MFG GREAT ––ナスカーの刺客–– 作:車っていいなって思うんすよね
――ヴォルルルルルルンッ!!
重厚なV8サウンドが、ガレージの中に響き渡った。
「……へへっ」
運転席に座るベンジャミンは、満足そうに口元を吊り上げる。
「いいねぇ……やっぱ最高だぜ、この音!」
軽くアクセルを煽れば、排気音が一段と低く唸りを上げる。
その様子を見ていた緒方は、苦笑しながら耳を押さえた。
「相変わらず元気だなぁ、ベンジャミンは……」
「ハハッ! 当然だろ! だって、いよいよこいつを本気で走らせられるんだぜ!?」
「いや、まあ……気持ちは分かるけどさ」
緒方はそう言って、隣に立つ男性へ視線を向けた。
「……それで、奥山さん。どうですか?」
「……ああ」
腕を組んでカマロを見つめていた男が、静かに頷く。
奥山広也。
高い技術力を持つチューナーであり、チューニングショップ『スパイラル・ゼロ』を営む人物である。
数日前。
緒方から相談を受けた奥山は、実車を確認することを条件に、ベンジャミンのMFG参戦への協力を検討すると伝えていた。
そして、実際に持ち込まれたカマロSSを見た彼は、ある結論に達したのである。
「……面白い車だ」
「おっ!」
その言葉に、ベンジャミンが運転席から身を乗り出した。
「だろ!? 最高だろ、ミスター奥山!」
「ああ。だが、簡単な車じゃないぞ」
奥山はカマロのフロントフェンダーへ視線を落とす。
「6.2リッターの自然吸気V8。最高出力453馬力。FRレイアウトに10速AT……。エンジンの性能は申し分ない。問題は、そのパワーをどう使うかだ」
「……ふむふむ」
「車体が大きく、重量もある。高速域では安定していても、日本の山岳道路では、その重さが足を引っ張ることになる」
奥山は続ける。
「特に、ブレーキングからターンインにかけての荷重移動だ。重い車を無理に曲げようとすれば、フロントタイヤに大きな負担がかかる」
「……なるほど」
「かといって、ロールを抑えるために足を固めすぎればいいというものでもない。路面のうねりを拾って、かえって接地性を失うことになる」
ベンジャミンは真剣な表情で聞いていた。
普段の騒がしい態度とは、まるで別人である。
「……じゃあ、どうする?」
「サスペンションを、きちんと動かす」
奥山は即答した。
「車体の大きな動きは抑える。だが、路面の凹凸に対しては足をしなやかに追従させる。タイヤの接地性を確保しながら、重量級の車体を安定させるんだ」
「……!」
「大事なのは、ドライバーが安心して荷重を預けられる足を作ることだ。曲がらないからといって、何でも硬くすればいいわけじゃない」
その説明を聞き、ベンジャミンはニヤリと笑った。
「……へへっ」
「何だ?」
「いや……アンタ、いいねぇ!」
「……?」
「俺、そういう考え方、大好きだぜ!」
奥山は一瞬だけ目を丸くした。
そして、小さく笑う。
「……そうか」
緒方が隣から口を挟んだ。
「それで、奥山さん。引き受けてもらえそうですか?」
「ああ」
奥山は頷く。
「ここまで見て、断る理由もない」
「……!」
「ただし、時間は限られている。次の芦ノ湖GTまでに、できることは全部やるぞ」
その瞬間。
「よっしゃあああああっ!!」
ベンジャミンが勢いよく両拳を突き上げた。
「サンキュー! ミスター奥山!!」
「おいおい。まだ何も終わってないぞ」
「分かってるって! でも、これで最高のチームができたじゃねえか!」
ベンジャミンは満面の笑みを浮かべた。
そんな彼を見ながら、緒方も自然と頬を緩める。
「……まあ、確かにね」
こうして。
緒方自動車とスパイラル・ゼロの協力による、カマロSSのMFG参戦準備が本格的に始まったのである。
* * *
それから、数日後。
神奈川県――箱根。
山々の間を縫うように延びる一本の道路。
箱根ターンパイク。
豊かな自然に囲まれたこの道は、勾配の変化や大小さまざまなコーナーを持つ、日本有数のドライビングスポットとして知られている。
MFG第2戦の競技コースとは別の道路だが、山岳路における車両の挙動を確認するには都合がいい。
そして、その駐車スペースには――。
二台のスポーツカーが並んでいた。
一台は、ライトニングレッドのトヨタ86GT。
MFG第1戦で9位入賞を果たした、カナタ・カタギリの愛車である。
そして、もう一台。
鮮やかなターコイズグリーンのボディ。
長いボンネットと、筋肉質なフェンダー。
見るからに大排気量エンジンを搭載していることが分かる、迫力満点のアメリカンマッスルカー。
シボレー・カマロSS。
その車体には、すでにMFGのゼッケンが貼り付けられていた。
――283。
ベンジャミン・リヴィントン。
彼がMFGで背負うことになった、新たな番号である。
「……くぅ〜っ!」
愛車の前に立ったベンジャミンは、満足そうに伸びをした。
「やっぱゼッケンが付くと違うなぁ!」
そう言って、車体の283という数字を見つめる。
「一気にレーシングカーっぽくなったぜ!」
「ふふっ。そうだね」
隣ではカナタが微笑んでいた。
「でも、ベンのカマロって、ゼッケンが付いてなくてもすごく目立つよ」
「ハハッ! そりゃそうだ!」
ベンジャミンは胸を張る。
「何しろ、俺の相棒だからな!」
「……それ、関係ある?」
「あるに決まってんだろ!」
楽しそうに笑う二人。
そんな彼らの少し離れた場所では、緒方が腕を組んでカマロを眺めていた。
「……それにしても、本当に大きいなぁ」
「ミスター緒方!」
「ん?」
「どうだ! カッコいいだろ!」
「ああ。カッコいいのは認めるよ」
「だろ!?」
「でも……これをあの山道で走らせるんだよなぁ……」
緒方は、これから走る道路へ視線を向けた。
長い直線。
その先に続く、大小さまざまなコーナー。
サーキットとは違い、路面にはうねりや勾配の変化もある。
車体の大きなカマロにとって、決して楽な環境ではない。
「……大丈夫かなぁ」
「何だよ! 心配なのか?」
「いや、心配っていうか……」
緒方は少し考え込む。
「奥山さんのセッティングは信用してるけど、実際に走ってみないと分からない部分もあるからね」
「へへっ! だったら、走って確かめりゃいい!」
「まあ、そうなんだけどさ……」
そこで、カナタが口を開いた。
「ベン。まずは僕が前を走るよ」
「おっ?」
「カマロのセッティングを確認するんだよね?」
「ああ!」
「だったら、僕の86についてきて。最初は無理せず、車の動きを確認しよう」
その提案に、ベンジャミンは頷いた。
「オーケー! 先導は任せたぜ、カナタ!」
「うん」
カナタは微笑んだ。
「緒方さんも、僕の86に乗ってください」
「……え?」
緒方が目を瞬かせる。
「助手席に乗って、車の動きを確認してもらえればと思って」
「ああ……なるほど」
緒方は納得したように頷いた。
カナタの86は、すでに自分が何度も整備してきた車だ。
その挙動を助手席から確認すれば、後方を走るカマロとの比較にも役立つだろう。
「分かった。じゃあ、乗せてもらおうかな」
「はい!」
カナタは嬉しそうに答えた。
その横で。
「……へへっ」
ベンジャミンが、何やら楽しそうに笑っていた。
「……何だよ、ベンジャミン」
「いやぁ〜? 別に?」
「……?」
「ミスター緒方、しっかり掴まってろよ?」
「え?」
ベンジャミンは親指を立てた。
「カナタの運転、スゲェからな!」
「……いや、それは知ってるよ。俺、カナタのメカニックだし」
「ハハハッ! だったら問題ねえな!」
「……?」
緒方は首を傾げた。
その時の彼は、まだ知らなかったのである。
これから自分が、どのような体験をすることになるのかを。
* * *
――ヴォルルルルルンッ!!
――ブロロロロロ……!
二つのエンジンサウンドが、箱根の山中に響き渡った。
先行するのは、ライトニングレッドの86GT。
その後方には、ターコイズグリーンのカマロSS。
二台は十分な車間距離を保ちながら、山道を走り始める。
「……よし」
86の運転席。
カナタは、静かにステアリングを握っていた。
助手席には緒方。
「じゃあ、カナタ。頼むよ」
「はい。まずは八割くらいのペースで走りますね」
「八割か。分かった」
緒方は頷いた。
何しろ、これはレース本番ではない。
あくまで車両のシェイクダウンである。
無理をせず、適度なペースで走ればいい。
そう考えていた。
――その数秒後までは。
「……!」
カナタが、ゆっくりとアクセルを踏み込む。
86が加速を始めた。
迫り来る最初のコーナー。
緒方は前方へ視線を向ける。
(……そろそろブレーキかな?)
だが。
カナタの右足は、ブレーキペダルへ移動しない。
アクセルを戻し、自然に速度を落としながらコーナーへ進入していく。
そして――。
スッ。
ほとんど無駄のないステアリング操作。
86は、驚くほど滑らかに向きを変えた。
「……おっ?」
緒方が小さく声を漏らす。
次のコーナー。
また、その次のコーナー。
カナタの操作は、どこまでも滑らかだった。
必要以上にブレーキを踏まない。
アクセルを戻すタイミングと、車体に残る慣性を利用して速度を調整する。
コーナーへ入る前に、必要な減速を終わらせる。
そして、タイヤのグリップを無駄に使うことなく車の向きを変える。
実に合理的なドライビングだった。
――ただし。
それを助手席で体験する人間にとっては、話が別である。
「……ちょっ」
緒方が思わず声を漏らした。
次のコーナーが迫る。
(お、おい……!?)
カナタは、まだブレーキを踏まない。
いや。
そもそも、強い減速を必要としていないのだ。
車速とライン。
そして、路面のグリップ。
そのすべてを把握したうえで、86をコーナーへ放り込んでいる。
――ギュンッ!
「うおっ!?」
横方向のGが、緒方の身体をシートへ押しつけた。
しかし、カナタは平然としている。
「……よし」
小さく呟き、次のコーナーへ視線を向ける。
「お、おい……カナタ……?」
「はい?」
「今の……ブレーキ……」
「ああ。あそこは、アクセルオフだけで大丈夫でした」
「……そ、そう……?」
「はい。まだ余裕があります」
「…………」
緒方は黙った。
そして、ゆっくりと前方へ視線を戻す。
(……まだ余裕、ねぇ……)
その言葉が、妙に恐ろしかった。
だが。
彼に考える時間は与えられなかった。
次のコーナーが、すでに目前まで迫っていたのである。
「うおおっ!?」
86が、再び鋭く向きを変える。
そして、そのまま次の直線へ。
カナタの表情は、相変わらず穏やかだった。
――まるで、近所へ買い物に出かけているかのように。
* * *
一方。
その後方を走るカマロSS。
ベンジャミンは、目の前を走る86の動きを興味深そうに観察していた。
「……へえ」
ステアリングを握る手に、無駄な力は入っていない。
青い瞳は、前方の86を正確に捉えていた。
「やっぱ、スゲェな……」
カナタのドライビング。
それは、映像で見た時よりも遥かに印象的だった。
ストレートでは、自分のカマロの方が圧倒的にパワーがある。
だが、コーナーでは話が違う。
86は、まるで路面に吸いつくかのように走っていた。
ブレーキランプが点灯する回数は少ない。
にもかかわらず、進入速度は決して低くない。
そして、コーナーの出口では、すでに車体の姿勢が整っている。
「……なるほどな」
ベンジャミンは小さく笑った。
「ブレーキを使わずに、あそこまで速度をコントロールするか……!」
もちろん、まったく踏んでいないわけではない。
だが、必要以上に減速しないことで、車の運動エネルギーを可能な限り維持している。
軽量な86の特性を最大限に生かした走り。
それが、目の前で繰り広げられていた。
「……へへっ」
ベンジャミンは嬉しそうに笑う。
「いいじゃねえか、カナタ!」
その声には、純粋な感心が滲んでいた。
しかし。
彼もまた、ただ後をついて走っているわけではない。
――ヴォオオオオッ!!
カマロのV8エンジンが、低く唸りを上げる。
コーナー手前。
ベンジャミンは慎重にブレーキを踏み込んだ。
ノーズが沈む。
フロントタイヤへ荷重が移る。
だが、その動きは以前よりも穏やかだった。
(……おっ?)
ベンジャミンの目が、わずかに細くなる。
(いい感じじゃねえか……!)
奥山によって調整された足回り。
以前よりも、フロントの接地感がはっきりと伝わってくる。
ステアリングを切り込む。
大柄な車体が、ゆっくりと向きを変える。
もちろん、86のような軽快さはない。
しかし――。
(……踏ん張る!)
コーナリング中。
車体がロールしながらも、タイヤはしっかりと路面を捉えている。
そして、出口へ向けてアクセルを開けていく。
――ヴォオオオオオッ!!
6.2リッターV8が生み出す強大なトルク。
カマロが、力強く加速した。
「……ハハッ!」
ベンジャミンは思わず笑った。
「最高じゃねえか、ミスター奥山!!」
もちろん、まだ完璧ではない。
車体の大きさ。
重さ。
そして、コーナーの連続する日本の山道。
それらに対する違和感が、完全に消えたわけではなかった。
だが、確実に良くなっている。
少なくとも、以前よりも安心して荷重を預けられるようになっていた。
「……こいつは面白くなってきたぜ!」
ベンジャミンは、前方を走る86を見つめる。
その表情には、レーシングドライバーとしての鋭さが宿っていた。
カナタの走行ラインを観察しながら、自分の車に適したラインを探す。
86とカマロでは、車重もホイールベースも違う。
同じラインを通れば、同じように速く走れるというわけではない。
ならば。
自分の車に合った走り方を見つければいい。
(……なるほどな)
ベンジャミンは、ゆっくりと口元を吊り上げた。
(こいつは、まだまだ速くなるぜ……!)
ターコイズグリーンのカマロSSは、V8エンジンの咆哮を響かせながら、86の後を追い続けた。
* * *
「…………」
最初の走行を終え、二台の車が駐車スペースへ戻ってきた。
先に停車した86の運転席から、カナタが降りてくる。
「ふぅ……」
小さく息を吐く。
その表情は、実に穏やかだった。
「いい感じですね」
そう呟きながら、車体の状態を確認する。
タイヤ。
ブレーキ。
そして、車体全体の挙動。
特に大きな問題はなさそうだった。
「……緒方さん?」
カナタが助手席へ視線を向ける。
しかし。
「…………」
返事がない。
「……緒方さん?」
「…………」
「……大丈夫ですか?」
ようやく、助手席のドアが開いた。
そして――。
「……はぁ……」
緒方が、ゆっくりと車から降りてきた。
その顔色は、あまり良くなかった。
「……つ、疲れた……」
「えっ?」
カナタが目を丸くする。
「緒方さん、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……大丈夫……」
緒方は片手を上げた。
だが、その動きにはまるで力がない。
「……ちょっと、休ませて……」
そう言って、近くのベンチへ腰を下ろした。
そして、深いため息をつく。
「……はぁぁぁ……」
そこへ。
――ヴォルルルルンッ!!
カマロのエンジンが停止した。
「いやぁ〜! 最高だったぜ!!」
運転席から飛び出してきたベンジャミンが、満面の笑みを浮かべる。
「カナタ! お前、相変わらずスゲェな!」
「ありがとう、ベン」
「特にコーナーの入り方! あれ、ブレーキほとんど使ってねえだろ!?」
「うん。必要なところでは使ってるけど、できるだけ速度を落とさないようにしてるんだ」
「だよなぁ! いやぁ、面白かったぜ!」
二人は楽しそうに会話を始める。
しかし。
「…………」
緒方は、そんな二人をぼんやりと眺めていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……やっぱり、どっかおかしいよ……」
「……え?」
カナタが振り返る。
「どうしました?」
「……いや、何でもない……」
緒方は弱々しく首を振った。
だが。
そのまま黙っていることもできなかったらしい。
「……なあ、カナタ」
「はい?」
「さっき……八割って言ってたよな?」
「はい」
「……あれで?」
「はい。大体、それくらいです」
「…………」
緒方は、ゆっくりと天を仰いだ。
「……あれで八割かよ……」
その声には、深い疲労と、諦めにも似た響きがあった。
カナタは不思議そうに首を傾げる。
「……緒方さん?」
「いや……もう、何て言うか……」
緒方は力なく笑った。
「……お前らレーサーって、頭のネジ、何本か飛んでるんじゃないの……?」
「ええっ!?」
カナタが驚く。
「そ、そんなことないですよ!」
「……いやぁ……」
緒方は首を横に振った。
「普通の人間は、あんなスピードでコーナーに入っていかないって……」
「でも、ちゃんとコントロールできてましたよ?」
「……そういう問題じゃないんだよなぁ……」
緒方は再び深いため息をついた。
その様子を見ていたベンジャミンが、とうとう笑い出す。
「ハハハハッ!!」
「……何だよ、ベンジャミン……」
「いやいや! ミスター緒方、アンタ正常だぜ!」
「……え?」
「カナタの横に乗って、ケロッとしてる方がイカれてるって!」
「…………」
緒方は目を瞬かせた。
そして。
「……だよなぁ……」
心底安心したように頷いた。
「よかった……俺が普通なんだよな……」
「ハハッ! もちろん!」
ベンジャミンは笑いながら親指を立てる。
すると、カナタが少し不満そうな表情を浮かべた。
「……ベン?」
「あ?」
「それって、僕がおかしいって言ってる?」
「ハハハッ! 今さら気づいたのかよ!」
「もう!」
カナタは頬を膨らませる。
その様子を見て、ベンジャミンはますます笑った。
一方の緒方は、二人のやり取りを眺めながら、再び力なく呟く。
「……元気だなぁ、二人とも……」
どうやら、しばらく休憩が必要らしかった。
* * *
「……よし!」
それから、しばらくして。
ベンジャミンは、カマロのボンネットに手を置いた。
「カナタ! もう一回、走ろうぜ!」
「うん。いいよ」
カナタは頷いた。
「今度は、もう少しペースを上げてみようか」
「……へへっ!」
その言葉に、ベンジャミンの口元が吊り上がる。
「待ってました!」
先ほどの走行は、あくまで足回りの基本的な挙動を確かめるためのものだった。
だが、それだけでは分からないこともある。
ブレーキング時の安定性。
コーナリング中の荷重変化。
限界に近づいた時、タイヤがどのような反応を示すのか。
そして、アクセルを開けた時に、車体がどう動くのか。
それらを確かめなければ、本当の意味でセッティングを評価することはできない。
「……今度は、もう少し攻めてみるぜ」
ベンジャミンが呟く。
その表情は、先ほどまでとは違っていた。
鋭い眼差し。
引き締まった口元。
アメリカで数々のレースを戦ってきた、プロのレーシングドライバーの顔だった。
「カナタ」
「ん?」
「今度は遠慮するなよ?」
カナタは少しだけ目を細める。
そして、微笑んだ。
「……もちろん」
二人の間に、静かな闘志が流れる。
そこで。
「……あのさぁ……」
弱々しい声が聞こえてきた。
二人が振り返る。
ベンチでは、緒方がまだ疲れ切った表情で座っていた。
「……俺、今度は乗らなくていいよな……?」
「あっ」
カナタが目を丸くする。
「はい! もちろんです!」
「……よかったぁ……」
緒方は心底安心したように息を吐いた。
「……もう一回乗ったら、さすがに身体がもたないよ……」
「ハハハッ!」
ベンジャミンが笑う。
「安心しろ、ミスター緒方! 今度は俺たちだけで走るから!」
「……うん。そうしてくれると助かる……」
緒方は力なく頷いた。
カナタが申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、緒方さん」
「いや、いいんだよ……。ちゃんと仕事はできたから……」
そう言って、緒方は二台の車へ視線を向けた。
「……二人とも、気をつけてな」
「はい!」
「オーケー!」
それぞれの返事を残し、二人は愛車へと向かった。
再び、エンジンが始動する。
――ブロロロロロ……!
――ヴォルルルルルンッ!!
86の水平対向4気筒。
カマロの自然吸気V型8気筒。
まったく異なる二つのエンジンサウンドが、箱根の山中に響き渡る。
そして。
二回目のテスト走行が、始まった。
――ヴォオオオオオオッ!!
ターコイズグリーンのカマロSSが、山道を駆け上がっていく。
「……へへっ!」
ベンジャミンは、ステアリングを握りながら笑った。
「いいねぇ……!」
先ほどよりも、明らかに高いペース。
前方を走る86も、先ほどとは違う動きを見せていた。
コーナーへの進入速度。
ブレーキングのタイミング。
そして、立ち上がりの加速。
そのすべてが、一段と鋭さを増している。
「……さすがだぜ、カナタ!」
ベンジャミンは嬉しそうに呟いた。
だが、彼も負けてはいない。
――ヴォオオオッ!!
カマロのV8エンジンが咆哮する。
迫り来る右コーナー。
ベンジャミンは素早くブレーキングを開始した。
――グッ!
車体が前のめりになる。
フロントタイヤへ荷重が集中する。
だが。
(……いい!)
ベンジャミンの瞳が輝いた。
以前なら、大柄な車体がもう少し大きく沈み込んでいた場面。
しかし、今は違う。
奥山によって調整された足回りが、姿勢変化を適切に受け止めている。
ステアリングを切る。
カマロが向きを変える。
重量級の車体が生み出す慣性。
それを無理に押さえつけるのではなく、利用する。
そして――。
――ヴォオオオオオッ!!
アクセルオン。
太いトルクが後輪へ伝わり、カマロがコーナーから力強く飛び出した。
「ハハッ! いいぜ!!」
ベンジャミンは満面の笑みを浮かべる。
確実に、車の動きが良くなっていた。
ただし。
(……まだ、ちょっとフロントが重いな)
次のコーナーへ進入しながら、冷静に考える。
86と同じタイミングでステアリングを切っても、カマロは同じようには曲がらない。
ノーズの入り方が違う。
車体が向きを変えるまでの時間も違う。
そこに、重量とホイールベースの差が現れている。
(……だったら)
ベンジャミンは、ブレーキングポイントをわずかに調整した。
進入時に残す速度。
フロントへ移す荷重。
そして、アクセルを開き始めるタイミング。
すべてを少しずつ変えていく。
――ググッ!
カマロが、先ほどよりも素直に向きを変えた。
(……よし!)
ベンジャミンは口元を吊り上げる。
(こっちの方がいいな!)
彼にとって、これは単なるドライブではなかった。
新しいマシンの特性を探る、重要なテストである。
カマロSSの大排気量V8エンジンは、間違いなく強力な武器だった。
しかし、そのパワーを路面へ伝えられなければ意味がない。
MFGでは、車両重量に応じて使用できるタイヤのサイズが定められている。
重量級のカマロには、その分だけ幅の広いタイヤが認められる。
だが、車が重いという事実そのものが消えるわけではない。
減速にも、旋回にも、加速にも。
すべてに大きな慣性がつきまとう。
ならば、その重量を理解し、使いこなすしかない。
それが、ベンジャミンの出した答えだった。
「……へへっ」
前方の86を見つめる。
「待ってろよ、カナタ!」
もう少し。
あと少しで、この車の本当の走らせ方が見えてくる。
そんな手応えがあった。
* * *
一方。
先行する86の運転席では、カナタが小さく微笑んでいた。
「……ベン、すごいな」
ルームミラーに映るターコイズグリーンの車体。
その動きが、先ほどとは明らかに変わっていた。
最初の走行では、コーナーの進入で慎重な姿勢が目立っていた。
しかし、今は違う。
ベンジャミンは、カマロの重量を理解し始めている。
必要なところでは、しっかり減速する。
その一方で、無駄な減速は避ける。
そして、コーナー出口では強力なエンジントルクを生かし、一気に加速する。
車の長所と短所を、走りながら把握しているのだ。
「……やっぱり、ベンだね」
カナタは嬉しそうに呟いた。
幼い頃から、ベンジャミンはそういう少年だった。
初めて乗るカートでも。
慣れないゲームでも。
最初は戸惑っていても、すぐにコツを掴んでしまう。
そして、一度コツを掴めば、驚くほど大胆に攻め始める。
もちろん、今のベンジャミンは昔のままではない。
アメリカで本格的なレース経験を積み、プロのレーシングドライバーとして成長している。
そのことが、後方のカマロの動きから伝わってきた。
「……僕も、負けてられないね」
カナタは静かに微笑む。
そして、前方へ視線を戻した。
次のコーナー。
アクセルオフ。
わずかな減速。
ステアリングを切り込む。
86が、滑らかにコーナーへ進入する。
その後方。
カマロもまた、力強いエンジンサウンドを響かせながら追従していく。
二人のドライビングスタイルは、まるで違っていた。
軽量な車体を生かし、速度をできる限り維持するカナタ。
重量級の車体を操り、大排気量エンジンのパワーを生かすベンジャミン。
だが、その根底にあるものは同じだった。
誰よりも速く走りたい。
そして、自分の車の性能を最大限に引き出したい。
ただ、それだけだった。
そんな二人の走行が続いていた――。
その時である。
* * *
「……ん?」
ベンジャミンが、ふとルームミラーへ視線を向けた。
後方。
一台の車が近づいてくる。
(……車?)
最初は、特に気にしなかった。
ここはMFGの競技コースではない。
他の車が走っていても、何ら不思議ではないからだ。
だが。
「……おいおい」
ベンジャミンの表情が変わった。
後方の車が、明らかに速い。
しかも。
その接近速度が、尋常ではなかった。
「……何だ、あいつ?」
ミラーに映る車体。
小柄なスポーツカー。
低いボンネット。
丸みを帯びた独特のフロントフェイス。
そして――。
鮮やかなブルーのボディ。
「……アルピーヌ?」
ベンジャミンが呟く。
フランス製の軽量スポーツカー。
アルピーヌA110。
その特徴的なシルエットを、彼が見間違えるはずもなかった。
だが、それ以上に気になるものがあった。
車体に貼られたゼッケン。
そこには、はっきりと数字が記されていた。
――4。
「……ゼッケン4?」
ベンジャミンの目が細くなる。
(MFGのマシンか……?)
その瞬間。
――ヴォオオオオッ!!
「……っ!?」
青いアルピーヌが、一気に距離を詰めてきた。
そして。
見通しの開けた区間。
カマロの横へ並ぶと、瞬く間に前へ出た。
「……なっ!?」
ベンジャミンが目を見開く。
目の前を、小柄な青い車体が駆け抜けていく。
「……おいおいおい!!」
思わず声が漏れた。
だが、驚きはそれだけでは終わらなかった。
アルピーヌは、さらに前方の86へ接近する。
その動きに、迷いがない。
コーナーへの進入。
減速。
そして、旋回。
車体が、まるで意志を持っているかのように滑らかに向きを変える。
(……何だ、あの動き!?)
ベンジャミンは息を呑んだ。
アルピーヌの走りは、決して荒々しいものではなかった。
むしろ、その逆。
驚くほど無駄がない。
ブレーキングは必要最小限。
ターンインのタイミングも、正確だった。
そして、コーナー出口。
小柄な車体が、路面を蹴るように加速する。
次の見通しのよい区間で、アルピーヌは86をも追い抜いた。
「……マジかよ!?」
ベンジャミンは思わず叫んだ。
カナタの86を。
あのカナタが操る86を。
まるで流れるような動きで追い抜いていったのだ。
その光景を目にした瞬間。
ベンジャミンの中で、何かが燃え上がった。
「……へへっ」
口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「……面白えじゃねえか」
青いアルピーヌ。
ゼッケン4。
その正体は、まだ分からない。
だが。
ただ者ではないことだけは、はっきりしていた。
「……いいぜ」
ベンジャミンは、ステアリングを握り直す。
その瞳には、鋭い闘志が宿っていた。
「だったら――」
――ヴォオオオオオオッ!!
カマロのV8エンジンが咆哮する。
「追いかけてやろうじゃねえか!!」
* * *
――ヴォオオオオッ!!
ベンジャミンは、前方の86へ距離を詰めていく。
「……カナタ!」
その声が届くはずはない。
だが、まるで応えるように。
前方の86が、わずかに走行ラインを変えた。
カナタも、後方の状況を把握していたのである。
青いアルピーヌ。
その後ろを追おうとする、ターコイズグリーンのカマロ。
カナタはルームミラーを見つめ、小さく微笑んだ。
「……ベン」
そして、ぽつりと呟く。
「やっぱり、追いかけるんだね」
幼い頃から変わらない、従兄弟の負けず嫌いな性格。
速い相手を見つければ、放っておけない。
それは今も昔も同じだった。
カナタは、後方のカマロへ道を譲る。
十分な見通しが確保された区間。
――ヴォオオオオッ!!
カマロが86を追い抜いていった。
そして、そのまま前方のアルピーヌを追いかける。
「……ふふっ」
カナタは笑った。
「頑張って、ベン」
その言葉を、ベンジャミンが聞くことはなかった。
だが、彼の頭の中には、すでに青いアルピーヌのことしかなかったのである。