない。

 

 ましてや、デスエリアの恐怖でもない。

 

 もっと、根本的な何か。

 

 幼い頃から何度となく経験してきた、あの感覚。

 

 ――姉には逆らえない。

 

 その、絶対的な事実。

 

「……おいおい」

 

 ベンジャミンは、引きつった笑みを浮かべた。

 

「……勘弁してくれよ」

 

 だが。

 

 メイは、そんな弟の反応を気にする様子もなかった。

 

 モニターを確認する。

 

 三番手。

 

 カナタ。

 

 四番手。

 

 赤羽。

 

 五番手。

 

 ベンジャミン。

 

 赤羽のフェラーリは、カナタの86を猛追している。

 

 そして、その真後ろにはカマロ。

 

 間もなく、最終ストレートへ向かう区間。

 

 このままなら、三台による激しい順位争いが始まるだろう。

 

 メイは、静かに微笑んだ。

 

 そして。

 

『……ベン』

 

「……はい」

 

『あなたの前を走っているフェラーリだけど……』

 

「……うん」

 

『私、カナタが表彰台を逃すところなんて見たくないのよ』

 

「……」

 

 ベンジャミンは、思わず眉をひそめた。

 

 どうして、ここでカナタの話が出てくる。

 

 いや。

 

 確かに、今のカナタは三番手。

 

 そして、その背後には赤羽のフェラーリ。

 

 さらに、自分のカマロ。

 

 つまり――。

 

「……姉貴?」

 

『何?』

 

「……それって、まさか……」

 

 メイは、少しだけ声を低くした。

 

 そして。

 

 実に、あっさりと言い放った。

 

『あの男を負かしなさい』

 

「…………」

 

 ベンジャミンは、固まった。

 

 前方のフェラーリ。

 

 そのさらに前に、カナタの86。

 

 そして。

 

 片耳のヘッドセットから聞こえる、姉の声。

 

 数秒間の沈黙。

 

 やがて。

 

 ベンジャミンは、ようやく口を開いた。

 

「……は?」

 

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