MFG GREAT ––ナスカーの刺客––   作:車っていいなって思うんすよね

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第8話「SMART DRIVING!」

 ――ヴォルルルルルルンッ!!

 

 6.2リッターのV型8気筒エンジンが、腹の底まで響く重低音を奏でていた。

 

 ターコイズグリーンのシボレー・カマロSS。

 

 その運転席で、ベンジャミン・リヴィントンは静かに前方を見つめていた。

 

 先ほどまでパドックで大騒ぎしていた姿が、まるで嘘のようだった。

 

 ステアリングに添えられた両手。

 

 アクセルペダルに置かれた右足。

 

 身体を包み込むスポーツシートの感触。

 

 そして、背中へと伝わってくるV8エンジンの鼓動。

 

 すべてが、彼にとって馴染み深いものだった。

 

「…………」

 

 ベンジャミンは、ゆっくりと息を吐く。

 

 目の前に広がっているのは、日本の公道。

 

 アメリカのサーキットとは違う。

 

 広大なオーバルコースでもなければ、整備されたロードコースでもない。

 

 道路のすぐ脇にはガードレールがあり、その向こうには木々が生い茂っている。

 

 コーナーの先が見通せない場所も多い。

 

 そして、今回の芦ノ湖GTには、極端に滑りやすい路面が存在する。

 

 これまで数々のレースを経験してきたベンジャミンにとっても、初めて挑む環境だった。

 

 だが。

 

「……へへっ」

 

 彼の口元には、笑みが浮かんでいた。

 

「面白えじゃねえか……!」

 

 未知のコース。

 

 未知のレース。

 

 そして、未知のライバルたち。

 

 そのすべてが、ベンジャミンの闘争心を刺激していた。

 

 もちろん、怖くないわけではない。

 

 心臓は、いつもより少しだけ速く鼓動している。

 

 指先にも、わずかな緊張が残っていた。

 

 しかし、彼はその感覚を嫌いではなかった。

 

 むしろ。

 

(……やっぱ、これだよな)

 

 ベンジャミンは、小さく笑った。

 

(この感じが、たまんねえんだよ!)

 

 レースが始まる直前。

 

 スタートシグナルを待つ、ほんのわずかな時間。

 

 何百回と経験してきたはずなのに、いまだに胸が高鳴る。

 

 それこそが、自分がレーサーである何よりの証拠だった。

 

 その時。

 

『……ベン』

 

 片耳ヘッドセットから、女性の声が聞こえた。

 

「……おう」

 

『聞こえてる?』

 

「バッチリだぜ、姉貴」

 

『もうすぐスタートよ。準備はいい?』

 

「もちろん」

 

 ベンジャミンは、ステアリングを握り直した。

 

「いつでも行けるぜ」

 

『……そう』

 

 メイの声が、少しだけ柔らかくなる。

 

『じゃあ、最後に一つだけ』

 

「……ん?」

 

『……楽しんできなさい』

 

「…………」

 

 ベンジャミンは、一瞬だけ目を瞬かせた。

 

 てっきり、車を壊すなとか、無茶をするなとか、そんな小言が飛んでくるものだと思っていた。

 

 しかし。

 

 今回ばかりは違ったらしい。

 

「……ハハッ!」

 

 思わず、笑い声が漏れた。

 

「言われなくても、そのつもりだぜ!」

 

『ふふっ。でしょうね』

 

「ま、姉貴も楽しみにしてろよ!」

 

 ベンジャミンは、口元を吊り上げた。

 

「俺のレース、久々に間近で見せてやるからな!」

 

『ええ』

 

 メイが、小さく答える。

 

『期待してるわ』

 

 そして、無線は静かになった。

 

 ベンジャミンは、改めて前方を見つめる。

 

 視線の先には、スタート地点があった。

 

 彼の新たな挑戦が、いよいよ始まろうとしていた。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 MFG第2戦――芦ノ湖GT。

 

 予選六日目。

 

 ゼッケン283。

 

 BENJAMIN RIVINGTON。

 

 シボレー・カマロSS。

 

 その情報が、公式配信の画面に表示されていた。

 

 鮮やかなターコイズグリーンの車体。

 

 低く構えたフロントノーズ。

 

 筋肉質なフェンダー。

 

 そして、長いボンネット。

 

 ヨーロッパのスポーツカーや日本の高性能車が数多く参戦するMFGにおいて、その姿は明らかに異彩を放っていた。

 

 何よりも特徴的なのが、エンジンだった。

 

 6.2リッター。

 

 自然吸気V型8気筒。

 

 最高出力453馬力。

 

 決して、MFGで最も高出力なエンジンというわけではない。

 

 ターボチャージャーによって、それ以上の馬力を発生するマシンも存在する。

 

 しかし、大排気量自然吸気エンジンならではの豊かなトルクと、鋭いアクセルレスポンスは、カマロSSが持つ大きな武器だった。

 

 一方で、その車体は決して軽くない。

 

 軽量なスポーツカーと比べれば、重量差は歴然としている。

 

 加速させるにも、減速させるにも、そして向きを変えるにも。

 

 大きな力が必要になる。

 

 しかも、今回の芦ノ湖GTは、長い直線よりもコーナーが目立つテクニカルなコースだった。

 

 つまり。

 

 このカマロにとって、決して楽な戦いではない。

 

 だが、そのハンデを背負っているのは、車のほうだけだった。

 

 ステアリングを握る青年は、すでに数多くの勝負を経験している。

 

 クォーターミジェット。

 

 ジュニアフォーミュラ。

 

 そして、NASCAR。

 

 幼い頃から、異なる特性を持つレーシングマシンを乗りこなしてきた。

 

 重量級のストックカーを高速で操り、タイヤのグリップを限界まで使い切る技術。

 

 それは、この新たな舞台でも、間違いなく武器になるはずだった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……いよいよだな」

 

 パドック。

 

 公式モニターを見つめながら、緒方が小さく呟いた。

 

 画面には、スタート地点へ向かうカマロSSの姿が映し出されている。

 

「……そうですね」

 

 その隣で、カナタが頷いた。

 

「ベンの走り、楽しみです」

 

「……ああ」

 

 緒方は、どこか落ち着かない様子で腕を組んだ。

 

 カナタの予選が終わったばかりだというのに、もう次の緊張がやって来てしまった。

 

 しかも、今度は自分たちが初めて整備に関わったアメリカ車だ。

 

 ちゃんと走ってくれるだろうか。

 

 セッティングに問題はないだろうか。

 

 タイヤは最後まで持つだろうか。

 

 次々と、不安が頭をよぎる。

 

「……大丈夫かなぁ」

 

 思わず本音が漏れた。

 

 すると。

 

「……緒方さん」

 

 カナタが、穏やかに声をかけた。

 

「ん?」

 

「ベンなら大丈夫ですよ」

 

「……そうか?」

 

「はい」

 

 カナタは、はっきりと頷いた。

 

「ベンは、レースになるとすごいんです」

 

 その言葉に、緒方は少しだけ目を丸くする。

 

「……へえ」

 

 普段のベンジャミンといえば、豪快で、賑やかで、どこか調子に乗りやすい青年という印象が強い。

 

 しかし、カナタは違うらしい。

 

 幼い頃から知っている従兄弟だからこそ、その本当の実力を理解しているのだろう。

 

「……どんな走りをするんだ?」

 

 緒方が尋ねる。

 

 すると、カナタは少しだけ考え込んだ。

 

「……そうですね」

 

 そして、ゆっくりと口を開いた。

 

「僕とは、全然違う走り方です」

 

「……違う?」

 

「はい」

 

 カナタは、モニターへ視線を向けた。

 

「僕は、できるだけ速度を落とさないことを考えて走ります」

 

 それは、先ほどの予選でも見せた走りだった。

 

 86の軽さを生かし、コーナーを滑らかにつなぎ、必要以上の減速を避ける。

 

 非力なエンジンの弱点を、旋回速度によって補うドライビング。

 

「でも、ベンは……」

 

 カナタは、少しだけ笑った。

 

「車を減速させるのも、向きを変えるのも、加速させるのも、すごく上手なんです」

 

「……ほう」

 

 聞いていた奥山が、わずかに眉を上げた。

 

「面白い評価だな」

 

「はい」

 

 カナタは頷いた。

 

「ベンは、どんな車でも、その車に合った走り方を見つけるのが得意なんです」

 

「……なるほど」

 

 奥山は、静かにモニターを見つめた。

 

 自分が仕上げたカマロSS。

 

 その性能を、ベンジャミンはどこまで引き出せるのか。

 

 チューナーとしても、非常に興味深いところだった。

 

 そこへ、相葉が口を開く。

 

「でもよ、あの車、かなりデカいよな?」

 

「……そうですね」

 

 緒方が頷いた。

 

「日本の山道だと、やっぱり大きく感じますよ」

 

「しかも重いんだろ?」

 

「ええ」

 

「……それで、あのコースを攻めるのか」

 

 相葉は腕を組み、感心したように唸った。

 

「俺もGT-Rに乗ってるから分かるけど、重い車を山道で速く走らせるのって、簡単じゃねえんだよな……」

 

 彼の愛車、日産GT-R NISMO。

 

 強大なパワーと優れた駆動力を持つマシンだが、その車重は決して軽くない。

 

 ブレーキングやコーナリングでは、重量の影響を無視することはできないのである。

 

「……まあ、何にせよ」

 

 相葉は、ニヤリと笑った。

 

「お手並み拝見だな!」

 

「……ふふっ」

 

 カナタも、嬉しそうに微笑んだ。

 

「はい。僕も楽しみです」

 

 その時。

 

 モニターの中で、カマロSSがスタート地点に停止した。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 ――ヴォルルルルルル……。

 

 アイドリングするV8エンジン。

 

 低く響く排気音が、狭い車内へと伝わってくる。

 

 ベンジャミンは、メーターパネルへ視線を落とした。

 

 エンジン回転数。

 

 水温。

 

 油温。

 

 すべて正常。

 

 そして、電子制御の設定を確認する。

 

 現在のモードは――。

 

 

 『FULL OFF』。

 

 

 トラクションコントロール、オフ。

 

 スタビリティコントロール、オフ。

 

 ABSは作動状態のまま。

 

 つまり、駆動輪の空転も、車体の横滑りも、基本的にはドライバー自身の操作で制御しなければならない。

 

 カマロのような大排気量FR車では、その影響は決して小さくない。

 

 アクセルを乱暴に踏めば、簡単に後輪が滑る。

 

 荷重移動を誤れば、重い車体の姿勢を立て直すために大きな操作を要求される。

 

 だが。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、小さく笑った。

 

「まずは、これで行くぜ」

 

 電子制御に頼らないことが、必ずしも速さにつながるとは限らない。

 

 それは、十分に理解している。

 

 しかし、通常の舗装路では、自分の操作に対する車の反応を直接感じながら走りたい。

 

 何より。

 

 今のカマロが、どこまで自分の要求に応えてくれるのか。

 

 それを、確かめてみたかった。

 

『……ベン』

 

 片耳ヘッドセットから、メイの声が聞こえた。

 

『スタートまで、あと少しよ』

 

「……了解」

 

『最初の区間は、比較的ペースを作りやすいけど……』

 

「分かってる」

 

 ベンジャミンは、前方を見つめた。

 

「スリッピートラップがあるんだろ?」

 

『ええ。そこだけは、特に注意して』

 

「任せとけって」

 

 彼は、ニヤリと笑う。

 

「ちゃんと作戦は考えてあるぜ」

 

『……そう』

 

 メイは、短く答えた。

 

 弟がそう言う時には、すでに頭の中で何かを組み立てている。

 

 そのことを、彼女はよく知っていた。

 

『……じゃあ、行ってらっしゃい』

 

「……おう!」

 

 ベンジャミンは、ステアリングを握り直した。

 

 目の前のスタートシグナル。

 

 その表示が、切り替わろうとしている。

 

 そして――。

 

 

 ――GO!!

 

 

「……よっしゃあ!!」

 

 

 ――ヴォオオオオオオオッ!!

 

 

 ベンジャミンがアクセルを踏み込んだ。

 

 V8エンジンが、鋭く回転数を上げる。

 

 カマロSSの巨体が、勢いよく前方へ押し出された。

 

 後輪が路面を蹴る。

 

 強大なトルクが、車体を加速させていく。

 

 だが、その発進は意外なほど滑らかだった。

 

 パワー任せにアクセルを踏みつけるのではない。

 

 後輪が受け止められるだけの駆動力を、正確に与えている。

 

 わずかな空転すら、必要以上には発生させない。

 

「……いいねぇ!」

 

 ベンジャミンの口元が吊り上がる。

 

 10速オートマチックトランスミッションが、素早くギアをつないでいく。

 

 加速が途切れない。

 

 車体が、ぐんぐん速度を上げていく。

 

 そして。

 

 最初のコーナーが迫ってきた。

 

「…………」

 

 ベンジャミンの表情が、わずかに引き締まる。

 

 アクセルを戻す。

 

 右足をブレーキへ移す。

 

 そして――。

 

 

 ――グッ!!

 

 

 強烈な減速Gが、身体を前方へ押しつけた。

 

 カマロのノーズが沈み込む。

 

 フロントタイヤに、大きな荷重がかかる。

 

 だが、ベンジャミンはブレーキを一気に離そうとはしなかった。

 

 ステアリングを切り始めるのと同時に、踏力を滑らかに抜いていく。

 

 フロントタイヤに必要な荷重を残しながら、車体の向きを変える。

 

 

 ――トレイルブレーキング。

 

 

 減速を終えてから旋回するのではなく、ブレーキを徐々に緩めながらコーナーへ進入する技術。

 

 その操作によって、重いカマロのノーズが鋭くイン側へ向き始めた。

 

「……よし!」

 

 車体が旋回する。

 

 ベンジャミンは、ブレーキを完全に解放した。

 

 そして、アクセルへと足を移す。

 

 まだ、全開にはしない。

 

 後輪の接地感を確かめながら、少しずつ駆動力を与えていく。

 

 ステアリングを戻す。

 

 車体が、出口へと向いた。

 

 その瞬間。

 

 

「……行けっ!!」

 

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 

 V8エンジンが、再び咆哮した。

 

 カマロSSが、コーナーから力強く飛び出していく。

 

 無駄なホイールスピンはない。

 

 大きなカウンターステアも必要ない。

 

 ただ、必要なだけ向きを変え、必要なだけ加速する。

 

 その一連の操作は、驚くほど滑らかだった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……おっ!」

 

 パドック。

 

 公式モニターを見つめていた相葉が、思わず声を上げた。

 

「いいじゃねえか!」

 

 画面の中では、ターコイズグリーンのカマロが軽快にコーナーを抜けている。

 

「見た目より、ずっと軽く曲がるな!」

 

「……そうですね」

 

 緒方も、感心したように頷いた。

 

 自分も、先日のシェイクダウンでカマロの走りを体験している。

 

 その圧倒的な加速力と、強烈なブレーキングには驚かされた。

 

 しかし、こうして外から見てみると、また違った印象を受ける。

 

 重い車なのに、動きに無駄がない。

 

 コーナーの進入から脱出まで、車体の姿勢がよくまとまっている。

 

「……奥山さん」

 

 緒方が、隣にいるチューナーへ声をかけた。

 

「うまく走ってますよね?」

 

「……ああ」

 

 奥山は、腕を組んだまま頷いた。

 

「無理に曲げようとしていないな」

 

「……え?」

 

「車の重さを分かってる」

 

 奥山は、静かに続けた。

 

「ブレーキングで前輪に荷重を乗せて、向きを変えてから加速している。あの車で速く走るなら、理にかなったやり方だ」

 

「……なるほど」

 

「それに……」

 

 奥山は、わずかに目を細めた。

 

「進入のブレーキが、なかなかうまい」

 

 モニターの中では、カマロが次のコーナーへ進入していた。

 

 高速からの減速。

 

 そして、滑らかな旋回。

 

 重い車体を、まるで自分の手足のように扱っている。

 

「……あれは、経験がないとできんぞ」

 

 奥山の言葉に、緒方は思わず頷いた。

 

 一方。

 

「……ふふっ」

 

 カナタは、嬉しそうに笑っていた。

 

「やっぱり、ベンだ」

 

「……ん?」

 

 相葉が振り返る。

 

「どういうことだ?」

 

「……あの走り方です」

 

 カナタは、モニターへ視線を向けた。

 

「昔から、ああいう風に走ってたんですよ」

 

 もちろん、幼い頃のカートと現在のカマロでは、車両特性はまったく違う。

 

 それでも。

 

 ブレーキングで車の向きを変え、早い段階で加速態勢を作る。

 

 その基本的な考え方には、どこか共通したものがあった。

 

「……ベンらしいな」

 

 カナタは、小さく呟いた。

 

 モニターの中では、カマロSSがさらに速度を上げていく。

 

 そして。

 

 新たなコーナーが、ベンジャミンの前に姿を現した。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 芦ノ湖スカイライン。

 

 箱根の山々を縫うように伸びる道路を、一台のアメリカンマッスルカーが駆け抜けていた。

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 カマロSSのV8サウンドが、山間に反響する。

 

 右。

 

 左。

 

 緩やかなカーブの先に、さらに鋭いコーナーが待ち構えている。

 

 決して広くはない道幅。

 

 道路の端にはガードレールがあり、その向こうには急な斜面が続いている。

 

 サーキットのように、多少のミスをランオフエリアが吸収してくれるわけではない。

 

 だからこそ、正確な操作が要求される。

 

「……なるほどな!」

 

 ベンジャミンは、目の前の道路を見つめながら笑った。

 

「こいつは、なかなか面白えコースじゃねえか!」

 

 アクセルを戻す。

 

 ブレーキを踏む。

 

 車体が前のめりになり、フロントタイヤへ荷重が移動する。

 

 続いて、ステアリングを切り込んだ。

 

 カマロのノーズが、鋭くイン側へ向かう。

 

 しかし、ベンジャミンは、そのままコーナーの内側へ寄せようとはしなかった。

 

 あえて、少しだけ外側へ膨らませる。

 

 そして、コーナーの中盤。

 

 一度、車体の姿勢を整える。

 

「……ここだ!」

 

 ステアリングを切り足す。

 

 車体の向きが、出口へと変わった。

 

 そこでアクセルを開ける。

 

 ――ヴォオオオッ!!

 

 カマロが、力強く加速した。

 

 コーナーの入口と出口を直線に近い軌道でつなぎ、その中間で車体の向きを大きく変える。

 

 いわゆる、ダイヤモンドライン。

 

 ベンジャミンが、アメリカのレースで磨いてきた技術の一つだった。

 

 もっとも、すべてのコーナーでこの走り方が有効というわけではない。

 

 緩やかな高速コーナーなら、大きな旋回半径を維持したほうが速い場合もある。

 

 だが、今のカマロのように大きな車体と強力なエンジンを持つマシンでは、出口へ早く向きを変え、加速できる時間を増やすことが大きな武器になる。

 

 特に、コーナーの先に加速区間がある場合。

 

 わずかな脱出速度の差が、次のブレーキングポイントまで積み重なっていく。

 

「……へへっ!」

 

 ベンジャミンは、さらにアクセルを踏み込んだ。

 

 後輪が路面を強く蹴る。

 

 身体がシートへ押しつけられる。

 

 この感覚。

 

 大排気量エンジンが生み出す、圧倒的な加速力。

 

 それこそが、カマロSSの魅力だった。

 

 そして。

 

 ベンジャミンは、その特性を誰よりも理解しようとしていた。

 

 カマロは、軽量なスポーツカーのように曲がることはできない。

 

 ならば、無理に同じ走り方をする必要はない。

 

 曲がるために必要なだけ減速する。

 

 車体の向きを変える。

 

 そして、強大なエンジンパワーを使って加速する。

 

 その一つ一つを、正確に組み立てればいい。

 

「……よし!」

 

 新たなコーナーが迫ってくる。

 

 ベンジャミンは、わずかに笑った。

 

「今度は、こっちだ!」

 

 再び、ブレーキング。

 

 ノーズが沈み込む。

 

 しかし、先ほどとは違う。

 

 今度は、緩やかな高速コーナー。

 

 大きく減速させる必要はない。

 

 ベンジャミンは、ブレーキを短く使うと、滑らかにステアリングを切り込んだ。

 

 車体が、ゆっくりと向きを変える。

 

 わずかにリアが動いた。

 

「……おっ」

 

 その瞬間。

 

 ベンジャミンは、アクセルを少しだけ開けた。

 

 強大なトルクが、後輪へと伝わる。

 

 リアタイヤのスリップアングルが、わずかに増加した。

 

 その動きに合わせて、ステアリングの舵角を調整する。

 

 カマロが、さらに鋭く旋回した。

 

 

 ――スロットルステア。

 

 

 アクセル操作によって後輪の駆動力を調整し、車体の向きをコントロールする技術。

 

 FR車では、後輪に与えるトルクの変化が車体の姿勢へ直接影響する。

 

 ただし、アクセルを踏めば踏むほど速く曲がれるわけではない。

 

 必要以上の駆動力は、単なるホイールスピンを招く。

 

 大切なのは、タイヤがどこまで力を受け止められるかを正確に把握すること。

 

 そして、その限界を超えすぎないように操作することだった。

 

「……いいぞ!」

 

 ベンジャミンは、口元を吊り上げた。

 

「だいぶ分かってきたぜ、相棒!」

 

 先日のシェイクダウンで、完全には掴みきれなかったカマロの挙動。

 

 奥山によって仕上げられた足回り。

 

 ブレーキング時の荷重移動。

 

 そして、アクセルに対する後輪の反応。

 

 それらが、少しずつ自分の感覚と結びついていく。

 

 車は、突然別物になったわけではない。

 

 変わったのは、ドライバーの理解だった。

 

 どの程度ブレーキを残せば、ノーズが入るのか。

 

 どのタイミングでアクセルを開けば、リアが自然に動くのか。

 

 ステアリングをどれだけ戻せば、後輪へさらに駆動力を与えられるのか。

 

 その答えが、走るたびに明確になっていく。

 

「……ハハッ!」

 

 ベンジャミンは、思わず笑った。

 

「やっぱ、お前は最高だぜ!」

 

 そして――。

 

 ターコイズグリーンのカマロSSは、次のコーナーへと飛び込んでいった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……すげえな」

 

 パドック。

 

 公式モニターを見つめていた相葉が、感心したように呟いた。

 

「デカい車を、あんなに器用に動かせるもんなのか……」

 

 モニターの中では、カマロが次々とコーナーを抜けている。

 

 その走りは、決して派手に滑らせるものではなかった。

 

 むしろ、必要以上のスライドを抑えながら、確実に加速へつなげている。

 

「……なるほどな」

 

 奥山が、静かに頷いた。

 

「そういう走らせ方か」

 

「……奥山さん?」

 

 緒方が、首を傾げる。

 

「何か分かったんですか?」

 

「ああ」

 

 奥山は、モニターへ視線を向けたまま答えた。

 

「あいつは、無理にコーナリングスピードを上げようとしていない」

 

「……え?」

 

「入口でしっかり減速して、車体の向きを変えている。出口では、なるべく早くステアリングを戻して加速する」

 

「……なるほど」

 

「カマロのような車には、合っている走り方だ」

 

 奥山は、わずかに目を細めた。

 

「それに、ブレーキの使い方も悪くない。車重があるからといって、必要以上に怖がっていないな」

 

 その言葉に、カナタが嬉しそうに頷いた。

 

「ベンは、ブレーキングがすごく上手なんです」

 

「……ほう?」

 

「はい。昔から、どこまで減速できるのかを見極めるのが得意でした」

 

 カナタは、モニターを見つめる。

 

 画面の中では、カマロが鋭く向きを変えていた。

 

「……でも」

 

 そこで、彼は少しだけ真剣な表情になった。

 

「まだ、ベンの本領はこんなものじゃないと思います」

 

「……え?」

 

 緒方が驚いたように振り返る。

 

「これでも、まだなのか?」

 

「……はい」

 

 カナタは、静かに頷いた。

 

「ベンは、もっと速く走れます」

 

「…………」

 

 その言葉に、奥山も興味深そうに目を細めた。

 

 初めて挑む日本の公道。

 

 まだ完全には慣れていない車。

 

 そして、世界中から実力者が集まるMFG。

 

 そんな環境で、ベンジャミンはすでに堂々とした走りを見せている。

 

 しかし。

 

 幼い頃から彼を知るカナタは、その先があると言っている。

 

「……面白い」

 

 奥山が、小さく笑った。

 

「ますます楽しみになってきたな」

 

 その時。

 

 公式モニターの映像が切り替わった。

 

 カマロが、芦ノ湖スカイラインの山岳区間を駆け抜けていく。

 

 その先には――。

 

 今回のコースで最も危険な地帯が待ち構えていた。

 

 

 

     * * *

 

 

 

『……ベン』

 

 片耳ヘッドセットから、メイの声が聞こえた。

 

『もうすぐスリッピートラップよ』

 

「……おう」

 

 ベンジャミンは、短く答えた。

 

 視線は、前方へ向けたまま。

 

 ステアリングを握る手にも、余計な力は入っていない。

 

『路面の状況は、これまでの区間とはまったく違うわ。無理しないで』

 

「……分かってる」

 

 その声は、先ほどまでとは違っていた。

 

 静かで、落ち着いている。

 

 メイは、弟のその変化を聞き逃さなかった。

 

『……設定は?』

 

「……今から変える」

 

 ベンジャミンは、前方の道路を確認した。

 

 次のコーナーを抜ければ、少しだけ余裕のある区間に入る。

 

 そこで、ステアリング上のスイッチへ指を伸ばした。

 

 現在の設定は『FULL OFF』。

 

 トラクションコントロールとスタビリティコントロールを解除し、車体の動きをドライバー自身が制御するモード。

 

 通常の舗装路では、それが自分の走り方に合っていた。

 

 しかし。

 

 これから入る区間は違う。

 

 スリッピートラップ。

 

 路面に堆積した火山灰によって、タイヤのグリップ力が極端に低下する場所。

 

 通常の舗装路と同じアクセル操作を行えば、簡単に駆動輪が空転してしまう。

 

 まして、カマロSSは大排気量FR車。

 

 低回転から強大なトルクを発生するため、わずかなアクセル操作の違いが大きな挙動変化につながる。

 

 ベンジャミンは、そんな車の特性を十分に理解していた。

 

「……さて、と」

 

 彼は、小さく呟いた。

 

「ここからは、ちょっと作戦変更だ」

 

 そして――。

 

 電子制御の設定を切り替えた。

 

 

 『FULL OFF』

 

    ↓

 

 『NORMAL』

 

 

 トラクションコントロール、オン。

 

 スタビリティコントロール、オン。

 

 電子制御が、再び車体の姿勢を監視する状態へと戻った。

 

 もちろん、電子制御があるからといって、タイヤのグリップ力そのものが増えるわけではない。

 

 制御が介入すれば、駆動力を失ってタイムロスにつながる可能性もある。

 

 それでも。

 

 ここで必要なのは、限界まで車を滑らせることではなかった。

 

 滑りやすい路面で、可能な限り安定した状態を維持すること。

 

 そして、余計なホイールスピンを発生させず、確実に駆動力を伝えることだった。

 

「……よし」

 

 ベンジャミンは、ステアリングを握り直した。

 

『……切り替えたのね?』

 

「ああ」

 

『どうするつもり?』

 

「決まってんだろ」

 

 彼は、ニヤリと笑った。

 

「ここは、慎重に行く」

 

『……あなたが?』

 

「おい!!」

 

 思わず、声を上げた。

 

「どういう意味だよ、姉貴!?」

 

『ふふっ。冗談よ』

 

「ったく……!」

 

 ベンジャミンは、呆れたように笑った。

 

 だが、その直後。

 

 彼の表情は、再び引き締まった。

 

 前方の道路。

 

 その色が、わずかに変わっている。

 

 黒いアスファルトの表面に、薄く灰色の粒子が広がっていた。

 

「…………」

 

 ベンジャミンは、アクセルを少しだけ緩めた。

 

 そして。

 

「……来たか」

 

 低く呟く。

 

 MFG第2戦、芦ノ湖GT。

 

 最大の難所。

 

 

 ――スリッピートラップ。

 

 

 ついに、その入口へと到達した。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 カマロSSが、スリッピートラップへ進入した。

 

 その瞬間。

 

「……おっ」

 

 ベンジャミンの表情が、わずかに変わった。

 

 ステアリングから伝わってくる感触。

 

 シートを通じて感じる車体の動き。

 

 そして、アクセル操作に対する後輪の反応。

 

 そのすべてが、先ほどまでとは違っていた。

 

(……なるほど)

 

 ベンジャミンは、静かに息を吐く。

 

(こりゃ、確かに滑るな……!)

 

 路面は乾いているように見える。

 

 だが、タイヤのグリップ力は明らかに低下していた。

 

 細かな火山灰が、タイヤとアスファルトの間に入り込んでいる。

 

 そのため、見た目以上に滑りやすい。

 

 ベンジャミンは、アクセルの踏み込み量を慎重に調整した。

 

 強大なV8エンジンのトルク。

 

 それを、すべて路面へ伝える必要はない。

 

 今のタイヤが受け止められるだけの駆動力を与えればいい。

 

「……よし」

 

 最初のコーナーが迫ってくる。

 

 ベンジャミンは、早めにブレーキングを開始した。

 

 通常の舗装路よりも慎重に速度を落とす。

 

 そして、ステアリングを切り込んだ。

 

 ――スッ……。

 

 車体が、わずかに外側へ流れる。

 

「……っと」

 

 ベンジャミンは、無理にステアリングを切り足さなかった。

 

 フロントタイヤのグリップが不足している状態で、さらに舵角を増やしても曲がるとは限らない。

 

 むしろ、タイヤの負担を増やしてしまう。

 

 彼はアクセルを一定に保ち、車体の動きが落ち着くのを待った。

 

 そして、わずかにステアリングを戻す。

 

 タイヤが、再び路面を捉えた。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、小さく笑った。

 

「なかなか、クセが強えじゃねえか」

 

 そのまま、次のコーナーへ向かう。

 

 しかし。

 

 ここで、一つ問題が起きた。

 

 ――ググッ……!

 

「……ん?」

 

 コーナーの脱出でアクセルを開けようとした瞬間。

 

 エンジンの駆動力が、わずかに抑えられた。

 

 トラクションコントロールが介入したのだ。

 

 後輪の空転を検知し、エンジン出力を制御している。

 

「……なるほどな」

 

 ベンジャミンは、すぐに状況を理解した。

 

 電子制御が作動したこと自体は、問題ではない。

 

 むしろ、狙いどおりとも言える。

 

 だが、制御に頼りすぎれば、それだけ加速を失うことになる。

 

 重要なのは、電子制御を働かせ続けることではない。

 

 必要以上に働かせないよう、ドライバー自身が操作することだった。

 

「……分かったぜ」

 

 ベンジャミンは、アクセルをわずかに戻した。

 

 そして、次のコーナーへ向かう。

 

 今度は、より滑らかに減速する。

 

 ステアリングの操作量も、必要最小限。

 

 車体が向きを変えるのを待ち、出口が見えてからアクセルを開ける。

 

 駆動力を、一気に与えない。

 

 ほんの少しずつ増やしていく。

 

 ――ヴォオオオッ!!

 

 カマロが、力強く加速した。

 

 先ほどよりも、電子制御の介入は少ない。

 

「……よし!」

 

 ベンジャミンの口元が吊り上がる。

 

「そういうことか!」

 

 この路面では、通常の舗装路と同じ走り方は通用しない。

 

 しかし、だからといって、速く走る方法がないわけではなかった。

 

 タイヤに無理な力をかけない。

 

 急激な荷重移動を避ける。

 

 そして、駆動力を滑らかに伝える。

 

 それらを、正確に積み重ねればいい。

 

(……面白え!)

 

 ベンジャミンは、思わず笑った。

 

(こいつは、腕の見せどころだぜ!)

 

 さらに、次のコーナーが迫ってくる。

 

 彼は、静かにステアリングを握り直した。

 

 そして――。

 

 再び、スリッピートラップへと挑んでいった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……おいおい」

 

 パドック。

 

 相葉が、思わず声を漏らした。

 

「結構、普通に走ってねえか……?」

 

 公式モニターには、スリッピートラップを駆け抜けるカマロSSの姿が映し出されていた。

 

 だが、その走りは、予想していたものとは少し違っていた。

 

 大きく滑らせることもない。

 

 無理にアクセルを開けることもない。

 

 むしろ、非常に落ち着いた走りだった。

 

「……あいつ」

 

 相葉は、少しだけ眉を上げた。

 

「案外、慎重なんだな」

 

「……そうですね」

 

 緒方も頷いた。

 

「普段のベンジャミンからは、ちょっと想像できませんけど……」

 

 その言葉に、カナタが小さく笑う。

 

「ふふっ。ベンは、昔からそうなんですよ」

 

「……ん?」

 

「レースの時は、無茶と挑戦をちゃんと区別できるんです」

 

「……へえ」

 

 相葉は、興味深そうにモニターを見つめた。

 

 カマロSSが、次のコーナーへ進入する。

 

 わずかに車体が滑る。

 

 しかし、すぐに姿勢を整え、出口へ向かって加速していく。

 

「……なるほどなぁ」

 

 相葉は、感心したように頷いた。

 

 その隣では、奥山が腕を組んでいた。

 

「……電子制御を入れたな」

 

「……え?」

 

 緒方が振り返る。

 

「分かるんですか?」

 

「走り方でな」

 

 奥山は、静かに答えた。

 

「さっきまでより、明らかにアクセルの開け方が慎重だ。それに、あの路面で強引なスライドをさせようとしていない」

 

「……なるほど」

 

「たぶん、NORMALに戻したんだろう」

 

 奥山は、わずかに頷いた。

 

「悪くない判断だ」

 

 電子制御を解除した状態で、滑りやすい路面を攻めることもできる。

 

 だが、それには高いリスクが伴う。

 

 特にカマロのような大排気量FR車では、ほんのわずかなアクセル操作の違いが、大きな挙動変化につながる。

 

 それを、無理に制御し続ける必要はない。

 

 使えるものは、使えばいい。

 

 その判断ができることも、レーシングドライバーとしての能力だった。

 

「……いいぞ」

 

 奥山は、小さく呟いた。

 

「ちゃんと車を使っている」

 

 その横で。

 

「…………」

 

 カナタは、静かにモニターを見つめていた。

 

 先ほど、自分も同じ区間を走った。

 

 ライトニングレッドの86GTで、スリッピートラップを駆け抜けた。

 

 あの場所では、タイヤを滑らせることを利用し、車体の向きを変えていた。

 

 一方、ベンジャミンは違う。

 

 滑りを必要以上に発生させず、できる限り安定した状態で駆動力を伝えている。

 

 どちらも、同じ路面を攻略するための方法。

 

 しかし、使っている技術はまったく異なる。

 

「……面白いな」

 

 カナタは、思わず呟いた。

 

 そして、嬉しそうに微笑む。

 

「やっぱり、ベンの走りはすごいや」

 

 自分とは違う方法で、同じ場所を速く走ろうとしている。

 

 それが、たまらなく興味深かった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 スリッピートラップの中盤。

 

 カマロSSは、慎重に速度を維持しながらコーナーを抜けていた。

 

「…………」

 

 ベンジャミンの表情は、真剣そのものだった。

 

 アクセル。

 

 ブレーキ。

 

 ステアリング。

 

 そのすべてを、いつも以上に繊細に操作する。

 

 タイヤが滑る感覚。

 

 車体が外側へ流れようとする動き。

 

 そして、路面から伝わってくる、わずかな振動。

 

 それらを、絶えず確認していた。

 

(……さすがに、ここじゃパワーは使えねえな)

 

 ベンジャミンは、冷静に考える。

 

 453馬力。

 

 そのすべてを路面へ伝えるだけのグリップは、今のタイヤにはない。

 

 ならば。

 

(……使える分だけ、使えばいい)

 

 必要な速度まで減速する。

 

 車体を安定させる。

 

 そして、アクセルを滑らかに開ける。

 

 それだけだ。

 

 レーシングドライバーにとって、最も重要なのは、自分の車を速く走らせること。

 

 大きな音を立てることでもなければ、派手にタイヤを滑らせることでもない。

 

 必要な操作を、必要なだけ行う。

 

 それが、結果につながる。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、小さく笑った。

 

「こういうのも、嫌いじゃねえぜ」

 

 その時。

 

 前方に、少しきついコーナーが現れた。

 

 ベンジャミンは、慎重にブレーキングを開始する。

 

 車体が減速する。

 

 そして、ステアリングを切り込んだ。

 

 ――スッ……!

 

 フロントが、わずかに外へ逃げる。

 

「……っ!」

 

 ベンジャミンは、瞬時に反応した。

 

 ステアリングを切り足さない。

 

 アクセルも開けない。

 

 車体が旋回できるだけのグリップを取り戻すまで、操作を抑える。

 

 ほんの一瞬。

 

 時間にすれば、わずかなものだった。

 

 しかし、その判断が遅れていれば、車体はさらに外側へ膨らんでいたかもしれない。

 

 やがて。

 

 前輪が、再び路面を捉えた。

 

「……よし!」

 

 ベンジャミンは、静かにアクセルを開ける。

 

 ――ヴォオオオッ!!

 

 カマロが、コーナーを抜けた。

 

 大きな姿勢の乱れはない。

 

 ガードレールにも、十分な距離を残している。

 

「……危ねえ危ねえ」

 

 ベンジャミンは、小さく息を吐いた。

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「……なるほどな」

 

 ここでは、ほんのわずかな操作の違いが、大きな結果につながる。

 

 だからこそ。

 

 一つ一つの判断が、重要になる。

 

 その緊張感が、彼の集中力をさらに高めていた。

 

『……ベン』

 

 片耳ヘッドセットから、メイの声が聞こえた。

 

「……おう」

 

『もう少しで、スリッピートラップを抜けるわ』

 

「……了解」

 

『その先は、路面のグリップが戻るけど……』

 

「分かってる」

 

 ベンジャミンは、前方を見つめた。

 

「いきなり全開にはしねえよ」

 

『……そう。なら安心ね』

 

「へへっ!」

 

 彼は、小さく笑った。

 

「姉貴、俺を信用しろって!」

 

『信用してるわよ』

 

「……おっ?」

 

 予想外の返答に、ベンジャミンが目を丸くする。

 

 すると。

 

『少なくとも、ステアリングを握っている時のあなたはね』

 

「……おい!」

 

 思わず、苦笑した。

 

「一言余計だっての!」

 

 無線の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。

 

 しかし。

 

 ベンジャミンは、すぐに表情を引き締めた。

 

 前方の路面。

 

 灰色に覆われていたアスファルトが、少しずつ本来の黒さを取り戻している。

 

「…………」

 

 スリッピートラップの出口。

 

 ついに、その場所が近づいていた。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 カマロSSが、最後のコーナーへ進入した。

 

 ベンジャミンは、慎重にブレーキングを行う。

 

 車体を減速させ、滑らかに向きを変える。

 

 そして、出口が見えたところでアクセルを開いた。

 

 ――ググッ……!

 

 後輪が、わずかに滑りかける。

 

 しかし、電子制御が介入するよりも早く、ベンジャミンがアクセルを調整した。

 

 車体の姿勢が安定する。

 

「……よし!」

 

 ステアリングを戻す。

 

 アクセルを、少しずつ踏み込んでいく。

 

 路面のグリップが戻ってくる。

 

 タイヤが、力強くアスファルトを捉え始めた。

 

「……へへっ!」

 

 ベンジャミンの口元が吊り上がる。

 

「……やっと抜けたぜ!」

 

 スリッピートラップ。

 

 火山灰によって極端にグリップ力が低下する、芦ノ湖GT最大の難所。

 

 その区間を、ベンジャミンは大きなミスなく走り切った。

 

 もちろん、タイムを失っていないわけではない。

 

 慎重に走った分だけ、速度を落としている。

 

 カナタの86のように、滑りを利用して旋回速度を維持する走りとも違う。

 

 だが、それでよかった。

 

 カマロには、カマロに合った走り方がある。

 

 その車両特性を理解し、最大限に利用することこそが重要だった。

 

「……さて、と」

 

 ベンジャミンは、前方を確認した。

 

 路面は、すでに通常のグリップを取り戻している。

 

 ここから先は、再び自分の得意な走りができる。

 

 そこで。

 

 彼は、ステアリング上のスイッチへ指を伸ばした。

 

 

 『NORMAL』

 

    ↓

 

 『FULL OFF』

 

 

 トラクションコントロール、オフ。

 

 スタビリティコントロール、オフ。

 

 電子制御が解除され、車体の挙動は再びドライバーの操作に委ねられた。

 

「……よし!」

 

 ベンジャミンは、ステアリングを握り直す。

 

 そして。

 

「……行くぜ、相棒!」

 

 アクセルを踏み込んだ。

 

 

 ――ヴォオオオオオオオッ!!

 

 

 カマロSSが、力強く加速した。

 

 先ほどまでの慎重な走りとは、まるで別物。

 

 V8エンジンが、圧倒的なトルクを発生する。

 

 後輪が路面を蹴り、重量級の車体を勢いよく押し出した。

 

 そして、そのまま次のコーナーへと向かう。

 

 ブレーキング。

 

 荷重移動。

 

 ステアリング。

 

 そして、アクセル。

 

 すべての操作が、再び鋭さを取り戻していた。

 

「……ハハッ!」

 

 ベンジャミンは、思わず笑った。

 

「やっぱ、これだよな!!」

 

 カマロの車体が、次々とコーナーを抜けていく。

 

 重厚なV8サウンドが、山々に響き渡る。

 

 その走りは、まさにアメリカンレーシング。

 

 大排気量エンジンのパワーを生かしながら、重量級の車体を繊細にコントロールする。

 

 力強さと正確さ。

 

 その二つを兼ね備えたドライビングだった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……おっ!」

 

 パドック。

 

 公式モニターを見つめていた緒方が、声を上げた。

 

「抜けた!」

 

 スリッピートラップを脱出したカマロが、再び勢いよく加速していく。

 

 その姿を見て、相葉も嬉しそうに笑った。

 

「おおっ! いいじゃねえか!」

 

「……そうですね!」

 

 緒方は、少しだけ安心したように息を吐いた。

 

 最も危険な区間を、大きなトラブルなく走り切った。

 

 それだけでも、十分に意味がある。

 

 しかし。

 

「……まだだな」

 

 奥山が、静かに呟いた。

 

「……え?」

 

 緒方が振り返る。

 

「何がですか?」

 

「まだ、結果は分からん」

 

 奥山は、モニターへ視線を向けたまま答えた。

 

「今のところ、走りは悪くない。だが、タイムがどう出るかは別の話だ」

 

「……ああ」

 

 緒方は、小さく頷いた。

 

 MFGの予選は、タイムアタック。

 

 どれほど見事な走りをしていても、最終的に記録されるのはタイムだけ。

 

 そして、そのタイムによって順位が決まる。

 

 ここまで、ベンジャミンは大きなミスなく走っている。

 

 しかし、それがどれほど速いのか。

 

 まだ、明確な数字は出ていなかった。

 

「……どうなるかなぁ」

 

 緒方は、思わず呟いた。

 

 その隣では、カナタが静かにモニターを見つめていた。

 

「…………」

 

 カマロが、第一セクターの終盤へと向かっている。

 

 そして。

 

 そこには、最初の計測ポイントが待っていた。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 カマロSSが、コーナーを抜けた。

 

 ベンジャミンは、アクセルを踏み込む。

 

 V8エンジンが、力強く加速していく。

 

 前方には、次の計測ポイント。

 

 第一セクターの終了地点が近づいていた。

 

『……ベン』

 

 片耳ヘッドセットから、メイの声が聞こえた。

 

『もうすぐ、最初の区間タイムが出るわ』

 

「……おう」

 

 ベンジャミンは、短く答えた。

 

 そして、ステアリングを握り直す。

 

 ここまでの走りは、悪くなかった。

 

 大きなミスはない。

 

 スリッピートラップも、無事に抜けた。

 

 電子制御の切り替えも、予定どおり。

 

 だが。

 

 それが、どの程度のタイムにつながっているのか。

 

 自分でも、まだ正確には分からない。

 

(……さて)

 

 ベンジャミンは、口元を吊り上げた。

 

(どんなもんだろうな?)

 

 次のコーナーへ進入する。

 

 ブレーキング。

 

 車体の向きを変える。

 

 そして、アクセル。

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 カマロが、力強く加速した。

 

 そして――。

 

 

 ――第一セクター通過!!

 

 

 計測ラインを、ターコイズグリーンのカマロSSが駆け抜けた。

 

 その瞬間。

 

 公式モニターに、新たな区間タイムが表示された。

 

 そして――。

 

 

 暫定順位が、更新される。

 

 

 ――9位。

 

 

「……おおっ!!」

 

 パドックで、緒方が思わず声を上げた。

 

「9番手!?」

 

 相葉も、驚いたように目を見開く。

 

「マジかよ!」

 

 奥山が、静かに腕を組み直した。

 

「……ほう」

 

 その口元には、わずかな笑みが浮かんでいる。

 

「悪くないな」

 

 重量級のアメリカンマッスルカー。

 

 しかも、今回がMFG初参戦。

 

 そんな条件で、最初のセクターから上位に食い込むタイムを記録したのだ。

 

 もちろん、これだけで予選の結果が決まるわけではない。

 

 ここから先にも、数多くのコーナーが待っている。

 

 そして、長い直線の少ない芦ノ湖GTでは、タイヤやブレーキへの負担も決して小さくない。

 

 しかし。

 

 それでも、このタイムには大きな意味があった。

 

「……やるじゃねえか!」

 

 相葉が、嬉しそうに笑った。

 

「本当に速えな、あいつ!」

 

「……はい!」

 

 カナタも、満面の笑みを浮かべた。

 

「やっぱり、ベンはすごいです!」

 

 その声には、純粋な喜びが滲んでいた。

 

 幼い頃から知っている従兄弟。

 

 その彼が、同じMFGの舞台で堂々と戦っている。

 

 しかも、自分とはまったく違う走り方で。

 

「……ふふっ」

 

 カナタは、嬉しそうに微笑んだ。

 

「本当に、楽しそうだね……ベン」

 

 その視線の先。

 

 公式モニターの中では、カマロSSが次の区間へ向かっていた。

 

 

 

     * * *

 

 

 

『……ベン』

 

 片耳ヘッドセットから、メイの声が聞こえた。

 

「……おう」

 

『第一セクター、暫定9番手よ』

 

「……9番手?」

 

 ベンジャミンは、小さく呟いた。

 

 そして。

 

「……へへっ」

 

 口元を吊り上げる。

 

「悪くねえな!」

 

『ええ。初めてのコースとしては、かなりいいと思うわ』

 

「……だろ?」

 

 ベンジャミンは、嬉しそうに笑った。

 

 だが。

 

 次の瞬間。

 

 その表情が、わずかに変わった。

 

「……でもよ」

 

『……ん?』

 

「まだまだ、こんなもんじゃねえぜ」

 

『…………』

 

 無線の向こうで、メイが小さく息を吐いた。

 

『……そう言うと思ったわ』

 

「ハハッ!」

 

 ベンジャミンは、楽しそうに笑った。

 

 そして、前方を見つめる。

 

 スリッピートラップは抜けた。

 

 第一セクターも通過した。

 

 ここから先には、まだ長い道のりが残っている。

 

 湖畔へと続く道路。

 

 次々と現れるコーナー。

 

 そして、MFGの予選を戦ってきた強豪たちのタイム。

 

 そのすべてが、ベンジャミンを待ち構えていた。

 

 しかし。

 

 彼の心に、不安はなかった。

 

 あるのは、ただ一つ。

 

 

 ――もっと速く走りたい。

 

 

 それだけだった。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、ステアリングを握り直す。

 

 青い瞳が、鋭く前方を捉えた。

 

 そして。

 

 

「……さあて!」

 

 

 口元に、豪快な笑みが浮かぶ。

 

 

「こっからが、本番だぜ!!」

 

 

 ――ヴォオオオオオオオッ!!

 

 

 6.2リッター自然吸気V8エンジンが、力強く咆哮した。

 

 ターコイズグリーンのカマロSS。

 

 ゼッケン283。

 

 ベンジャミン・リヴィントン。

 

 その走りは、まだ始まったばかりだった。

 

 第一セクター、暫定9番手。

 

 しかし、彼の挑戦は、ここで終わるものではない。

 

 なぜなら。

 

 このアメリカ人レーサーには、まだ見せていない技術がある。

 

 まだ使い切っていない武器がある。

 

 そして何より。

 

 誰にも負けたくないという、強烈な闘争心があった。

 

 

 ――AMERICAN STYLE。

 

 

 大排気量V8が奏でる、重厚なエキゾーストノート。

 

 その音を響かせながら。

 

 ベンジャミン・リヴィントンは、次なるセクターへと突き進んでいった。

 

 

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