MFG GREAT ––ナスカーの刺客––   作:車っていいなって思うんすよね

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第9話「FULL THROTTLE!」

 

 

 ――ヴォオオオオオオッ!!

 

 箱根の山々に、重厚なV8サウンドが響き渡った。

 

 鮮やかなターコイズグリーンの車体。

 

 筋肉質なフェンダー。

 

 長いボンネットの下で咆哮する、6.2リッター自然吸気エンジン。

 

 シボレー・カマロSS。

 

 ゼッケン283。

 

 ベンジャミン・リヴィントン。

 

 MFG第2戦、芦ノ湖GT。

 

 予選六日目。

 

 記念すべき初出走を迎えた19歳のアメリカ人レーサーは、最初の計測ポイントを通過したばかりだった。

 

 

 ――第一セクター、暫定9位。

 

 

 悪くない。

 

 初めて挑むMFGのコース。

 

 しかも、相棒は重量級のアメリカンマッスルカー。

 

 そんな条件で、数多くの強豪たちを相手に上位へ食い込んでいる。

 

 十分に胸を張れる結果だった。

 

 だが――。

 

「……9番手、ねえ」

 

 運転席のベンジャミンは、小さく呟いた。

 

 その顔には、満足した様子など微塵もない。

 

 むしろ、口元には挑戦的な笑みが浮かんでいた。

 

「……へへっ」

 

 ステアリングを握り直す。

 

「まだまだ、こんなもんじゃねえぜ」

 

 スリッピートラップは抜けた。

 

 電子制御も、通常路面に合わせて再び『FULL OFF』へ切り替えてある。

 

 そして、カマロの挙動についても、走り始めた頃よりずっと理解が深まっていた。

 

 ブレーキング時の荷重移動。

 

 コーナリング中の前後バランス。

 

 アクセル操作に対する後輪の反応。

 

 先ほどまで、それぞれ別々に感じていた情報が、一つにつながり始めている。

 

 車が何をしようとしているのか。

 

 次に、どんな操作を要求してくるのか。

 

 それが、少しずつ手に取るように分かってきた。

 

(……さあ)

 

 ベンジャミンは、前方へ視線を向ける。

 

(こっから、どこまで行ける?)

 

 次のコーナーが迫る。

 

 右足が、アクセルペダルから離れた。

 

 そして――。

 

 

 ――グッ!!

 

 

 強烈な減速G。

 

 フロントタイヤへ荷重が移動し、カマロのノーズが沈み込む。

 

 ベンジャミンは、ブレーキを一気に解放しなかった。

 

 ステアリングを切り込みながら、徐々に踏力を抜いていく。

 

 重い車体が、滑らかに向きを変え始めた。

 

「……よし」

 

 必要なだけ旋回させる。

 

 そして、出口が見えたところでアクセルを開く。

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 V8エンジンが、再び咆哮した。

 

 カマロが、勢いよくコーナーを脱出していく。

 

 その動きは、先ほどまでよりも明らかに鋭かった。

 

「……いいねぇ!」

 

 ベンジャミンは、思わず笑った。

 

「やっと、息が合ってきたじゃねえか!」

 

 車は、ドライバーの道具だ。

 

 だが、ただ命令すれば動いてくれるというものではない。

 

 それぞれに異なる特性があり、得意なことも苦手なこともある。

 

 カマロSSも同じだった。

 

 重量級の車体。

 

 強大なエンジントルク。

 

 そして、後輪駆動。

 

 その特徴を理解しなければ、速く走らせることはできない。

 

 しかし。

 

 逆に言えば、その特性を理解できれば、これほど頼もしい相棒もいない。

 

「……行くぜ!」

 

 ベンジャミンは、口元を吊り上げた。

 

「お前の本気、もっと見せてくれよ!」

 

 ターコイズグリーンのカマロSSは、さらに速度を上げていった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……おおっ!」

 

 パドック。

 

 公式モニターを見つめていた相葉瞬が、思わず声を上げた。

 

「何だよ、あいつ! さっきより速くなってねえか!?」

 

「……そうですね」

 

 緒方も、驚いたように頷いた。

 

 画面の中では、カマロが次々とコーナーを抜けている。

 

 第一セクターでも、十分に見事な走りを披露していた。

 

 しかし、今はそれ以上だった。

 

 特に、コーナーからの脱出が速い。

 

 重い車体をしっかりと減速させ、素早く向きを変える。

 

 そして、後輪が路面を捉えた瞬間に、大排気量エンジンのパワーを解き放つ。

 

 その一連の操作が、驚くほど正確だった。

 

「……なるほど」

 

 奥山広也が、静かに呟いた。

 

「ようやく、掴んできたか」

 

「……え?」

 

 緒方が振り返る。

 

「何をですか?」

 

「車の動かし方だ」

 

 奥山は、モニターから視線を外さずに答えた。

 

「シェイクダウンの時より、ブレーキの残し方がうまい。それに、車体の向きを変えるタイミングも早くなっている」

 

「……へえ」

 

「重い車で無理に旋回速度を稼ごうとすれば、タイヤに負担がかかる。だが、あいつはそこを分かっている」

 

 画面の中で、カマロが鋭いコーナーへ進入した。

 

 ベンジャミンは、十分な減速を行ってから車体の向きを変えている。

 

 そして、ステアリングを戻し始めると同時に、アクセルを開いていく。

 

「……出口重視の走りだな」

 

 奥山が、わずかに笑った。

 

「カマロのパワーを使うには、理にかなっている」

 

「……なるほどなぁ」

 

 相葉が、感心したように腕を組んだ。

 

「確かに、俺のGT-Rとは全然違うな」

 

 日産GT-R NISMO。

 

 相葉の愛車は、強力なエンジンと四輪駆動システムを組み合わせた高性能車だった。

 

 対して、ベンジャミンのカマロはFR。

 

 駆動力を路面へ伝えるのは、後輪だけだ。

 

 しかも、その後輪には強大なトルクがかかる。

 

 コーナーの途中で不用意にアクセルを開けば、簡単にリアが滑り出してしまう。

 

 だからこそ、ベンジャミンは旋回と加速を丁寧につないでいた。

 

「……すげえな」

 

 相葉は、小さく笑った。

 

「見た目は豪快なのに、走りは結構繊細じゃねえか」

 

「……ふふっ」

 

 その言葉に、カナタが笑みを浮かべた。

 

「ベンは、昔からそうなんです」

 

「……そうなのか?」

 

「はい」

 

 カナタは、モニターへ視線を向ける。

 

「普段は勢いで行動することが多いんですけど、レースの時はすごく考えて走るんですよ」

 

 幼い頃。

 

 二人でカートに乗っていた時から、ベンジャミンはそうだった。

 

 速く走るために何が必要なのか。

 

 どうすれば、ライバルより早くアクセルを開けられるのか。

 

 どのラインを通れば、次のコーナーへ有利につなげられるのか。

 

 そんなことばかり考えていた。

 

 ただし。

 

 その答えを見つける方法は、カナタとは少し違っていた。

 

 カナタが理想的なラインを正確になぞろうとするのに対し、ベンジャミンは何度も試しながら、自分の車に合った走り方を見つけていく。

 

 時には大胆に。

 

 時には驚くほど慎重に。

 

 その柔軟さこそが、彼の強さだった。

 

「……楽しそうだなぁ、ベン」

 

 カナタは、小さく呟いた。

 

 画面の中では、カマロが豪快なエキゾーストノートを響かせながら走っている。

 

 その姿を見ているだけで、運転席のベンジャミンがどんな表情を浮かべているのか、何となく想像できた。

 

 きっと、笑っている。

 

 子供の頃と、少しも変わらない顔で。

 

「……ふふっ」

 

 カナタは、嬉しそうに微笑んだ。

 

「やっぱり、ベンはベンだね」

 

 

 

     * * *

 

 

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 カマロSSが、第二セクターを駆け抜けていく。

 

 前方に現れたのは、左右へ連続する複合コーナーだった。

 

 一つ目を抜けた直後に、反対方向への切り返しが待っている。

 

 しかも、道路は緩やかにうねっていた。

 

 重量級のカマロにとって、決して得意な場所ではない。

 

「……さて」

 

 ベンジャミンは、わずかにアクセルを緩めた。

 

 前方のコーナーを見つめる。

 

 一つ目は右。

 

 その直後に左。

 

 さらに、出口側には短い加速区間がある。

 

 ここで重要なのは、最初のコーナーを速く抜けることではない。

 

 二つ目のコーナーから、どれだけ早く加速できるか。

 

 その一点だった。

 

(……最初は、欲張らねえ)

 

 ベンジャミンは、ブレーキングを開始した。

 

 カマロのノーズが沈み込む。

 

 ステアリングを右へ切る。

 

 車体が旋回する。

 

 しかし、彼はイン側へ深く入り込もうとはしなかった。

 

 少しだけ余裕を残し、次の左コーナーへ備える。

 

 そして――。

 

「……ここだ!」

 

 ブレーキの残し方を調整し、車体の荷重を移動させる。

 

 右へ向いていたノーズが、左へと切り返された。

 

 重い車体が、一瞬だけ大きく動こうとする。

 

 だが、ベンジャミンはその動きを無理に止めなかった。

 

 サスペンションが荷重を受け止めるのを待ち、ステアリングを滑らかに切り足す。

 

 フロントタイヤが、しっかりと路面を捉えた。

 

「……よし!」

 

 二つ目のコーナー。

 

 カマロのノーズが、出口へ向く。

 

 そこで、ベンジャミンはアクセルを開いた。

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 後輪が路面を蹴る。

 

 車体が、勢いよく加速した。

 

 連続コーナーを抜けた時、カマロはすでに十分な加速態勢に入っていた。

 

「……ハハッ!」

 

 ベンジャミンは、思わず笑った。

 

「気持ちいいじゃねえか!」

 

 だが、次の瞬間。

 

 彼の目が、わずかに細められた。

 

 前方に、さらに鋭いコーナーが現れたのである。

 

 しかも、進入直前には路面のうねりがある。

 

 高速で突っ込めば、ブレーキング中に車体が不安定になる可能性があった。

 

「…………」

 

 ベンジャミンは、瞬時に判断した。

 

 通常より、少しだけ早くブレーキを踏み始める。

 

 そして、車体の姿勢を確認しながら減速する。

 

 カマロの重いノーズが沈み込んだ。

 

 路面のうねりを通過。

 

 サスペンションが、一度大きくストロークする。

 

「……っ!」

 

 その瞬間。

 

 フロントタイヤから伝わる感触が、わずかに変化した。

 

 だが、ベンジャミンは慌てなかった。

 

 ブレーキの踏力を調整する。

 

 車体の上下動が収まるのを待つ。

 

 そして、ステアリングを切り込む。

 

 カマロは、滑らかに向きを変えた。

 

「……よし」

 

 出口が見える。

 

 アクセルを開く。

 

 ――ヴォオオオッ!!

 

 車体が、力強く加速した。

 

 大きなミスはない。

 

 しかし。

 

(……ちょっと、慎重すぎたか?)

 

 ベンジャミンは、一瞬だけ考えた。

 

 今のコーナー。

 

 もう少しだけブレーキングを遅らせることもできたかもしれない。

 

 だが、そこで無理をしていれば、車体の姿勢を乱していた可能性もある。

 

 今回の予選は、まだ始まったばかりだ。

 

 一つのコーナーで無理をして、すべてを台無しにするわけにはいかない。

 

(……ま、いいさ)

 

 ベンジャミンは、口元を吊り上げた。

 

(取り返す場所は、まだある!)

 

 そして、次のコーナーへと向かっていった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

『……ベン』

 

 片耳ヘッドセットから、メイの声が聞こえた。

 

「……おう」

 

『第二セクター、あと少しよ』

 

「了解」

 

『第一セクターは、上位との差がそれほど大きくないわ。まだ十分に狙える位置よ』

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、小さく笑った。

 

「そりゃ、いいニュースだな」

 

『ただし、無理はしないで』

 

「分かってる」

 

 彼は、前方の道路を見つめる。

 

「一発で決めなきゃいけねえんだ。そんなことくらい、知ってるって」

 

『……そうね』

 

 メイは、短く答えた。

 

 MFGの予選は、決められたコースを一度走り、そのタイムによって順位を決める。

 

 何度も走り直せるわけではない。

 

 大きなミスを犯せば、それだけで予選通過が難しくなる場合もある。

 

 だからこそ。

 

 速さだけでなく、確実性も要求される。

 

「……それに」

 

 ベンジャミンが、小さく呟いた。

 

『……ん?』

 

「まだ、いける気がするんだよ」

 

『…………』

 

 メイは、少しだけ目を細めた。

 

 弟がこういうことを言う時。

 

 それは、ただの強がりではない。

 

 幼い頃から、何度も聞いてきた言葉だった。

 

 自分の走りに手応えを感じている。

 

 車の状態が分かっている。

 

 そして、どこを改善すれば速くなるのか、その答えが見えている。

 

 そんな時、ベンジャミンは決まって同じことを言う。

 

 ――まだ、いける。

 

『……分かったわ』

 

 メイは、静かに答えた。

 

『あなたの判断に任せる』

 

「……おう!」

 

 ベンジャミンは、満足そうに頷いた。

 

 そして――。

 

 アクセルを踏み込んだ。

 

 ――ヴォオオオオオオッ!!

 

 V8エンジンが、力強く咆哮する。

 

 カマロSSが、第二セクター終盤のコーナーを抜けた。

 

 そこから、短い加速区間へ。

 

 10速ATが、素早くギアをつないでいく。

 

 加速が、途切れない。

 

「……行けっ!」

 

 ベンジャミンは、さらにアクセルを踏み込んだ。

 

 そして――。

 

 

 ――第二セクター通過!!

 

 

 計測ラインを、カマロSSが駆け抜けた。

 

 その瞬間。

 

 公式モニターに、新たな区間タイムが表示された。

 

 そして、スタートからの累積タイムによる暫定順位が更新される。

 

 

 ――7位。

 

 

「……おおっ!!」

 

 パドックで、緒方が声を上げた。

 

「7番手!!」

 

 相葉も、驚いたように目を丸くした。

 

「マジかよ! 順位上げてきたじゃねえか!」

 

 第一セクターでは、暫定9位。

 

 しかし、第二セクターを終えた時点で、暫定7位まで順位を上げてきた。

 

 それは、明らかにペースが向上している証拠だった。

 

「……ほう」

 

 奥山が、小さく唸った。

 

「なかなかやるな」

 

 そして、公式モニターへ視線を向ける。

 

 重いカマロの車体。

 

 その特性を生かしながら、確実にタイムを縮めている。

 

 スリッピートラップを慎重に走った分、通常路面で取り返してきたのだ。

 

「……面白い」

 

 奥山の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。

 

 一方。

 

「……すごい!」

 

 カナタは、満面の笑みを浮かべていた。

 

「ベン、どんどん速くなってる!」

 

 自分の従兄弟が、同じ舞台で堂々と戦っている。

 

 しかも、初めて走るMFGの予選で。

 

 その光景が、カナタには何より嬉しかった。

 

「……ふふっ」

 

 そして。

 

 彼は、小さく呟いた。

 

「……でも、ベン」

 

 その瞳には、純粋な好奇心が浮かんでいた。

 

「まだ、何か考えてるんでしょう?」

 

 画面の中。

 

 ターコイズグリーンのカマロが、最後のセクターへと突入していった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 最終セクター。

 

 ここから先は、もう後戻りできない。

 

 これまでの走行で失った時間も、積み重ねてきたアドバンテージも。

 

 すべてが、最後の計測ラインで一つの数字になる。

 

 ベンジャミンは、ゆっくりと息を吐いた。

 

『……ベン』

 

 片耳ヘッドセットから、メイの声が聞こえる。

 

『第二セクター終了時点で、暫定7番手よ』

 

「……7番手か」

 

『ええ。前の車との差も、かなり縮まってる』

 

「……なるほどな」

 

 ベンジャミンは、口元を吊り上げた。

 

「ってことは……」

 

 前方の道路を見つめる。

 

 緩やかな直線。

 

 その先には、いくつものコーナーが連続していた。

 

「……まだ、上が狙えるってことだろ?」

 

『……そうね』

 

 メイは、静かに答えた。

 

『ただし、最後まで集中して』

 

「分かってるって」

 

 ベンジャミンは、ステアリングを握り直した。

 

 カマロのタイヤは、すでに十分な熱を帯びている。

 

 ブレーキにも、それなりの負担がかかっていた。

 

 車重のあるマシンで、何度も強烈な減速を繰り返してきたのだ。

 

 当然のことだった。

 

 メーターパネルに目を走らせる。

 

 水温。

 

 油温。

 

 異常を示す警告はない。

 

 しかし、だからといって、車の状態がスタート時とまったく同じというわけではない。

 

 タイヤのグリップも、ブレーキの感触も、走行を重ねるにつれて少しずつ変化している。

 

 その違いを見逃せば、わずかなミスにつながる。

 

 そして、MFGの予選では、そのわずかなミスが致命傷になりかねない。

 

「…………」

 

 ベンジャミンの表情が、引き締まった。

 

(……最後まで、ちゃんと使い切る)

 

 今の車に、できること。

 

 今のタイヤに、できること。

 

 そして、自分自身にできること。

 

 そのすべてを、最後の計測ラインまで積み重ねる。

 

 それだけだった。

 

「……よし」

 

 前方に、長めの加速区間が現れる。

 

 ベンジャミンは、ステアリングをわずかに修正した。

 

 車体が、真っ直ぐに向く。

 

 そして――。

 

 

「……行くぜ!!」

 

 

 アクセルペダルを、深く踏み込んだ。

 

 

 ――ヴォオオオオオオオッ!!

 

 

 自然吸気V8エンジンが、一気に回転数を上げた。

 

 453馬力。

 

 6.2リッターという大排気量から生み出される、豊かなトルク。

 

 それが、後輪を通じて路面へと伝えられる。

 

 カマロの巨体が、猛烈な勢いで加速を始めた。

 

 ――ヴォオオオオオオッ!!

 

 エンジン音が、さらに高まる。

 

 10速オートマチックトランスミッションが、適切なギアへと変速していく。

 

 速度が上がる。

 

 周囲の景色が、急速に後方へ流れていく。

 

 だが。

 

 ベンジャミンの視線は、すでにその先に向けられていた。

 

 直線の終わり。

 

 そこに待ち構える、次のコーナー。

 

(……ブレーキングポイントは……)

 

 道路の形状。

 

 路面の状態。

 

 カマロの現在の速度。

 

 そして、ブレーキの感触。

 

 そのすべてを判断する。

 

 ほんの一瞬。

 

 しかし、その一瞬に、これまでの経験が凝縮されていた。

 

「……今だ!」

 

 アクセルを離す。

 

 そして、ブレーキ。

 

 

 ――グゥッ!!

 

 

 身体が、シートベルトへ強く押しつけられた。

 

 カマロのノーズが沈み込む。

 

 タイヤが路面を強く捉え、車体が減速していく。

 

 だが、ベンジャミンは慌てなかった。

 

 むしろ、表情は驚くほど落ち着いていた。

 

 減速Gの変化を感じ取る。

 

 フロントタイヤにかかる荷重を確認する。

 

 そして、ステアリングを切り込み始めた。

 

 ブレーキの踏力を、徐々に抜いていく。

 

 車体が、コーナーの内側へと向きを変えた。

 

(……よし)

 

 ベンジャミンは、ブレーキを完全に解放した。

 

 ステアリングを少しずつ戻す。

 

 出口が見える。

 

 ここで、アクセル。

 

 ――ヴォオオオッ!!

 

 後輪が、力強く路面を蹴った。

 

 カマロが、コーナーから勢いよく飛び出していく。

 

 その一連の操作に、ほとんど無駄はなかった。

 

「……ハハッ!」

 

 ベンジャミンは、思わず笑った。

 

「最高じゃねえか、相棒!!」

 

 だが、まだ終わりではない。

 

 次のコーナー。

 

 さらに、その先。

 

 ゴールまでは、まだ距離が残っている。

 

 ベンジャミンは、笑みを浮かべたままステアリングを握り直した。

 

「……もうちょっと、付き合ってくれよ!」

 

 V8エンジンが、再び咆哮する。

 

 ターコイズグリーンのカマロSSは、さらに速度を上げていった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……おいおい!」

 

 パドック。

 

 公式モニターを見つめていた相葉が、思わず身を乗り出した。

 

「何だよ、あの加速!?」

 

 画面の中では、カマロがコーナーから猛烈な勢いで飛び出していた。

 

「すげえパワーだな!」

 

「……そうですね」

 

 緒方も、感心したように頷いた。

 

 シェイクダウンの時にも感じたことだが、カマロの加速力は非常に強烈だった。

 

 しかも、今のベンジャミンは、その性能をより効果的に使っている。

 

 コーナーの途中で無理にアクセルを開かない。

 

 しっかりと車体の向きを変えてから、強大なトルクを路面へ伝えている。

 

 重量級のマシンならではの走り方だった。

 

「……奥山さん」

 

 緒方が、隣に立つチューナーへ声をかけた。

 

「どうですか?」

 

「……悪くない」

 

 奥山は、静かに答えた。

 

「いや、正直に言えば……」

 

 そこで、わずかに口元を緩める。

 

「予想以上だな」

 

「……えっ?」

 

「初めてのMFGで、ここまで車を使いこなすとは思わなかった」

 

 奥山は、画面の中のカマロを見つめる。

 

 アメリカ車。

 

 大排気量。

 

 重量級。

 

 日本の山岳道路を走ることを考えれば、不利な条件が多い。

 

 だが、ベンジャミンは、その弱点をただ嘆くようなドライバーではなかった。

 

 車に合わせて、自分の走り方を変えている。

 

 得意な場所では、しっかりとタイムを稼ぐ。

 

 苦手な場所では、無理をせずに走り切る。

 

 その判断を、走行中に何度も繰り返していた。

 

「……あいつ」

 

 奥山は、小さく呟いた。

 

「本当に、いいレーサーだな」

 

 その言葉を聞いて、カナタが嬉しそうに笑った。

 

「……はい!」

 

 そして、胸を張る。

 

「ベンは、すごいドライバーなんです!」

 

「……ハハッ!」

 

 相葉が、楽しそうに笑った。

 

「お前がそこまで言うなら、相当なんだろうな!」

 

「はい!」

 

 カナタは、迷うことなく頷いた。

 

 その瞳には、純粋な喜びが浮かんでいた。

 

 幼い頃から、ベンジャミンの走りを何度も見てきた。

 

 そして、今日。

 

 こうして同じMFGの舞台で、その走りを再び見ることができた。

 

 ただ、それだけで嬉しかった。

 

 しかし。

 

 同時に、もう一つの感情も芽生えていた。

 

(……僕も、負けていられないな)

 

 カナタは、静かにモニターを見つめた。

 

 ベンジャミンは、大切な家族だ。

 

 幼い頃からの友人でもある。

 

 だが。

 

 MFGでは、同じレースを戦うライバルでもある。

 

 だからこそ。

 

 その走りに、心を動かされる。

 

「……ふふっ」

 

 カナタは、小さく微笑んだ。

 

「……頑張れ、ベン」

 

 その声には、温かな期待と、静かな闘志が込められていた。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 最終セクターも、残りわずか。

 

 ベンジャミンは、前方の道路を見つめていた。

 

 ここまで、大きなミスはない。

 

 スリッピートラップも、無事に突破した。

 

 第二セクターでは、暫定7位まで順位を上げた。

 

 だが。

 

 まだ、十分ではなかった。

 

(……あと少し)

 

 ベンジャミンは、ゆっくりと息を吐いた。

 

(……もう少し、速く!)

 

 前方には、右へと曲がるコーナーがあった。

 

 その先には、短い直線。

 

 さらに、左コーナーが続いている。

 

 ここで重要なのは、最初の右コーナーをどう抜けるか。

 

 出口で車体を安定させられれば、その先の加速につなげられる。

 

 ベンジャミンは、ブレーキングを開始した。

 

 カマロのノーズが沈み込む。

 

 ステアリングを右へ切り込む。

 

 車体が、滑らかに向きを変えた。

 

 しかし、その途中。

 

 ――ズッ……。

 

「……っ!」

 

 リアタイヤが、わずかに滑った。

 

 強大なエンジントルク。

 

 そして、コーナリング中の荷重移動。

 

 その二つが重なり、後輪が一瞬だけグリップの限界を超えたのだ。

 

 だが。

 

 ベンジャミンは、すぐに反応した。

 

 アクセルを、わずかに戻す。

 

 ステアリングの舵角を調整する。

 

 リアタイヤが、再び路面を捉えた。

 

「……よし!」

 

 車体が安定する。

 

 ベンジャミンは、すぐにアクセルを開き直した。

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 カマロが、コーナーを脱出する。

 

 しかし。

 

 今のわずかなスライドで、確実に時間を失った。

 

「……チッ!」

 

 ベンジャミンは、小さく舌打ちした。

 

 自分の操作が、ほんの少しだけ早かった。

 

 それだけだ。

 

 だが、そのわずかな違いが、タイムアタックでは大きな意味を持つ。

 

(……欲張りすぎたな)

 

 彼は、すぐに気持ちを切り替えた。

 

 失った時間を取り返そうとして、さらに無理をする。

 

 それが、最も危険な考え方だということを知っていた。

 

 長年のレース経験が、彼に教えてくれたことだった。

 

 ミスをしたら、原因を理解する。

 

 そして、次のコーナーで同じことを繰り返さない。

 

 それだけでいい。

 

「……落ち着け」

 

 ベンジャミンは、自分へ言い聞かせるように呟いた。

 

「まだ終わってねえだろ」

 

 前方の左コーナー。

 

 ブレーキングポイントが近づく。

 

 ベンジャミンは、慎重に減速した。

 

 車体の姿勢を整える。

 

 そして、ステアリングを切り込んだ。

 

 今度は、無理にアクセルを開かない。

 

 後輪が、しっかりと路面を捉えていることを確かめる。

 

 そして――。

 

「……行け!」

 

 アクセルを踏み込んだ。

 

 ――ヴォオオオオオッ!!

 

 カマロが、力強く加速した。

 

 今度は、ほとんどホイールスピンを発生させていない。

 

 車体が、安定した姿勢のままコーナーを脱出する。

 

「……よし!」

 

 ベンジャミンは、満足そうに頷いた。

 

 失った時間を取り戻せたかどうかは分からない。

 

 だが。

 

 少なくとも、今の操作は悪くなかった。

 

 そして、前方には――。

 

 最後の計測ラインへと続く道路が、姿を現していた。

 

 

 

     * * *

 

 

 

『……ベン』

 

 片耳ヘッドセットから、メイの声が聞こえた。

 

『ゴールまで、あと少しよ』

 

「……おう」

 

 ベンジャミンは、短く答えた。

 

 その声には、先ほどまでの陽気さがない。

 

 ただ、静かな集中力だけが感じられた。

 

『……いい走りよ』

 

「…………」

 

 ベンジャミンは、少しだけ目を細めた。

 

『最後まで、そのまま行きなさい』

 

「……了解」

 

 それだけ答えると、彼は再び前方へ集中した。

 

 最後のコーナー。

 

 そこを抜ければ、ゴールだ。

 

 ベンジャミンは、ゆっくりとブレーキングを開始する。

 

 車体が減速する。

 

 ステアリングを切り込む。

 

 カマロのノーズが、出口へ向きを変えた。

 

 そして――。

 

 ベンジャミンは、ほんの一瞬だけ息を止めた。

 

 前方には、ゴールへと続く直線。

 

 車体は、すでに加速態勢に入っている。

 

 あとは。

 

 ただ、アクセルを踏み込むだけだった。

 

「…………」

 

 ベンジャミンの口元が、ゆっくりと吊り上がる。

 

 これまで、何度も経験してきた瞬間。

 

 レースの終わりが見えてくる時。

 

 最後の力を振り絞って、ゴールへと向かう時。

 

 その瞬間に感じる、独特の高揚感。

 

 それは、どれほどレースを重ねても変わらなかった。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、小さく笑った。

 

 そして――。

 

 

「……行っけえええええ!!」

 

 

 アクセルを、深く踏み込んだ。

 

 

 ――ヴォオオオオオオオオッ!!

 

 

 V8エンジンが、最後の咆哮を上げた。

 

 453馬力のパワーが、後輪へと伝えられる。

 

 ターコイズグリーンのカマロSSが、猛烈な勢いで加速した。

 

 10速ATが、素早く変速を繰り返す。

 

 エンジン回転数が、再び高まる。

 

 周囲の景色が、急速に後方へ流れていく。

 

 そして。

 

 前方に、ゴールの計測ラインが見えた。

 

 ベンジャミンは、最後までアクセルを緩めなかった。

 

 ステアリングを真っ直ぐに保つ。

 

 車体の姿勢は、安定している。

 

 そして――。

 

 

 ――FINISH!!

 

 

 ターコイズグリーンのカマロSSが、計測ラインを駆け抜けた。

 

 その瞬間。

 

 ベンジャミンは、アクセルを戻した。

 

「…………」

 

 一瞬の静寂。

 

 しかし、次の瞬間。

 

 

「……っしゃあああああ!!」

 

 

 車内に、豪快な叫び声が響き渡った。

 

「やったぜえええええ!!」

 

 ベンジャミンは、満面の笑みを浮かべた。

 

 MFG初出走。

 

 初めての芦ノ湖GT。

 

 そして、初めての予選タイムアタック。

 

 大きなミスなく、最後まで走り切った。

 

 その事実が、何より嬉しかった。

 

「……ハハッ!」

 

 ベンジャミンは、思わず笑った。

 

「最高だったぜ、相棒!!」

 

 ステアリングを軽く叩く。

 

 重厚なV8エンジンの音が、まだ車内に響いていた。

 

 その時。

 

『……ベン』

 

 片耳ヘッドセットから、メイの声が聞こえた。

 

「……おう!」

 

 ベンジャミンは、嬉しそうに答える。

 

「どうだった、姉貴!?」

 

『……ちょっと待って』

 

「……ん?」

 

『今、最終タイムが出るわ』

 

 その言葉に、ベンジャミンは一瞬だけ黙った。

 

 そして。

 

「……へへっ」

 

 口元を吊り上げる。

 

「さてさて……」

 

 パドック。

 

 公式モニター。

 

 そして、世界中へ配信されているMFGの映像。

 

 そのすべてに、一つの数字が表示されようとしていた。

 

 ベンジャミン・リヴィントン。

 

 ゼッケン283。

 

 シボレー・カマロSS。

 

 記念すべき初予選。

 

 その結果は――。

 

 

 ――暫定6位。

 

 

「…………!」

 

 一瞬。

 

 パドックにいた誰もが、言葉を失った。

 

 そして――。

 

 

「……ろ、6位!?」

 

 

 緒方が、驚きの声を上げた。

 

「6番手えええ!?」

 

 相葉も、思わず身を乗り出す。

 

「マジかよ!!」

 

 奥山が、わずかに目を見開いた。

 

「……ほう」

 

 そして、小さく笑った。

 

「やるじゃないか」

 

 一方。

 

「…………!」

 

 カナタは、公式モニターをじっと見つめていた。

 

 そこには、はっきりと表示されている。

 

 

 『BENJAMIN RIVINGTON』

 

 『CHEVROLET CAMARO SS』

 

 『暫定6位』

 

 

「……すごい……!」

 

 カナタは、思わず声を漏らした。

 

 そして、次の瞬間。

 

 満面の笑みを浮かべる。

 

「……すごいよ、ベン!!」

 

 その声は、喜びに満ちていた。

 

 幼い頃から知っている従兄弟。

 

 その彼が、初めてのMFGで、これほどの結果を残したのだ。

 

 しかも、自分の86とはまったく違うアプローチで。

 

 カマロの重量を理解し、強大なパワーを使いこなし、難しいスリッピートラップを乗り越えた。

 

 その走りは、間違いなく本物だった。

 

「……ふふっ」

 

 カナタは、小さく笑った。

 

「……やっぱり、ベンはすごいや」

 

 その瞳には、尊敬と喜びが浮かんでいた。

 

 そして。

 

 ほんの少しだけ。

 

 負けたくないという気持ちも、宿っていた。

 

 

 

     * * *

 

 

 

『……ベン』

 

 片耳ヘッドセットから、メイの声が聞こえた。

 

「……おう!」

 

 ベンジャミンは、まだ興奮が収まらない様子だった。

 

「どうだった!?」

 

『……暫定6位よ』

 

「…………」

 

 一瞬。

 

 ベンジャミンが、黙った。

 

 そして。

 

 

「……マジかよ!?」

 

 

 思わず、声を上げた。

 

「6位!?」

 

『ええ』

 

「……っしゃあああ!!」

 

 再び、歓声が響き渡る。

 

「やったぜ!!」

 

 ベンジャミンは、満面の笑みを浮かべた。

 

 もちろん、まだ予選は終わっていない。

 

 翌日には、最後の出走者たちが控えている。

 

 順位が下がる可能性も、十分にある。

 

 だが。

 

 今は、そんなことを気にする必要はなかった。

 

 初めてのMFG。

 

 初めてのタイムアタック。

 

 そこで、暫定6位。

 

 その結果が、純粋に嬉しかった。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、小さく笑った。

 

「悪くねえな……!」

 

『……ええ』

 

 メイの声が、少しだけ柔らかくなる。

 

『本当によく頑張ったわ』

 

「……おう!」

 

『ただし、まだ最終結果じゃないからね』

 

「分かってるって!」

 

 ベンジャミンは、楽しそうに笑った。

 

「でも、今くらい喜んでもいいだろ?」

 

『……ふふっ』

 

 無線の向こうで、メイが小さく笑った。

 

『そうね』

 

 そして、優しく続ける。

 

『……おめでとう、ベン』

 

「…………」

 

 ベンジャミンは、一瞬だけ目を細めた。

 

 その声には、普段のような小言も、からかうような響きもなかった。

 

 ただ、心から弟の健闘を喜ぶ、姉の声だった。

 

「……サンキュー、姉貴」

 

 ベンジャミンは、穏やかに笑った。

 

「……ちゃんと、帰るぜ」

 

『……ええ』

 

 メイも、静かに答えた。

 

『待ってるわ』

 

 そして。

 

 ベンジャミンは、ゆっくりと速度を落としていった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 それから、しばらくして。

 

 ――ヴォルルルルルル……。

 

 ターコイズグリーンのカマロSSが、パドックへと戻ってきた。

 

 重厚なV8サウンド。

 

 そして、鮮やかなボディカラー。

 

 その姿を見つけた瞬間。

 

「……おっ!」

 

 緒方が、嬉しそうに声を上げた。

 

「帰ってきた!」

 

 カマロが、指定されたスペースへと進入する。

 

 ゆっくりと停止。

 

 そして、エンジンが止められた。

 

 ――ヴォルルル……。

 

 重低音が、静かに消えていく。

 

 運転席のドアが開いた。

 

 そして――。

 

「……くぅぅぅ~っ!!」

 

 ベンジャミンが、大きく伸びをしながら降りてきた。

 

「最高だったぜえええ!!」

 

 その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。

 

 片耳ヘッドセットを外し、首を軽く回す。

 

 長時間の集中から解放され、ようやく肩の力が抜けたようだった。

 

「……ベンジャミン!」

 

 緒方が、笑顔で駆け寄る。

 

「お疲れ!」

 

「おう! ミスター緒方!」

 

 ベンジャミンも、嬉しそうに手を上げた。

 

「どうだった!? 俺の走り!」

 

「すごかったよ!」

 

 緒方は、満面の笑みを浮かべる。

 

「本当に、びっくりした!」

 

「ハハッ! だろ!?」

 

 ベンジャミンは、得意げに胸を張った。

 

「俺だって、やる時はやるんだぜ!」

 

「……ああ。よく分かったよ」

 

 緒方は、苦笑しながら頷いた。

 

 そこへ、相葉も歩み寄ってきた。

 

「おい、ベン!」

 

「おっ! 相葉!」

 

「お前、マジですげえな!」

 

「……へへっ!」

 

 ベンジャミンが、口元を吊り上げる。

 

「サンキュー!」

 

「いや、あのカマロで暫定6位って……相当だぞ!」

 

「ハハッ! まあな!」

 

 そう言って、彼は親指を立てた。

 

 しかし。

 

 そこで、ふと真剣な表情になる。

 

「……でもよ」

 

「……ん?」

 

「まだ、改善できるところはあるぜ」

 

 ベンジャミンは、カマロへ視線を向けた。

 

「特に、あの滑る区間。もっと速く走れる方法、ありそうなんだよな」

 

「……へえ」

 

 相葉が、興味深そうに頷く。

 

「スリッピートラップか」

 

「おう」

 

 ベンジャミンは、腕を組んだ。

 

「今回は、安全に抜けることを優先した。でも、もうちょっと詰められる気がする」

 

 その言葉に、奥山が反応した。

 

「……なるほどな」

 

「おっ! ミスター奥山!」

 

 ベンジャミンが振り返る。

 

「どうだった!? カマロの調子!」

 

「……まずまずだ」

 

 奥山は、静かに答えた。

 

「ただ、車の状態はこれから確認する」

 

「おう!」

 

「ブレーキとタイヤは、特によく見ておきたい」

 

「……だよな」

 

 ベンジャミンは、真剣に頷いた。

 

「終盤、少しだけブレーキの感触が変わった気がしたんだ」

 

「……ほう」

 

 奥山が、興味深そうに目を細める。

 

「どのあたりだ?」

 

 ベンジャミンは、走行中に感じたことを説明し始めた。

 

 ブレーキング時の踏力。

 

 車体の姿勢。

 

 タイヤの接地感。

 

 そして、スリッピートラップでの電子制御の介入。

 

 普段の豪快な口調は、そのままだった。

 

 しかし、説明している内容は驚くほど具体的だった。

 

 奥山も、真剣な表情で話を聞いている。

 

「……なるほど」

 

 そして、小さく頷いた。

 

「参考になるな」

 

「へへっ! そりゃよかった!」

 

「……ただし」

 

 奥山が、少しだけ表情を引き締める。

 

「決勝では、予選とは違う考え方も必要になるぞ」

 

「……ああ」

 

 ベンジャミンは、頷いた。

 

 予選は、一度のタイムアタック。

 

 しかし、決勝は違う。

 

 複数のマシンが同時に走る。

 

 他車との駆け引き。

 

 追い抜き。

 

 タイヤの消耗。

 

 そして、長い距離を走り切るためのペース配分。

 

 考えるべきことは、さらに増える。

 

「……分かってるぜ」

 

 ベンジャミンは、口元を吊り上げた。

 

「だから、面白えんじゃねえか!」

 

 その言葉に、奥山も小さく笑った。

 

「……そうか」

 

 そして、頷く。

 

「なら、俺もできる限りのことをやっておこう」

 

「おう! 頼むぜ!」

 

 ベンジャミンは、満面の笑みを浮かべた。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……ベン!」

 

 その時。

 

 背後から、聞き慣れた声が響いた。

 

「……ん?」

 

 振り返る。

 

 そこには、カナタが立っていた。

 

「おっ! カナタ!」

 

 ベンジャミンが、嬉しそうに手を上げる。

 

「どうだった!? 俺の走り!」

 

「……すごかった!」

 

 カナタは、満面の笑みを浮かべた。

 

「本当に、すごかったよ!」

 

「……へへっ!」

 

 ベンジャミンは、得意げに笑った。

 

「そうだろ!?」

 

「うん!」

 

 カナタは、はっきりと頷いた。

 

「特に、コーナーからの加速がすごかった!」

 

「おっ!」

 

 ベンジャミンの目が輝く。

 

「分かるか!?」

 

「もちろん!」

 

 カナタは、嬉しそうに続ける。

 

「ブレーキングで車の向きを変えて、出口で一気に加速してたよね?」

 

「……おう!」

 

 ベンジャミンは、ニヤリと笑った。

 

「さすが、よく見てるじゃねえか!」

 

「ふふっ」

 

 カナタも、楽しそうに笑う。

 

 すると。

 

「……でも、ベン」

 

「……ん?」

 

「スリッピートラップでは、かなり慎重だったね」

 

「……ああ」

 

 ベンジャミンは、小さく頷いた。

 

「あそこは、ちょっと厄介だったな」

 

 そして、少しだけ苦笑する。

 

「お前みたいに、派手に滑らせるわけにはいかなかったぜ」

 

「……そうかな?」

 

 カナタが、首を傾げた。

 

「僕は、ベンの走り方もすごくいいと思ったけど」

 

「……ん?」

 

「だって、無駄なスライドが少なかったから」

 

 カナタは、穏やかに微笑んだ。

 

「カマロみたいなパワーのある車なら、ああやって確実に加速するほうが速い場面もあると思う」

 

「…………」

 

 ベンジャミンは、一瞬だけ黙った。

 

 そして。

 

「……ハハッ!」

 

 豪快に笑った。

 

「そりゃ、ありがてえ!」

 

 彼は、カナタの肩を軽く叩く。

 

「でもな、カナタ!」

 

「……ん?」

 

「俺は、お前の走りも大好きだぜ!」

 

「……え?」

 

「スリッピートラップで見せた、あのゼロカウンター!」

 

 ベンジャミンは、興奮気味に続ける。

 

「あれ、マジで最高だった!」

 

「……ふふっ」

 

 カナタは、少しだけ照れたように笑った。

 

「ありがとう」

 

「おう!」

 

 そして、ベンジャミンはニヤリと笑った。

 

「……ま、予選タイムじゃ、今のところ俺が上だけどな!」

 

「……あっ」

 

 カナタが、目を瞬かせる。

 

 そして。

 

「……そうだね」

 

 穏やかに笑った。

 

「今回は、ベンの勝ちだね」

 

「……へへっ!」

 

 ベンジャミンは、得意げに胸を張った。

 

「ハハッ! 俺の実力、思い知ったか!」

 

「……うん」

 

 カナタは、楽しそうに笑う。

 

 しかし、その直後。

 

 少しだけ目を細めた。

 

「でも、ベン」

 

「……ん?」

 

「決勝では、負けないよ」

 

「…………!」

 

 ベンジャミンは、一瞬だけ目を見開いた。

 

 そして。

 

「……ハハハハッ!!」

 

 豪快に笑い出した。

 

「言ってくれるじゃねえか!!」

 

 カナタも、笑顔を浮かべた。

 

「だって、僕もレーサーだから」

 

「……へへっ!」

 

 ベンジャミンは、口元を吊り上げる。

 

「いいぜ!」

 

 そして、拳を差し出した。

 

「決勝で勝負だ、カナタ!」

 

「……うん!」

 

 カナタも、拳を差し出す。

 

 二人の拳が、軽くぶつかった。

 

「……楽しみにしてるよ、ベン」

 

「おう! 俺もだ!」

 

 その光景を、少し離れた場所から緒方と相葉が眺めていた。

 

「……本当に仲いいなぁ」

 

 緒方が、感心したように呟く。

 

「ああ」

 

 相葉も、笑顔で頷いた。

 

「でも、レースになったら本気でやり合いそうだな」

 

「……ですね」

 

 緒方は、苦笑した。

 

 そして。

 

「……何だか、決勝が楽しみになってきました」

 

「……ハハッ!」

 

 相葉が、嬉しそうに笑った。

 

「俺もだよ!」

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……ベンジャミン」

 

 背後から、静かな声が聞こえた。

 

「……ん?」

 

 ベンジャミンが振り返る。

 

 そこには、メイが立っていた。

 

「……姉貴!」

 

 ベンジャミンが、満面の笑みを浮かべる。

 

「どうだった!? 俺の走り!」

 

「……もう」

 

 メイは、呆れたようにため息をついた。

 

「さっきから、そればっかりね」

 

「ハハッ!」

 

 ベンジャミンは、楽しそうに笑った。

 

「だって、気になるだろ!?」

 

「……そうね」

 

 メイは、小さく微笑んだ。

 

 そして。

 

「……すごくよかったわ」

 

「…………」

 

 ベンジャミンは、一瞬だけ黙った。

 

 その言葉に、普段のようなからかいはなかった。

 

 ただ、静かな賞賛だけが込められていた。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、少しだけ照れたように笑った。

 

「……サンキュー」

 

 すると。

 

 メイが、ゆっくりと歩み寄ってきた。

 

 そして――。

 

「……お疲れさま」

 

 弟の身体を、優しく抱きしめた。

 

「……おっ!?」

 

 ベンジャミンが、驚いたように目を瞬かせる。

 

「……姉貴?」

 

「……本当に、よく頑張ったわね」

 

 メイは、静かに呟いた。

 

「…………」

 

 ベンジャミンは、しばらく何も言わなかった。

 

 幼い頃。

 

 初めてレースで優勝した時。

 

 姉は、こんな風に自分を抱きしめてくれた。

 

 そして、負けて悔し涙を流した時にも。

 

 同じように、優しく抱きしめてくれた。

 

 あの頃から、何年も経った。

 

 自分は19歳になり、姉は会社を経営するようになった。

 

 母も、もういない。

 

 それでも。

 

 こうして、レースの後に姉と喜びを分かち合える。

 

 そのことが、何より嬉しかった。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、小さく笑った。

 

 そして。

 

「……ありがとな、姉貴」

 

 ゆっくりと、姉の背中へ腕を回した。

 

「……俺、やったぜ」

 

「……ええ」

 

 メイも、小さく頷いた。

 

「ちゃんと見てたわ」

 

 その声は、少しだけ震えていた。

 

 ベンジャミンは、何も言わなかった。

 

 ただ、姉の背中を軽く叩く。

 

 しばらくして。

 

 メイは、ゆっくりと身体を離した。

 

 そして、いつものように微笑む。

 

「……さて」

 

「……ん?」

 

「車を壊さずに帰ってきたことだし、今日は褒めてあげるわ」

 

「……おいおい!」

 

 ベンジャミンが、思わず苦笑した。

 

「そこかよ!?」

 

「何か問題でも?」

 

「いやいや! 俺、暫定6位だぜ!?」

 

「知ってるわよ」

 

 メイは、にっこりと微笑んだ。

 

「だから、褒めてるでしょう?」

 

「……ぐぬぬ」

 

 ベンジャミンは、何とも言えない表情を浮かべた。

 

 その様子を見て。

 

「……ふふっ」

 

 メイが、小さく笑う。

 

 そして、カナタも楽しそうに笑った。

 

「……あははっ!」

 

「おい、カナタ!」

 

 ベンジャミンが抗議する。

 

「笑うなって!」

 

「ごめん、ベン。でも……」

 

 カナタは、笑みを浮かべたまま答えた。

 

「やっぱり、昔から変わってないなって」

 

「……まったく!」

 

 ベンジャミンは、大げさに肩をすくめた。

 

 しかし、その顔には笑みが浮かんでいた。

 

 久しぶりに、家族が揃った。

 

 そして、自分は新しいレースへ挑戦した。

 

 その一日が、こんなにも充実したものになるとは。

 

 日本へ来る前には、想像していなかった。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、カマロへ視線を向けた。

 

 ターコイズグリーンのボディ。

 

 ゼッケン283。

 

 そして、長いボンネットの下に収められたV8エンジン。

 

 今日。

 

 この車と共に、新しい一歩を踏み出した。

 

 それだけは、間違いなかった。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 翌日。

 

 MFG第2戦、芦ノ湖GT。

 

 予選最終日。

 

 朝から、会場には独特の緊張感が漂っていた。

 

 これまで六日間にわたって続いてきたタイムアタック。

 

 その順位が、いよいよ確定する。

 

 すでに、数多くのドライバーが走行を終えている。

 

 そして、残された出走者たちが、最後の挑戦へと向かっていた。

 

 その中でも、特に大きな注目を集めていたのが――。

 

 

 ゼッケン12。

 

 ミハイル・ベッケンバウアー。

 

 

 ドイツからやって来た、若き天才ドライバー。

 

 MFG開幕戦、小田原パイクスピーク。

 

 その予選と決勝を制した、今季の優勝候補筆頭だった。

 

 彼が駆るのは、ポルシェ718ケイマンGTS。

 

 高い旋回性能と、優れた車体バランスを持つミッドシップスポーツカーである。

 

 そして。

 

 予選最終日。

 

 ベッケンバウアーは、その実力を存分に発揮した。

 

 前日まで暫定トップに立っていた沢渡光輝。

 

 ゼッケン4のアルピーヌA110を駆る、前年ランキング4位の実力者。

 

 その沢渡が叩き出した驚異的なタイムを、さらに上回ったのである。

 

 結果。

 

 ベッケンバウアーが、ポールポジションを獲得した。

 

 沢渡光輝は、2番手。

 

 そして。

 

 それに伴い、予選順位が一つずつ繰り下がった。

 

 昨日まで暫定6位だった、ベンジャミン・リヴィントンも例外ではない。

 

 最終結果は――。

 

 

 ――7位。

 

 

 そして、カナタ・カタギリ。

 

 ライトニングレッドのトヨタ86GTを駆る彼は、最終的に10位で予選を終えた。

 

 MFG第2戦、芦ノ湖GT。

 

 予選結果。

 

 7位、ベンジャミン・リヴィントン。

 

 10位、カナタ・カタギリ。

 

 二人の従兄弟は、揃って決勝レースへの進出を決めたのである。

 

 

 

     * * *

 

 

 

「……7位、か」

 

 予選最終結果を確認したベンジャミンは、小さく呟いた。

 

 その隣では、メイがタブレットを操作している。

 

「……ええ」

 

 メイは、静かに頷いた。

 

「最終的に、7番手ね」

 

「……なるほどな」

 

 ベンジャミンは、腕を組んだ。

 

 昨日の暫定6位から、一つ順位を落とした。

 

 もちろん、残念な気持ちがないわけではない。

 

 しかし。

 

「……へへっ」

 

 彼は、小さく笑った。

 

「悪くねえじゃん!」

 

 その言葉に、メイも微笑む。

 

「そうね」

 

「だろ!?」

 

 ベンジャミンは、嬉しそうに胸を張った。

 

「初めてのMFGで、7位だぜ!」

 

「……ええ」

 

 メイは、静かに頷いた。

 

「十分に立派な結果だと思うわ」

 

 その言葉に、ベンジャミンは満足そうに笑った。

 

 しかし。

 

 次の瞬間。

 

 その表情が、少しだけ変わった。

 

「……でもよ」

 

「……ん?」

 

「やっぱ、上には上がいるな」

 

 ベンジャミンは、公式モニターへ視線を向けた。

 

 そこには、最終的な予選順位が表示されている。

 

 ミハイル・ベッケンバウアー。

 

 沢渡光輝。

 

 そして、数多くの強豪ドライバーたち。

 

 自分よりも速いタイムを記録した者が、六人いる。

 

 それが、今の現実だった。

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンの口元が、ゆっくりと吊り上がる。

 

「面白えじゃねえか」

 

 その青い瞳には、強い闘志が宿っていた。

 

「……ベン?」

 

 メイが、少しだけ首を傾げる。

 

 すると。

 

「姉貴!」

 

 ベンジャミンは、満面の笑みを浮かべた。

 

「決勝、楽しみだな!」

 

「……ええ」

 

 メイも、小さく笑った。

 

「そうね」

 

 しかし、すぐに表情を引き締める。

 

「ただし、予選以上に危険なレースになるわよ」

 

「……ああ」

 

「他の車も、同時に走るんだから」

 

「分かってるって」

 

 ベンジャミンは、しっかりと頷いた。

 

 予選と決勝。

 

 その二つは、まったく違う競技だと言ってもいい。

 

 予選では、自分のペースで走ることができる。

 

 だが、決勝では違う。

 

 前にも、後ろにも、他の車がいる。

 

 追い抜くためには、相手の動きを読む必要がある。

 

 逆に、抜かれないためには、自分のラインを守らなければならない。

 

 さらに。

 

 タイヤの消耗。

 

 ブレーキの温度。

 

 そして、レース全体を通じたペース配分。

 

 考えるべきことは、いくらでもある。

 

 しかし。

 

 それこそが、ベンジャミンの得意分野でもあった。

 

「……ハハッ!」

 

 彼は、楽しそうに笑った。

 

「ようやく、本当の勝負ができるってわけだ!」

 

 メイは、そんな弟を見つめながら小さく微笑んだ。

 

 そして。

 

「……頑張りなさいよ」

 

「……おう!」

 

 ベンジャミンは、満面の笑みを浮かべた。

 

「任せとけ!」

 

 

 

     * * *

 

 

 

 その日の午後。

 

 緒方自動車。

 

 ガレージの中には、二台のマシンが並んでいた。

 

 ライトニングレッドのトヨタ86GT。

 

 そして、ターコイズグリーンのシボレー・カマロSS。

 

 どちらも、MFG第2戦の予選を突破した車両だった。

 

「……よーし!」

 

 緒方は、大きく伸びをした。

 

「これで、ひとまず予選は終了だな!」

 

「……そうですね」

 

 カナタが、笑顔で頷いた。

 

「本当に、ありがとうございました!」

 

「いやいや!」

 

 緒方は、慌てて手を振った。

 

「まだ決勝があるんだから!」

 

「……ふふっ。そうですね」

 

 カナタも、楽しそうに笑った。

 

 その隣では、ベンジャミンがカマロを眺めていた。

 

「……へへっ」

 

 嬉しそうに、口元を吊り上げる。

 

「やっぱ、いい車だなぁ……」

 

「……ベンジャミン」

 

 緒方が、声をかけた。

 

「ん?」

 

「決勝までに、奥山さんと一緒にもう一度しっかり確認するからな」

 

「おう! 頼むぜ!」

 

 ベンジャミンは、嬉しそうに親指を立てた。

 

「タイヤも、ブレーキも、バッチリにしてくれよ!」

 

「……分かってるよ」

 

 緒方は、苦笑した。

 

 すると。

 

「……でも、ベン」

 

 カナタが、静かに声をかけた。

 

「……ん?」

 

「決勝、楽しみだね」

 

「……おう!」

 

 ベンジャミンは、満面の笑みを浮かべた。

 

「そりゃもう、最高に楽しみだぜ!」

 

 そして、ニヤリと口元を吊り上げる。

 

「……でもよ、カナタ」

 

「……ん?」

 

「決勝じゃ、遠慮しねえからな!」

 

「……ふふっ」

 

 カナタも、楽しそうに笑った。

 

「もちろん」

 

 そして、少しだけ目を細める。

 

「僕も、全力で走るよ」

 

「……へへっ!」

 

 ベンジャミンは、嬉しそうに笑った。

 

「そうこなくっちゃな!」

 

 二人は、顔を見合わせた。

 

 幼い頃から、何度も一緒に遊んだ。

 

 何度も車の話をした。

 

 そして、何度もレースの話で盛り上がった。

 

 その二人が、今。

 

 同じMFGの舞台に立っている。

 

 しかも。

 

 どちらも、決勝進出を決めた。

 

 こんな日が来るとは、昔は想像していなかった。

 

「……なあ、カナタ」

 

 ベンジャミンが、小さく呟いた。

 

「……ん?」

 

「俺、日本に来てよかったぜ」

 

「…………」

 

 カナタは、一瞬だけ目を瞬かせた。

 

 そして。

 

「……僕もだよ」

 

 穏やかに微笑んだ。

 

「ベンと、また一緒に走れるなんて思ってなかったから」

 

「……へへっ」

 

 ベンジャミンは、小さく笑った。

 

 そして、カナタの肩を軽く叩く。

 

「……決勝、楽しもうぜ!」

 

「……うん!」

 

 カナタも、満面の笑みを浮かべた。

 

「もちろん!」

 

 その光景を、緒方が少し離れた場所から眺めていた。

 

「……本当に、いい関係だなぁ」

 

 思わず、そんな言葉が漏れる。

 

 家族であり、友人であり、ライバルでもある二人。

 

 その関係は、今後さらに深まっていくのだろう。

 

 そして。

 

 彼らが、MFGという舞台でどんな走りを見せるのか。

 

 考えるだけで、胸が高鳴った。

 

「……よし!」

 

 緒方は、両手を叩いた。

 

「それじゃ、決勝に向けて準備を始めようか!」

 

「はい!」

 

「おう!」

 

 二人の青年が、元気よく答えた。

 

 その声が、ガレージの中へと響き渡る。

 

 

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