しとしとと降る雨が窓に幾条もの線を描き、部屋の中に虚無を感じさせる雨音を響かせる。
地面に出来た水たまりには、雨滴が幾重にも波紋を広げ、まるで爆撃に蹂躙される大地か、絶えぬ戦火を隠喩しているかのように見えた。
この具合ではまだしばらく止みそうにないなと、部屋の主は物憂げな面持ちでティーカップを持ち、芳醇な香りを放つ紅茶を口に運ぶ。
「ふふ… とっても美味しいわね、レイ」
心に染み渡るような嫋やかさと優しさを感じさせる声で、机上の椅子に鎮座する、幼少期から片時も手放したことが無い碧眼の瞳でこちらを見つめる銀色の髪の人形にふわりと微笑み語り掛ける。
ヤギ乳を使い、この地方で特産の茶葉を使った特製のミルクティの味に満足したように部屋の主は口角を和らげ溜息交じりにソーサーにカップを置く。
少しクセのある香りを嫌う者もいるが、この味と香りを自分は何よりも愛していた。
何よりも、自らが駐在武官として幾年を過ごしたノースポイントでの素晴らしい日々を思い出させてくれる。
規律を重んじ、勤勉で団結力のある北方のもの静かな民族の国。
戦火が絶えたことが無いこの世界でオーシアやベルカに比肩する比類なき工業力を持ちながら、かつての大戦から一度も他国を侵した事がない特異な国。
かの国に赴任した際に得た沢山の思い出と仲間は今も自らを形作る重要なセットピースだ。
何よりも、南部地方のヤギ料理は故郷ソトアのものに次ぐ素晴らしいものだった。野趣あふれる味のヤギ肉のスープ、余りにも鮮烈なヤギのサシミ、そして旨味の暴力とも言えるヤギ肉のソバ。
食中に頂いたアワモリという押し波のように強く芳醇な酒。
あまりの美味さに招かれた先で我を忘れ、はしたなく食べることに没頭してしまった時の事を思い出す。
ソトア軍の選りすぐりのトップエース達が集う「ルクス・ルーナエ」を統べるカミール・テュイは類まれな操縦技術と千里を見通す戦略眼、そして国家のルーツである遊牧民族の文化と伝統をこよなく愛する愛国者である。
それが、軍属の一族に生まれ、生きてきた彼女を形作っているモノ。
だが、かつてのソトアとユークトバニアの間であった紛争の最中に初めて被撃墜され、今は下肢と左手に重度の障害を負い、空を飛ぶどころか車椅子の助けが無ければ日常生活もままならない体になっていた。
ユークの雌烏に翼を引きちぎられたソトアの美しい白い鶴は、今こうしてFCUから占領した地に在りて自らの部隊を率い母国ソトア軍の快進撃を支えていた。
「開いている、入りなさい」
「失礼致します」
コンコンというノックの後に、雨に濡れた外套を身にまとい、黒ずくめの烏のような男が主の許しを得て恭しくドアを開け入室してきた。
「先ずは営倉からの脱出おめでとう、トプラク。御免なさいね、あんな駄馬を当てがったばかりに貴方にこんな思いをさせてしまって」
「いえ、私が至らなかっただけにございます。滅相な事を申されますな……テュイ様の格別の御取り計らい、このトプラク。心より感謝いたしております」
駄馬というのは、先日のFCU残敵掃討任務の際に、誤射で撃墜してしまったトプラクの僚機の事だ。
子飼いの列機ではない、急遽病欠を埋めるために当てがった血の気ばかりが多い陸軍あがりのつまらないパイロットだった。まぁあんな下品な男でも、ネットやSNSで胡散臭い戦火を喧伝している「シーヴの翼」を冷たい海の底に葬り去る役には立ってくれた。
とは言え、友軍撃墜は重罪である。が、そこは上層部へのカミール直々のとりなしによって、トプラクはたった一週間の独房入りで罪を許され釈放となった。
この目の前の男は駄馬百頭を以てしても換算出来ない価値がある。その性格から敵も多いが、人格者である事と価値がある人間である事は別である。
可愛いだけで乳を出さない羊や、美しいだけで走らぬ馬などはさっさと潰して肉にするに限るからだ。
彼には営倉入りという不名誉を掴ませてしまったが、お陰でつまらぬ駄馬を有効に間引く事が出来たとカミールは心の内で一人ごちていた。
「何にせよ、お勤めご苦労様でした。今後は列機に加える者に関して、よく事前に調査をしておきましょう。それで…釈放の挨拶だけというわけでは無いのでしょう? 何か用かしら?」
「は…… 私から、直にお耳にと思いまして」
なにやら剣呑な雰囲気で、影22ことトプラクが口を開く。
「FCUのホワイトバレー基地攻撃に遠征していた列機四機が撃墜されたとの報告がありました」
「ん」
カミールの眉間に一瞬少し縦筋が生まれた事をトプラクは見逃さない。この表情の時は、カミールが怒りか不快感を抱いているときの表情だ。
「そう… 全く、あの子達は…… あれほど目先の戦果に囚われるなと教えて来たのに……」
「正に然り。空戦も狩りと同じく、最後に仕留める時が一番危険で気を緩めてはならないとおっしゃっておいででしたな」
「ふむん…… 過ぎた事を悔やんでも仕方がないわね。早く欠けた人員を補充しなくては」
「は… その事なのですが、司令部からの電報によれば四人とも無事だとか。報告によると、四人は一機の戦闘機に堕とされたと話していたそうです」
「んん?」
カミールの目が少し大きく開かれたのをトプラクは見逃さない。この目をしたときは、カミールが他の者に肯定的な興味を抱いた時の反応だ。
「ほう… まだFCUにそれほどの腕利きが残っていただなんて…… 少々、想定外と言わざるを得ないわね。それに、殺意を持って向かって来るパイロットを殺さずに堕とすだなんて… ふふ、敵のエースは随分とお優しいのかしらね?」
「ん… こほん」
敵を賞賛するようなカミールの言葉に、トプラクも少々バツが悪そうな様子だ。その様子に、カミールも冗談よ、御免なさいねというように口角を緩める。
「最早FCUに反攻の余地など残されていない…… とはいえ、これは戦争遂行の為に興味を持ち注視すべき対象と言える。トプラク、列機に至急連絡を取り、情報の収集に努めなさい」
「はっ…… テュイ様、この烏がどのような者であろうと、必ずやこのトプラクが翼を引き裂き、骸を御前に差し出して見せましょう」
「ふふ… いい子ね…… 下がってよし。今日はゆっくり休みなさい」
「は…… 勿体なきお言葉かな」
胸に手を当て、恭しく頭を下げて、退室するトプラクを見送りカミールは白い天井を眺める。
そうして、右腕を上げて翼の形にした手を掲げる。
毎日毎日、避難する難民輸送機を撃墜したという報告や、深手を負い戦域を離脱する味方機を督戦隊のように撃墜したといった戦争の負の面ばかりを眼前に突き付けられているような報告ばかりに少々辟易としていた中にあって、久しぶりに興味をそそられる報告だった。
昔、遊牧の民の住まいに招かれた時、家主が眼前で始めた「羊を潰す」という命の営みを、自分は耐え切れず、顔を背けてしまった。
だが、今の私に戦争という、人の世の「命の営み」から顔を背ける事は許されない。超空からの槍で民間人居住地域を無差別に砲撃し、陸上戦艦で大地も国境も人も踏みつぶしながら見果てぬ新地平の先へと進む祖国。
いずれこの私も、鳴き声を上げながら腹腔を裂かれ、血を抜き取られ、臓物を引き抜かれ、皮や骨さえも残さず解体されたあの羊のように、国家という化物の晩餐の供物となるのだろう。
「だけど…… いつか私と飛べる翼に出会えたなら……」
今の自分に、もう一つの腕でこの手に寄り添う翼を作る事は出来ない。だが、もしももう一度あの蒼い空を自由に飛び、高き山脈を越えるアネハヅルの番いのような自らと寄り添い飛ぶ翼に出会えたなら──カミールは天井を眺めつつ、叶わぬ夢かと自嘲的に笑い途切れていた執務の為に思考を切り替える。
「さてと、この書類は……」
カミールが手に取った、トップシークレットの朱色の印が押された書類。
そこには、「Electro-Neuron-Synapse-interface」「Fly by Opto」「Aero-Coffin」「General-Resource Ltd」「Enso Order」の文字が在った。