MFG GREAT ––ナスカーの刺客–– 作:車っていいなって思うんすよね
――箱根。
芦ノ湖スカイライン。
MFG第二戦、芦ノ湖GT。
決勝レースは、ついに最終周へ突入していた。
全長25.3キロメートル。
三周にわたる過酷な戦いも、残すところあと一周。
しかし、ここにきて箱根の山は、ドライバーたちへ新たな試練を突きつけようとしていた。
雨が、止み始めたのである。
先ほどまで路面を叩いていた雨粒は、徐々にその数を減らしていた。
だが、路面は依然として濡れている。
山の斜面から流れ込んだ雨水が、コースの至るところに残っていた。
さらに、デスエリアには火山灰が堆積している。
雨水を含んだ火山灰。
それは、通常のウェット路面よりもはるかに厄介な存在だった。
そして――。
もうひとつ。
ドライバーたちを苦しめる存在が、その姿を現し始めていた。
白い霧。
最初は、山肌を覆う薄い靄にすぎなかった。
だが、時間の経過とともに濃度を増し、ついには道路全体を覆い隠してしまったのである。
視界は急激に悪化していた。
数十メートル先の道路すら、満足に確認できない。
ましてや、次のコーナーが右なのか左なのか。
それすらも、白い闇の向こう側だった。
そして、この異常な状況が。
MFG第二戦の順位を、大きく変えることになる。
◇
『さあ皆さん!! ご覧ください!!』
実況担当、田中洋二。
その声が、世界中へ向けて響き渡った。
『芦ノ湖スカイラインに、非常に濃い霧が発生しています!!』
中継映像には、白く霞んだ山岳道路が映し出されていた。
コース脇に配置されたカメラが、次々と映像を切り替える。
しかし。
そこに映っていたのは、ほとんど白一色の世界だった。
『これはひどい!! カメラでも、コースの先がほとんど見えません!!』
『かなり危険な状態ですね』
解説席の池田竜次が、険しい表情で答える。
『路面が濡れているだけでも難しいのに、今回はデスエリアの火山灰があります。さらに、この霧ですからね』
『なるほど!!』
『ドライバーは視覚から得られる情報を大きく失います。ブレーキングポイントも、コーナーの曲率も、目で確認してからでは遅すぎる場合がある』
池田はモニターを見つめた。
『大幅に速度を落とす以外に、安全な選択肢がなくなるでしょう』
『つまり、ここでは各車のペースダウンが予想されると!?』
『ええ。どれほど優れたドライバーでも、見えないものに対処するのは難しいですから』
その言葉に、田中も頷いた。
だが。
『……ただし』
池田は、続けた。
『例外がいるとすれば……』
『例外!?』
『コースを、完全に頭の中へ叩き込んでいるドライバーでしょうね』
その瞬間。
中継映像が切り替わった。
映し出されたのは――。
ライトニングレッドのトヨタ86GT。
ゼッケン86。
片桐カナタだった。
◇
「……雨、止んじゃいましたね」
カナタは、フロントガラスの向こうを見つめながら呟いた。
それは、決して喜ばしいことではなかった。
路面は、まだ濡れている。
タイヤのグリップが急激に回復するわけでもない。
しかし、雨が止めば路面は少しずつ乾いていく。
そうなれば、再びハイパワーマシンが有利になってくる。
ポルシェ。
フェラーリ。
そして、ベンジャミンのカマロ。
どれも、86とは比較にならないパワーを持っている。
今のカナタは六番手。
予選十番手から四つ順位を上げていた。
だが、このままではいけない。
残り一周。
表彰台を狙うのであれば、ここからさらに順位を上げる必要がある。
そして何より。
仮に前へ出ることができたとしても、その後に追い抜かれてしまっては意味がない。
ハイパワーマシンが本領を発揮する前に、可能な限り大きなマージンを作る必要があった。
「……どうしようかな」
カナタは、静かに考えていた。
このまま普通に走っても、上位勢を抜くのは簡単ではない。
何かが必要だ。
自分だけが使える、特別な武器が。
その時だった。
『カナタ!!』
片耳のヘッドセットから、緒方の声が響いた。
『大変だ! この先のデスエリアに、かなり濃い霧が発生してる!!』
「……霧?」
『ああ! 中継映像じゃ、道路がほとんど見えないんだ!』
緒方の声には、明らかな焦りがあった。
『ただでさえ滑りやすい場所なんだ! 徹底的にスピードを落として突入してくれ!』
「……」
カナタは、少しだけ目を見開いた。
霧。
視界不良。
そして、デスエリア。
その三つの条件が、頭の中で結びつく。
次の瞬間。
カナタの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「……なるほど」
『カナタ?』
「……緒方さん」
『ん?』
「これは、チャンスかもしれません」
『…………え?』
緒方は、思わず聞き返した。
『チャ、チャンス……?』
「はい」
カナタは、穏やかに答える。
「神様が、僕にチャンスをくれたのかもしれません」
『……はあ!?』
緒方の声が裏返った。
『な、何言ってるんだよカナタ! 濃霧だぞ!? 前が見えないんだぞ!?』
「ええ。わかっています」
『だったら、どうして……!』
「……緒方さん」
カナタは、静かに言った。
「予選の時と同じように、お願いします」
『……!』
その一言で、緒方は察した。
『……あの、ボイスカウントか!?』
「はい」
カナタは頷いた。
「もう一度、お願いします」
開幕戦から使ってきた、音声によるカウントダウン。
この芦ノ湖GTの予選でも、二人はその作戦を実践していた。
コース上の基準点を利用し、緒方が無線で前の車とのタイム差を告げる。
カナタはその音声を頼りに、自分の頭の中にあるコースの映像と、実際の走行位置を一致させる。
そして、視覚に頼らずブレーキングポイントを判断する。
それが、ボイスカウント作戦だった。
『……カナタ』
緒方は、恐る恐る尋ねた。
『まさか、あの霧の中を……?』
「はい」
カナタは、前方を見つめた。
そこには、すでに白い霧が広がり始めている。
「コースは、全部覚えていますから」
『……』
「緒方さんのカウントがあれば、走れます」
カナタは、静かに微笑んだ。
「それに……」
『……それに?』
「前の車を、抜きたいんです」
『…………』
数秒の沈黙。
そして。
『……えええええっ!?』
緒方の悲鳴が、ヘッドセットから響いた。
『ぬ、抜くって!? あの霧の中でか!?』
「はい」
『いやいやいや! ちょっと待ってくれよ!』
緒方は、思わず頭を抱えた。
『普通は、あんなところで勝負なんか仕掛けないだろ!?』
「そうですね」
『だったら……!』
「だからこそ、チャンスなんです」
カナタは、穏やかに答えた。
その言葉に、緒方は何も言えなくなった。
確かに。
普通のドライバーならば、この濃霧では大幅に速度を落とす。
ブレーキングポイントがわからない。
コーナーの入口も見えない。
どれほど速いマシンであっても、視界が奪われれば、その性能を発揮することは難しい。
だが、カナタには違う景色が見えている。
頭の中に記憶された、芦ノ湖スカイラインの映像。
その道路は、どれほど霧が濃くなろうと消えることはない。
「まず、霧の入口でNSXを抜きます」
『……え?』
「その後は、緒方さんのカウントに合わせて走ります」
カナタは続けた。
「それから、ベンを抜いて……」
『……べ、ベンジャミンも!?』
「はい」
そして。
「一番霧が濃くなる場所で、フェラーリも抜きたいです」
『…………』
緒方は、完全に言葉を失った。
現在六番手。
前園。
ベンジャミン。
赤羽。
この三台を、濃霧の中でまとめて抜く。
つまり。
三番手まで上がるというのだ。
『……マジかよ……』
緒方は、弱々しく呟いた。
『……そういうこと、サラッと言わないでくれよ……』
そして、両手で顔を覆う。
『……こっちは、貧血起こして倒れそうだよ……』
「ふふっ」
カナタは、小さく笑った。
「大丈夫です、緒方さん」
『……何が大丈夫なんだよ……』
「僕を、信じてください」
緒方は、モニターを見つめた。
そこには、ライトニングレッドの86。
そして、前を走る三台のマシン。
前園のNSX。
ベンジャミンのカマロ。
赤羽のフェラーリ。
どれも、86よりはるかに高性能な車だった。
だが。
緒方は知っている。
カナタが、これまで何度となく常識を覆してきたことを。
そして。
彼が、決して無謀なだけのドライバーではないことを。
『……はあ』
緒方は、大きくため息をついた。
『……わかったよ』
「……!」
『カウントは任せてくれ』
カナタの表情が、少しだけ明るくなった。
「ありがとうございます、緒方さん」
『……でも、絶対に無茶だけはするなよ……』
「はい!」
そして。
ライトニングレッドの86が、白い霧の中へ突入した。
◇
五番手。
前園和宏。
ホンダNSX。
高性能な駆動システムを搭載した、日本を代表するスーパースポーツ。
しかし、この状況では、その性能を十分に発揮することができなかった。
「……くそっ!」
前園は、歯を食いしばる。
視界が悪すぎる。
ブレーキングポイントを探そうとしても、目印となる景色が霧に隠れている。
しかも、路面はウェット。
不用意に加速すれば、たちまち危険な状況に陥る。
「……こんなところで、無理はできない……!」
前園は、慎重にアクセルを操作していた。
霧が晴れれば、再び勝負ができる。
今は、それまで順位を守ればいい。
「……こんなところでドッグファイトを仕掛ける奴なんて、いるわけが……」
その時だった。
ルームミラー。
白い霧の奥に、何かが見えた。
「……ん?」
最初は、小さな光だった。
だが、その光は急速に大きくなっていく。
そして。
「……なっ!?」
前園は、思わず目を見開いた。
赤い車体。
低いシルエット。
ライトニングレッドのトヨタ86GT。
「……片桐!?」
ありえない。
どうして、こんな速度で追いついてくる。
自分ですら、前方のコーナーを確認するのに苦労しているというのに。
それなのに、後方の86は――。
まるで、霧など存在していないかのように。
滑らかに。
正確に。
走っていた。
「……くそっ!」
前園はアクセルを踏み込もうとした。
だが、すぐに思いとどまる。
この先のコーナーが見えない。
ここで無理に加速するのは危険すぎる。
その一瞬の判断。
それが、勝負を決めた。
――シュンッ!!
「……なっ!?」
86が、NSXの横を駆け抜けた。
次の瞬間には、すでに前方へ出ていた。
『抜いたああああああっ!!』
田中洋二の絶叫が響く。
『片桐カナタ!! 濃霧の入口で前園和宏のNSXをオーバーテイク!!』
順位表示が変わる。
【5th KANATA KATAGIRI】
【6th KAZUHIRO MAEZONO】
『五番手へ浮上です!!』
池田が、唸るように言った。
『これはすごいですね……』
『池田さん!! いったい何が起きているんでしょうか!?』
『前園選手は安全を優先して早めに減速しました。しかし、片桐選手はコーナーの位置を正確に把握しているようです』
池田はモニターを凝視した。
『しかも、車体の姿勢を非常に上手く作っている。あれほど滑りやすい路面で、ほとんど無駄な動きがありません』
『なんということでしょう!!』
画面には、NSXを抜き去った86。
『片桐カナタ!! この濃霧の中で、驚異的な走りを見せています!!』
だが。
その快進撃は、まだ始まったばかりだった。
◇
『……なっ!?』
実況ブース。
田中洋二が、思わず声を漏らした。
『片桐カナタの86が……!!』
モニターに表示される速度。
そして、各車の位置情報。
『速い!! この濃霧の中で、片桐カナタだけがペースを落としていません!!』
『……これは』
池田竜次も、驚きを隠せなかった。
各車は視界不良によって大きく減速している。
もちろん、上位ドライバーたちも例外ではない。
だが、86だけは違った。
無謀にアクセルを踏み込んでいるわけではない。
コーナーの手前では減速している。
滑りやすい路面では、慎重に操作している。
しかし、そのすべてに無駄がなかった。
『信じられませんね……』
池田が呟く。
『彼は、コーナーの位置を知っているとしか思えません』
『位置を知っている!?』
『ええ。視界が悪い状況では、ほとんどのドライバーが安全のために早めのブレーキングを行います。しかし、片桐選手にはその迷いが見られない』
画面には、白い霧の中を走る86。
『彼は必要な場所で、必要なだけ減速している。しかも、ターンインのタイミングが驚くほど正確です』
『なんということでしょう!!』
田中の声が、さらに大きくなる。
『これはまさに、白い闇を見通すような走り!!』
そして。
『おおっと!! 前方にはベンジャミン・リヴィントンのカマロ!! 86が急接近しています!!』
◇
四番手。
ゼッケン283。
シボレー・カマロSS。
「……チッ」
ベンジャミン・リヴィントンは、前方の白い景色を睨んでいた。
「……こりゃ、参ったな」
先ほどまで、楽しくて仕方がなかった。
雨のレース。
濡れた路面。
滑りやすいコーナー。
それらの条件を、自分の技術で攻略することに興奮していた。
だが。
さすがに、この霧は厄介だった。
「……全然見えねえ」
フロントガラスの向こう。
そこには、白い壁が立ちはだかっていた。
数十メートル先の景色が、ほとんど確認できない。
それでも、ベンジャミンは決してパニックには陥らなかった。
ステアリングを握る。
アクセルを戻す。
ブレーキを踏む。
そして、タイヤから伝わる情報を感じ取る。
カマロは重量級のFR車だ。
見通しの悪いコーナーへ、強引に飛び込むわけにはいかない。
ましてや、ここはデスエリア。
火山灰が堆積した、極端に滑りやすい路面である。
「……仕方ねえ」
ベンジャミンは、ステアリングのスイッチを操作した。
COMPETITION。
そこから、NORMALへ。
トラクションコントロールとスタビリティコントロールを積極的に介入させるモードだ。
「……今は、これで行く」
彼は、静かに息を吐いた。
パワーを使い切れないことは、悔しい。
だが、それ以上に重要なのは、コースアウトしないことだった。
『ベン』
メイの声が聞こえる。
『霧の状況はどう?』
「最悪だな!」
『……でしょうね』
「マジで真っ白だぜ。何も見えやしねえ!」
『無理しないで。今は順位を守ることを優先して』
「ああ!」
ベンジャミンは頷いた。
「わかってる!」
そして、笑った。
「こんなところでリタイアなんて、冗談じゃねえからな!」
『……ええ』
メイは安堵した。
少なくとも、弟は冷静だ。
豪快で、調子に乗りやすくて。
レースになると、すぐに熱くなる。
だが、危険な状況で無謀な判断をするほど、ベンジャミンは愚かではない。
彼には、アメリカで積み重ねてきた経験がある。
その経験が、今も確かに生きていた。
しかし。
『……あら?』
メイは、モニターを見て目を細めた。
五番手。
片桐カナタ。
そして、その位置情報が。
四番手のカマロへ、急速に接近していた。
『……ベン』
「ん?」
『後ろから、来ているわよ』
「……誰が?」
メイは、少しだけ笑った。
『カナタよ』
「……」
一瞬。
ベンジャミンの表情が固まった。
そして。
「……ハッ!」
口元が、大きく吊り上がった。
「マジかよ!!」
◇
白い霧の中。
カナタは、次の目標を捉えていた。
ターコイズグリーン。
大柄な車体。
そして、太いエキゾーストノート。
シボレー・カマロSS。
ゼッケン283。
「……ベン」
カナタは、微笑んだ。
前方のカマロは、慎重に走っている。
その判断が間違っているわけではない。
むしろ、この状況では極めて合理的だった。
重い車体。
大きなトルク。
極端に低いグリップ。
さらに、視界不良。
これほど条件が悪ければ、ベンジャミンほどのドライバーでも慎重にならざるを得ない。
だが。
カナタには、別の武器があった。
コースの記憶。
そして、それを正確に再現する能力。
『カナタ!』
緒方の声。
「ラジャー」
カナタの表情が、引き締まる。
86が加速し、カマロとの距離が、急速に縮まっていく。
前方に見える、ターコイズグリーンの車体。
カナタは、その動きを観察した。
カマロが減速を始める。
カナタは、さらに車間を詰めた。
そして。
――ギュンッ!!
86が、カマロのイン側へ飛び込んだ。
「……なっ!?」
ベンジャミンが、目を見開く。
赤い車体。
その動きは、あまりにも鋭かった。
ターンイン。
荷重移動。
そして、リアタイヤが滑り始める。
だが、86は破綻しない。
カナタは、アクセルとカウンターステアで姿勢を維持しながら、コーナーの奥へと車体を運んでいく。
「……おいおい!!」
ベンジャミンは、驚きながらもステアリングを保持した。
これ以上ラインを狭めれば、接触しかねない。
相手はカナタだ。
彼の技術は信頼している。
だが、だからといって無理に競り合う場面ではない。
ベンジャミンは、わずかにスペースを残した。
その隙間を。
86が、鋭く駆け抜ける。
そして。
カマロの前へ出た。
『抜いたああああああっ!!』
田中洋二の絶叫。
『片桐カナタ!! ベンジャミン・リヴィントンをオーバーテイク!!』
順位表示が切り替わる。
【4th KANATA KATAGIRI】
【5th BENJAMIN RIVINGTON】
『四番手へ浮上です!!』
実況ブースが沸いた。
『なんということでしょう!! 従兄弟同士の直接対決は、片桐カナタに軍配が上がりました!!』
池田が、感心したように頷く。
『見事ですね……』
『池田さん!!』
『ベンジャミン選手も、非常に冷静でした。無理にラインを閉めず、接触を避けています』
『なるほど!』
『この視界では、強引な防御は危険ですからね。彼は状況をよく理解していると思います』
画面には、カマロの前を走る86。
『ただ、それ以上に片桐選手の走りが恐ろしい。あの濃霧の中で、これほど正確にオーバーテイクを成功させるとは……』
田中は、興奮を抑えられなかった。
『まさに驚異のドライビング!! 片桐カナタ、四番手です!!』
◇
「……」
ベンジャミンは、目の前の86を見つめていた。
今のオーバーテイク。
確かに、自分は慎重に走っていた。
無理に防御するつもりもなかった。
それでも。
あの進入速度。
あの正確なターンイン。
そして、あの視界でのライン取り。
「……ハハッ」
思わず笑ってしまった。
「……なんだよ、それ」
正直に言えば、信じられなかった。
前がほとんど見えない。
自分ですら、コーナーの入口を探しながら走っている。
それなのに。
カナタは、迷わず飛び込んできた。
「……お前、マジですげえな」
ベンジャミンは、楽しそうに笑った。
「さすが、カナタだぜ!」
『ベン!』
メイの声。
『カナタに抜かれたわね』
「ああ!」
『……悔しくないの?』
「悔しいに決まってんだろ!」
ベンジャミンは即答した。
そして。
「でもよ……」
前方の86を見る。
小柄な日本製スポーツカー。
その赤い車体が、白い霧の向こうへ消えていこうとしている。
「……すげえもん見せられたら、笑うしかねえだろ?」
メイは、一瞬だけ黙った。
そして。
『……そうね』
小さく笑った。
『あの子、本当にすごいわ』
「ああ!」
ベンジャミンも笑う。
「俺の従兄弟だからな!」
『……あなたの方が3ヶ月年下でしょう』
「そこは関係ねえだろ!」
そんなやり取りを交わしながらも。
ベンジャミンの視線は、決して前方から離れなかった。
「……でもな、カナタ」
小さく呟く。
「まだ終わっちゃいねえぞ」
彼はアクセルを踏む。
もちろん、無理にパワーをかけるわけではない。
NORMALモードの電子制御が、タイヤの空転を抑えている。
今は耐える。
この霧が晴れれば。
このデスエリアを抜ければ。
自分にも、まだ勝負できる場所がある。
「……待ってろよ」
ベンジャミンは笑った。
「次は俺の番だ!」
◇
『さあ!! 片桐カナタが、ついに三番手の赤羽海人へ迫っています!!』
田中洋二が叫ぶ。
『前園のNSXを抜き!! 続いてベンジャミンのカマロを抜き!! 今度は赤羽海人のフェラーリです!!』
画面には、白い霧の中で急速に接近する二台。
『信じられません!! この濃霧の中で、片桐カナタが怒涛の追い上げを見せています!!』
『……すごいですね』
池田竜次も、もはや驚きを隠せなかった。
『ここまでくると、彼のコース記憶能力は相当なものだと考えざるを得ません』
『やはり、記憶しているのでしょうか!?』
『ええ。単純に道順を覚えているというレベルではないでしょう』
池田は画面を見つめる。
『ブレーキングポイントやコーナーの曲率、路面の傾きまで、かなり正確に把握しているはずです』
『なんということでしょう!!』
『ただし、注意したいのは、路面の状況まで完全に把握できるわけではないということです』
池田は続けた。
『だからこそ、彼は無理に限界を超えていない。タイヤから伝わる情報を読み取りながら、記憶したコースを走っているんです』
86が、フェラーリへ接近する。
『見てください。あのステアリング操作を』
画面に映るカナタ。
その表情は、驚くほど穏やかだった。
『ほとんど修正舵がありません。次に何が起きるかを予測しているからこそ、必要最小限の操作で走れている』
田中が息を呑む。
『これは……!!』
そして。
『片桐カナタ!! 赤羽海人へ、仕掛けるのかあああっ!?』
◇
――シュンッ!!
白い霧の中から。
ライトニングレッドの車体が、突如として姿を現した。
「なっ――!?」
赤羽の視界を、赤い影が横切る。
それは、ほんの一瞬だった。
86は、鋭く向きを変えながらフェラーリの横を駆け抜ける。
リアタイヤが滑る。
しかし、姿勢は乱れない。
ドリフト状態のまま、正確なラインを描いていく。
そして。
赤羽が何かを判断するよりも早く。
86は、フェラーリの前へ出ていた。
「…………!?」
赤羽は、言葉を失った。
いったい、何が起きた。
今、自分の横を通り過ぎたのは何だ。
確かに、赤い車が見えた。
しかし。
ほんの一瞬。
目の前を横切ったかと思えば、次の瞬間には霧の奥へ消えていた。
「……何だ、今のは」
赤羽は、呆然と呟いた。
白い霧。
その奥へ、赤い86が消えていく。
「……霧の中で、俺は蜃気楼でも見たのか!?」
その声には、隠しきれない驚愕が滲んでいた。
◇
『抜いたああああああああっ!!』
田中洋二の絶叫が、世界中に響き渡る。
『片桐カナタ!! 赤羽海人のフェラーリ488GTBをオーバーテイク!!』
順位表示が変わる。
【3rd KANATA KATAGIRI】
【4th KAITO AKABA】
【5th BENJAMIN RIVINGTON】
『三番手えええええっ!!』
田中は、興奮のあまり声を裏返らせた。
『なんということでしょう!! 片桐カナタ!! 濃霧のデスエリアで、驚異の三台抜き!!』
池田が、思わず息を吐いた。
『……信じられませんね』
『池田さん!!』
『これは、間違いなく世界トップクラスの技術ですよ』
その声には、純粋な感嘆があった。
『この視界で、あれほど正確に走れるドライバーがいるとは……』
画面には、霧を切り裂くように走る86。
『単純なスピードだけではありません。路面状況への対応、ブレーキング、荷重移動、そしてコース記憶。そのすべてが、極めて高い次元で噛み合っている』
田中が叫ぶ。
『まさに、白い悪魔!!』
ライトニングレッドの86が、白い霧の向こうへ消えていく。
『濃霧の中から現れ、次々とライバルを抜き去っていく!! 片桐カナタ!! この男は一体どこまで我々を驚かせてくれるのでしょうか!?』
◇
「……ふう」
カナタは、小さく息を吐いた。
三番手。
ついに表彰台圏内へ入った。
『カ、カナタ……!』
緒方の声が、震えていた。
『す、すごいな……! もう三番手だぞ……!』
「はい」
カナタは、穏やかに答えた。
「でも、まだレースは終わっていません」
『あ、ああ……そうだな……』
緒方は、モニターを見つめる。
そこには、三番手へ浮上した86の姿。
そして、その後方に続くフェラーリ。
さらに、カマロ。
『……本当に、すごいよ』
緒方は、小さく呟いた。
その声には、どこか呆然とした響きがあった。
『なんで、あんなところをあの速さで走れるんだよ……』
カナタは、少しだけ笑った。
「緒方さんのカウントが、正確だったからですよ」
『……いやいや! 俺は秒数を数えてただけだから!』
「ふふっ」
カナタは、微笑んだ。
そして、前を向く。
白い霧。
その中を、86が走っていく。
ふと、先ほど追い抜いたカマロのことを思い出した。
ベンジャミン。
アメリカで腕を磨いた、年下の従兄弟。
予選では、自分より上位だった。
決勝でも、あの大きなカマロを巧みに操り、四番手まで上がってきた。
そして。
今、自分はその前を走っている。
「……ふふっ」
カナタは、小さく笑った。
「楽しいね、ベン」
もちろん、その声が相手へ届くことはない。
だが。
カナタは、確かに感じていた。
ベンジャミンもまた、同じ気持ちで走っているのだと。
◇
その頃。
五番手へ後退したカマロの車内では――。
「……ハハッ!」
ベンジャミンが笑っていた。
「やりやがった!!」
『ベン?』
メイの声。
『カナタが、三番手へ上がったわ』
「ああ!」
ベンジャミンは、楽しそうに笑った。
「聞いてたぜ!」
『……本当に、すごいわね』
「だろ!?」
ベンジャミンの声が弾む。
「さすが、カナタだぜ!」
『……あなた、自分が抜かれたのに、随分嬉しそうね』
「そりゃそうだろ!」
彼は、即答した。
「俺の従兄弟が、あんなすげえ走りしてんだぜ!?」
メイは、小さく笑った。
『……そうね』
「ああ!」
ベンジャミンは、前方を見つめた。
赤羽のフェラーリ。
そのさらに前に、カナタの86。
白い霧の中、二台のテールランプがわずかに見えている。
「……でもよ」
ベンジャミンは、笑みを深めた。
「俺だって、負けっぱなしで終わるつもりはねえぞ」
『……そうでしょうね』
「もちろん!」
彼はアクセルを踏み込もうとした。
だが、すぐに右足を緩めた。
まだ霧が濃い。
この状態で、無理に追いかけても意味がない。
それどころか、コースアウトの危険性が高まるだけだ。
「……もう少しだな」
ベンジャミンは呟く。
『何が?』
「この霧だよ」
前方の景色。
ほんの少しだけ、白い濃度が薄くなっている。
「……もうすぐ抜ける」
『……そうね』
メイも、コース映像を確認した。
霧は、山岳区間の一部に集中していた。
そこを抜ければ、視界は回復するはずだ。
そして。
視界が戻れば。
再び、マシンの性能が勝負を左右する。
『……ベン』
「ああ」
ベンジャミンは、静かに頷いた。
「わかってる」
そして、笑う。
「ここからが、俺の勝負だ」
◇
「……くそっ!」
赤羽海人は、ステアリングを強く握りしめた。
四番手。
先ほどまで守っていた表彰台圏内から、叩き落とされた。
しかも。
相手は、非力なトヨタ86。
あの車に、ほとんど抵抗すらできずに抜かれたのだ。
「……何なんだ、あいつは」
赤羽は、前方を睨んだ。
だが、86の姿はすでに霧の中へ消えている。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
それが、余計に腹立たしかった。
「……冗談じゃねえぞ」
赤羽は、歯を食いしばる。
「こんなところで、表彰台を諦めてたまるか!」
アクセルを踏む。
フェラーリのエンジンが、力強く唸った。
だが、すぐにコーナーが近づく。
赤羽は、再びブレーキを踏んだ。
「……ちっ!」
前が見えない。
それが、どうしようもなくもどかしかった。
しかし。
霧は、徐々に薄くなっている。
そして、デスエリアの終わりも近づいていた。
この先。
路面のグリップが戻れば。
フェラーリの強大なパワーが、再び武器になる。
カナタの86に対しては、圧倒的な加速力の差がある。
「……待ってろ、片桐」
赤羽は、低く呟いた。
「まだ勝負は終わっちゃいねえぞ」
その時だった。
――グオオオオオオッ!!
「……ん?」
背後から、低いエンジン音が聞こえた。
重厚で。
腹の底に響くような。
独特のサウンド。
「……この音は」
赤羽は、ルームミラーを見る。
白い霧の奥。
そこから、二つのヘッドライトが現れた。
そして。
ターコイズグリーンの車体。
「……チッ」
赤羽は、眉をひそめた。
「今度は、お前か……!」
ゼッケン283。
シボレー・カマロSS。
ベンジャミン・リヴィントン。
アメリカからやってきた、若きルーキー。
「……次から次へと……!」
赤羽は、ステアリングを握り直した。
「そう簡単に、抜かせるかよ!!」
◇
『さあ!! デスエリアの終わりが近づいてきました!!』
田中洋二の声が響く。
『濃霧の中で、片桐カナタが驚異の三台抜きを達成!! 三番手へ浮上しています!!』
画面には、86。
その後方にフェラーリ。
そして、カマロ。
『しかし!! 赤羽海人も黙ってはいません!! フェラーリ488GTBの圧倒的なパワーを武器に、86へ迫っています!!』
『ここからは、また別の勝負になりますね』
池田竜次が答える。
『霧が薄くなれば、ドライバーは通常の視覚情報を取り戻します。そうなると、カナタ選手が持っていた特別な優位性は小さくなる』
『なるほど!!』
『そして、赤羽選手のフェラーリは非常にパワフルなマシンです。速度が上がる区間では、86に対して明確なアドバンテージがあります』
田中が頷く。
『つまり!! 三番手争いは、まだ終わっていないということですね!?』
『ええ。むしろ、ここからが本当の勝負でしょう』
池田は、モニターへ視線を向けた。
『……ただ』
『ただ!?』
『もう一台、気になる車がいます』
画面が切り替わる。
ターコイズグリーンのカマロ。
『……283号車です』
その車体が、赤羽のフェラーリへ接近していた。
『おおっと!!』
田中が叫ぶ。
『ベンジャミン・リヴィントン!! 赤羽海人のフェラーリに迫っています!!』
◇
「……よし」
ベンジャミンは、静かに呟いた。
前方の霧が、薄くなり始めている。
そして、路面の感触も変わってきた。
火山灰の堆積した区間から、通常の舗装路へ。
もちろん、まだ路面は濡れている。
だが、デスエリアに比べれば、はるかにグリップを得やすい。
「……いいねえ」
ベンジャミンの口元が上がる。
「ようやく、走りやすくなってきたぜ」
ステアリングのスイッチ。
NORMAL。
そこから――。
COMPETITION。
トラクションコントロールを解除し、スタビリティコントロールの介入を限定する。
ベンジャミンは、アクセルへ足を乗せた。
「……さあ」
右足に、少しずつ力を込める。
6.2リッター自然吸気V8。
453馬力。
その強烈なトルクが、後輪へ伝わっていく。
――グオオオオオオッ!!
エンジンが、吠えた。
カマロが加速する。
前方には、赤羽のフェラーリ。
「……へへっ」
ベンジャミンは、笑った。
「なかなかいいマシーンじゃねえか」
だが。
「……まずは、様子見だな」
ベンジャミンは、アクセルを調整した。
赤羽は、間違いなくカナタを狙っている。
霧の中で奪われた三番手。
それを取り返そうとしているのだ。
ならば。
「……ちょうどいい」
ベンジャミンは、笑った。
「しばらく、後ろから見せてもらうぜ」
赤羽がここからは見えないカナタを追いかける。
そして追いついたタイミングでの勝負で、二台のラインが変わる。
あるいは、どちらかがわずかに失速する。
その瞬間を狙う。
それが、今のベンジャミンの考えだった。
もちろん、ただ後ろを走っているだけではない。
少しでも前へ出るための準備。
それを、着実に進めていた。
◇
――グオオオオオオッ!!
カマロのV8エンジンが、力強く響く。
前方のフェラーリとの距離が縮まっていく。
ベンジャミンは、アクセルを細かく操作した。
接近しすぎない。
しかし、離れすぎない。
前走車の動きを観察する。
ブレーキング。
加速。
ステアリング操作。
その一つひとつを、正確に読み取っていく。
そして。
「……なるほどな」
ベンジャミンは、呟いた。
赤羽の走り。
やはり、上手い。
フェラーリのパワーを活かしながら、濡れた路面でも車体を安定させている。
無理に加速しない。
だが、使える場所では確実に加速する。
その判断が、非常に的確だった。
「……いいドライバーじゃねえか」
ベンジャミンは、楽しそうに笑った。
そして。
「……なら」
少しだけ、アクセルを踏み込む。
「こっちも、本気で行かせてもらうぜ!」
――グオオオオオッ!!
カマロが、フェラーリへ急接近する。
車間距離が縮まる。
そして。
ベンジャミンは、フェラーリの真後ろへ車体を合わせた。
前走車の走行ライン。
その微妙な変化に合わせて、ステアリングを調整する。
アクセルを緩める。
再び踏む。
必要に応じて、わずかにブレーキを使う。
その動きに、無駄はなかった。
まるで。
二台のマシンが、一本の線で結ばれているかのように。
ターコイズグリーンのカマロが、赤いフェラーリの背後へ張り付いた。
◇
『おおおおっと!!』
田中洋二が叫ぶ。
『283号車!! ベンジャミン・リヴィントンのカマロが!!』
画面が切り替わる。
そこには。
フェラーリの真後ろを走る、カマロの姿があった。
『赤羽海人のフェラーリ、その真後ろにピタリと張り付いています!!』
田中の声が、さらに大きくなる。
『なんという近さだ!! ほとんど車間がありません!!』
そして。
『テール・トゥ・ノーズ!! まさに、テール・トゥ・ノーズです!!』
池田竜次が、思わず身を乗り出した。
『……これは、すごいですね』
『池田さん!!』
『ベンジャミン選手の経歴を思い出してください』
『経歴!?』
『ええ。彼は、NASCARでのレース経験を持っています』
田中が頷く。
『そうでした!! アメリカのストックカーレースですね!!』
『NASCARでは、前走車との距離を極端に詰めて走る技術が重要になります』
池田は、画面を指差した。
『高速域では、前走車の後方に発生する空気の流れを利用して、空気抵抗を減らすことができます』
『いわゆる、スリップストリームですね!?』
『そうです。ただし、それを効果的に使うには、非常に精密な車間距離の調整が必要になります』
画面には、フェラーリの後方に張り付くカマロ。
『今の彼は、まさにその技術を使っています』
『なるほど!!』
『もちろん、NASCARのオーバルコースと、MFGの公道コースでは条件が違います。特に、このようなコーナーの多い場所では、単純に空気抵抗を減らせばいいというわけではありません』
池田は続ける。
『ですが、前走車の動きに合わせて距離を調整する能力。これは非常に高いレベルにあります』
田中が、モニターを見つめる。
『確かに!! カマロがフェラーリの動きに、まるで吸い付くようについていきます!!』
『見てください。前走車がわずかに減速した瞬間、彼もすぐにアクセルを戻している』
画面には、二台のマシン。
『逆に、フェラーリが加速すれば、カマロも遅れずに加速する。しかも、ステアリング操作が非常に滑らかです』
『なんという技術でしょう!!』
『あれだけ車間を詰めれば、前走車の動きが少し変わっただけでも接触する危険があります』
池田の声が、真剣なものになる。
『だからこそ、これほどの精度で走れること自体が、彼の技術の高さを証明しているんです』
田中は、興奮したように叫んだ。
『アメリカ仕込みの超接近戦!! ベンジャミン・リヴィントン!! ここにきて、NASCARで培った技術を披露しています!!』
◇
「……くそっ!」
赤羽海人は、ルームミラーを睨んだ。
ターコイズグリーンのカマロ。
その大きなフロントマスクが、ミラーいっぱいに映っている。
「……近すぎるだろ!」
思わず、吐き捨てた。
こちらが減速すれば、同じように減速する。
加速すれば、遅れることなくついてくる。
ラインを少し変えても、すぐに合わせてくる。
まるで、こちらの操作を先読みしているかのようだった。
「……何なんだ、こいつは……!」
赤羽は、アクセルを踏み込んだ。
フェラーリのエンジンが、甲高いサウンドを響かせる。
だが。
カマロは、離れない。
それどころか、直線へ出ると距離が縮まる。
「……ちっ!」
赤羽は、歯を食いしばった。
前には、カナタの86。
後ろには、ベンジャミンのカマロ。
まったく異なる二台のマシンが、自分のフェラーリを挟み込むように走っている。
「……ふざけやがって……!」
赤羽は、前方を睨んだ。
「どいつもこいつも、俺の邪魔をしやがる!!」
しかし。
その言葉とは裏腹に。
赤羽は、背後のカマロを無視できなくなっていた。
◇
一方。
カマロの運転席。
「……へへっ」
ベンジャミンは、楽しそうに笑っていた。
「いいねえ……!」
前方のフェラーリ。
赤羽海人。
なるほど。
上手い。
確かに上手いドライバーだ。
簡単には隙を見せない。
だが。
「……この距離なら」
ベンジャミンは、アクセルを細かく調整した。
「いつでも仕掛けられるぜ」
もちろん、すぐに抜くつもりはなかった。
今の狙いは、そのさらに前。
ライトニングレッドの86。
カナタだ。
赤羽は、間違いなくカナタを追っている。
そして、カナタも簡単には譲らない。
ならば。
「……まずは、あいつに仕掛けてもらうか」
ベンジャミンは、笑った。
「その後で、俺がまとめていただく」
実に、彼らしい考えだった。
相手の動きを利用する。
そして、自分に最も有利なタイミングで勝負を仕掛ける。
NASCARでも、何度となく使ってきた戦い方だ。
相手を観察し。
隙を見つけ。
一気に勝負を決める。
「……さあ」
ベンジャミンは、前を見つめた。
「どうする、フェラーリ?」
その時だった。
『……ベン』
メイの声が、聞こえた。
「ん?」
『ちょっと、いいかしら?』
「ああ、何だ?」
『あなたの前を走っているフェラーリだけど……』
ベンジャミンは、前方を確認した。
「……ああ。赤いフェラーリだろ?」
『ええ』
「赤羽海人、だったっけ?」
『そう。その人』
メイの声は、妙に落ち着いていた。
ベンジャミンは、少しだけ首を傾げる。
「……どうしたんだよ?」
『別に、大したことじゃないんだけど』
「ん?」
『決勝が始まる前にね、声をかけられたのよ』
「……声?」
『ええ』
メイは、何でもないことのように続けた。
『食事に誘われたわ』
「……」
ベンジャミンは、一瞬だけ黙った。
「……は?」
『もちろん、断ったけど』
「……」
数秒。
ベンジャミンは、無言だった。
そして。
「……待て待て待て」
『何?』
「……姉貴」
『ええ』
「……今、何て言った?」
『だから、食事に誘われたのよ』
「……誰に?」
『赤羽海人』
「……」
ベンジャミンは、再び前を見た。
赤いフェラーリ。
そのテールランプ。
そして、車体に表示されたゼッケン2。
「……こいつに?」
『そうよ』
「……」
ベンジャミンは、しばらく黙っていた。
そして。
「……マジかよ」
思わず、呟いた。
『ええ。マジよ』
メイの声は、実に穏やかだった。
だが。
ベンジャミンは知っている。
姉のメイが、こういう声を出す時。
それは、決して安心できる状況ではないということを。
「……あのさ、姉貴」
『何?』
「……何で今、それを俺に言うんだ?」
『別に』
メイは、さらりと答えた。
『ちょうど、あなたが彼の後ろを走っているから』
「……」
ベンジャミンは、前方のフェラーリを見つめた。
そして。
「……まさか」
嫌な予感がした。
非常に、嫌な予感が。
「……姉貴?」
『何かしら?』
「……ひょっとして」
ベンジャミンは、恐る恐る尋ねた。
「……何か、俺にやらせようとしてる?」
その質問に。
メイは、少しだけ笑った。
『……そうね』
「……」
ベンジャミンの背筋に、冷たいものが走った。
雨でもない。
霧でもない。
ましてや、デスエリアの恐怖でもない。
もっと、根本的な何か。
幼い頃から何度となく経験してきた、あの感覚。
――姉には逆らえない。
その、絶対的な事実。
「……おいおい」
ベンジャミンは、引きつった笑みを浮かべた。
「……勘弁してくれよ」
だが。
メイは、そんな弟の反応を気にする様子もなかった。
モニターを確認する。
三番手。
カナタ。
四番手。
赤羽。
五番手。
ベンジャミン。
赤羽のフェラーリは、カナタの86を猛追している。
そして、その真後ろにはカマロ。
間もなく、最終ストレートへ向かう区間。
このままなら、三台による激しい順位争いが始まるだろう。
メイは、静かに微笑んだ。
そして。
『……ベン』
「……はい」
『あなたの前を走っているフェラーリだけど……』
「……うん」
『私、カナタが表彰台を逃すところなんて見たくないのよ』
「……」
ベンジャミンは、思わず眉をひそめた。
どうして、ここでカナタの話が出てくる。
いや。
確かに、今のカナタは三番手。
そして、その背後には赤羽のフェラーリ。
さらに、自分のカマロ。
つまり――。
「……姉貴?」
『何?』
「……それって、まさか……」
メイは、少しだけ声を低くした。
そして。
実に、あっさりと言い放った。
『あの男を負かしなさい』
「…………」
ベンジャミンは、固まった。
前方のフェラーリ。
そのさらに前に、カナタの86。
そして。
片耳のヘッドセットから聞こえる、姉の声。
数秒間の沈黙。
やがて。
ベンジャミンは、ようやく口を開いた。
「……は?」