MFG GREAT ––ナスカーの刺客––   作:車っていいなって思うんすよね

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第7話 「GREAT AMERICA STYLE!」

 

 

 MFG第2戦――芦ノ湖GT。

 

 予選六日目。

 

 ゼッケン86。

 

 カナタ・カタギリ。

 

 ライトニングレッドのトヨタ86GTが、スタート地点へと姿を現した。

 

 世界中へ配信されている公式映像にも、その車体が大きく映し出される。

 

 開幕戦、小田原パイクスピーク。

 

 無名のルーキーとして参戦したカナタは、並み居る高性能マシンを相手に驚異的な走りを披露した。

 

 そして、初参戦にして9位入賞。

 

 その活躍によって、今や多くの視聴者が彼の走りに注目していた。

 

 だが、今回の舞台は前回とはまったく異なる。

 

 比較的高低差が少なく、フラットな区間が多い芦ノ湖GT。

 

 エンジンパワーの乏しい86にとっては、非常に厳しい戦いになることが予想されていた。

 

 しかも、コースの一部には火山灰による低μ路面が存在する。

 

 少しでも操作を誤れば、簡単にグリップを失ってしまう危険な区間。

 

 スリッピートラップ。

 

 多くのドライバーが慎重な走行を強いられる難所だった。

 

 しかし。

 

 カナタの表情には、少しも迷いがなかった。

 

「…………」

 

 前方の道路を見つめる。

 

 呼吸は落ち着いている。

 

 ステアリングを握る手にも、余計な力は入っていない。

 

 そして、片耳ヘッドセットから声が聞こえた。

 

『……夏向、聞こえるか?』

 

「はい。聞こえてます、相葉さん」

 

『よし! こっちは準備オーケーだ!』

 

「ありがとうございます」

 

『思いっきりやってこいよ!』

 

 その言葉に、カナタは小さく微笑んだ。

 

「……はい!」

 

 視線を前方へ戻す。

 

 スタートを知らせるカウントダウンが始まっていた。

 

 そして――。

 

 

 ――GO!!

 

 

 ――ブオオオオオオッ!!

 

 

 86GTが、勢いよく加速した。

 

 水平対向4気筒エンジンが高回転まで吹け上がり、乾いたエキゾーストノートが山々に響き渡る。

 

 カナタは正確な操作でギアをつないでいく。

 

 スタート直後の加速。

 

 緩やかな上り勾配。

 

 そして、次々と現れるコーナー。

 

 その一つ一つに対して、無駄のない操作を積み重ねていく。

 

「…………」

 

 カナタの視線は、常に先を見ていた。

 

 目の前のコーナーだけではない。

 

 その先に続く道路。

 

 次の勾配。

 

 路面のうねり。

 

 そして、理想的な走行ライン。

 

 すべてが、彼の頭の中で正確につながっている。

 

 カナタには、非常に優れた空間認識能力と記憶力があった。

 

 一度見た風景を、驚くほど正確に覚えてしまう。

 

 それは、レーシングドライバーとして極めて強力な武器だった。

 

 道路の形状を正確に把握しているからこそ、次のコーナーに向けて早い段階から準備できる。

 

 その結果、必要以上の減速を避け、速度を保ったままコーナーへ進入することが可能になる。

 

 そして何より。

 

 彼は、その能力を最大限に生かすためのドライビング技術を身につけていた。

 

 イギリスで、ある伝説的なラリードライバーから教え込まれた技術。

 

 その集大成ともいえる走りが、今まさに披露されようとしていたのである。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……おっ!」

 

 パドック。

 

 公式モニターを見つめていたベンジャミンが、声を上げた。

 

「いいねぇ、カナタ!」

 

 画面の中では、ライトニングレッドの86が次々とコーナーを駆け抜けている。

 

 その走りを見たベンジャミンは、嬉しそうに口元を吊り上げた。

 

「やっぱ、ブレーキの使い方が上手え……!」

 

 カナタは必要以上に速度を落とさない。

 

 もちろん、必要な場面ではきちんとブレーキングを行う。

 

 しかし、減速を最小限に抑えながら、車体の姿勢を滑らかに変化させている。

 

 軽量な86の持つ特性を最大限に利用したドライビング。

 

 それは、重量級のカマロを操るベンジャミンとは、まったく異なるアプローチだった。

 

「……面白え」

 

 彼は、小さく笑った。

 

「こういう走り、大好きだぜ!」

 

 その隣では、奥山が腕を組んでモニターを見つめていた。

 

「……悪くない」

 

「おっ?」

 

 ベンジャミンが振り返る。

 

「ミスター奥山!」

 

「……何だ?」

 

「あの86、かなり調子いいんじゃねえか?」

 

「ああ」

 

 奥山は短く頷いた。

 

「前よりも、コーナーの入り方に余裕がある」

 

「だよな!」

 

 ベンジャミンは嬉しそうに笑う。

 

 その時。

 

 最初の計測ポイントを通過した86のタイムが表示された。

 

 暫定順位は――。

 

 

 13位。

 

 

「……おっ!」

 

 緒方が声を上げる。

 

「13番手!」

 

 決して上位ではない。

 

 しかし、このコースで非力な86が記録したタイムとしては、十分に期待を抱かせるものだった。

 

「……ここからだな」

 

 奥山が静かに呟いた。

 

 その言葉に、ベンジャミンが頷く。

 

「……ああ」

 

 そして、ニヤリと笑った。

 

「ここからが、面白えんだろ?」

 

 その視線の先。

 

 公式モニターには、86が次の区間へ向かっていく姿が映し出されていた。

 

 

   * * *

 

 

 ――ブオオオオオオッ!!

 

 86GTが、芦ノ湖の山岳道路を駆け抜けていく。

 

 次々と現れるコーナー。

 

 だが、カナタの操作に迷いはない。

 

 それどころか、走りはますます鋭さを増していた。

 

 そして――。

 

 ついに、問題の区間が近づいてくる。

 

 スリッピートラップ。

 

 火山灰の細かな粒子が路面に残り、タイヤのグリップ力を著しく低下させる危険な地帯。

 

 多くのドライバーが、ここでは慎重な操作を強いられる。

 

 不用意にブレーキを踏めば、タイヤがグリップを失いかねない。

 

 急激にステアリングを切れば、フロントタイヤが外側へ逃げてしまう。

 

 そして、アクセルを開けすぎれば、後輪が滑り出してしまう。

 

 しかし。

 

 カナタは、速度を必要以上に落とそうとはしなかった。

 

「…………」

 

 前方に迫るコーナー。

 

 彼は、わずかにステアリングを切り込んだ。

 

 同時に、アクセルを繊細に操作する。

 

 車体の荷重が移動する。

 

 そして――。

 

 

 ――スッ……!

 

 

 86のリアが、わずかに流れた。

 

 だが、カナタは慌てない。

 

 その滑りを、無理に止めようとはしなかった。

 

 むしろ、車体が生み出したヨーの動きを利用しながら、自然にコーナーへ向きを変えていく。

 

 フロントタイヤの向きは、進行方向から大きく外れていない。

 

 ステアリングの修正も、驚くほど小さい。

 

 それなのに、車体は美しく滑りながらコーナーを抜けていく。

 

 まるで、タイヤのグリップを失っていることさえ計算に入れているかのようだった。

 

 

 ――ゼロカウンタードリフト。

 

 

 かつて、群馬の峠道で伝説となったドライビングテクニック。

 

 その技術が、今。

 

 MFGという新たな舞台で、再び披露されていた。

 

 

     * * *

 

 

 

「…………!」

 

 モニターを見つめていたベンジャミンの表情が、一瞬で変わった。

 

「……おいおい」

 

 先ほどまでの笑みが消える。

 

 青い瞳が、鋭く細められた。

 

「……マジかよ」

 

 画面の中では、86が滑る路面を驚くほど滑らかに駆け抜けている。

 

 普通なら、グリップ不足を補うために速度を落とす場面。

 

 しかし、カナタは違った。

 

 タイヤが滑ることを前提に、その滑りを利用して車体の向きを変えている。

 

 しかも、カウンターステアによる大きな修正を必要としていない。

 

「……へえ」

 

 ベンジャミンの口元が、ゆっくりと吊り上がった。

 

「やってくれるじゃねえか……!」

 

 彼自身、これまで数々のカテゴリーでレースを戦ってきた。

 

 カート。

 

 クォーターミジェット。

 

 フォーミュラカー。

 

 そして、NASCAR。

 

 特にストックカーレースでは、重量級のマシンを高速で滑らせながら操る技術を磨いてきた。

 

 車体のスリップアングルを利用し、旋回を成立させる感覚。

 

 それ自体は、決して未知のものではない。

 

 だが。

 

 目の前でカナタが見せている走りは、それとも少し違っていた。

 

 極めて低いグリップの路面。

 

 狭い公道。

 

 逃げ場のないコーナー。

 

 そんな場所で、最小限の操作によって車体の姿勢を制御している。

 

(……こいつは、スゲェ!)

 

 ベンジャミンは、思わず拳を握り締めた。

 

(やっぱりお前は、とんでもねえヤツだぜ……!)

 

 画面の中の86が、次のコーナーへと進入する。

 

 再び、リアがわずかに流れる。

 

 だが、その姿勢は完全にコントロールされていた。

 

「……ハハッ!」

 

 ベンジャミンは、とうとう笑い出した。

 

「最高じゃねえか!!」

 

 その声に、緒方が振り返る。

 

「……ベンジャミン?」

 

「ミスター緒方!」

 

「ん?」

 

「カナタ、やっぱスゲェな!」

 

「……ああ」

 

 緒方も、モニターへ視線を戻した。

 

「本当にな……」

 

 何度もカナタの走りを見てきた。

 

 緒方自動車で、彼の86を整備してきた。

 

 その実力が並外れていることは、誰よりも理解しているつもりだった。

 

 しかし。

 

 こうして改めて見ると、やはり驚かされる。

 

「……奥山さん」

 

 緒方が、隣へ声をかけた。

 

「……ああ」

 

 奥山は、静かに頷いた。

 

 画面の中では、86がスリッピートラップを抜けようとしている。

 

「……見事なもんだ」

 

 奥山の口元に、小さな笑みが浮かんだ。

 

「俺が作った足を、あそこまで使いこなすとはな」

 

 チューナーにとって、自分の仕上げたマシンが理想的な動きを見せることほど嬉しいものはない。

 

 そして、カナタはその期待を遥かに超える走りを見せていた。

 

 一方。

 

「…………」

 

 少し離れた場所では、メイもモニターを見つめていた。

 

 画面に映る、ライトニングレッドの86。

 

 そのステアリングを握っているのは、幼い頃からよく知っている従弟。

 

「……カナタ」

 

 小さく名前を呟く。

 

 昔から、車が大好きな少年だった。

 

 ベンと一緒に、何時間でもレースの話をしていた。

 

 そんな二人を、少し離れた場所から眺めていたことを思い出す。

 

 あの頃は、まさか二人がこうして同じレースに参戦する日が来るとは思っていなかった。

 

「……すごいわね」

 

 メイは、穏やかに微笑んだ。

 

「本当に……立派になったのね」

 

 その声には、懐かしさと誇らしさが滲んでいた。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 ――ブオオオオオオッ!!

 

 スリッピートラップを抜けた86GTが、再び加速を始める。

 

 カナタの表情は、相変わらず落ち着いていた。

 

 前方へ視線を向ける。

 

 次のコーナー。

 

 その先の直線。

 

 そして、ゴールへと続く道路。

 

 彼の頭の中には、すでに理想的な走行ラインが描かれていた。

 

 直線では、圧倒的なパワーを持つライバルたちに及ばない。

 

 それでも、カナタは少しも焦らなかった。

 

 できることを、確実にやる。

 

 ブレーキングで無駄を減らす。

 

 コーナリングで速度を維持する。

 

 そして、できる限り早くアクセルを開ける。

 

 それが、今の86で最速を目指すための方法だった。

 

 最後のコーナーが迫る。

 

 カナタは、素早く車体の姿勢を整えた。

 

 そして――。

 

 アクセルを踏み込む。

 

 

 ――ブオオオオオオッ!!

 

 

 ライトニングレッドの86が、最後の直線へと飛び出した。

 

 ゴール地点が近づいてくる。

 

 カナタは、最後まで集中を切らさなかった。

 

 そして――。

 

 

 ――FINISH!!

 

 

 86GTが、計測ラインを通過した。

 

 その瞬間。

 

 公式モニターに、新たなタイムが表示された。

 

 そして、暫定順位が更新される。

 

 

 ――8位。

 

 

「……おおっ!!」

 

 緒方が、思わず声を上げた。

 

「8番手!!」

 

 奥山も、わずかに目を見開いた。

 

 開幕戦で9位入賞を果たしたルーキー。

 

 その彼が、今回も強豪たちに食らいつくタイムを叩き出したのだ。

 

 もちろん、まだ予選は終わっていない。

 

 最終的な順位がどうなるかは、これからの出走者次第。

 

 それでも。

 

 現時点で8番手という数字は、十分に価値のあるものだった。

 

「……ハハッ!」

 

 ベンジャミンが、嬉しそうに笑った。

 

「やるじゃねえか、カナタ!」

 

 その声には、純粋な喜びが滲んでいた。

 

 幼い頃から知っている従兄弟が、世界の強豪を相手に堂々と戦っている。

 

 その姿を見ることができたのだから。

 

 だが――。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンの口元が、ゆっくりと吊り上がる。

 

 その青い瞳には、先ほどまでとは違う光が宿っていた。

 

「……燃えてきたぜ」

 

 カナタが8番手。

 

 つまり。

 

 これから自分が走ることで、その記録を上回ることだってできる。

 

 もちろん、簡単な話ではない。

 

 芦ノ湖GTは、ベンジャミンにとって初めて挑むMFGのコース。

 

 日本の公道での実戦経験も、まだ十分ではない。

 

 しかも、相棒は重量級のカマロSS。

 

 軽量な86とは、まったく異なる特性を持つマシンだ。

 

 しかし。

 

 だからといって、諦める理由にはならない。

 

「……いいぜ、カナタ」

 

 ベンジャミンは、公式モニターを見つめた。

 

 そこには、カナタ・カタギリの名前が表示されている。

 

 

 『KANATA KATAGIRI』

 

 『暫定8位』

 

 

 その文字を見ながら、ベンジャミンはニヤリと笑った。

 

「お前がそれだけやるってんなら……」

 

 

「俺だって、負けてらんねえよな!!」

 

 

 

     * * *

 

 

 

 それから、しばらくして。

 

「……ただいま!」

 

 パドックへ戻ってきたカナタが、86GTから降りてきた。

 

 片耳ヘッドセットを外しながら、満足そうに息を吐く。

 

 その表情は明るかった。

 

「お疲れ、夏向!」

 

 緒方が、笑顔で迎える。

 

「いい走りだったじゃないか!」

 

「ありがとうございます!」

 

 カナタは嬉しそうに頷いた。

 

「車も、すごく調子がよかったです!」

 

「そうか!」

 

 緒方は安心したように笑う。

 

「それならよかったよ」

 

 そこへ、奥山も歩み寄ってきた。

 

「……どうだった?」

 

「あっ、奥山さん!」

 

 カナタは、嬉しそうに顔を上げた。

 

「最高でした!」

 

「……そうか」

 

「特に、コーナリング中の安定感がすごくよくて……!」

 

 カナタは興奮した様子で説明を始める。

 

「路面のグリップが低いところでも、車の動きがすごく分かりやすかったんです!」

 

「……なるほど」

 

「だから、思い切って走ることができました!」

 

 奥山は静かに頷いた。

 

 そして、小さく笑う。

 

「……それなら、仕上げた甲斐があったな」

 

「はい! 本当にありがとうございます!」

 

 カナタは、深々と頭を下げた。

 

 その様子を見て、緒方も嬉しそうに頷いていた。

 

 そこへ――。

 

「カナタァァァ!!」

 

「うわっ!?」

 

 突然、背後から大きな声が響いた。

 

 次の瞬間。

 

 ベンジャミンが、勢いよく駆け寄ってきた。

 

「うおおおお! 最高だったぜ!!」

 

「ベ、ベン!?」

 

 驚くカナタの肩を、ベンジャミンが力強く叩く。

 

「特にあのスリッピートラップ! 何だよ、あの走り!!」

 

「……ああ、あれ?」

 

「そうだよ!」

 

 ベンジャミンは興奮気味に続ける。

 

「滑らせてんのに、ほとんどカウンター当ててねえじゃねえか!」

 

「……うん」

 

 カナタは、少しだけ照れたように笑った。

 

「あれは、僕の先生から教わった技術なんだ」

 

「……先生?」

 

「うん」

 

 カナタは頷く。

 

「イギリスで、僕にドライビングを教えてくれた人」

 

「へえ……」

 

 ベンジャミンは興味深そうに目を細めた。

 

「そいつは、スゲェ先生だな!」

 

「ふふっ。そうだね」

 

 カナタは、嬉しそうに微笑んだ。

 

 そして、ベンジャミンへ視線を向ける。

 

「でも、ベン」

 

「ん?」

 

「次は、ベンの番だよね?」

 

「……おう!」

 

 ベンジャミンは、ニヤリと笑った。

 

「いよいよ俺の出番だぜ!」

 

「楽しみにしてるよ」

 

「ハハッ! 任せとけ!」

 

 そう言って、彼は自信満々に胸を張った。

 

「お前に負けないくらい、派手に走ってやるからな!」

 

「……うん!」

 

 カナタも、笑顔で頷いた。

 

「僕も、負けるつもりはないよ」

 

「……へへっ!」

 

 ベンジャミンの口元が吊り上がる。

 

「言ってくれるじゃねえか!」

 

 二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。

 

 その様子を少し離れた場所から見ていた相葉が、思わず苦笑する。

 

「……まったく」

 

「ん?」

 

 緒方が振り返る。

 

「どうしました、相葉さん?」

 

「いや……本当に仲がいいんだな、あいつら」

 

「……そうですね」

 

 緒方も、笑顔で頷いた。

 

「でも、レースになると話は別みたいですよ」

 

「……ハハッ!」

 

 相葉は楽しそうに笑った。

 

「そりゃそうだろ!」

 

 そして、ニヤリと口元を吊り上げる。

 

「レーサーってのは、そういうもんだからな!」

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……さて、と!」

 

 ベンジャミンは、自分のカマロへ向き直った。

 

 ターコイズグリーンのボディ。

 

 低く長いボンネット。

 

 力強く張り出したフェンダー。

 

 そして、ドアに貼り付けられたゼッケン。

 

 

 ――283。

 

 

 その数字を見つめながら、ベンジャミンは小さく息を吐いた。

 

「……へへっ」

 

 日本に来てから、まだそれほど時間は経っていない。

 

 だが。

 

 この短い期間に、実に多くのことがあった。

 

 久しぶりに会えた従兄弟。

 

 新しく出会った仲間たち。

 

 そして、最高の相棒。

 

 シボレー・カマロSS。

 

 それらすべてが、今日という日のためにつながっていた。

 

「……ベン」

 

 背後から、声が聞こえた。

 

「ん?」

 

 振り返る。

 

 そこには、メイが立っていた。

 

「……そろそろよ」

 

「……おう」

 

 ベンジャミンは頷いた。

 

 メイは、弟の顔をじっと見つめる。

 

「……緊張してる?」

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、小さく笑った。

 

「そりゃ、してるさ」

 

「……そう」

 

「でも……」

 

 彼は、ゆっくりとカマロへ視線を向けた。

 

「めちゃくちゃ楽しみだぜ」

 

「…………」

 

 メイは、少しだけ目を細めた。

 

 そして。

 

「……そうね」

 

 穏やかに微笑んだ。

 

「あなたなら、そう言うと思ったわ」

 

「ハハッ!」

 

 ベンジャミンは笑った。

 

「何しろ、俺だからな!」

 

「……もう」

 

 メイは呆れたようにため息をつく。

 

 しかし、その表情には優しさが滲んでいた。

 

「……いい?」

 

「ん?」

 

「無茶はしないこと」

 

「……おう」

 

「それから、車を壊さないこと」

 

「……おう」

 

「そして……」

 

 そこで、メイは一度だけ言葉を切った。

 

 ベンジャミンが顔を上げる。

 

 彼女は、真っ直ぐに弟を見つめた。

 

「……必ず、無事に帰ってきなさい」

 

「…………」

 

 その言葉に、ベンジャミンは少しだけ目を細めた。

 

 母が亡くなってから。

 

 メイは、以前にも増して彼の身を案じるようになった。

 

 彼女が何を心配しているのか。

 

 その理由を、ベンジャミンも十分に理解していた。

 

 だからこそ。

 

「……任せとけよ、姉貴」

 

 彼は、穏やかに笑った。

 

「ちゃんと帰ってくるさ」

 

「……ええ」

 

 メイも、小さく頷いた。

 

 そして、いつもの調子で付け加える。

 

「もし車を壊して帰ってきたら、覚悟しておきなさいね?」

 

「……えっ!?」

 

 ベンジャミンの顔が引きつった。

 

「ちょ、ちょっと待てよ! それ、さっきの話と全然違くね!?」

 

「何が?」

 

「いやいや! 無事に帰ってこいって話だったろ!?」

 

「だから、あなたも車も無事に帰ってきなさいってことよ」

 

「ハァ!?」

 

 ベンジャミンは大げさに両手を広げた。

 

「俺と車、同じ扱い!?」

 

「当然でしょう?」

 

「ひでえ!!」

 

 その叫び声に、周囲から笑いが起こった。

 

 カナタも、思わず吹き出してしまう。

 

「……あははっ!」

 

 メイは満足そうに微笑んだ。

 

 そして、少しだけ声を落とす。

 

「……頑張ってね、ベン」

 

「…………」

 

 ベンジャミンは、一瞬だけ黙った。

 

 それから。

 

「……おう!」

 

 満面の笑みを浮かべた。

 

「任せとけ!!」

 

 

 

     * * *

 

 

 

 予選会場。

 

 MFGスタッフによる出走準備の案内が始まっていた。

 

 次にコースへ向かう車両。

 

 その情報が、公式モニターへと表示される。

 

 

 『No.283』

 

 『BENJAMIN RIVINGTON』

 

 『CHEVROLET CAMARO SS』

 

 

 その文字が表示された瞬間。

 

「……おっ!」

 

 相葉が、興味深そうに声を上げた。

 

「いよいよベンの番か!」

 

「……そうですね」

 

 緒方も、少し緊張した様子で頷いた。

 

 MFG初参戦。

 

 しかも、重量級のアメリカンマッスルカー。

 

 この組み合わせが、果たしてどのような結果を生み出すのか。

 

 誰にも予想できなかった。

 

「……奥山さん」

 

 緒方が、隣へ視線を向ける。

 

「どう思います?」

 

「……さあな」

 

 奥山は静かに答えた。

 

「走ってみなければ分からん」

 

「……ですよね」

 

「ただ……」

 

 奥山は、カマロへ視線を向けた。

 

「面白いものは見られそうだ」

 

 その言葉に、緒方も小さく笑った。

 

 一方。

 

 カマロの運転席では、ベンジャミンが最後の確認を行っていた。

 

 シートベルト。

 

 ミラー。

 

 各種メーター。

 

 そして、電子制御の設定。

 

 すべて問題ない。

 

 片耳ヘッドセットを装着し、通信状態を確認する。

 

 奥山が仕上げた足回り。

 

 453馬力を発生する自然吸気V8エンジン。

 

 10速オートマチックトランスミッション。

 

 そして、走行状況に応じて切り替えられる電子制御。

 

 使えるものは、すべて使う。

 

 それが、ベンジャミンの考えだった。

 

「…………」

 

 彼は、ステアリングへ両手を添えた。

 

 ゆっくりと息を吸う。

 

 そして、吐く。

 

 先ほどまで騒いでいたのが嘘のように、その表情は落ち着いていた。

 

 青い瞳が、前方を真っ直ぐに見つめる。

 

 そこには、19歳の陽気な青年の姿はなかった。

 

 アメリカのレース界で数々の勝負を経験してきた、一人のプロドライバーがいた。

 

 その時。

 

『……ベン、聞こえる?』

 

 片耳ヘッドセットから、姉の声が響いた。

 

「……おう」

 

 ベンジャミンが、小さく答える。

 

「バッチリだぜ、姉貴」

 

『こちらも準備できてるわ』

 

「了解」

 

『コースの情報も、区間タイムも、ちゃんと伝えるから』

 

「……ああ」

 

『あなたは、走ることに集中しなさい』

 

 その言葉に、ベンジャミンは小さく笑った。

 

「……分かってるって」

 

 そして、少しだけ声を落とす。

 

「……頼りにしてるぜ、姉貴」

 

『…………』

 

 無線の向こうで、ほんの一瞬だけ沈黙が流れた。

 

 それから。

 

『……ええ』

 

 メイの、優しい声が返ってきた。

 

『任せておきなさい』

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、嬉しそうに口元を吊り上げた。

 

 そして――。

 

 スタートボタンを押した。

 

 

 ――ヴォルルルルルルンッ!!

 

 

 6.2リッター自然吸気V8エンジンが、重厚な咆哮を上げた。

 

 低く、太い排気音。

 

 それが、芦ノ湖の山間に響き渡る。

 

 周囲にいたスタッフたちが、思わずカマロへ視線を向けた。

 

 MFGには、これまでにも数多くの高性能マシンが参戦してきた。

 

 ポルシェ。

 

 フェラーリ。

 

 ランボルギーニ。

 

 メルセデスAMG。

 

 そして、日産GT-R。

 

 だが。

 

 これほど堂々としたアメリカンマッスルカーが、鮮やかなターコイズグリーンのボディを輝かせながらスタートを待つ光景は、実に新鮮だった。

 

「……くぅ~っ!」

 

 ベンジャミンは、思わず笑った。

 

「やっぱ、最高だぜ……!」

 

 ステアリングを軽く握り直す。

 

 何度も繰り返してきた動作。

 

 何百回、何千回と経験してきたスタート前の緊張感。

 

 それらすべてが、彼の身体に染みついている。

 

 ただ、今日は少しだけ違う。

 

 初めて走る日本の公道。

 

 初めて挑むMFG。

 

 そして。

 

 幼い頃からよく知っている従兄弟と、同じ舞台で競い合う。

 

 それだけで、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、ゆっくりと口元を吊り上げた。

 

「待ってろよ、カナタ」

 

 その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。

 

「お前が見せてくれたんだ」

 

 先ほどの86の走りが、脳裏によみがえる。

 

 スリッピートラップを駆け抜けた、あの美しいゼロカウンタードリフト。

 

 軽量な86の特性を最大限に生かした、緻密なドライビング。

 

 そして、暫定8位という結果。

 

「……だったら」

 

 ベンジャミンは、ニヤリと笑った。

 

 

「今度は、俺の番だよな!」

 

 

 

     * * *

 

 

 

 パドック。

 

 緒方、奥山、相葉、カナタ。

 

 そして、メイ。

 

 五人は、出走準備を整えたターコイズグリーンのカマロSSを見つめていた。

 

「……いよいよですね」

 

 カナタが、小さく呟く。

 

「……ああ」

 

 緒方も頷いた。

 

「何だか、こっちまで緊張してきたよ……」

 

「ハハッ!」

 

 相葉が笑う。

 

「まあ、気持ちは分かるぜ!」

 

 そして、カマロへ視線を向けた。

 

「でも、あいつ……結構やりそうな気がするな!」

 

「……そうですね」

 

 カナタも、嬉しそうに微笑んだ。

 

「ベンは、すごく速いドライバーですから」

 

「……へえ?」

 

 相葉が興味深そうに顔を向ける。

 

「そんなにか?」

 

「はい」

 

 カナタは、はっきりと頷いた。

 

「昔から、車を走らせることに関しては本当にすごかったんです」

 

「……なるほどな」

 

 相葉は、再びカマロへ視線を向けた。

 

 そこには、先ほどまで騒いでいた陽気な青年の姿はない。

 

 ステアリングを握り、静かに前方を見つめる一人のレーシングドライバーがいた。

 

「……面白そうじゃねえか」

 

 相葉は、小さく笑った。

 

 

 次の瞬間。

 

 MFGスタッフから、出走準備を促す合図が送られた。

 

 ターコイズグリーンのカマロSS。

 

 ゼッケン283。

 

 ベンジャミン・リヴィントン。

 

 その記念すべき初出走が、いよいよ目前に迫っていた。

 

 

 ――ヴォルルルルルルンッ!!

 

 

 V8エンジンが、再び力強く唸りを上げる。

 

 ベンジャミンは、ステアリングを握り締めた。

 

 青い瞳が、前方を鋭く捉える。

 

 そして――。

 

 

「……さあて!」

 

 

 口元に、いつもの豪快な笑みが浮かんだ。

 

 

「いっちょ、派手に暴れてやるか!!」

 

 

 日本の公道を舞台とした、世界最高峰のモータースポーツ。

 

 MFG。

 

 その新たな挑戦者として、一人のアメリカ人レーサーが名乗りを上げる。

 

 重量級のアメリカンマッスルカー。

 

 453馬力の自然吸気V8。

 

 そして、数々のカテゴリーで培ってきたドライビングテクニック。

 

 果たして、その組み合わせは、日本の公道でどのような走りを見せるのか。

 

 

 ――AMERICAN STYLE。

 

 

 ベンジャミン・リヴィントン。

 

 彼のMFGが、今まさに始まろうとしていた。

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