MFG GREAT ––ナスカーの刺客–– 作:車っていいなって思うんすよね
日本にやって来て、まだ二日目。
ベンジャミンは、早くも人生最大級の危機に直面していた。
場所は東京都内にある、とあるオフィスビル。
その一室に設けられた社長室で、彼は革張りのソファに腰掛けながら、目の前の人物の顔色をうかがっていた。
「……で?」
「…………」
「何か言うことは?」
「えーっと……」
ベンジャミンは額にうっすらと汗を浮かべる。
目の前にいるのは、美しいブロンドの髪を持つ女性だった。
仕立ての良いスーツを着こなし、端正な顔立ちに知性を漂わせている。
彼女の名前はメイ。
ベンジャミンの実の姉であり、現在は自身の会社を経営する若き実業家でもある。
近年は日本での事業拡大にも力を入れており、今回ベンジャミンが来日するにあたっても、彼女の存在は非常に大きかった。
ただし。
それとこれとは話が別である。
「ベンジャミン?」
「は、はいっ!」
「昨日、私に何て言ったか覚えてる?」
「もちろん! 日本に着いたら真っ先に姉貴のところに顔を出すって!」
「そうね。ちゃんと覚えてるじゃない」
「だろ!? 俺って記憶力いいんだぜ!」
「それで、今日の約束は何時だったかしら?」
「…………」
沈黙。
「……十時?」
「そう。十時よね」
メイはにっこりと微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、ベンジャミンの背筋に冷たいものが走る。
「今、何時?」
「……十時、四十分?」
「四十七分よ」
「…………」
「何か言うことは?」
「すいませんでしたぁぁぁ!!」
ベンジャミンは勢いよく頭を下げた。
幼い頃からカートに乗り、アメリカのレース界で数々のライバルと戦ってきた彼だが、どうしても勝てない相手が一人だけいる。
それが、この姉だった。
メイは小さくため息をつく。
「まったく……。日本に来ても相変わらずなんだから」
「いやぁ、日本の電車ってスゲェな! 時間どおりに来るし、駅もデカいし! 気づいたら全然違う方向に行っててさ!」
「つまり、道に迷ったのね?」
「……はい」
「最初からそう言いなさい」
呆れたように言いながらも、メイはどこか楽しそうだった。
久しぶりに顔を合わせた弟が、相変わらずの調子だったからだろう。
彼女は机の上に置かれたタブレットを手に取る。
「さて。お説教はこれくらいにして、本題に入りましょうか」
「おっ!」
ベンジャミンの表情が一瞬で明るくなった。
「待ってました! MFGの話だろ!?」
「ええ。あなた、本気で参戦するつもりなのよね?」
「当たり前だろ!」
彼は勢いよく立ち上がった。
「あんな面白そうなレース、黙って見てられるかよ! しかもカナタまで走ってんだぜ!? だったら俺も出るしかねえじゃん!」
「……本当に、昔から変わらないわね」
「へへっ! 褒め言葉として受け取っとくぜ!」
「褒めてないわよ」
即答だった。
メイはタブレットの画面を操作しながら続ける。
「MFGは世界中から注目されているモータースポーツよ。日本で事業を広げている私たちにとっても、宣伝効果は十分に期待できるわ」
「つまり?」
「あなたのスポンサーは、私の会社が引き受ける」
「よっしゃああああ!!」
ベンジャミンは両拳を突き上げた。
「さっすが姉貴! 世界一! いや、宇宙一の姉ちゃんだぜ!!」
「ただし」
その一言で、彼の動きが止まった。
「……ただし?」
「条件があるわ」
「じょ、条件?」
メイは人差し指を立てた。
「まず、無茶な走りをしないこと」
「…………」
「そして、車を壊さないこと」
「…………」
「何よ、その顔」
「いや、あのさ……姉貴?」
「何?」
「俺、レースに出るんだよな?」
「そうよ」
「それって、無茶するなって言われても……」
「何か問題でも?」
「いえ! まったくありません!!」
再び直立不動になるベンジャミン。
メイは満足そうに頷いた。
「よろしい」
(くっそぉ……! やっぱ姉貴には勝てねえ……!)
心の中でそう嘆きながら、ベンジャミンは再びソファに腰を下ろした。
もっとも、彼自身も姉が本気でレースをやめさせようとしているわけではないことくらい理解している。
メイは昔から、彼がレースに情熱を注いでいることを誰よりも知っていた。
そして、その情熱を応援してくれる人物でもあった。
ただ、少々心配性で、怒らせると恐ろしく怖いだけだ。
「それと、MFGへのエントリー手続きも進めてあるわ」
「マジで!? 仕事早えな!」
「あなたに任せたら、締め切りまで忘れて遊んでいそうだから」
「ぐっ……否定できねえ……!」
メイがタブレットを差し出す。
そこには、MFGへのエントリー情報が表示されていた。
ドライバー名。
そして、エントリーナンバー。
『BENJAMIN RIVINGTON』
『No.283』
「……283か!」
ベンジャミンは嬉しそうに画面を覗き込んだ。
「へぇ、いいじゃん!」
「番号に問題はない?」
「全然! 何番だろうが、速く走ることには変わりねえし!」
「なら、これで進めるわね」
「ああ!」
ベンジャミンはもう一度、画面に表示された自分の名前を見る。
そして、小さく笑った。
「……名前も、これでいいぜ」
「ええ。わかってるわ」
メイは短く答え、タブレットを閉じた。
「さて。次は一番大事なものね」
「一番大事なもの?」
「あなた、何に乗ってレースするつもりだったの?」
「…………」
ベンジャミンは固まった。
そう。
MFGに出場するには、当然ながら車が必要である。
しかし、彼はアメリカから日本に飛んできたばかり。
レース用の車など、まだ一台も用意していなかった。
「……あ」
「まさかとは思うけど、何も考えてなかったの?」
「いや! 考えてたぜ! もちろん!」
「じゃあ、どんな車?」
「えーっと……」
数秒の沈黙。
「……速いやつ?」
「…………」
メイのこめかみが、ぴくりと動いた。
「ベンジャミン?」
「すいませんでしたぁぁぁ!!」
本日二度目の謝罪だった。
そんな弟を見て、メイはとうとう吹き出してしまった。
「ふふっ……まったく、しょうがない子ね」
「……姉貴?」
「安心しなさい。車なら、もう用意してあるわ」
「…………へ?」
ベンジャミンは目を丸くする。
「マジで?」
「ええ」
「ホントに?」
「本当よ」
「どんな車!?」
身を乗り出す弟に、メイはいたずらっぽく微笑んだ。
「それは、見てからのお楽しみ」
そして、椅子から立ち上がる。
「行くわよ、ベン」
「お、おう!」
こうしてベンジャミンは、姉の後についてオフィスを後にした。
これから出会うことになる、自分の新しい相棒への期待を胸に膨らませながら。
* * *
「……着いたわよ」
メイに連れられてやって来たのは、とあるガレージだった。
建物の外観はごく普通のものだったが、内部は広く、設備も整っている。
そして、その中央。
一台の車が、静かに佇んでいた。
「…………」
ベンジャミンは言葉を失った。
美しいターコイズグリーンのボディ。
低く構えたフロントノーズ。
力強く張り出したフェンダー。
そして、ひと目見ただけでアメリカンマッスルカーだとわかる、堂々たるプロポーション。
その車の正体は――
「……カマロ?」
思わず呟く。
メイは得意げに微笑んだ。
「シボレー・カマロSS。6.2リッターV型8気筒エンジン搭載、最高出力453馬力。トランスミッションは10速オートマチックよ」
「…………」
「どう?」
返事はなかった。
なぜなら。
「う……」
「う?」
「うおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」
突然、ベンジャミンが絶叫したからだ。
「カマロじゃねえかぁぁぁぁ!!!」
彼は全速力で車へ駆け寄った。
「しかもSS! V8! 6.2リッター! 10AT!! おまけにこのカラー!!」
車の周囲をぐるぐると回りながら、興奮した声を上げる。
「マジかよ! マジかよ姉貴!! 最高じゃねえか!!」
「気に入ったみたいね」
「気に入ったなんてもんじゃねえよ!!」
ベンジャミンはボディを傷つけないよう気をつけながら、その曲線にそっと手を添えた。
「ハハッ……久しぶりだな、カマロ……!」
懐かしい名前だった。
アメリカでレースに明け暮れていた頃。
彼がNASCARで戦っていたとき、ステアリングを握っていたマシンも、シボレー・カマロだった。
もちろん、NASCARのレースカーと市販のカマロSSでは、構造も性能もまるで違う。
それでも、この名前を聞くだけで胸が熱くなる。
エンジンの咆哮。
オーバルコースを埋め尽くす観客。
バンクを駆け抜けるマシンの振動。
何台もの車が、わずかな隙間を奪い合う激しいバトル。
そのすべてが、彼の身体に刻み込まれている。
「……へへっ」
自然と笑みがこぼれた。
「やっぱ最高だぜ、アメリカンマッスル!」
メイはそんな弟を、少し離れた場所から眺めていた。
「日本のレースだから、日本車のほうがいいかとも思ったんだけど」
「何言ってんだよ!」
ベンジャミンは振り返る。
「こいつでいい! いや、こいつがいいんだ!」
そして、カマロのボンネットを見つめた。
「俺には、こいつが一番しっくりくる!」
「そう。それならよかったわ」
メイは満足そうに頷く。
ベンジャミンは運転席のドアを開け、シートに身体を滑り込ませた。
低い着座位置。
手に馴染むステアリング。
視界の先に広がる長いボンネット。
そして、アクセルを踏み込む足元の感覚。
「……いいねぇ」
彼は口元を吊り上げた。
「こいつは楽しそうだ」
シートポジションを調整し、ステアリングに両手を添える。
「姉貴! エンジンかけていいか!?」
「いいけど、あんまり騒がしくしないでよ?」
「任せとけ!」
ベンジャミンはスタートボタンを押した。
次の瞬間。
――ヴォルルルルルンッ!!
重厚なエンジンサウンドが、ガレージの中に響き渡った。
「うっひょおおおおお!!」
ベンジャミンは歓声を上げる。
「これだよ! これこれ!!」
アクセルを軽く煽る。
――ヴォンッ!!
――ヴォルルンッ!!
V8エンジン特有の太い排気音が、彼の胸を震わせた。
「ハハハッ! たまんねえな!」
内燃機関車の製造が終わり、EVや燃料電池車が主流となったこの時代。
そんな世界だからこそ、ガソリンエンジンが奏でる音には、特別な魅力がある。
ましてや、大排気量の自然吸気V8エンジンともなればなおさらだ。
「なあ姉貴! ちょっと走ってきていいか!?」
「構わないけど、ちゃんと交通ルールは守るのよ」
「わかってるって!」
「それと、事故を起こさないこと」
「はいはい!」
「返事は一回!」
「はいっ!」
ベンジャミンは慌てて背筋を伸ばした。
その様子を見て、メイは苦笑する。
「本当に……車に乗ると子供みたいになるんだから」
「へへっ! 男ってのは、いつまで経ってもガキなんだよ!」
「威張って言うことじゃないわね」
そう言いつつも、メイは嬉しそうだった。
ベンジャミンは再びステアリングを握り締める。
その顔には、レーサーとしての好奇心が満ちていた。
「よーし……!」
目の前にあるのは、日本の公道。
そして、その先に待っているのは、世界中の猛者たちが集うMFG。
カマロSSは、決して小さな車ではない。
むしろ日本の狭い山道では、その大柄なボディが不利に働く場面も多いだろう。
車重だって軽くはない。
しかし。
(だから何だってんだ?)
ベンジャミンは笑った。
(そんなもん、走ってみなきゃわかんねえだろ!)
NASCARでは、重いマシンを高速で操る技術を磨いてきた。
USFジュニアでは、繊細なマシンコントロールも叩き込まれた。
そして何より。
彼は、車を走らせることが大好きだった。
「さあて……」
ブレーキを踏み、シフトをドライブへ入れる。
「日本の道ってヤツを、味わわせてもらうぜ!」
ターコイズグリーンのカマロSSが、ゆっくりと走り出した。
* * *
それからしばらくして。
「いやぁ~! 最高だったぜ!!」
試運転を終えたベンジャミンは、満面の笑みでガレージへ戻ってきた。
「いい車じゃねえか! パワーもあるし、トルクも太い! ATの変速も悪くねえ!」
「気に入ってくれたなら何よりよ」
「それに、あのV8サウンド! やっぱ最高だな!」
興奮冷めやらぬ様子で、ベンジャミンはカマロの魅力を語り続ける。
「10速ATってのも面白いぜ! パドルで操作すりゃ自分のタイミングでギアを選べるし、使い方次第じゃかなり武器になる!」
「そう」
「ただ、やっぱ重さは気になるな。日本の峠道を攻めるなら、ブレーキと足回りはちゃんと仕上げねえと」
「ふぅん」
「タイヤも重要だよな! あとはデフの効き方とか、コーナーでの姿勢とか……」
「…………」
メイは黙って話を聞いていた。
しかし。
「……あれ?」
突然、ベンジャミンの声が止まった。
「どうしたの?」
「…………」
彼はカマロを見つめる。
そして、首を傾げた。
「……そういやさ」
「何?」
「この車、誰が整備するんだ?」
「…………」
メイは瞬きをした。
「……あなたじゃないの?」
「いやいやいや! そりゃ俺だって車のことはわかるぜ!? でも本格的なセッティングとか、レース中のメンテナンスとか、全部一人でやるのは無理だろ!」
ベンジャミンは腕を組んだ。
「MFGって公道レースなんだよな? だったらブレーキとかは相当酷使するはずだ」
「そうでしょうね」
「それに、レースのたびに車の状態を確認してくれるヤツも必要だし……」
そこで、ようやく気づいた。
「……あれ?」
「…………」
「俺、メカニックいなくね?」
沈黙。
メイはゆっくりと目を閉じた。
「……ベンジャミン」
「はい」
「あなた、今まで何を考えていたの?」
「…………」
「まさか、車と自分さえいれば何とかなると思ってた?」
「…………」
「ベン?」
「……思ってました」
「はぁ……」
メイは深いため息をついた。
「本当に、もう……」
「だ、だってよ! アメリカじゃチームがいたし! メカニックもエンジニアもいたし! そりゃ、日本でも何とかなるかなって!」
「何とかなるわけないでしょう」
「ですよねぇ……」
ベンジャミンは頭を抱えた。
言われてみれば当然の話だった。
どれほど優秀なドライバーでも、車の性能を最大限に引き出すには、優秀なメカニックが必要になる。
特にMFGのような、過酷な公道レースではなおさらだ。
「うーん……」
ベンジャミンは唸った。
「どうすっかなぁ……」
日本に知り合いがまったくいないわけではない。
だが、レース車両の整備を安心して任せられる人物となると、話は別だ。
ましてや、シボレー・カマロSSというアメリカ車である。
普通の整備工場に飛び込んで、いきなりMFG用のセッティングを頼むわけにもいかない。
「うーん……うーん……」
しばらく考え込んでいたベンジャミンだったが。
「……あっ!」
突然、顔を上げた。
「そうだ!」
「今度は何?」
「カナタだよ!」
「…………!」
その名前を聞いた瞬間。
メイの表情が、ほんのわずかに変わった。
「……カナタ?」
「ああ!」
ベンジャミンは勢いよく頷く。
「アイツ、MFGに出てんだろ!? だったら、メカニックとか整備工場とか、絶対に知ってるはずじゃねえか!」
「……そうね」
「だったらカナタに聞けばいいんだよ! 何なら、そのメカニックを紹介してもらえばいい!」
ベンジャミンは得意げに胸を張った。
「ハハッ! 俺って天才じゃね!?」
「……単に、今まで思いつかなかっただけでしょう?」
「うぐっ!」
図星だった。
しかし、ベンジャミンはめげなかった。
「と、とにかく! カナタに会えば何とかなるって!」
「そうね。確かに、あの子なら力になってくれるかもしれないわ」
メイは少し考えるように顎へ手を当てる。
そして、何気ない口調で付け加えた。
「カナタは今、緒方自動車というところにお世話になっているみたいよ」
「……へ?」
「神奈川県にある自動車整備工場よ。MFGで使用しているトヨタ86も、そこで面倒を見てもらっているみたい」
「…………」
ベンジャミンは姉を見た。
「……姉貴?」
「何?」
「何でそんな詳しいんだ?」
「…………」
一瞬。
メイの動きが止まった。
「……別に。仕事で調べただけよ」
「仕事?」
「そう。MFGはスポンサーとしても注目しているイベントだもの。出場選手の情報くらい把握していて当然でしょう?」
「ふーん……」
ベンジャミンはじっと姉の顔を見つめる。
そして。
「……へぇ~?」
にやり、と笑った。
「な、何よ?」
「いやぁ~? 別にぃ~?」
「……ベンジャミン?」
「そういや姉貴ってさぁ、昔っからカナタのこと――」
「ベンジャミン?」
「はいっ!!」
即座に口を閉じる。
メイはにっこりと微笑んでいた。
しかし、その目は笑っていなかった。
「何か言いたいことでも?」
「いえ! ありません!!」
「そう」
メイは満足そうに頷く。
一方のベンジャミンは、内心で冷や汗を流していた。
(あっぶねぇ~……!)
危うく、余計なことを口走るところだった。
もっとも。
ベンジャミンがそう思うのには、理由がある。
彼とカナタは、幼い頃から何度も顔を合わせてきた。
母親同士が姉妹だったこともあり、二人はただの従兄弟というより、親しい友人のような関係だった。
そして、そこには当然、メイもいた。
昔からメイは、カナタのことを何かと気にかけていた。
カナタが遊びに来ると知れば、いつもより機嫌が良くなる。
カナタが何かを話せば、嬉しそうに耳を傾ける。
普段は弟に対して容赦のない彼女が、カナタにだけは妙に優しかったことも覚えている。
当時のベンジャミンには、その理由がよくわからなかった。
だが、今ならわかる。
(へへっ……姉貴も変わんねえなぁ)
思わず笑みがこぼれた。
「……何を笑ってるの?」
「い、いや!? 何でもねえよ!?」
慌てて表情を引き締める。
これ以上からかえば、本当に何をされるかわからない。
ベンジャミンは話題を戻した。
「そ、それで! その緒方自動車ってところに行けば、カナタに会えるかもしれねえんだな!?」
「ええ。いつもいるとは限らないけど、少なくとも連絡は取れるでしょうね」
「よっしゃ! だったら話は早え!」
ベンジャミンは勢いよく立ち上がった。
「早速行ってくるぜ!」
「ちょっと待ちなさい」
「ん?」
メイがスマートフォンを操作する。
すぐに、ベンジャミンのスマートフォンへメッセージが届いた。
「場所を送ったわ」
「おっ! サンキュー、姉貴!」
「それと」
「ん?」
メイは少しだけ視線を逸らした。
「……カナタに会ったら」
「おう」
「……元気にしているか、聞いておいて」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
少しだけ柔らかく、どこか懐かしそうな響きがあった。
ベンジャミンは一瞬だけ目を丸くする。
そして、にっと笑った。
「へへっ! 了解!」
「……何よ、その笑い方」
「いやぁ~? 何でもねえって!」
「…………」
メイがじろりと睨む。
ベンジャミンは慌ててカマロへ向かった。
「そ、それじゃ行ってくるぜ!」
「ベン!」
「今度は何だよ!?」
「安全運転!」
「わかってるって!」
「事故を起こさない!」
「はいはい!」
「それから!」
「ああもう! わかってるってば!!」
運転席へ飛び乗り、ドアを閉める。
そして、エンジンを始動させた。
――ヴォルルルルンッ!!
再び響き渡る、重厚なV8サウンド。
「じゃあな、姉貴!」
ベンジャミンは窓から手を振った。
「行ってきまーす!!」
ターコイズグリーンのカマロが、ガレージを後にする。
メイはその後ろ姿を見送りながら、小さくため息をついた。
「……まったく、あの子ったら」
だが、その表情はどこか優しかった。
やがて彼女は、手元のタブレットに視線を落とす。
画面には、MFGの出場ドライバーに関する情報が表示されていた。
その中に、一人の青年の写真がある。
黒髪の、穏やかな表情をした青年。
『KANATA KATAGIRI』
メイはしばらく、その写真を見つめていた。
「……カナタ」
小さく、名前を呟く。
「元気にしているといいけど……」
その声は、誰にも聞こえることなく、静かなガレージの中へ消えていった。
* * *
――ヴォオオオオオオオッ!!
神奈川県へ向かう道路を、一台のターコイズグリーンのカマロSSが走っていた。
「いやぁ~! 気持ちいいなぁ!!」
運転席では、ベンジャミンが上機嫌でステアリングを握っていた。
もちろん、交通ルールはきちんと守っている。
何しろ、姉からあれだけ念を押されたのだ。
万が一、違反の知らせでも届こうものなら、あとで何を言われるかわかったものではない。
「……ま、今は大人しく走っとくか!」
ベンジャミンは笑った。
一般道では、カマロの性能を全開にすることなどできない。
それでも、大排気量V8エンジンが生み出す豊かなトルクは、街中を流すだけでも十分に気持ちがいい。
アクセルを少し踏み込めば、余裕たっぷりに車体が加速する。
10速ATの変速も滑らかで、思っていた以上に扱いやすい。
「へへっ……こいつ、いい相棒になりそうだぜ」
信号待ちの間、ベンジャミンはステアリングを軽く撫でた。
車体に与えられるエントリーナンバーは283。
これから、この番号を背負ってMFGを戦うことになる。
世界中から集まる腕利きのドライバーたち。
ポルシェ。
フェラーリ。
ランボルギーニ。
アルピーヌ。
そして、日本が誇るスポーツカーたち。
そんな猛者たちの中に、アメリカンマッスルカーで殴り込む。
「……ハハッ!」
想像しただけで、笑いが込み上げてきた。
「面白くなってきたじゃねえか!」
だが。
彼が日本に来た理由は、単にMFGというレースに興味を持ったからだけではない。
「……カナタ、か」
ふと、従兄弟の名前を口にする。
幼い頃から、何度も一緒に遊んだ相手。
同じように車が好きで、レースが好きだった少年。
最後に会ってから、もう随分と時間が経っていた。
「まさか、あいつがMFGに出てるとはなぁ……」
ベンジャミンは思い出す。
日本へ向かう飛行機の中で見た、MFGのレース映像。
数々のハイパワーマシンに混じって走る、一台のトヨタ86。
鮮やかなライトニングレッドのボディ。
決して有利とは言えないマシンを操りながら、強豪たちを相手に堂々と戦っていた青年。
そのドライバーこそ、カナタだった。
「あいつ、すげぇ走りしてたよな……」
ベンジャミンは口元を吊り上げる。
映像を見ているだけでも、わかった。
カナタの走りは、ただ速いだけではない。
車の動きを理解し、タイヤのグリップを感じ取り、限られた性能を最大限に引き出している。
あの走りを見た瞬間。
ベンジャミンの中に眠っていた闘争心が、一気に燃え上がったのだ。
「へへっ……」
ステアリングを握る手に、自然と力が入る。
「負けてらんねえよな、カナタ!」
もちろん、今すぐ勝負するつもりはない。
まずは久しぶりの再会だ。
そして、できればメカニックの件について相談に乗ってもらいたい。
何しろ、MFGという未知の舞台で戦うためには、信頼できる仲間が必要なのだから。
「……っと!」
カーナビから案内音声が流れた。
目的地までは、あと少し。
「おっ、もうすぐか!」
ベンジャミンは前方の道路へ視線を戻す。
目的地は、緒方自動車。
カナタがMFGで使用しているトヨタ86の整備を担当しているという、小さな自動車整備工場だ。
「さーて……どんなところなんだろうな?」
期待に胸を膨らませながら、彼はカマロを走らせた。
* * *
「……ここか?」
カーナビが目的地への到着を告げる。
ベンジャミンは速度を落とし、目の前の建物を見た。
そこにあったのは、ごく普通の自動車整備工場だった。
大きなレースチームのファクトリーというわけでもない。
最新設備を備えた巨大なガレージというわけでもない。
どちらかと言えば、街中にある小さな整備工場といった雰囲気だ。
「……へぇ」
ベンジャミンは興味深そうに目を細めた。
「こういうところ、嫌いじゃねえぜ」
アメリカにも、似たようなガレージは数多く存在する。
建物は古くても、そこで働くメカニックの腕は一級品。
そんな工場を、彼はこれまで何度も見てきた。
何より。
あのカナタが頼りにしている場所だ。
きっと、何か特別なものがあるのだろう。
ベンジャミンはカマロを停め、エンジンを切った。
先ほどまで響いていたV8サウンドが止まり、周囲に静けさが戻る。
「よっしゃ!」
運転席から降りた彼は、大きく伸びをした。
「到着っと!」
改めて工場の入口を見つめる。
そこには、確かに『緒方自動車』の文字があった。
「間違いねえな」
ベンジャミンはにっと笑った。
そして、何のためらいもなく工場へと足を踏み入れる。
「スミマセーン!」
元気いっぱいの声が響き渡った。
「誰か、いますかー!?」
すると。
「……はい?」
工場の奥から、一人の男性が顔を出した。
作業着姿のその男性は、突然現れた外国人の青年を見て、不思議そうな表情を浮かべる。
「えーっと……何かご用ですか?」
「おっ! よかった、人がいた!」
ベンジャミンは嬉しそうに笑った。
「ここ、緒方自動車……合ってますか?」
「ええ、そうですけど……」
「オーケー! あなた、ミスター緒方?」
「そうですけど……」
緒方は首を傾げる。
目の前の青年は、見たところまだ十代くらいだろうか。
明るい髪色に、いかにも人懐っこそうな笑顔。
日本語の発音は悪くない。
だが、時折助詞が抜けたり、言葉を探すように間を置いたりする。
外国人としては日本語をよく理解しているようだが、まだ話し慣れていないらしい。
そして何より、工場の外に停まっている車が気になる。
(……カマロ?)
鮮やかなターコイズグリーンのボディ。
大柄な車体に、迫力のあるフロントマスク。
見るからに強力なエンジンを積んでいそうなアメリカンマッスルカーだ。
(また、ずいぶん珍しい車で来たな……)
緒方がそんなことを考えていると、ベンジャミンが口を開いた。
「いやぁ、よかった! ちゃんと、ここに来られた!」
「は、はあ……」
「日本の道、ムズカシイね! ナビなかったら、俺、絶対迷ってたよ!」
「そうですか……」
緒方は困惑した。
どうやら、かなり陽気な人物らしい。
だが、肝心の用件がさっぱりわからない。
「あの……それで、今日はどういったご用件で?」
「ああ、そうだった!」
ベンジャミンは手を叩いた。
「俺、人を探してます!」
「人?」
「イエス!」
彼は満面の笑みを浮かべた。
「カナタ! カナタって人、ここに来てますか?」
「……え?」
その名前を聞いた瞬間。
緒方の表情が変わった。
「カナタ……って、片桐夏向のことですか?」
「そうそう! カタギリ・カナタ! そいつ!」
「えっと……カナタの知り合いなんですか?」
「知り合い?」
ベンジャミンは一瞬だけ目を丸くした。
そして。
「ハハハハッ!!」
突然、大きな声で笑い出した。
「ノーノー! ただの知り合い、違うよ!」
「……え?」
緒方はますます困惑する。
そんな彼の前で、ベンジャミンは得意げに胸を張った。
「そうだ! 自己紹介、まだだったね!」
そして、右手を差し出す。
「俺、ベンジャミン! ベンジャミン・リヴィントン!」
その顔には、いつもの自信満々な笑みが浮かんでいた。
「よろしく、ミスター緒方!」
緒方は差し出された手を見つめた。
そして、恐る恐る握手を返す。
「え、ええ……よろしく……」
いったい、この青年は何者なのだろう。
そんな疑問を抱く緒方に、ベンジャミンは告げた。
「それで、さっきの質問だけど!」
「……はい?」
ベンジャミンは白い歯を見せ、満面の笑みを浮かべた。
「俺は――」
そして、まるで世界一の自慢話をするかのように、堂々と言い放った。
「カナタの従兄弟なんだ!!」