どこまでも抜けるような青空、心地よい潮風、遮るものが無い心地よい陽光が海原に降り注ぐ。
ここが常夏であればどれだけよかったかと、この艦船の乗員たちは皆思っているだろう。
なにせここは雪が絶えず降り、海も荒れる極寒の高緯度地帯だ。
その青い海を二隻の艦が寄り添うように航行していた。
「ふわっくしゅん!」
その中の一隻、一際巨大な艦の食堂に可愛らしいくしゃみが響く。
「なんだレックス、風邪でも引いたのか?」
くしゃみの主に、優しくとても面倒見が良さそうな声がかかる。
ぐぎゅんぐぎゅんとのど越しも爽やかなビールを楽しむ胡散臭いユーク人の隣で、一際筋骨隆々で体格の良い黒人とテーブルで相対し、レックスと呼ばれた少女が長閑にチェスに興じていた。
「ん… 大丈夫、ありがとうバクスター」
「フフフ… 北の国、ノースポイントでは、一回のクシャミは誰かに褒められているか恋焦がれている証という迷信があるヨ…… レックスはどうかナ……?」
「おいおいニック、ウチの隊長に妙なジンクスを吹き込むのはよしてくれよ。ほら、レックス」
ターシャと同じくらいの細さの腕が、自らが差し出したティッシュを受け取る。
この細腕が、あのソトアのエースが集う「シャドウズ」を四機も堕としただなんて今でも信じられない。
「まったく、ここ最近は激務だったからな。だが、体調を崩すなんてやめてくれよ。親鳥に倒れられたら雛鳥は飛ぶこともままならないし、俺の最高のチェスの相手がいなくなっちまう」
何度も紙面が真っ黒になるまで解いたクロスワードパズルをまた何度も解く不毛な娯楽から解き放たれ、目の前に座るチェスの名手との勝負を楽しむバクスターこと、ジョーカー隊二番機にしてチームのまとめ役、エリントン・バクスター少佐は眼前の少女、レックスがこの艦に着任した日の事を思い出していた。
その日は騒がしい日だった。
電撃戦のようにFCUの国土を蹂躙し、各地から駆け込み寺のように避難民が絶えず雪崩れ込んでくる艦内は想像を絶する慌ただしさだった。
「おい! そこの救難ヘリ! 避難民を降ろしたら早く甲板を空けろ! 後続が詰まってんだ!」
「スピアー1! そんなにバンク取るな、バンク取んな!失速するぞ! あぁっ……そんな…… クソっ!」
そこかしこに溢れる怒声に叫び声、そしてすすり泣く声。国を失った者達の壮絶なエクソダス。世界が逆さまになったような慌ただしさの中、バクスターもまた、ターシャの渾名で呼ばれる少女と四番機を務めるコスターと共に避難民の誘導を行っていた。
「よーしよし、よく頑張ったなお前ら。もう怖くないからな! さぁ、あのピンクの髪のおねーさんと二枚目のおにーさんと一緒に行くんだ。美味しいケーキが待ってるからな!」
「はーいみんな! おにーさんとおねーさんについてきてー!」
戦火に巻き込まれ、両親や親族を失い寄る辺なき戦災孤児となってしまった子供達を艦内の安全な場所に誘導する。
戦争が現実的であったことなど、ただの一度も有りはしない。昔見た映画の登場人物が話していた言葉を実感するようなカオスそのものの状況に辟易とした気持ちが溢れてくる。
「何だって言うんだ…… クソったれのソトア野郎どもが!! ん?」
こんな状況下では、悪態の一つでもつきたくなる。と、そこに甲板にXOこと本艦の副艦長であるジェシカ・パイクが部下を引き連れて甲板に上がって来ているのにバクスターは気づいた。
「あれは副長…? てことはあのヘリに乗ってるのは……」
バラバラとけたたましいローター音を響かせながら救助ヘリが降下してくる。通常の避難民に、副長自らが出迎えに行くことはまず無い。という事は乗員は軍属かVIPかと妙に興味をひかれたバクスターは目が離せずにいた。
ひげ面の長身の男に物語のお姫様のように抱き抱えられて、年の頃はターシャと同じくらいの患者服姿の少女がヘリから甲板に降り立つ。おそらく意識を失っているのだろう。まるで人形のような端正な顔立ちに銀色の髪が風になびく。
「うっわ、先生見てあれ! ものすっごい美人! 映画女優にもいないよあんなの! コスターも見て見て!」
「ん……」
いつの間にか隣にいたターシャが興奮しながら自分とコスターに話しかける。コスターの名で呼ばれた優男の四番機もちらりと見て興味無さそうにぶっきらぼうに返事をする。
「あのひげ面、副長と何話してんだろ…? 見た感じあの子の保護者じゃ絶対無いよね」
「さぁな、確かに親子には見えんが…… って! おいっ副長!?」
軍属には一応見える男からの説明をしばし頷きながら聞いていたXOが、いきなり女の子の頭をはったおしたのでバクスターも驚きの声を上げる。
すると、まるで電池が入った人形が動き出すように、もぞもぞと少女が身じろぎし、まるでこの世に初めて生を受けたかのように瞳を開く。空と海の青を映す、どこまでも透き通ったコバルトブルーの瞳。
バクスターも思わず見惚れていた、こんなに綺麗な青がこの世にあるのかと。
そうして、船医であるサントスの簡単なメディカルチェックを受けて、その少女はヘルメットを片手にXO達と共に艦橋へと連れられていった。
その後も、バクスターとターシャは先ほど目撃した謎の少女についてああでもない、こうでもないとしばし議論を交わしていた。
「あの子、ヘルメット渡されてたけど…… まさか、パイロットなの?」
「だとしたら、副長と艦長は一体全体何をしようとしているんだ…… 正気の沙汰じゃない」
「って おいおい、せんせー 私を前にしてそれ言う?」
そりゃそうだ、腕が立つからと未成年の民間人のパイロットを戦いの空に上げている自分達軍属が他人の正気を責める立場にはない。
「全く…どうなっちまったんだこの世界は? まるでこの世の関節が全てはずれちまったみたいじゃないか」
「なにそれ、ハムレットだっけ?」
自分はこの隣にいるターシャや、あの少女のような子供達を護る為にここにいる筈だ。だが怒涛のように迫る現実が、彼女達に戦争という凄惨で血なまぐさい世界に引きずり込もうと手招きしているようにバクスターは思えて仕方がない。
「んん? あ! あの子だ」
「どこだ!? ターシャ!」
「ほらほら、あそこ! D.D.と一緒にトラクターに乗ってる!」
司令塔から見下ろしてみれば、スーツにスニーカーという出で立ちで何やら饒舌に隣に座る少女に話しかけるD.D.と、それをどこかぼんやりと聞いている先ほどの少女の姿だった。
「おいおい、あの機体は…… コープの後任のWSO(兵装システム士官)だったのか」
「あっ! こんなオイシイ時に、二番機のローテだなんて。コスターってば、ずっりぃの!」
甲板クルー達も物珍し気にチラチラと見ているし、D.D.は相変わらずスマホでその姿を録画していた。ターシャもだが、皆突如として現れたこのミステリアスな少女に興味津々なのだ。
「おっ コープが自分の胸に手当てて挨拶してる。握手もしてるよ。まずは第一関門突破かな」
「そのようだな……」
自らが守るべき一番機のパイロットにして、隊長。そして「シーヴの翼」の二つ名で戦場の空を飛ぶエースパイロット。ジャン『レックス』コープ。人懐っこい男であるが、妙に霊感めいたものを持っており、先日などは後任のWSOと初顔合わせの際に、搭乗拒否を命じたのだった。事実、その搭乗拒否されたWSOはその日に階段から足を踏み外して頭を強打し、帰らぬ人になってしまった。それ故、元来縁起を担ぐタチであるパイロット達は皆、コープの第六感に一定の敬意を持つようになっていた。
挨拶もそこそこにコープと少女はF/A-18Fにすいすいと乗り込み、甲板上にひしめくクルーや管制塔と交信を重ね着々と発艦準備を進めていく。
「うーわマジか、コープがスパホのキャノピー閉めた。コスターも発艦準備万端だし、もう後戻り出来ないよ」
「コープがあの娘に後席を預ける事に決めたんだ。ターシャ、もうこうなったら俺達はあいつらとコスターの無事を祈るぞ」
「あたぼうよ! おーい! 頑張れ三人ともー! 堕とされんなよー!!」
息の合った師弟の軽妙な掛け合いは聴こえていない筈である。だが、機器のチェックを終え、ふとこちらを見上げた少女と目が合う。
その直後、カタパルトで射出されあっという間にスーパーホーネットは雲の間に消えていった。
「ねぇ、先生 あの子、笑ってたよね。ぜったい三人とも、生きて帰ってくるよね……」
「あぁ…… そうだ、そうだとも。帰ってくる、絶対に」
だが、その日祈りは届かず、難民輸送中の民間機のエスコートの途中、ソトア軍機の急襲を受けたコープの一番機はSu-57に撃墜され、コープは未帰還となった。
その後、コープに代わり、この目の前の少女が「レックス」のパーソナルネームと一番機を引き継ぎ今日に至っている。
それからは、あっという間だった。
軍歴も何もかもが不明なのに、中佐の階級を持つ少女に疑いの目を向ける暇もなく、疑念は彼女が生み出す凄まじい撃墜数と戦果にかき消され、的確な指示に表れる優れた統率の才は皆の信頼を生み、続く勝ち戦は戦意と士気の高揚を育む。開戦当初は冷たく、悲しみに満ち、殺伐としていたこの艦隊全体が、一つの家族のような雰囲気に満たされている。
国を失う地獄のような戦争の崖っぷちからの反攻、まるで現実味の無いノースポイントのカートゥーンのようなお話だ。だが、「翼」「レックス」のヒロイックな活躍が生む勝ち戦は雨粒が岩に穴を穿つように、少しずつこの空前絶後の大戦の趨勢に希望の光を灯しつつあった。
「あ! いたいた! わーいレイおねえちゃーん!」
「ねぇねぇ、遊んで遊んで!」
と、そこに戦災孤児の子供達が食堂に雪崩れ込んできた。この空母エンデュランスに初めて来たときは、皆一様に悲しみと孤独に打ちひしがれていたが、XOとサントスにケイト、ターシャやレックスの尽力もあり、徐々に心を開き、今では子供らしい笑顔が溢れるようになっていた。
「えーと… バクスター」
「いいぜレックス、勝負はお預け。サスペンデットだ。行ってきな…」
「バクスターせんせーも行こ行こう!」
「って、俺もなのか!?」
お目当てはレックスだけかと思ったら、自分も遊び相手を欲する子供達にロックオンされてしまった。小さな女の子にぐいぐいと手を引かれて、バクスターはホログラム式のチェス盤のデータを慌ててセーブする。
「ふふ みんな、今日の宿題は終わったの?」
「うん! すんだー!」
「ねぇねぇ、レイおねーちゃん。今日はオリガミおしえてー!」
「いいよ、何を折ろうか」
「えっとねー、ティラノサウルス!」
「ぼくはスペースシャトルがいい!」
それにしても、レックスはノースポイントの遊びをよく知っている。オリガミにしても簡単な紙飛行機だけでなく、複雑で高度な、まるで工芸品と言って差し支えないようなレベルのものをものの見事にこさえてしまう。子供の遊びを沢山知っている優しいお姉さんが、孤児達に慕われるまでさほど時間は掛からなかった。
そしてレックスも、着任してすぐの時と比べると随分と表情が明るく、柔らかくなった。バクスターは子供達と話をしながら微笑むレックスを見てふと思う。
着任当初のようなミステリアスなレックスも良かったが、今のレックスはもっと良い。
彼女の存在が自分達に変化をもたらしたように、自分たちの存在が彼女に変化をもたらす事が出来たのだろうか──バクスターはなんだか体がこそばゆい感覚になり、頬を掻く。
これから戦争は更に激しく、限界の無いものになっていくだろう。だが、どんな事があっても自分はこの心優しい隊長を、「翼」を必ずこの戦争の最後まで守り抜く。
バクスターはそう決意を新たにしていた。
「フフフ…… 本当にいいフネだネ」
子供たちに囲まれながら食堂を後にするジョーカー隊の一番機と二番機を、良い具合に酩酊した眼でバクスターにニックの名で呼ばれた男が見送る。
FCU首都・シーヴ開放作戦のゼロアワーが、少しずつ、だが確実に近づいていた。