MFG GREAT ––ナスカーの刺客––   作:車っていいなって思うんすよね

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第6話「WELCOME BACK!」

 

 神奈川県――箱根。

 

 芦ノ湖を囲む山々に、朝の陽光が降り注いでいた。

 

 木々の間を吹き抜ける風は涼しく、澄み切った青空には薄い雲が浮かんでいる。

 

 一見すれば、どこにでもある穏やかな初夏の風景。

 

 しかし、その静かな山々は今、世界中のモータースポーツファンから熱い視線を浴びていた。

 

 

 ――MFG第2戦、芦ノ湖GT。

 

 

 予選開始から、すでに五日が経過していた。

 

 ポルシェ、フェラーリ、ランボルギーニ、日産GT-R。

 

 世界各国から集まった高性能マシンが、次々とタイムアタックに挑んでいる。

 

 その中でも特に大きな注目を集めていたのが、一台の青いアルピーヌだった。

 

 ゼッケン4。

 

 沢渡光輝。

 

 前年のMFG総合ランキング4位という実績を持つ男は、予選二日目に驚異的なコースレコードを叩き出し、その実力を改めて世界へ見せつけていた。

 

 そして今日は――。

 

 

 予選六日目。

 

 

 この日、二人の若きレーシングドライバーが、新たな挑戦を迎えようとしていた。

 

 一人は、イギリスからやって来た天才。

 

 ライトニングレッドのトヨタ86GTを操る、カナタ・カタギリ。

 

 そして、もう一人。

 

 

 ――ヴォルルルルルルンッ!!

 

 

 山間の空気を震わせる、重厚なV8サウンド。

 

 鮮やかなターコイズグリーンのボディに、力強く張り出したフェンダー。

 

 長いボンネットの下に収められているのは、6.2リッター自然吸気V型8気筒エンジン。

 

 最高出力453馬力。

 

 10速オートマチックトランスミッションを搭載した、アメリカンマッスルカー。

 

 

 シボレー・カマロSS。

 

 

 そのドアには、大きな数字が貼り付けられていた。

 

 

 ――283。

 

 

 ベンジャミン・リヴィントン。

 

 アメリカのレース界で数々の実績を残してきた、19歳のレーシングドライバー。

 

 彼にとって、今日が記念すべきMFG初出走の日となるのである。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……くぅ~っ!!」

 

 予選会場のパドック。

 

 ターコイズグリーンのカマロSSの前で、ベンジャミンは大きく伸びをした。

 

「最高の天気じゃねえか!!」

 

 青い空を見上げ、満面の笑みを浮かべる。

 

「いよいよだぜ! 俺のMFGデビュー!」

 

「……朝から元気だなぁ、ベンジャミン」

 

 その隣では、緒方が苦笑していた。

 

 手元のタブレットに目を落としながら、今日の予定を確認している。

 

「昨日も散々騒いでただろ。ちゃんと眠れたのか?」

 

「当たり前だろ!」

 

 ベンジャミンは胸を張った。

 

「昨日はバッチリ八時間寝たぜ!」

 

「へえ。意外だな」

 

「おい! どういう意味だよ!?」

 

「いや……お前、興奮して眠れなくなるタイプだと思ってたからさ」

 

「ハハッ! そりゃ昔の俺だ!」

 

 ベンジャミンは得意げに鼻を鳴らす。

 

「プロのレーサーってのはな、コンディション管理も仕事のうちなんだぜ!」

 

「……なるほどね」

 

 緒方は感心したように頷いた。

 

 確かに、言われてみればそのとおりだ。

 

 普段は豪快で、何事にも勢い任せなところがある青年だが、レースに関しては驚くほど真面目な一面を見せることがある。

 

 先日のシェイクダウンでもそうだった。

 

 沢渡光輝のアルピーヌに追いつけなかった際、最初こそ悔しさを爆発させていたものの、その後は自分の走りを冷静に分析していた。

 

 カマロの性能を、まだ完全には引き出せていない。

 

 日本の山岳道路にも、十分に慣れていない。

 

 そして何より、沢渡の技術が非常に高かった。

 

 そんな現実を受け止め、次の走行へ向けて改善しようとしていたのである。

 

「……まあ、そういうことなら安心かな」

 

「おう! 任せとけ!」

 

 ベンジャミンは自信満々に親指を立てた。

 

 しかし。

 

「……ベンジャミン」

 

 背後から、低い声が聞こえた。

 

「ん?」

 

 振り返ると、そこには奥山広也が立っていた。

 

 手には、車両の点検結果を記録したタブレットがある。

 

「少しいいか」

 

「オー! ミスター奥山!」

 

 ベンジャミンは嬉しそうに駆け寄った。

 

「どうだ!? 俺のカマロ!」

 

「機械的な部分は問題ない。足回りも、予定どおりに仕上がっている」

 

「よっしゃ!」

 

「……ただし」

 

 奥山は、静かに続けた。

 

「今日はテスト走行じゃない。予選だ」

 

「……ああ」

 

 ベンジャミンの表情が、わずかに引き締まる。

 

「前にも話したが、カマロの車重とパワーは、扱い方を間違えれば大きな負担になる。特にタイヤとブレーキだ」

 

「分かってる」

 

「それに、芦ノ湖には特殊な低μ路面がある。普通の舗装路と同じ感覚でアクセルを開けるなよ」

 

「……スリッピートラップ、だろ?」

 

 ベンジャミンが口元を吊り上げた。

 

「ちゃんと調べたぜ」

 

 芦ノ湖GTのコースには、非常に厄介な区間が存在する。

 

 富士山の火山活動によって生じた細かな粒子が路面に残り、タイヤのグリップ力を著しく低下させる地帯。

 

 通称――スリッピートラップ。

 

 大排気量V8エンジンの強大なトルクを後輪へ伝えるカマロにとっては、特に慎重な操作が求められる区間だった。

 

「大丈夫だって、ミスター奥山!」

 

 ベンジャミンは胸を叩いた。

 

「こう見えて、俺だってプロのレーサーなんだぜ!」

 

「……ならいい」

 

 奥山は小さく頷いた。

 

「電子制御の設定も、状況に応じて使い分けろよ」

 

「おう!」

 

 今回、奥山はカマロの電子制御にも手を加えていた。

 

 通常走行向けの『NORMAL』。

 

 トラクションコントロールを解除しつつ、スタビリティ制御の一部を残す『COMPETITION』。

 

 そして、ABSを残してトラクションコントロールとスタビリティ制御を解除する『FULL OFF』。

 

 どの設定を使用するかは、ドライバー自身の判断に委ねられる。

 

「……期待してるぞ」

 

「へへっ!」

 

 ベンジャミンは嬉しそうに笑った。

 

「任せとけって!」

 

 そんな二人のやり取りを、少し離れた場所から眺めていた青年がいた。

 

 黒髪に、整った顔立ち。

 

 どこか穏やかな雰囲気を漂わせた青年。

 

 カナタ・リヴィントンだった。

 

「……楽しそうだね、ベン」

 

「おっ! カナタ!」

 

 ベンジャミンが振り返る。

 

「お前も準備できたのか?」

 

「うん。僕の86は、もう大丈夫だよ」

 

 カナタは微笑んだ。

 

 その背後には、ライトニングレッドのトヨタ86GTが停められている。

 

 奥山の手によって足回りが見直され、開幕戦から大きな進化を遂げたマシン。

 

 先日のシェイクダウンでは、その効果を十分に体感していた。

 

「へへっ……」

 

 ベンジャミンは86へ視線を向けた。

 

「今日も見せてくれるんだろ? あのスゲェ走り!」

 

「もちろん」

 

 カナタは静かに頷いた。

 

「でも、ベンこそ楽しみにしてるよ」

 

「あ?」

 

「ベンがMFGでどんな走りをするのか、まだ見たことがないから」

 

「……ハハッ!」

 

 ベンジャミンは豪快に笑った。

 

「そりゃあ、楽しみにしてろよ!」

 

 そして、ニヤリと口元を吊り上げる。

 

「アメリカンレーシングってヤツを、たっぷり見せてやるぜ!」

 

「ふふっ。期待してる」

 

 二人は顔を見合わせ、笑い合った。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「おーい! 夏向ー!」

 

 突然、背後から声が響いた。

 

「……あっ!」

 

 カナタが振り返る。

 

 そこには、一人の男性がこちらへ歩いてくる姿があった。

 

 体格がよく、いかにもスポーツマンらしい雰囲気を漂わせた男。

 

 その顔には、人懐っこい笑みが浮かんでいる。

 

「相葉さん!」

 

「おう! 調子はどうだ?」

 

「はい! バッチリです!」

 

「そいつはよかった!」

 

 男は嬉しそうに笑った。

 

 その姿を見て、緒方も手を上げる。

 

「あ、相葉さん。おはようございます」

 

「おう、緒方! 奥山さんも!」

 

 相葉は二人へ挨拶すると、ふと隣に立っている金髪の青年へ視線を向けた。

 

「……ん?」

 

 ターコイズグリーンのカマロSS。

 

 そして、その前に立つ外国人の青年。

 

「おいおい……」

 

 相葉は目を丸くする。

 

「何だ、このすげえ車は!?」

 

「おっ!?」

 

 その言葉に、ベンジャミンが反応した。

 

「へへっ! 気になるか!?」

 

 満面の笑みを浮かべ、両手を広げる。

 

「シボレー・カマロSS! 俺の相棒だぜ!!」

 

「カマロSS!?」

 

「イエース!」

 

 ベンジャミンは得意げに頷いた。

 

「6.2リッター! V8! 453馬力!」

 

「マジかよ!」

 

 相葉は思わず声を上げた。

 

「すげえな! アメリカンマッスルってやつか!」

 

「そうそう! 分かってるじゃねえか!」

 

 初対面とは思えない勢いで盛り上がる二人。

 

 その様子を見ていたカナタは、思わず笑ってしまった。

 

「……ふふっ」

 

「ん?」

 

 相葉が振り返る。

 

「どうした、夏向?」

 

「あ、いえ……」

 

 カナタは笑みを浮かべたまま答えた。

 

「何だか、お二人は気が合いそうだなって」

 

「……?」

 

 そこで、相葉はようやく思い出したように首を傾げた。

 

「そういや、夏向。こいつは誰なんだ?」

 

「あっ、そうでしたね!」

 

 カナタはベンジャミンへ向き直った。

 

「ベン。紹介するよ」

 

「おう!」

 

「こちらは相葉瞬さん。僕の先輩なんだ」

 

「……センパイ?」

 

「うん。MFGでも走っていて、いつも僕のことを気にかけてくれてるんだよ」

 

「へえ!」

 

 ベンジャミンは興味深そうに相葉を見つめた。

 

「じゃあ、アンタもレーサーなのか!」

 

「おう! 俺は相葉瞬!」

 

 相葉は右手を差し出した。

 

「よろしくな!」

 

「オー! ナイストゥーミーチュー!」

 

 ベンジャミンは、その手を力強く握り返した。

 

「ベンジャミン・リヴィントン! ベンって呼んでくれ!」

 

「ベンジャミンか! よろしく!」

 

「おう!」

 

 がっしりと握手を交わす二人。

 

 すると、相葉がふと思い出したように口を開いた。

 

「そういやベン、お前、MFGに出るんだよな?」

 

「イエス!」

 

「なるほどなぁ……」

 

 相葉は改めてカマロへ視線を向けた。

 

「こいつで出るのか」

 

「もちろん!」

 

 ベンジャミンは胸を張る。

 

「アンタは何に乗ってるんだ?」

 

「俺か?」

 

 相葉はニヤリと笑った。

 

「日産GT-R NISMOだ!」

 

「……GT-R!?」

 

 ベンジャミンの目が輝いた。

 

「マジかよ! あのゴジラか!?」

 

「ゴジラ?」

 

「GT-Rだよ! アメリカじゃ、ゴジラって呼ばれることもあるんだぜ!」

 

「ああ、そういうことか!」

 

 相葉は楽しそうに笑った。

 

「へえ! 面白い呼び方だな!」

 

「ハハッ! GT-Rはアメリカでも人気あるんだぜ!」

 

「そりゃ嬉しいな!」

 

 すっかり意気投合した二人は、そのまま車の話に夢中になってしまった。

 

 そんな様子を眺めていた緒方が、小さく呟く。

 

「……何だか、似てるなぁ」

 

「え?」

 

 カナタが首を傾げる。

 

「相葉さんとベンジャミンだよ。二人とも、すごく元気だなって」

 

「……ふふっ。確かにそうですね」

 

 カナタも、楽しそうに笑った。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……そういや、夏向」

 

 ひとしきり話が盛り上がったところで、相葉が口を開いた。

 

「そろそろ準備しておいたほうがいいんじゃないか?」

 

「あっ、そうですね」

 

 カナタは腕時計を確認した。

 

「もうそんな時間ですか」

 

「おう。今日の俺は、お前のセコンドだからな!」

 

 相葉は胸を張った。

 

 MFGの予選では、ドライバーは一台ずつコースへ入り、単独でタイムアタックを行う。

 

 走行中は片耳ヘッドセットを通じてセコンドと連絡を取り、区間タイムや必要な情報を受け取る。

 

 コース上では、ドライバーは自分の目と感覚を頼りに走らなければならない。

 

 だからこそ、外から状況を把握してくれるセコンドの存在は重要なのである。

 

「よろしくお願いします、相葉さん!」

 

「おう! 任せとけ!」

 

 そんな二人のやり取りを聞いていたベンジャミンが、ふと口を開いた。

 

「……セコンド?」

 

「ああ」

 

 相葉が頷く。

 

「そういやベン、お前のセコンドは誰なんだ?」

 

「ん?」

 

「まさか、一人で走るつもりじゃないよな?」

 

 その質問に、緒方も顔を上げた。

 

「……あっ」

 

「ん?」

 

「そういえば、ベンジャミン」

 

 緒方は少し心配そうな表情を浮かべる。

 

「セコンドのこと、ちゃんと考えてたのか?」

 

「…………」

 

 一瞬。

 

 ベンジャミンが黙った。

 

「……おいおい」

 

 緒方の顔が引きつる。

 

「まさか……また忘れてたとか?」

 

 何しろ、ベンジャミンには前科がある。

 

 日本に来てから、車の整備を誰に任せるのか考えていなかったことが発覚し、慌ててカナタに相談したばかりなのだ。

 

 しかし――。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンが、不敵に笑った。

 

「安心しろよ、ミスター緒方!」

 

 そして、得意げに胸を張る。

 

 

「今度の俺は、ノープランじゃないぜ!!」

 

 

「……え?」

 

「ハハッ! セコンドなら、ちゃんといるんだ!」

 

「本当か?」

 

「もちろん!」

 

 ベンジャミンは親指を立てる。

 

「しかも、とびっきり頼りになるヤツがな!」

 

「へえ……」

 

 相葉が興味深そうに身を乗り出した。

 

「誰なんだ?」

 

「それはなぁ……」

 

 ベンジャミンが口元を吊り上げる。

 

 そして、何かを言いかけた――。

 

 

 その時だった。

 

 

 ――ウィィィン……。

 

 

 パドックの駐車スペースへ、一台の車が静かに進入してきた。

 

 流麗なボディライン。

 

 無駄のない、洗練されたデザイン。

 

 そして、エンジン音を発することなく滑らかに走る姿。

 

 テスラ・モデルS。

 

 高性能な電気自動車だった。

 

「……おっ!」

 

 その車を見つけた瞬間、ベンジャミンが嬉しそうな声を上げた。

 

「来た来た!」

 

「……?」

 

 緒方が首を傾げる。

 

「知り合いか?」

 

「おう!」

 

 ベンジャミンは満面の笑みを浮かべた。

 

「俺のセコンドだ!!」

 

 

 

     * * *

 

 

 

 テスラ・モデルSが、指定された駐車スペースへと滑り込む。

 

 車が完全に停止すると、運転席のドアが開いた。

 

 そして――。

 

「……まったく」

 

 聞こえてきたのは、どこか呆れたような女性の声だった。

 

「朝から随分と賑やかね、ベン」

 

「おっす! 姉貴!」

 

 ベンジャミンが元気よく手を振る。

 

 車から降りてきたのは、美しいブロンドの髪を持つ女性だった。

 

 すらりとした長身。

 

 整った顔立ちに、洗練された服装。

 

 その立ち居振る舞いには、自然と人目を引くものがあった。

 

 彼女の名前は、メイ。

 

 ベンジャミンの実の姉であり、現在は自身の会社を経営する若き実業家でもある。

 

「ちゃんと時間どおりに来たわよ」

 

「おう! サンキュー、姉貴!」

 

「あなたこそ、準備は済ませたんでしょうね?」

 

「当たり前だろ!」

 

「……前みたいに、何か忘れてたりしないわよね?」

 

「し、してねえって!」

 

 ベンジャミンは慌てて首を振る。

 

 その様子を見ていた緒方は、思わず目を瞬かせた。

 

(……あれ?)

 

 先ほどまで、あれほど威勢よく話していた青年が、突然おとなしくなっている。

 

「……ベンジャミン?」

 

「ん?」

 

「あの人って……」

 

「姉貴だよ!」

 

 ベンジャミンは、あっけらかんと答えた。

 

「俺の姉ちゃん! メイだ!」

 

「……えっ!?」

 

 緒方が驚きの声を上げる。

 

「お姉さん!?」

 

「おう!」

 

 ベンジャミンは胸を張った。

 

「俺のスポンサーでもあるんだぜ!」

 

「へえ……!」

 

 相葉も興味深そうに女性へ視線を向ける。

 

 すると、メイがこちらへ歩いてきた。

 

「初めまして」

 

 彼女は穏やかに微笑み、軽く頭を下げた。

 

「いつも弟がお世話になっています。姉のメイです」

 

「あ、どうも! 緒方です!」

 

「相葉瞬です!」

 

「奥山だ」

 

 三人も挨拶を返す。

 

 メイは、改めて緒方と奥山へ向き直った。

 

「ベンからお話は聞いています。今回は弟のために、本当にありがとうございます」

 

「いやいや、そんな!」

 

 緒方は慌てて手を振った。

 

「こっちも仕事ですから!」

 

「それでも、とても感謝しています」

 

 丁寧に頭を下げるメイ。

 

 その落ち着いた態度に、緒方は感心したような表情を浮かべた。

 

(……しっかりした人だなぁ)

 

 弟とは随分と印象が違う。

 

 しかし――。

 

「……ベンジャミン?」

 

「……ん?」

 

「皆さんに、ちゃんとお礼は言ったんでしょうね?」

 

「も、もちろんだぜ!」

 

「本当に?」

 

「ホントだよ!!」

 

 ベンジャミンは必死だった。

 

 その光景を見て、緒方は思わず口元を押さえる。

 

(……なるほど)

 

 どうやら、この姉弟の力関係は一目瞭然らしい。

 

 そんな中。

 

「…………」

 

 少し離れた場所で、一人の青年が立ち尽くしていた。

 

 カナタだった。

 

 彼は、目の前の女性をじっと見つめている。

 

 美しいブロンドの髪。

 

 懐かしい声。

 

 そして、幼い頃から何度も見てきた、優しい笑顔。

 

 最後に会った時よりも大人びていた。

 

 だが、見間違えるはずがなかった。

 

「……メイ?」

 

 小さく呟く。

 

 その声に、メイが振り返った。

 

「……え?」

 

 そして――。

 

 彼女の動きが、ぴたりと止まった。

 

「…………」

 

 目の前に立つ黒髪の青年。

 

 記憶の中にいる少年よりも背が伸び、すっかり大人びた姿。

 

 けれど。

 

 その面影は、昔と少しも変わっていなかった。

 

「……カナタ?」

 

「……うん」

 

 カナタは、ゆっくりと微笑んだ。

 

「久しぶりだね、メイ」

 

「…………!」

 

 その瞬間。

 

 メイの表情が、くしゃりと歪んだ。

 

「……カナタ……!」

 

 気づけば、彼女は歩き出していた。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 そして――。

 

「カナタ……!」

 

「わっ!?」

 

 メイは、その身体を強く抱きしめた。

 

「……メ、メイ!?」

 

「……よかった……!」

 

 耳元で、かすかな声が聞こえる。

 

「本当に……元気そうで、よかった……!」

 

「…………」

 

 カナタは驚いたように目を瞬かせた。

 

 メイの両腕は、思っていた以上に強く自分を抱きしめている。

 

 その肩が、かすかに震えていた。

 

「……ずっと、心配してたのよ……」

 

「……メイ」

 

「キャサリン叔母さんのことがあって……あなたがどれだけ辛かったか、私も知ってるつもりだった」

 

 メイは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「でも、遠くにいたから……何もしてあげられなくて……」

 

「…………」

 

「ベンから、あなたが元気にしているって聞いて……安心したつもりだったけど……」

 

 そこで、言葉が途切れた。

 

 メイは少しだけ身体を離し、カナタの顔を見つめる。

 

 その青い瞳には、涙が浮かんでいた。

 

「……こうして顔を見るまでは、やっぱり心配だったみたい」

 

「…………」

 

 カナタは、しばらく何も言わなかった。

 

 メイ。

 

 幼い頃から、何かと自分の世話を焼いてくれた年上の従姉。

 

 ベンと一緒に悪戯をすれば、いつも彼女に叱られていた。

 

 転んで膝を擦りむいた時には、真っ先に駆け寄ってくれた。

 

 そして、何かに悩んでいる時には、いつも優しく話を聞いてくれた。

 

 そんな彼女が、今。

 

 目の前で、自分との再会を喜んでくれている。

 

「……ごめんね、メイ」

 

 カナタは、小さく呟いた。

 

「ずっと心配かけちゃって」

 

「……もう」

 

 メイは困ったように笑った。

 

「そういう時は、謝らなくていいのよ」

 

「……うん」

 

「元気でいてくれたら、それでいいんだから」

 

 その言葉を聞いて、カナタはゆっくりと腕を回した。

 

 メイの背中を、優しく抱き返す。

 

「……ありがとう」

 

 そして、穏やかに微笑んだ。

 

「僕も、メイに会えて嬉しいよ」

 

「…………!」

 

 メイは、一瞬だけ息を呑んだ。

 

 それから。

 

「……そう」

 

 小さく頷く。

 

「……私もよ、カナタ」

 

 二人は、しばらくそのままでいた。

 

 久しぶりの再会。

 

 長い間、離れていた家族。

 

 もう二度と戻らない日々もある。

 

 けれど。

 

 こうして再び、互いの温もりを確かめられる。

 

 そのことが、今は何より嬉しかった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……へへっ」

 

 少し離れた場所。

 

 ベンジャミンは、姉と従兄弟の再会を眺めながら、何やら楽しそうに笑っていた。

 

「……何だよ、ベン」

 

 緒方が不思議そうに尋ねる。

 

「いやぁ~? 別に?」

 

 ベンジャミンは口元を吊り上げる。

 

 その横では、相葉も二人の様子を眺めていた。

 

「……へえ。夏向の親戚なんだよな、あの人」

 

「おう!」

 

 ベンジャミンは頷いた。

 

「俺の姉貴で、カナタの従姉だぜ!」

 

「なるほどなぁ……」

 

 相葉は感心したように腕を組む。

 

「すげえ美人じゃねえか」

 

「ハハッ! ありがとな!」

 

「いや、お前を褒めたわけじゃねえぞ?」

 

「細けえことは気にすんなって!」

 

 二人は再び笑い合った。

 

 そんな中。

 

「……ベンジャミン?」

 

 背後から、静かな声が響いた。

 

「……ん?」

 

 振り返る。

 

 そこには、いつの間にかカナタから離れたメイが立っていた。

 

「……何を笑ってるの?」

 

「えっ!?」

 

「何か面白いことでも?」

 

「い、いやぁ~?」

 

 ベンジャミンは冷や汗を浮かべる。

 

 メイは、にっこりと微笑んだ。

 

「……ベン?」

 

「な、何でもねえって!!」

 

 即答だった。

 

 その様子を見て、カナタが思わず吹き出す。

 

「……あははっ!」

 

「お、おい! カナタ!」

 

「ふふっ……ごめん」

 

 カナタは口元を押さえながら笑った。

 

「やっぱり、昔から変わってないね」

 

「だから何なんだよ、それ!」

 

「だって、ベンは昔からメイに怒られてばっかりだったから」

 

「おいおい!」

 

 ベンジャミンは大げさに両手を広げる。

 

「俺だって成長してるんだぜ!?」

 

「そうかしら?」

 

 メイが即座に口を挟んだ。

 

「昨日だって、私に何度も注意されたばかりでしょう?」

 

「ぐっ……!」

 

「ホテルの場所を間違えたり、車の鍵をどこに置いたかわからなくなったり……」

 

「ちょっ!? 姉貴!?」

 

「……ふふっ」

 

 カナタは、とうとう笑いを堪えきれなくなった。

 

 その様子を見て、メイも嬉しそうに微笑む。

 

「……それにしても、本当に大きくなったわね、カナタ」

 

「……そうかな?」

 

「ええ。最後に会った時より、ずっと」

 

 彼女は少しだけ目を細めた。

 

「……すっかり素敵な青年になっちゃって」

 

「……え?」

 

 カナタが目を瞬かせる。

 

「そ、そうかな……?」

 

「ふふっ。そうよ」

 

 メイは嬉しそうに微笑んだ。

 

 その頬には、ほんのわずかに赤みが差していた。

 

 だが、当のカナタは気づいていないらしい。

 

「ありがとう、メイ」

 

 ただ、いつものように穏やかな笑顔を返す。

 

「メイも、すごく綺麗になったね」

 

「…………!」

 

 今度は、メイが固まった。

 

「……え?」

 

「昔から綺麗だったけど、今はもっと大人っぽくなったと思う」

 

「…………」

 

「仕事も頑張ってるって、ベンから聞いたよ。すごいね」

 

「……カ、カナタ……」

 

 メイは、思わず視線を逸らした。

 

 そして、片手で口元を隠す。

 

「……ありがとう」

 

 その声は、先ほどまでより少し小さかった。

 

 一方。

 

「…………」

 

 ベンジャミンは、そのやり取りをじっと見つめていた。

 

 そして。

 

(……へへっ)

 

 ニヤリと笑う。

 

(やっぱ変わんねえなぁ、姉貴……)

 

 幼い頃から、メイがカナタに対して特別な感情を抱いていることには気づいていた。

 

 普段は誰に対しても堂々としている姉。

 

 しかし、カナタの前では時折、年相応の少女のような表情を見せる。

 

 どうやら、それは今も変わっていないらしい。

 

(……ま、余計なこと言ったら殺されるな)

 

 ベンジャミンは、賢明にも口を閉じることにした。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……さて」

 

 しばらくして、メイが腕時計を確認した。

 

「そろそろ、レースの準備をしましょうか」

 

「おっ! そうだった!」

 

 ベンジャミンが顔を上げる。

 

「今日は俺のMFGデビューだからな!」

 

「ええ。そのために来たんでしょう?」

 

 メイは微笑むと、手にしていたバッグからタブレットを取り出した。

 

 画面には、MFGの公式情報が表示されている。

 

 出走順。

 

 予選結果。

 

 そして、コース上の各計測ポイント。

 

「……ベン」

 

「ん?」

 

「あなたのセコンド登録も、ちゃんと済ませてあるわ」

 

「へへっ! さすが姉貴!」

 

 その言葉を聞いて、相葉が驚いたように目を丸くした。

 

「……えっ? お姉さんがセコンドをやるのか!?」

 

「おう!」

 

 ベンジャミンは胸を張った。

 

「俺の姉貴、こういうの得意なんだぜ!」

 

「へえ……!」

 

 相葉は感心したようにメイを見る。

 

「レースの経験があるんですか?」

 

「ドライバーとして走った経験はありませんけどね」

 

 メイは穏やかに答えた。

 

「でも、この子のレースは小さい頃からずっと見てきましたから」

 

「……なるほど」

 

「カートも、クォーターミジェットも、その後のレースも。時間が許す限り、現場へ足を運んでいました」

 

 彼女は弟へ視線を向ける。

 

「この子、普段はこんな調子ですけど……」

 

「お、おい!」

 

「レースの時は、意外とちゃんとしているんですよ」

 

「意外とって何だよ!?」

 

 ベンジャミンが抗議する。

 

 しかし、メイは気にした様子もない。

 

「少なくとも、どういう情報を必要としているのかは理解しているつもりです」

 

「……へえ!」

 

 相葉は感心したように頷いた。

 

「それなら心強いですね!」

 

「ええ。本人が余計なことをしなければ、ですけど」

 

「姉貴ぃぃ!!」

 

 ベンジャミンの叫び声が響き渡る。

 

 しかし。

 

 そんな弟を見つめるメイの表情は、どこか誇らしげだった。

 

 彼女は知っている。

 

 ベンジャミンが、どれほどレースを愛しているのか。

 

 そして、どれほどの努力を重ねてきたのか。

 

 幼い頃から、何度も勝利を喜び、何度も敗北に涙した。

 

 どれほど苦しい時でも、彼はステアリングを握ることだけは諦めなかった。

 

 だからこそ。

 

「……頑張りなさいよ、ベン」

 

 メイが、静かに微笑む。

 

「あなたの新しいスタートなんだから」

 

「…………」

 

 ベンジャミンは、一瞬だけ黙った。

 

 それから。

 

「……おう!」

 

 満面の笑みを浮かべる。

 

「任せとけ、姉貴!」

 

 その瞳には、いつもの陽気さとは違う、確かな闘志が宿っていた。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 それから、しばらくして。

 

 予選会場には、徐々に緊張感が漂い始めていた。

 

 エンジンの始動音。

 

 スタッフたちの声。

 

 無線のチェック。

 

 そして、車両の最終点検。

 

 普段の公道では決して味わうことのできない、独特の空気が流れていた。

 

「……夏向」

 

 緒方が、86の運転席へ視線を向ける。

 

「準備はいいか?」

 

「はい!」

 

 片耳ヘッドセットを装着したカナタが、笑顔で頷いた。

 

「いつでも行けます」

 

「……そうか」

 

 緒方は、少しだけ安心したように息を吐く。

 

 今回の86は、開幕戦から大きな進化を遂げている。

 

 奥山によって見直された足回り。

 

 吸排気系の改善。

 

 そして、ブレーキを含めた車両全体のバランス調整。

 

 先日のシェイクダウンでは、その効果を十分に確認できた。

 

 だが、今日は本番だ。

 

 しかも、コースは芦ノ湖GT。

 

 比較的フラットなレイアウトであり、開幕戦以上にエンジンパワーの差が表れやすい。

 

 非力な86にとって、決して有利な舞台ではなかった。

 

「……奥山さん」

 

 緒方が隣に立つチューナーへ声をかける。

 

「どう思います?」

 

「……何がだ?」

 

「今日の夏向ですよ」

 

 緒方は86を見つめた。

 

「どこまで行けると思います?」

 

「……さあな」

 

 奥山は、静かに答えた。

 

「それは走ってみなければ分からん」

 

「……ですよね」

 

「ただ……車は確実に良くなっている」

 

 奥山は、少しだけ目を細めた。

 

「俺にできることはやった。あとは、あいつがどう使うかだ」

 

 その言葉に、緒方は小さく頷いた。

 

 そして、改めてカナタへ視線を向ける。

 

 運転席に座る青年。

 

 その表情には、まるで緊張の色がなかった。

 

「……相変わらずだなぁ、夏向は」

 

 緒方は、思わず苦笑した。

 

 すると、その横から声が聞こえた。

 

「ハハッ! カナタは昔からあんな感じだぜ!」

 

 ベンジャミンだった。

 

「小さい頃から、勝負の前でもあんまり緊張しねえヤツだったんだ!」

 

「へえ……」

 

「ま、俺は逆だけどな!」

 

「……え?」

 

 緒方が首を傾げる。

 

「ベンジャミンは緊張するのか?」

 

「当たり前だろ!」

 

 ベンジャミンは笑った。

 

「レースの前なんて、いつも心臓バクバクだぜ!」

 

「……意外だな」

 

「ハハッ! でも、それがいいんだよ!」

 

 彼は胸元へ拳を当てる。

 

「緊張して、興奮して、早く走りたくて仕方なくなる!」

 

 そして、ニヤリと笑った。

 

「その瞬間が、俺は大好きなんだ!」

 

 その言葉に、緒方は思わず頬を緩めた。

 

 静かに闘志を燃やすカナタ。

 

 感情を隠すことなく、全身でレースへの情熱を表現するベンジャミン。

 

 性格はまるで違う。

 

 それでも、走ることが何より好きだという点だけは同じだった。

 

「……よし!」

 

 そこへ、相葉がやって来た。

 

「夏向! 無線の準備もできたぞ!」

 

「ありがとうございます!」

 

 カナタが笑顔で答える。

 

「それじゃ、行ってきます!」

 

「おう! 頼んだぜ!」

 

 カナタはシートベルトを締め、ステアリングに両手を添えた。

 

 エンジンを始動。

 

 ――ブロロロロロ……!

 

 水平対向4気筒エンジンが、軽快なサウンドを響かせた。

 

「……ベン!」

 

 窓越しに、カナタが声をかける。

 

「おっ?」

 

「先に行ってくるよ!」

 

「おう!」

 

 ベンジャミンは満面の笑みを浮かべた。

 

「派手に暴れてこいよ、カナタ!」

 

「ふふっ。もちろん」

 

 カナタも微笑む。

 

「ベンも、楽しみにしてるからね!」

 

「ハハッ! 任せとけ!」

 

 そして――。

 

 ライトニングレッドの86GTが、ゆっくりと動き出した。

 

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