MFG GREAT ––ナスカーの刺客–– 作:車っていいなって思うんすよね
「俺は――カナタの従兄弟なんだ!!」
「…………はい?」
緒方は目の前の青年を見つめたまま、しばらく固まっていた。
無理もない。
突然、見慣れない外国人の青年が派手なアメリカ車で現れたかと思えば、辿々しい日本語でカナタを探し始めたのだ。
そして今度は、自分がその従兄弟だと言い出した。
「え、えっと……ちょっと待ってください。カナタの……従兄弟?」
「イエス! カズン! カナタと俺、ファミリーなんだ!」
「は、はあ……」
「俺、嘘つかないよ! カナタのママ、キャサリン! 俺のママ、オリヴィア! 二人、姉妹なんだ!」
「ええっ!?」
そこまで聞いて、緒方はようやく事態を理解した。
つまり、目の前にいるこの金髪の青年は、カナタの母方の従兄弟というわけだ。
「なるほど……そういうことだったんですね」
「そういうこと! だから、カナタに会いたいんだ!」
「分かりました。ちょっと待ってくださいね。今、カナタに連絡してみますから」
「オーケー! サンキュー、ミスター緒方!」
緒方がスマートフォンを取り出すと、ベンジャミンは嬉しそうに笑った。
その笑顔には、つい先ほどまでの勢い任せな態度とは違う、どこか子供のような無邪気さがあった。
緒方は連絡先からカナタの名前を選び、通話ボタンを押す。
数回の呼び出し音の後、聞き慣れた声が返ってきた。
『もしもし、緒方さん?』
「ああ、夏向。今ちょっと大丈夫か?」
『はい。どうかしましたか?』
「いや、それがさ……お前に会いたいって人が店に来てるんだよ」
『僕に、ですか?』
「ああ。外国人の男の子なんだけど……名前は、えっと」
緒方が青年に視線を向ける。
すると、ベンジャミンは待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「ベンジャミン! ベンジャミン・リヴィントン!」
「そうそう、ベンジャミン・リヴィントンっていう……」
『えっ!?』
電話の向こうで、カナタの声が跳ね上がった。
『今、ベンジャミンって言いました!?』
「え? あ、ああ……」
『ベンジャミン・リヴィントン!?』
「そうだけど……」
『緒方さん! その人、まだそこにいますか!?』
「ああ、目の前にいるよ」
『すぐ行きます!!』
「えっ、ちょ、夏向!?」
プツッ。
通話は一方的に切られてしまった。
「…………」
スマートフォンを耳に当てたまま、緒方は呆然とする。
いつも穏やかで落ち着いているカナタが、あそこまで興奮した声を出すのは珍しい。
どうやら、この青年が従兄弟だという話は本当らしい。
「……すぐ来るってさ」
「オー! グレイト!!」
ベンジャミンは満面の笑みを浮かべ、両手を打ち鳴らした。
「やっと会えるぜ、カナタ!」
その声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
* * *
それから、しばらくして。
緒方自動車の前に、一台のスポーツカーが姿を現した。
ライトニングレッドのボディ。
低く構えたその車は、今や世界中のモータースポーツファンから注目を集めている一台だった。
トヨタ86GT。
MFG第1戦、小田原パイクスピークで並み居るハイパワーマシンを相手に大健闘を見せた、カナタ・カタギリの愛車である。
その姿を認めた瞬間、ベンジャミンは立ち上がった。
「おっ!」
車が停車する。
運転席のドアが開き、一人の青年が飛び出してきた。
黒髪に、整った顔立ち。
テレビの画面越しに見た時よりも、少し大人びた姿。
だが、その面影を見間違えるはずがなかった。
相手もまた、ベンジャミンの姿を見つけた瞬間、目を大きく見開いた。
「……ベン!?」
「カナタァァァ!!」
次の瞬間。
ベンジャミンは一直線に駆け出していた。
「うおおおお! 久しぶりだなぁ、おい!!」
「うわっ!?」
勢いよく抱きつかれたカナタが、思わずよろめく。
「ハハハッ! 元気だったか!? カナタ!!」
「ベン! ちょっと、苦しいよ!」
「なんだよ! 久しぶりの再会だってのに、つれねえなぁ!」
「そうじゃなくて……!」
言いながらも、カナタは笑っていた。
そして、ベンジャミンの背中に腕を回す。
「……久しぶりだね、ベン」
「おう!」
「本当に……久しぶりだ」
懐かしい顔。
懐かしい声。
最後に会った時よりも背が伸び、身体つきも逞しくなっている。
それでも、底抜けに明るい笑顔は昔のままだった。
「ベン、全然変わってないね」
「ハァ!? どこがだよ! 俺、昔よりずっとデカくなっただろ!」
「うん。身体はね」
「おい! それどういう意味だ!?」
「ふふっ」
「くそっ! 相変わらずだな、お前!」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
先ほどまで辿々しい日本語を話していたベンジャミンだったが、カナタとの会話は自然と英語に切り替わっていた。
幼い頃、何度も顔を合わせ、一緒に遊び回った従兄弟同士。
長い時間が経っても、その距離は少しも変わっていなかった。
少し離れた場所から、その様子を眺めていた緒方は、思わず頬を緩めた。
「……本当に従兄弟だったんだなぁ」
どうやら自分は、とんでもなく賑やかな客を迎え入れてしまったらしい。
* * *
「それにしても、びっくりしたよ。ベンが日本に来てるなんて」
「ハハッ! サプライズ成功ってやつだな!」
「いつ来たの?」
「昨日だ!」
「昨日!?」
「おう! 日本に来たばっかりだぜ!」
「そうだったんだ……」
緒方自動車の事務所。
用意された椅子に腰を下ろし、二人は向かい合っていた。
緒方が気を利かせて飲み物を持ってきてくれたが、ベンジャミンはそれに手をつけることもなく、カナタとの会話に夢中になっている。
「それよりカナタ! MFGのレース、見たぜ!」
「えっ、本当?」
「もちろん! 小田原パイクスピーク! あの86でポルシェやフェラーリ相手にあそこまでやるなんてな! 最高だったぜ!」
「ありがとう」
「お前、昔からそうだったもんなぁ。自分よりデカい相手にも、平気で勝負を挑んでさ!」
「ベンだって、そうだったじゃないか」
「俺はいいんだよ! 俺だからな!」
「何それ」
「ハハハハッ!」
いつもの調子で豪快に笑うベンジャミン。
だが、ふと。
その笑顔が、少しだけ静かなものに変わった。
「……なあ、カナタ」
「ん?」
「その……ずっと言わなきゃって、思ってたことがあるんだ」
カナタは首を傾げた。
ベンジャミンは視線を落とし、膝の上で両手を組む。
先ほどまでの騒がしさが嘘のようだった。
「キャサリン叔母さんのことだ」
「…………」
カナタの表情が、わずかに強張った。
「……うん」
「俺さ……葬式、行けなかっただろ」
「…………」
「……あの日、どうしても外せないレースがあったんだ」
ベンジャミンは、悔しそうに唇を噛んだ。
「すげえ大事なレースだった。チームからも、絶対に出ろって言われてた」
「……そうだったんだ」
「でも、俺は行きたかったんだよ。キャサリン叔母さんの葬式に」
ベンジャミンは拳を握り締めた。
「休ませてくれって頼んだ。何度も頼んだんだ。でも……許してもらえなかった」
「…………」
「結局、俺はレースに出た。叔母さんの葬式にも行けず、お前のそばにもいてやれなかった」
その声は、いつもの陽気な彼からは想像できないほど静かだった。
「……今でも考えるんだ」
「……ベン?」
「あの時、全部放り出してでも行くべきだったんじゃねえかって」
ベンジャミンは顔を上げた。
「本当に、ごめんな。カナタ」
カナタは少しの間、何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと首を横に振る。
「……謝らないで、ベン」
「……カナタ?」
「ベンが、そんなふうに思ってくれてたなんて……知らなかった」
カナタは穏やかに微笑んだ。
「でも、僕は大丈夫だよ。ベンが僕のことを心配してくれてたのは、ちゃんと分かってるから」
「…………」
「それに……こうして、また会えたじゃないか」
ベンジャミンは目を瞬かせた。
そして、小さく息を吐く。
「……ったく。お前って奴は」
困ったように笑いながら、ベンジャミンは天井を見上げた。
あの時、どうするべきだったのか。
その答えは、今でも分からない。
けれど。
目の前の従兄弟が、こうして自分を迎えてくれた。
それだけで、少しだけ胸のつかえが取れた気がした。
「……元気にしてたか?」
「うん」
「無理してねえか?」
「大丈夫だよ。元気にしてる」
「本当だな?」
「本当だって」
「……そうか」
ベンジャミンはようやく安堵したように息を吐いた。
「メイもさ、すげえ心配してたんだぜ」
「メイが?」
「おう。実はあいつも今、日本にいるんだ」
「えっ!? メイも!?」
「そうそう。仕事の関係で、俺より先に日本に来ててさ」
「そうだったんだ……」
「ま、あいつは相変わらず忙しそうだけどな!」
ベンジャミンは肩をすくめた。
「でも、お前のことはずっと気にしてたぜ。カナタは元気なのか、ちゃんと飯食ってるのか、困ってないかってな」
「……そっか」
カナタは少しだけ目を伏せた。
メイの顔が、懐かしく思い出される。
幼い頃から、何かと自分の世話を焼いてくれた年上の従姉。
そんな彼女にも、長い間心配をかけてしまっていたのだ。
「……ごめんね、ベン」
「あ?」
「ベンにも、メイにも。心配かけちゃって」
「何言ってんだよ!」
ベンジャミンは笑いながら、カナタの肩を叩いた。
「家族なんだから、心配するのは当たり前だろ!」
「……うん」
「メイにも伝えとくぜ。カナタは元気だったってな!」
「ありがとう。僕からも連絡するよ」
「おう! そうしてやってくれ!」
そこで、カナタはふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば……」
「ん?」
「オリヴィア叔母さんは元気?」
「…………」
その瞬間。
ベンジャミンの笑顔が、止まった。
* * *
「……ベン?」
突然黙り込んだ従兄弟を見て、カナタは不思議そうに首を傾げた。
ベンジャミンは何かを言おうとして、口を開く。
だが、言葉が出てこなかった。
「……ベン、どうしたの?」
「……カナタ」
その声は、ひどく静かだった。
「……お前、知らないんだな」
「え?」
ベンジャミンは視線を落とした。
胸の奥が、じわりと痛んだ。
カナタが知らないことは、分かっていた。
祖父母からも、そう聞いていた。
キャサリンが亡くなった後、カナタはひどく塞ぎ込んでいたという。
ただでさえ母親を失った悲しみに苦しんでいる孫に、これ以上辛い知らせを届けたくない。
そう考えた祖父母は、オリヴィアの死を伝えなかった。
ベンジャミンも、メイも、その気持ちは理解していた。
だから、二人もカナタには知らせずにいた。
だが――。
いつまでも、隠しておけることではない。
「……カナタ。落ち着いて聞いてくれ」
「…………?」
「ママは……オリヴィアは、もういないんだ」
「…………え?」
カナタの表情が、凍りついた。
「……どういう、こと?」
ベンジャミンは、一度だけ深く息を吸った。
「キャサリン叔母さんが亡くなった後……ママ、すげえショック受けちまってさ」
「…………」
「それからずっと、体調を崩してたんだ」
言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「……一年前に、亡くなった」
「…………」
カナタは、何も言わなかった。
いや。
何も、言えなかった。
オリヴィア。
母キャサリンの妹であり、自分にとっても大切な叔母だった。
明るく、優しく、いつも笑っていた人。
幼い頃、ベンやメイと遊び回っていた自分たちを、キャサリンと一緒に見守ってくれていた人。
そんな叔母が、もうこの世にいない。
「……そんな」
ようやく絞り出した声は、ひどく小さかった。
「……僕、知らなかった」
「……ああ」
「誰も……教えてくれなかったから……」
「じいちゃんたちがさ、お前にこれ以上辛い思いをさせたくなかったんだよ」
ベンジャミンは静かに続ける。
「俺もメイも、その気持ちは分かった。だから……黙ってたんだ」
「…………」
「ごめんな、カナタ」
カナタは首を横に振った。
「……違うよ」
「ん?」
「謝るのは……僕の方だ」
「……カナタ?」
「ベンも、メイも……きっと、すごく辛かったのに」
カナタの声が、わずかに震えた。
「僕は……何も知らなくて……」
「…………」
「……ごめん、ベン」
その言葉を聞いた瞬間。
ベンジャミンは、思い切り眉をひそめた。
「……おいおい」
「…………?」
「何でお前が謝るんだよ」
「だって……」
「だっても何もねえだろ!」
ベンジャミンはカナタの肩に手を置いた。
「お前が悪いことなんて、一つもねえよ」
「……ベン」
「キャサリン叔母さんが亡くなって、お前だってすげえ辛かっただろ。そんな時に、ママのことまで聞かされたら……」
そこまで言って、言葉を切る。
それから、困ったように笑った。
「……だからさ。もう、謝るのはなしだ」
「…………」
「俺も謝らねえ。お前も謝らねえ。それでいいだろ?」
カナタは、しばらくベンジャミンを見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「……うん」
「よし!」
ベンジャミンは満足げに笑った。
そして、ふと天井を見上げる。
「……それにな」
「……?」
「きっと今頃、キャサリン叔母さんとママは、天国で一緒に俺たちを見てるさ!」
「…………」
「二人とも、昔から仲良かっただろ? だから、向こうでも仲良くやってるに決まってる!」
ベンジャミンは、いつもの豪快な笑みを浮かべた。
「で、俺たちがレースで派手に暴れたら、きっと大騒ぎするんだぜ!」
「……大騒ぎ?」
「おう! 『あの子たち、また無茶して!』ってな!」
「……ふふっ」
「特にうちのママなんか、絶対そう言うぜ! 俺がレースで勝った時だって、喜ぶより先に『危ない走りをするな!』って怒ってたからな!」
「……そうだったね」
「キャサリン叔母さんも、きっと同じだろ?」
「うん……きっと」
カナタの脳裏に、懐かしい光景が浮かんだ。
幼い自分たち。
笑いながら追いかけてくる母たち。
そして、何か悪戯をするたびに聞こえてきた、二人の声。
もう二度と戻らない時間。
けれど、その思い出まで失われたわけではない。
「……ありがとう、ベン」
「おう!」
カナタは、少しだけ笑った。
その表情を見て、ベンジャミンもまた笑う。
悲しいことは、悲しい。
母親を失った痛みが、簡単に消えるはずもない。
それでも。
こうして再び顔を合わせ、昔のように笑い合えることが、今は何より嬉しかった。
* * *
「……よし!」
しばらくして。
ベンジャミンは突然、両手で自分の頬を叩いた。
パンッ! と小気味よい音が響く。
「うおっ!?」
少し離れた場所で書類を整理していた緒方が、驚いて振り返った。
「な、何ですか!?」
「オーケー! 湿っぽい話、これで終わりだ!」
「……ベン?」
カナタが目を瞬かせる。
ベンジャミンは勢いよく立ち上がると、両手を腰に当てた。
「カナタ! 実は俺、お前にもう一つ話があるんだ!」
「話?」
「おう! とびっきりのニュースだぜ!」
その表情を見て、カナタは思わず笑った。
「……何だか、嫌な予感がするなぁ」
「何でだよ!?」
「ベンがそういう顔をしてる時って、大抵とんでもないことを言い出すから」
「ハハハッ! よく分かってんじゃねえか!」
ベンジャミンは胸を張った。
そして。
「俺も――MFGに出ることにしたんだ!!」
「…………」
カナタの動きが、ぴたりと止まった。
「…………え?」
「だから! 俺もMFGにエントリーしたんだよ!」
「……えええええっ!?」
今度はカナタが声を上げる番だった。
「ベンが!? MFGに!?」
「おう!」
「本当に!?」
「本当だって! もうエントリーも済ませたぜ!」
「いつの間に!?」
「昨日!」
「昨日!?」
カナタは思わず立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 昨日日本に来たばかりなんだよね!?」
「おう!」
「それで、もうMFGにエントリーしたの!?」
「イエース!」
あまりにも堂々とした返事だった。
カナタは一瞬、言葉を失う。
そして。
「……あははっ!」
堪えきれずに笑い出した。
「やっぱりベンだ!」
「あ?」
「本当に、昔から変わってないね!」
「だから何なんだよ、それ!」
「だって、あまりにも突然なんだもん!」
「ハハハハッ! 人生ってのは勢いが大事なんだぜ!」
「もう……!」
そう言いながらも、カナタの顔には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
ベンジャミンが、MFGに参戦する。
それはカナタにとっても、思いがけない知らせだった。
幼い頃から、誰よりも速く走ることに夢中だった従兄弟。
アメリカでカートやクォーターミジェットに乗り、成長してからはフォーミュラカーやストックカーのレースでも結果を残してきた。
そんな彼が、自分と同じ舞台に立つ。
驚かないはずがない。
「……でも、嬉しいよ」
「おっ?」
「ベンと一緒にレースができるなんて、思ってなかったから」
カナタは笑った。
「すごく楽しみだ」
「……へっ!」
ベンジャミンは得意げに鼻を鳴らした。
「言っとくけど、俺は遊びに来たんじゃねえぜ?」
「うん」
「勝ちに来たんだ!」
「……うん!」
「お前が相手だろうが、容赦しねえからな!」
カナタは、その言葉に少しだけ目を細めた。
そして、はっきりと答える。
「もちろん。僕も全力で走るよ」
二人の間に、かつて何度も交わした勝負の空気が戻ってきた。
* * *
「……えええええええっ!?」
それまで二人の会話を遠巻きに見守っていた緒方が、素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
「ん?」
ベンジャミンが振り返る。
「今、MFGに出るって言いました!?」
「オー! イエス、ミスター緒方!」
「ほ、本当ですか!?」
「もちろん! 俺、もうエントリーしました!」
「ええっ!?」
緒方は思わず頭を抱えた。
カナタの従兄弟が突然現れただけでも十分驚きなのに、その従兄弟までMFGに参戦するという。
しかも、エントリー済み。
「えっと……ちなみに、いつから出るつもりなんですか?」
「ネクストレース!」
「……ネクスト?」
「次! 次のレースから!」
「次って……」
緒方は恐る恐る尋ねた。
「……芦ノ湖GT?」
「イエス!!」
「マジかぁ……」
思わず、椅子の背もたれに身体を預ける。
神奈川県の芦ノ湖周辺を舞台に開催される、MFG第2戦。
芦ノ湖GT。
そのレースに、目の前の青年が参戦するというのだ。
「でも、すごいね、ベン!」
カナタは素直に感心していた。
「もうエントリーできたんだ」
「おう! 手続きはメイがやってくれたからな!」
「メイが?」
「そうそう。今回の俺のスポンサーも、メイなんだぜ!」
「へえ……!」
「金のことは心配すんなってさ! ありがたい話だろ?」
ベンジャミンは嬉しそうに笑った。
緒方はそこで、ふと疑問を抱く。
「そういえば、ベンジャミンさん」
「イエス?」
「MFGに出るってことは……もしかして、外に停まってるあのカマロで?」
「おっ!」
その質問に、ベンジャミンはニヤリと笑った。
「……見たい?」
「え?」
「俺のマシン! 見たい?」
「いや、さっき少し見ましたけど……」
「じゃあ、もっと見せるぜ!」
そう言うが早いか、ベンジャミンは事務所のドアへと向かった。
「カモン! カナタ! ミスター緒方!」
「ちょ、ちょっと!」
慌てて後を追う緒方。
カナタも笑いながら、その後に続いた。
* * *
「…………」
緒方自動車の駐車スペース。
そこに停められていた一台の車を前に、カナタは目を丸くしていた。
「……ワオ」
思わず英語が漏れる。
ターコイズグリーンの鮮やかなボディ。
低く長いボンネットに、力強く張り出したフェンダー。
そして、見る者を威圧するような精悍なフロントフェイス。
その車こそ――。
シボレー・カマロSS。
アメリカを代表する、マッスルカーの一台である。
「どうだ!!」
ベンジャミンは愛車の前で、両手を大きく広げた。
「こいつが、俺の相棒だ!!」
「……カマロ!」
カナタが驚きの声を上げる。
「ベン、カマロで走るの!?」
「おう! シボレー・カマロSSだ!」
ベンジャミンは嬉しそうにボンネットを叩いた。
「6.2リッター! 自然吸気V8! 453馬力! こいつは最高のアメリカンマッスルだぜ!」
「すごい……!」
「しかも10速オートマチック! 今のアメ車を舐めんなよ? シフトだって、なかなか賢いんだぜ!」
ベンジャミンは、まるで自分のことのように自慢する。
そんな彼を見ながら、カナタは興味深そうに車体を眺めていた。
「……FRなんだね」
「おう!」
「大きいなぁ……」
「ハハッ! アメリカンサイズだからな!」
カナタは車の周囲をゆっくりと歩く。
フロントからリアへ。
タイヤ、ホイール、ブレーキ。
そして、車体全体のプロポーション。
その視線は、ただ珍しい車を眺めているものではなかった。
「……面白そうな車だね」
「だろ!?」
「うん。でも、MFGだと結構難しいかもしれない」
「お?」
「パワーは十分だけど……車重もあるから」
カナタは考え込むように顎へ手を添えた。
「グリップウェイトレシオを考えると、タイヤの使い方が重要になりそうだね」
「へへっ……」
ベンジャミンは、その言葉に口元を緩めた。
「そういうところ、相変わらずだな!」
「え?」
「お前ってさ、昔から車を見たら、すぐ走らせること考えるよな!」
「……ベンだってそうでしょ?」
「そりゃそうだ!」
二人は笑い合った。
一方。
その隣では、緒方が別の意味で頭を抱えていた。
「……カマロSSかぁ」
大排気量V8エンジンを搭載した、アメリカ製のマッスルカー。
日本の峠道を舞台にしたMFGで、その重量級の車体をどう扱うのか。
しかも、今から第2戦に参戦するというのだ。
「すごい車ですね……」
「サンキュー、ミスター緒方!」
「でも……大丈夫なんですか?」
「ん?」
「この車、MFGを走るんですよね?」
「イエス!」
「メカニックの方は?」
その言葉に。
ベンジャミンは、ピタリと動きを止めた。
「…………」
「…………?」
数秒の沈黙。
そして。
「……あっ!」
「……え?」
緒方の背筋に、嫌な予感が走った。
「そうだ! それだよ!」
「……はい?」
「俺、それでここに来たんだった!!」
「…………」
緒方は、天を仰いだ。
「……まさか」
そのまさかだった。
「ミスター緒方!!」
「は、はい!?」
「俺、メカニックいないんだ!!」
「えええええええっ!?」
緒方自動車の前に、再び大きな叫び声が響き渡った。
* * *
「……つまり」
事務所に戻った緒方は、額に手を当てながら話を整理していた。
「MFGへのエントリーは済んでいて、車もある。だけど、メカニックがいない……と」
「イエス!」
「……それで、うちに?」
「イエス!」
ベンジャミンは元気よく頷いた。
「カナタのメカニック、ミスター緒方だって聞いた! だから、相談したかったんだ!」
「なるほど……」
緒方は腕を組む。
確かに、自分はカナタの86の整備を担当している。
しかし、だからといって、すぐにもう一台のMFG参戦車両を引き受けられるわけではない。
それも、車種はカマロSS。
日本車とは勝手の違う、重量級のアメリカ車だ。
「うーん……」
緒方が考え込んでいると、カナタが口を開いた。
「緒方さん」
「ん?」
「何か、いい方法はありませんか?」
「……そうだなぁ」
緒方は少し考えてから、顔を上げた。
「俺一人で二台を見るのは、正直厳しいと思うんだよね」
「…………」
「でも……相談できそうな人なら、一人いる」
「え?」
ベンジャミンとカナタが、同時に反応する。
「奥山さんだよ」
「……ミスター奥山?」
ベンジャミンが首を傾げた。
「奥山広也さん。スパイラル・ゼロっていうショップをやってる人なんだ」
緒方は説明を続けた。
「特に足回りのセッティングに関しては、すごく腕のいいチューナーなんだよ」
「オー……!」
「今、俺たちも86のことで相談してるんだ」
「なるほど……」
カナタも頷いた。
確かに、奥山の技術があれば、カマロのような車でも何か活路を見出せるかもしれない。
もっとも、受けてもらえるかどうかは別問題だが。
「……ちょっと電話してみるよ」
「本当か!?」
「ああ。ただし、受けてくれるかは分からないからね?」
「オーケー! それでも助かるよ、ミスター緒方!」
緒方はスマートフォンを取り出し、奥山の連絡先を呼び出した。
数回の呼び出し音。
やがて、落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
『……緒方か。どうした?』
「あ、奥山さん。お疲れ様です」
『おう。何かあったのか?』
「実は、ちょっと相談したいことがありまして……」
『相談?』
「ええ。MFGに参戦するっていうドライバーが、うちに来てるんですけど……」
『ほう』
「メカニックがいないらしくて。できれば、奥山さんにも協力してもらえないかと思いまして」
『……ちょっと待て』
電話の向こうで、奥山が怪訝そうな声を出した。
『今からMFGに出ようって奴が、メカニックも決めてないのか?』
「……はい」
『随分と無茶な話だな』
「俺もそう思います……」
緒方は苦笑した。
『で、車は何だ?』
「ああ、それが……」
緒方は一度、窓の外へ視線を向けた。
ターコイズグリーンの大きな車体。
今まで見慣れてきた86とは、まるで違うシルエット。
「……シボレー・カマロSSです」
『…………』
沈黙。
『……は?』
「カマロです。アメリカの」
『いや、それは分かるが……』
電話の向こうから、深いため息が聞こえてきた。
『また随分と面白い車を持ち込んできたな……』
「ははは……」
『で、そいつは本気なのか?』
「……え?」
『MFGで勝つつもりがあるのかって聞いてるんだ』
緒方は、ちらりとベンジャミンを見た。
目が合う。
ベンジャミンは不思議そうに首を傾げた。
「……あの、ベンジャミンさん」
「イエス?」
「奥山さんが聞いてるんですけど……本気でMFGを走るつもりなんですよね?」
その質問に。
ベンジャミンは、一瞬だけ目を丸くした。
そして。
「……当たり前だろ?」
それまでとは違う、低い声で答えた。
「俺は、勝ちに来たんだ」
「…………」
「遊びじゃない。レースをするために日本まで来た」
真っ直ぐな瞳。
その表情には、先ほどまでの陽気な青年の面影が薄れていた。
「だから、クルマもメカニックも、ちゃんとしたい」
ベンジャミンは続けた。
「俺の相棒を、最高の状態にしてほしいんだ」
緒方は思わず息を呑んだ。
そして、スマートフォンへ向き直る。
「……奥山さん」
『ああ』
「本気みたいです」
『……そうか』
しばらくの沈黙。
やがて。
『……いいだろう』
「えっ!?」
『ただし、まずは実車を見せてもらう』
「あ、はい!」
『車の状態も分からないのに、安請け合いはできんからな』
「もちろんです!」
『それに、あの重量とパワーだ。足回りやブレーキがどうなってるか、確認する必要がある』
奥山の声には、すでに職人としての鋭さが宿っていた。
『実車を見て、どこまでやれるか判断する。それでいいなら、話を聞こう』
「ありがとうございます、奥山さん!」
『礼はまだ早いぞ。引き受けるかどうかは、それからだ』
「はい!」
『詳しいことは、また連絡してくれ』
「分かりました!」
通話が切れる。
緒方はスマートフォンを下ろすと、大きく息を吐いた。
「……ふう」
「ミスター緒方!」
待ちきれない様子で、ベンジャミンが身を乗り出す。
「どう!? どうだった!?」
「えっと……とりあえず、車を見てもらえることになりました」
「……おおっ!」
「ただし、実車を確認してから判断するそうです」
「オーケー!!」
ベンジャミンは勢いよく立ち上がった。
「グレイト!! 最高だぜ!!」
「わっ!?」
緒方が驚いて身を引く。
そんな彼の手を、ベンジャミンはがっしりと握った。
「サンキュー! サンキュー、ミスター緒方!!」
「い、いや、まだ決まったわけじゃ……!」
「それでも助かった! 本当にありがとう!」
何度も手を上下に振られ、緒方は苦笑するしかなかった。
その様子を、カナタは楽しそうに眺めていた。
* * *
「……あっ、そうだ!」
ひとしきり喜んだ後、ベンジャミンは何かを思い出したように顔を上げた。
「ミスター緒方!」
「は、はい?」
「一つ、大事なこと!」
「……何でしょう?」
ベンジャミンは真剣な表情になった。
「メンテナンスのお金、ちゃんと払います」
「……え?」
「タダでお願いするつもり、ないです」
今度は、慎重に言葉を選びながら話し始める。
「部品代も、作業のお金も、必要なお金は払います」
「…………」
「メイがスポンサーだから、予算のことも相談できる」
ベンジャミンは、緒方の目を真っ直ぐに見つめた。
「だから……ちゃんと仕事として、お願いしたいです」
その言葉を聞いて、緒方は少し驚いた。
先ほどまでの勢い任せな言動から、正直なところ、もっと軽い考えで頼みに来たのかと思っていた。
しかし、どうやら違うらしい。
この青年は、自分が何を頼もうとしているのか、きちんと理解している。
「……分かりました」
緒方は頷いた。
「費用についても、奥山さんと相談してから決めましょう」
「オーケー!」
「それと、俺もカナタの86を担当してるんで、そっちを優先しなきゃいけない時もあると思います」
「もちろん! それ、当たり前!」
「だから、二台をどういう体制で見るか、ちゃんと話し合う必要がありますね」
「イエス! 問題ないです!」
ベンジャミンは笑った。
「俺、ちゃんと協力します!」
「……ははっ」
緒方も、つられて笑った。
「よろしくお願いします、ベンジャミンさん」
「オー! こちらこそ!」
差し出された手を、ベンジャミンは力強く握り返した。
こうして。
緒方自動車とスパイラル・ゼロを中心に、ベンジャミンのカマロSSをサポートするための話が動き始めた。
もちろん、まだ正式にすべてが決まったわけではない。
車の確認も、整備方針の検討も、これからだ。
だが、少なくとも。
ベンジャミンは、日本で戦うための大きな一歩を踏み出したのである。
* * *
夕方。
緒方自動車の前には、二台のスポーツカーが並んでいた。
一台は、ライトニングレッドのトヨタ86GT。
もう一台は、ターコイズグリーンのシボレー・カマロSS。
日本とアメリカ。
軽量なスポーツカーと、大排気量のマッスルカー。
その成り立ちも、目指した方向性も、まるで違う二台だった。
「……こうして並べると、すごいね」
カナタが呟いた。
「ん?」
「僕の86と、ベンのカマロ」
「ハハッ! だろ!?」
ベンジャミンは得意げに胸を張った。
「どうだ! 俺のカマロ、迫力あるだろ!」
「うん。すごく大きい」
「おい! 褒めるところ、そこだけかよ!」
「ふふっ」
「ったく……!」
ベンジャミンは呆れたように笑った。
それから、86へと視線を移す。
「……でもよ」
「ん?」
「まさか、お前がこの車でMFGを走ってるとはな」
「……86?」
「おう」
ベンジャミンは、赤い車体を眺めた。
「第1戦、すげえ走りだったぜ」
「ありがとう」
「特にコーナーの攻め方な。あれ見た時、思わず叫んじまったよ」
「そんなに?」
「おう! 飛行機の中だったのに、つい声が出ちまってさ!」
「ええっ!?」
「周りの客に、すげえ睨まれた!」
「あははっ!」
二人は声を上げて笑った。
ひとしきり笑った後、ベンジャミンは86のボンネットへ視線を落とした。
「……でも、正直驚いた」
「……?」
「お前が、あんなに速くなってるなんてな」
カナタは少しだけ目を瞬かせた。
「……ベン」
「昔から速かったけどよ。今のお前は、もっとすげえ」
ベンジャミンは、ニヤリと笑った。
「こりゃ、俺も本気出さなきゃ勝てねえな!」
「……ふふっ」
「何だよ?」
「いや……」
カナタは微笑んだ。
「ベンにそう言ってもらえるの、嬉しいなって」
「……へっ」
ベンジャミンは、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「ま、褒めるのはここまでだけどな!」
「え?」
「次は、俺がお前を驚かせる番だぜ!」
そう言って、カマロのボンネットを軽く叩く。
「こいつでな!」
その声には、絶対の自信が満ちていた。
カナタは、静かに頷く。
「……楽しみにしてるよ」
「おう!」
そこで、ベンジャミンはふと真面目な表情になった。
「……なあ、カナタ」
「ん?」
「お前とこうして、また一緒にレースができるなんて……正直、思ってなかったぜ」
「……僕もだよ」
「昔は、よく勝負したよな」
「うん」
「カートでも、ゲームでも、何でもさ」
「ベン、負けるとすぐにもう一回って言うんだもん」
「うるせえ! 負けっぱなしなんて嫌だろ!」
「ふふっ」
「……ったく」
ベンジャミンは笑った。
そして、少しだけ空を見上げる。
夕暮れの空。
オレンジ色に染まり始めた雲の向こうに、二人の母親の姿を思い浮かべた。
キャサリン。
オリヴィア。
二人とも、もうこの世にはいない。
それでも。
きっと、見ていてくれる。
自分たちが、再び同じ道を走り始めたことを。
「……なあ、カナタ」
「……何?」
「俺たち、いいレースしようぜ」
カナタは、ベンジャミンを見つめた。
いつものように豪快で、自信満々で。
だけど、どこか優しい笑顔。
その顔を見て、カナタもまた微笑んだ。
「……うん!」
「へへっ……!」
ベンジャミンは右手を差し出した。
「手加減なんかしないからな!」
カナタも、迷わずその手を握る。
「もちろん。僕だって負けるつもりはないよ」
がっしりと握り合わされた手。
その瞬間。
二人の間に流れていた懐かしい空気が、少しだけ変わった。
家族として。
幼い頃から親しかった従兄弟として。
そして――。
同じ舞台で勝利を目指す、レーシングドライバーとして。
二人は、互いを見つめ合った。
「……楽しみだぜ、カナタ!」
「僕もだよ、ベン!」
夕陽が、二台のスポーツカーを照らしていた。
日本が誇る、小さな赤いスポーツカー。
アメリカが生んだ、大排気量のマッスルカー。
その二台が、これから同じ舞台に立つ。
MFG第2戦。
芦ノ湖GT。
大排気量V8エンジンを武器に、アメリカからやってきた一人の青年。
ベンジャミン・リヴィントン。
エントリーナンバー、283。
そして、世界中のファンを驚かせた、若き天才ドライバー。
カナタ・カタギリ。
幼い頃から何度も競い合ってきた二人が、今度は世界最高峰の公道レースで激突する。
その日が、すぐそこまで迫っていた。