MFG GREAT ––ナスカーの刺客––   作:車っていいなって思うんすよね

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第4話 「SHAKEDOWN!」

 

 ――ヴォルルルルルルンッ!!

 

 重厚なV8サウンドが、ガレージの中に響き渡った。

 

「……へへっ」

 

 運転席に座るベンジャミンは、満足そうに口元を吊り上げる。

 

「いいねぇ……やっぱ最高だぜ、この音!」

 

 軽くアクセルを煽れば、排気音が一段と低く唸りを上げる。

 

 その様子を見ていた緒方は、苦笑しながら耳を押さえた。

 

「相変わらず元気だなぁ、ベンジャミンは……」

 

「ハハッ! 当然だろ! だって、いよいよこいつを本気で走らせられるんだぜ!?」

 

「いや、まあ……気持ちは分かるけどさ」

 

 緒方はそう言って、隣に立つ男性へ視線を向けた。

 

「……それで、奥山さん。どうですか?」

 

「……ああ」

 

 腕を組んでカマロを見つめていた男が、静かに頷く。

 

 奥山広也。

 

 高い技術力を持つチューナーであり、チューニングショップ『スパイラル・ゼロ』を営む人物である。

 

 数日前。

 

 緒方から相談を受けた奥山は、実車を確認することを条件に、ベンジャミンのMFG参戦への協力を検討すると伝えていた。

 

 そして、実際に持ち込まれたカマロSSを見た彼は、ある結論に達したのである。

 

「……面白い車だ」

 

「おっ!」

 

 その言葉に、ベンジャミンが運転席から身を乗り出した。

 

「だろ!? 最高だろ、ミスター奥山!」

 

「ああ。だが、簡単な車じゃないぞ」

 

 奥山はカマロのフロントフェンダーへ視線を落とす。

 

「6.2リッターの自然吸気V8。最高出力453馬力。FRレイアウトに10速AT……。エンジンの性能は申し分ない。問題は、そのパワーをどう使うかだ」

 

「……ふむふむ」

 

「車体が大きく、重量もある。高速域では安定していても、日本の山岳道路では、その重さが足を引っ張ることになる」

 

 奥山は続ける。

 

「特に、ブレーキングからターンインにかけての荷重移動だ。重い車を無理に曲げようとすれば、フロントタイヤに大きな負担がかかる」

 

「……なるほど」

 

「かといって、ロールを抑えるために足を固めすぎればいいというものでもない。路面のうねりを拾って、かえって接地性を失うことになる」

 

 ベンジャミンは真剣な表情で聞いていた。

 

 普段の騒がしい態度とは、まるで別人である。

 

「……じゃあ、どうする?」

 

「サスペンションを、きちんと動かす」

 

 奥山は即答した。

 

「車体の大きな動きは抑える。だが、路面の凹凸に対しては足をしなやかに追従させる。タイヤの接地性を確保しながら、重量級の車体を安定させるんだ」

 

「……!」

 

「大事なのは、ドライバーが安心して荷重を預けられる足を作ることだ。曲がらないからといって、何でも硬くすればいいわけじゃない」

 

 その説明を聞き、ベンジャミンはニヤリと笑った。

 

「……へへっ」

 

「何だ?」

 

「いや……アンタ、いいねぇ!」

 

「……?」

 

「俺、そういう考え方、大好きだぜ!」

 

 奥山は一瞬だけ目を丸くした。

 

 そして、小さく笑う。

 

「……そうか」

 

 緒方が隣から口を挟んだ。

 

「それで、奥山さん。引き受けてもらえそうですか?」

 

「ああ」

 

 奥山は頷く。

 

「ここまで見て、断る理由もない」

 

「……!」

 

「ただし、時間は限られている。次の芦ノ湖GTまでに、できることは全部やるぞ」

 

 その瞬間。

 

「よっしゃあああああっ!!」

 

 ベンジャミンが勢いよく両拳を突き上げた。

 

「サンキュー! ミスター奥山!!」

 

「おいおい。まだ何も終わってないぞ」

 

「分かってるって! でも、これで最高のチームができたじゃねえか!」

 

 ベンジャミンは満面の笑みを浮かべた。

 

 そんな彼を見ながら、緒方も自然と頬を緩める。

 

「……まあ、確かにね」

 

 こうして。

 

 緒方自動車とスパイラル・ゼロの協力による、カマロSSのMFG参戦準備が本格的に始まったのである。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 それから、数日後。

 

 神奈川県――箱根。

 

 山々の間を縫うように延びる一本の道路。

 

 箱根ターンパイク。

 

 豊かな自然に囲まれたこの道は、勾配の変化や大小さまざまなコーナーを持つ、日本有数のドライビングスポットとして知られている。

 

 MFG第2戦の競技コースとは別の道路だが、山岳路における車両の挙動を確認するには都合がいい。

 

 そして、その駐車スペースには――。

 

 二台のスポーツカーが並んでいた。

 

 一台は、ライトニングレッドのトヨタ86GT。

 

 MFG第1戦で9位入賞を果たした、カナタ・カタギリの愛車である。

 

 そして、もう一台。

 

 鮮やかなターコイズグリーンのボディ。

 

 長いボンネットと、筋肉質なフェンダー。

 

 見るからに大排気量エンジンを搭載していることが分かる、迫力満点のアメリカンマッスルカー。

 

 シボレー・カマロSS。

 

 その車体には、すでにMFGのゼッケンが貼り付けられていた。

 

 

 ――283。

 

 

 ベンジャミン・リヴィントン。

 

 彼がMFGで背負うことになった、新たな番号である。

 

「……くぅ〜っ!」

 

 愛車の前に立ったベンジャミンは、満足そうに伸びをした。

 

「やっぱゼッケンが付くと違うなぁ!」

 

 そう言って、車体の283という数字を見つめる。

 

「一気にレーシングカーっぽくなったぜ!」

 

「ふふっ。そうだね」

 

 隣ではカナタが微笑んでいた。

 

「でも、ベンのカマロって、ゼッケンが付いてなくてもすごく目立つよ」

 

「ハハッ! そりゃそうだ!」

 

 ベンジャミンは胸を張る。

 

「何しろ、俺の相棒だからな!」

 

「……それ、関係ある?」

 

「あるに決まってんだろ!」

 

 楽しそうに笑う二人。

 

 そんな彼らの少し離れた場所では、緒方が腕を組んでカマロを眺めていた。

 

「……それにしても、本当に大きいなぁ」

 

「ミスター緒方!」

 

「ん?」

 

「どうだ! カッコいいだろ!」

 

「ああ。カッコいいのは認めるよ」

 

「だろ!?」

 

「でも……これをあの山道で走らせるんだよなぁ……」

 

 緒方は、これから走る道路へ視線を向けた。

 

 長い直線。

 

 その先に続く、大小さまざまなコーナー。

 

 サーキットとは違い、路面にはうねりや勾配の変化もある。

 

 車体の大きなカマロにとって、決して楽な環境ではない。

 

「……大丈夫かなぁ」

 

「何だよ! 心配なのか?」

 

「いや、心配っていうか……」

 

 緒方は少し考え込む。

 

「奥山さんのセッティングは信用してるけど、実際に走ってみないと分からない部分もあるからね」

 

「へへっ! だったら、走って確かめりゃいい!」

 

「まあ、そうなんだけどさ……」

 

 そこで、カナタが口を開いた。

 

「ベン。まずは僕が前を走るよ」

 

「おっ?」

 

「カマロのセッティングを確認するんだよね?」

 

「ああ!」

 

「だったら、僕の86についてきて。最初は無理せず、車の動きを確認しよう」

 

 その提案に、ベンジャミンは頷いた。

 

「オーケー! 先導は任せたぜ、カナタ!」

 

「うん」

 

 カナタは微笑んだ。

 

「緒方さんも、僕の86に乗ってください」

 

「……え?」

 

 緒方が目を瞬かせる。

 

「助手席に乗って、車の動きを確認してもらえればと思って」

 

「ああ……なるほど」

 

 緒方は納得したように頷いた。

 

 カナタの86は、すでに自分が何度も整備してきた車だ。

 

 その挙動を助手席から確認すれば、後方を走るカマロとの比較にも役立つだろう。

 

「分かった。じゃあ、乗せてもらおうかな」

 

「はい!」

 

 カナタは嬉しそうに答えた。

 

 その横で。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンが、何やら楽しそうに笑っていた。

 

「……何だよ、ベンジャミン」

 

「いやぁ〜? 別に?」

 

「……?」

 

「ミスター緒方、しっかり掴まってろよ?」

 

「え?」

 

 ベンジャミンは親指を立てた。

 

「カナタの運転、スゲェからな!」

 

「……いや、それは知ってるよ。俺、カナタのメカニックだし」

 

「ハハハッ! だったら問題ねえな!」

 

「……?」

 

 緒方は首を傾げた。

 

 その時の彼は、まだ知らなかったのである。

 

 これから自分が、どのような体験をすることになるのかを。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 ――ヴォルルルルルンッ!!

 

 ――ブロロロロロ……!

 

 二つのエンジンサウンドが、箱根の山中に響き渡った。

 

 先行するのは、ライトニングレッドの86GT。

 

 その後方には、ターコイズグリーンのカマロSS。

 

 二台は十分な車間距離を保ちながら、山道を走り始める。

 

「……よし」

 

 86の運転席。

 

 カナタは、静かにステアリングを握っていた。

 

 助手席には緒方。

 

「じゃあ、カナタ。頼むよ」

 

「はい。まずは八割くらいのペースで走りますね」

 

「八割か。分かった」

 

 緒方は頷いた。

 

 何しろ、これはレース本番ではない。

 

 あくまで車両のシェイクダウンである。

 

 無理をせず、適度なペースで走ればいい。

 

 そう考えていた。

 

 ――その数秒後までは。

 

「……!」

 

 カナタが、ゆっくりとアクセルを踏み込む。

 

 86が加速を始めた。

 

 迫り来る最初のコーナー。

 

 緒方は前方へ視線を向ける。

 

(……そろそろブレーキかな?)

 

 だが。

 

 カナタの右足は、ブレーキペダルへ移動しない。

 

 アクセルを戻し、自然に速度を落としながらコーナーへ進入していく。

 

 そして――。

 

 スッ。

 

 ほとんど無駄のないステアリング操作。

 

 86は、驚くほど滑らかに向きを変えた。

 

「……おっ?」

 

 緒方が小さく声を漏らす。

 

 次のコーナー。

 

 また、その次のコーナー。

 

 カナタの操作は、どこまでも滑らかだった。

 

 必要以上にブレーキを踏まない。

 

 アクセルを戻すタイミングと、車体に残る慣性を利用して速度を調整する。

 

 コーナーへ入る前に、必要な減速を終わらせる。

 

 そして、タイヤのグリップを無駄に使うことなく車の向きを変える。

 

 実に合理的なドライビングだった。

 

 ――ただし。

 

 それを助手席で体験する人間にとっては、話が別である。

 

「……ちょっ」

 

 緒方が思わず声を漏らした。

 

 次のコーナーが迫る。

 

(お、おい……!?)

 

 カナタは、まだブレーキを踏まない。

 

 いや。

 

 そもそも、強い減速を必要としていないのだ。

 

 車速とライン。

 

 そして、路面のグリップ。

 

 そのすべてを把握したうえで、86をコーナーへ放り込んでいる。

 

 ――ギュンッ!

 

「うおっ!?」

 

 横方向のGが、緒方の身体をシートへ押しつけた。

 

 しかし、カナタは平然としている。

 

「……よし」

 

 小さく呟き、次のコーナーへ視線を向ける。

 

「お、おい……カナタ……?」

 

「はい?」

 

「今の……ブレーキ……」

 

「ああ。あそこは、アクセルオフだけで大丈夫でした」

 

「……そ、そう……?」

 

「はい。まだ余裕があります」

 

「…………」

 

 緒方は黙った。

 

 そして、ゆっくりと前方へ視線を戻す。

 

(……まだ余裕、ねぇ……)

 

 その言葉が、妙に恐ろしかった。

 

 だが。

 

 彼に考える時間は与えられなかった。

 

 次のコーナーが、すでに目前まで迫っていたのである。

 

「うおおっ!?」

 

 86が、再び鋭く向きを変える。

 

 そして、そのまま次の直線へ。

 

 カナタの表情は、相変わらず穏やかだった。

 

 ――まるで、近所へ買い物に出かけているかのように。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 一方。

 

 その後方を走るカマロSS。

 

 ベンジャミンは、目の前を走る86の動きを興味深そうに観察していた。

 

「……へえ」

 

 ステアリングを握る手に、無駄な力は入っていない。

 

 青い瞳は、前方の86を正確に捉えていた。

 

「やっぱ、スゲェな……」

 

 カナタのドライビング。

 

 それは、映像で見た時よりも遥かに印象的だった。

 

 ストレートでは、自分のカマロの方が圧倒的にパワーがある。

 

 だが、コーナーでは話が違う。

 

 86は、まるで路面に吸いつくかのように走っていた。

 

 ブレーキランプが点灯する回数は少ない。

 

 にもかかわらず、進入速度は決して低くない。

 

 そして、コーナーの出口では、すでに車体の姿勢が整っている。

 

「……なるほどな」

 

 ベンジャミンは小さく笑った。

 

「ブレーキを使わずに、あそこまで速度をコントロールするか……!」

 

 もちろん、まったく踏んでいないわけではない。

 

 だが、必要以上に減速しないことで、車の運動エネルギーを可能な限り維持している。

 

 軽量な86の特性を最大限に生かした走り。

 

 それが、目の前で繰り広げられていた。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは嬉しそうに笑う。

 

「いいじゃねえか、カナタ!」

 

 その声には、純粋な感心が滲んでいた。

 

 しかし。

 

 彼もまた、ただ後をついて走っているわけではない。

 

 ――ヴォオオオオッ!!

 

 カマロのV8エンジンが、低く唸りを上げる。

 

 コーナー手前。

 

 ベンジャミンは慎重にブレーキを踏み込んだ。

 

 ノーズが沈む。

 

 フロントタイヤへ荷重が移る。

 

 だが、その動きは以前よりも穏やかだった。

 

(……おっ?)

 

 ベンジャミンの目が、わずかに細くなる。

 

(いい感じじゃねえか……!)

 

 奥山によって調整された足回り。

 

 以前よりも、フロントの接地感がはっきりと伝わってくる。

 

 ステアリングを切り込む。

 

 大柄な車体が、ゆっくりと向きを変える。

 

 もちろん、86のような軽快さはない。

 

 しかし――。

 

(……踏ん張る!)

 

 コーナリング中。

 

 車体がロールしながらも、タイヤはしっかりと路面を捉えている。

 

 そして、出口へ向けてアクセルを開けていく。

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 6.2リッターV8が生み出す強大なトルク。

 

 カマロが、力強く加速した。

 

「……ハハッ!」

 

 ベンジャミンは思わず笑った。

 

「最高じゃねえか、ミスター奥山!!」

 

 もちろん、まだ完璧ではない。

 

 車体の大きさ。

 

 重さ。

 

 そして、コーナーの連続する日本の山道。

 

 それらに対する違和感が、完全に消えたわけではなかった。

 

 だが、確実に良くなっている。

 

 少なくとも、以前よりも安心して荷重を預けられるようになっていた。

 

「……こいつは面白くなってきたぜ!」

 

 ベンジャミンは、前方を走る86を見つめる。

 

 その表情には、レーシングドライバーとしての鋭さが宿っていた。

 

 カナタの走行ラインを観察しながら、自分の車に適したラインを探す。

 

 86とカマロでは、車重もホイールベースも違う。

 

 同じラインを通れば、同じように速く走れるというわけではない。

 

 ならば。

 

 自分の車に合った走り方を見つければいい。

 

(……なるほどな)

 

 ベンジャミンは、ゆっくりと口元を吊り上げた。

 

(こいつは、まだまだ速くなるぜ……!)

 

 ターコイズグリーンのカマロSSは、V8エンジンの咆哮を響かせながら、86の後を追い続けた。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「…………」

 

 最初の走行を終え、二台の車が駐車スペースへ戻ってきた。

 

 先に停車した86の運転席から、カナタが降りてくる。

 

「ふぅ……」

 

 小さく息を吐く。

 

 その表情は、実に穏やかだった。

 

「いい感じですね」

 

 そう呟きながら、車体の状態を確認する。

 

 タイヤ。

 

 ブレーキ。

 

 そして、車体全体の挙動。

 

 特に大きな問題はなさそうだった。

 

「……緒方さん?」

 

 カナタが助手席へ視線を向ける。

 

 しかし。

 

「…………」

 

 返事がない。

 

「……緒方さん?」

 

「…………」

 

「……大丈夫ですか?」

 

 ようやく、助手席のドアが開いた。

 

 そして――。

 

「……はぁ……」

 

 緒方が、ゆっくりと車から降りてきた。

 

 その顔色は、あまり良くなかった。

 

「……つ、疲れた……」

 

「えっ?」

 

 カナタが目を丸くする。

 

「緒方さん、大丈夫ですか?」

 

「あ、ああ……大丈夫……」

 

 緒方は片手を上げた。

 

 だが、その動きにはまるで力がない。

 

「……ちょっと、休ませて……」

 

 そう言って、近くのベンチへ腰を下ろした。

 

 そして、深いため息をつく。

 

「……はぁぁぁ……」

 

 そこへ。

 

 ――ヴォルルルルンッ!!

 

 カマロのエンジンが停止した。

 

「いやぁ〜! 最高だったぜ!!」

 

 運転席から飛び出してきたベンジャミンが、満面の笑みを浮かべる。

 

「カナタ! お前、相変わらずスゲェな!」

 

「ありがとう、ベン」

 

「特にコーナーの入り方! あれ、ブレーキほとんど使ってねえだろ!?」

 

「うん。必要なところでは使ってるけど、できるだけ速度を落とさないようにしてるんだ」

 

「だよなぁ! いやぁ、面白かったぜ!」

 

 二人は楽しそうに会話を始める。

 

 しかし。

 

「…………」

 

 緒方は、そんな二人をぼんやりと眺めていた。

 

 そして、ぽつりと呟く。

 

「……やっぱり、どっかおかしいよ……」

 

「……え?」

 

 カナタが振り返る。

 

「どうしました?」

 

「……いや、何でもない……」

 

 緒方は弱々しく首を振った。

 

 だが。

 

 そのまま黙っていることもできなかったらしい。

 

「……なあ、カナタ」

 

「はい?」

 

「さっき……八割って言ってたよな?」

 

「はい」

 

「……あれで?」

 

「はい。大体、それくらいです」

 

「…………」

 

 緒方は、ゆっくりと天を仰いだ。

 

「……あれで八割かよ……」

 

 その声には、深い疲労と、諦めにも似た響きがあった。

 

 カナタは不思議そうに首を傾げる。

 

「……緒方さん?」

 

「いや……もう、何て言うか……」

 

 緒方は力なく笑った。

 

「……お前らレーサーって、頭のネジ、何本か飛んでるんじゃないの……?」

 

「ええっ!?」

 

 カナタが驚く。

 

「そ、そんなことないですよ!」

 

「……いやぁ……」

 

 緒方は首を横に振った。

 

「普通の人間は、あんなスピードでコーナーに入っていかないって……」

 

「でも、ちゃんとコントロールできてましたよ?」

 

「……そういう問題じゃないんだよなぁ……」

 

 緒方は再び深いため息をついた。

 

 その様子を見ていたベンジャミンが、とうとう笑い出す。

 

「ハハハハッ!!」

 

「……何だよ、ベンジャミン……」

 

「いやいや! ミスター緒方、アンタ正常だぜ!」

 

「……え?」

 

「カナタの横に乗って、ケロッとしてる方がイカれてるって!」

 

「…………」

 

 緒方は目を瞬かせた。

 

 そして。

 

「……だよなぁ……」

 

 心底安心したように頷いた。

 

「よかった……俺が普通なんだよな……」

 

「ハハッ! もちろん!」

 

 ベンジャミンは笑いながら親指を立てる。

 

 すると、カナタが少し不満そうな表情を浮かべた。

 

「……ベン?」

 

「あ?」

 

「それって、僕がおかしいって言ってる?」

 

「ハハハッ! 今さら気づいたのかよ!」

 

「もう!」

 

 カナタは頬を膨らませる。

 

 その様子を見て、ベンジャミンはますます笑った。

 

 一方の緒方は、二人のやり取りを眺めながら、再び力なく呟く。

 

「……元気だなぁ、二人とも……」

 

 どうやら、しばらく休憩が必要らしかった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……よし!」

 

 それから、しばらくして。

 

 ベンジャミンは、カマロのボンネットに手を置いた。

 

「カナタ! もう一回、走ろうぜ!」

 

「うん。いいよ」

 

 カナタは頷いた。

 

「今度は、もう少しペースを上げてみようか」

 

「……へへっ!」

 

 その言葉に、ベンジャミンの口元が吊り上がる。

 

「待ってました!」

 

 先ほどの走行は、あくまで足回りの基本的な挙動を確かめるためのものだった。

 

 だが、それだけでは分からないこともある。

 

 ブレーキング時の安定性。

 

 コーナリング中の荷重変化。

 

 限界に近づいた時、タイヤがどのような反応を示すのか。

 

 そして、アクセルを開けた時に、車体がどう動くのか。

 

 それらを確かめなければ、本当の意味でセッティングを評価することはできない。

 

「……今度は、もう少し攻めてみるぜ」

 

 ベンジャミンが呟く。

 

 その表情は、先ほどまでとは違っていた。

 

 鋭い眼差し。

 

 引き締まった口元。

 

 アメリカで数々のレースを戦ってきた、プロのレーシングドライバーの顔だった。

 

「カナタ」

 

「ん?」

 

「今度は遠慮するなよ?」

 

 カナタは少しだけ目を細める。

 

 そして、微笑んだ。

 

「……もちろん」

 

 二人の間に、静かな闘志が流れる。

 

 そこで。

 

「……あのさぁ……」

 

 弱々しい声が聞こえてきた。

 

 二人が振り返る。

 

 ベンチでは、緒方がまだ疲れ切った表情で座っていた。

 

「……俺、今度は乗らなくていいよな……?」

 

「あっ」

 

 カナタが目を丸くする。

 

「はい! もちろんです!」

 

「……よかったぁ……」

 

 緒方は心底安心したように息を吐いた。

 

「……もう一回乗ったら、さすがに身体がもたないよ……」

 

「ハハハッ!」

 

 ベンジャミンが笑う。

 

「安心しろ、ミスター緒方! 今度は俺たちだけで走るから!」

 

「……うん。そうしてくれると助かる……」

 

 緒方は力なく頷いた。

 

 カナタが申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「すみません、緒方さん」

 

「いや、いいんだよ……。ちゃんと仕事はできたから……」

 

 そう言って、緒方は二台の車へ視線を向けた。

 

「……二人とも、気をつけてな」

 

「はい!」

 

「オーケー!」

 

 それぞれの返事を残し、二人は愛車へと向かった。

 

 再び、エンジンが始動する。

 

 ――ブロロロロロ……!

 

 ――ヴォルルルルルンッ!!

 

 86の水平対向4気筒。

 

 カマロの自然吸気V型8気筒。

 

 まったく異なる二つのエンジンサウンドが、箱根の山中に響き渡る。

 

 そして。

 

 二回目のテスト走行が、始まった。

 

 

 

 ――ヴォオオオオオオッ!!

 

 ターコイズグリーンのカマロSSが、山道を駆け上がっていく。

 

「……へへっ!」

 

 ベンジャミンは、ステアリングを握りながら笑った。

 

「いいねぇ……!」

 

 先ほどよりも、明らかに高いペース。

 

 前方を走る86も、先ほどとは違う動きを見せていた。

 

 コーナーへの進入速度。

 

 ブレーキングのタイミング。

 

 そして、立ち上がりの加速。

 

 そのすべてが、一段と鋭さを増している。

 

「……さすがだぜ、カナタ!」

 

 ベンジャミンは嬉しそうに呟いた。

 

 だが、彼も負けてはいない。

 

 ――ヴォオオオッ!!

 

 カマロのV8エンジンが咆哮する。

 

 迫り来る右コーナー。

 

 ベンジャミンは素早くブレーキングを開始した。

 

 ――グッ!

 

 車体が前のめりになる。

 

 フロントタイヤへ荷重が集中する。

 

 だが。

 

(……いい!)

 

 ベンジャミンの瞳が輝いた。

 

 以前なら、大柄な車体がもう少し大きく沈み込んでいた場面。

 

 しかし、今は違う。

 

 奥山によって調整された足回りが、姿勢変化を適切に受け止めている。

 

 ステアリングを切る。

 

 カマロが向きを変える。

 

 重量級の車体が生み出す慣性。

 

 それを無理に押さえつけるのではなく、利用する。

 

 そして――。

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 アクセルオン。

 

 太いトルクが後輪へ伝わり、カマロがコーナーから力強く飛び出した。

 

「ハハッ! いいぜ!!」

 

 ベンジャミンは満面の笑みを浮かべる。

 

 確実に、車の動きが良くなっていた。

 

 ただし。

 

(……まだ、ちょっとフロントが重いな)

 

 次のコーナーへ進入しながら、冷静に考える。

 

 86と同じタイミングでステアリングを切っても、カマロは同じようには曲がらない。

 

 ノーズの入り方が違う。

 

 車体が向きを変えるまでの時間も違う。

 

 そこに、重量とホイールベースの差が現れている。

 

(……だったら)

 

 ベンジャミンは、ブレーキングポイントをわずかに調整した。

 

 進入時に残す速度。

 

 フロントへ移す荷重。

 

 そして、アクセルを開き始めるタイミング。

 

 すべてを少しずつ変えていく。

 

 ――ググッ!

 

 カマロが、先ほどよりも素直に向きを変えた。

 

(……よし!)

 

 ベンジャミンは口元を吊り上げる。

 

(こっちの方がいいな!)

 

 彼にとって、これは単なるドライブではなかった。

 

 新しいマシンの特性を探る、重要なテストである。

 

 カマロSSの大排気量V8エンジンは、間違いなく強力な武器だった。

 

 しかし、そのパワーを路面へ伝えられなければ意味がない。

 

 MFGでは、車両重量に応じて使用できるタイヤのサイズが定められている。

 

 重量級のカマロには、その分だけ幅の広いタイヤが認められる。

 

 だが、車が重いという事実そのものが消えるわけではない。

 

 減速にも、旋回にも、加速にも。

 

 すべてに大きな慣性がつきまとう。

 

 ならば、その重量を理解し、使いこなすしかない。

 

 それが、ベンジャミンの出した答えだった。

 

「……へへっ」

 

 前方の86を見つめる。

 

「待ってろよ、カナタ!」

 

 もう少し。

 

 あと少しで、この車の本当の走らせ方が見えてくる。

 

 そんな手応えがあった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 一方。

 

 先行する86の運転席では、カナタが小さく微笑んでいた。

 

「……ベン、すごいな」

 

 ルームミラーに映るターコイズグリーンの車体。

 

 その動きが、先ほどとは明らかに変わっていた。

 

 最初の走行では、コーナーの進入で慎重な姿勢が目立っていた。

 

 しかし、今は違う。

 

 ベンジャミンは、カマロの重量を理解し始めている。

 

 必要なところでは、しっかり減速する。

 

 その一方で、無駄な減速は避ける。

 

 そして、コーナー出口では強力なエンジントルクを生かし、一気に加速する。

 

 車の長所と短所を、走りながら把握しているのだ。

 

「……やっぱり、ベンだね」

 

 カナタは嬉しそうに呟いた。

 

 幼い頃から、ベンジャミンはそういう少年だった。

 

 初めて乗るカートでも。

 

 慣れないゲームでも。

 

 最初は戸惑っていても、すぐにコツを掴んでしまう。

 

 そして、一度コツを掴めば、驚くほど大胆に攻め始める。

 

 もちろん、今のベンジャミンは昔のままではない。

 

 アメリカで本格的なレース経験を積み、プロのレーシングドライバーとして成長している。

 

 そのことが、後方のカマロの動きから伝わってきた。

 

「……僕も、負けてられないね」

 

 カナタは静かに微笑む。

 

 そして、前方へ視線を戻した。

 

 次のコーナー。

 

 アクセルオフ。

 

 わずかな減速。

 

 ステアリングを切り込む。

 

 86が、滑らかにコーナーへ進入する。

 

 その後方。

 

 カマロもまた、力強いエンジンサウンドを響かせながら追従していく。

 

 二人のドライビングスタイルは、まるで違っていた。

 

 軽量な車体を生かし、速度をできる限り維持するカナタ。

 

 重量級の車体を操り、大排気量エンジンのパワーを生かすベンジャミン。

 

 だが、その根底にあるものは同じだった。

 

 誰よりも速く走りたい。

 

 そして、自分の車の性能を最大限に引き出したい。

 

 ただ、それだけだった。

 

 そんな二人の走行が続いていた――。

 

 その時である。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……ん?」

 

 ベンジャミンが、ふとルームミラーへ視線を向けた。

 

 後方。

 

 一台の車が近づいてくる。

 

(……車?)

 

 最初は、特に気にしなかった。

 

 ここはMFGの競技コースではない。

 

 他の車が走っていても、何ら不思議ではないからだ。

 

 だが。

 

「……おいおい」

 

 ベンジャミンの表情が変わった。

 

 後方の車が、明らかに速い。

 

 しかも。

 

 その接近速度が、尋常ではなかった。

 

「……何だ、あいつ?」

 

 ミラーに映る車体。

 

 小柄なスポーツカー。

 

 低いボンネット。

 

 丸みを帯びた独特のフロントフェイス。

 

 そして――。

 

 鮮やかなブルーのボディ。

 

「……アルピーヌ?」

 

 ベンジャミンが呟く。

 

 フランス製の軽量スポーツカー。

 

 アルピーヌA110。

 

 その特徴的なシルエットを、彼が見間違えるはずもなかった。

 

 だが、それ以上に気になるものがあった。

 

 車体に貼られたゼッケン。

 

 そこには、はっきりと数字が記されていた。

 

 

 ――4。

 

 

「……ゼッケン4?」

 

 ベンジャミンの目が細くなる。

 

(MFGのマシンか……?)

 

 その瞬間。

 

 ――ヴォオオオオッ!!

 

「……っ!?」

 

 青いアルピーヌが、一気に距離を詰めてきた。

 

 そして。

 

 見通しの開けた区間。

 

 カマロの横へ並ぶと、瞬く間に前へ出た。

 

「……なっ!?」

 

 ベンジャミンが目を見開く。

 

 目の前を、小柄な青い車体が駆け抜けていく。

 

「……おいおいおい!!」

 

 思わず声が漏れた。

 

 だが、驚きはそれだけでは終わらなかった。

 

 アルピーヌは、さらに前方の86へ接近する。

 

 その動きに、迷いがない。

 

 コーナーへの進入。

 

 減速。

 

 そして、旋回。

 

 車体が、まるで意志を持っているかのように滑らかに向きを変える。

 

(……何だ、あの動き!?)

 

 ベンジャミンは息を呑んだ。

 

 アルピーヌの走りは、決して荒々しいものではなかった。

 

 むしろ、その逆。

 

 驚くほど無駄がない。

 

 ブレーキングは必要最小限。

 

 ターンインのタイミングも、正確だった。

 

 そして、コーナー出口。

 

 小柄な車体が、路面を蹴るように加速する。

 

 次の見通しのよい区間で、アルピーヌは86をも追い抜いた。

 

「……マジかよ!?」

 

 ベンジャミンは思わず叫んだ。

 

 カナタの86を。

 

 あのカナタが操る86を。

 

 まるで流れるような動きで追い抜いていったのだ。

 

 その光景を目にした瞬間。

 

 ベンジャミンの中で、何かが燃え上がった。

 

「……へへっ」

 

 口元が、ゆっくりと吊り上がる。

 

「……面白えじゃねえか」

 

 青いアルピーヌ。

 

 ゼッケン4。

 

 その正体は、まだ分からない。

 

 だが。

 

 ただ者ではないことだけは、はっきりしていた。

 

「……いいぜ」

 

 ベンジャミンは、ステアリングを握り直す。

 

 その瞳には、鋭い闘志が宿っていた。

 

「だったら――」

 

 ――ヴォオオオオオオッ!!

 

 カマロのV8エンジンが咆哮する。

 

「追いかけてやろうじゃねえか!!」

 

 

 

     * * *

 

 

 

 ――ヴォオオオオッ!!

 

 ベンジャミンは、前方の86へ距離を詰めていく。

 

「……カナタ!」

 

 その声が届くはずはない。

 

 だが、まるで応えるように。

 

 前方の86が、わずかに走行ラインを変えた。

 

 カナタも、後方の状況を把握していたのである。

 

 青いアルピーヌ。

 

 その後ろを追おうとする、ターコイズグリーンのカマロ。

 

 カナタはルームミラーを見つめ、小さく微笑んだ。

 

「……ベン」

 

 そして、ぽつりと呟く。

 

「やっぱり、追いかけるんだね」

 

 幼い頃から変わらない、従兄弟の負けず嫌いな性格。

 

 速い相手を見つければ、放っておけない。

 

 それは今も昔も同じだった。

 

 カナタは、後方のカマロへ道を譲る。

 

 十分な見通しが確保された区間。

 

 ――ヴォオオオオッ!!

 

 カマロが86を追い抜いていった。

 

 そして、そのまま前方のアルピーヌを追いかける。

 

「……ふふっ」

 

 カナタは笑った。

 

「頑張って、ベン」

 

 その言葉を、ベンジャミンが聞くことはなかった。

 

 だが、彼の頭の中には、すでに青いアルピーヌのことしかなかったのである。

 

 

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